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74.歯車

ダイバーレス国王、オーウェンの話です。ちょっと長いですが、お付き合いください。

「オーウェン、なぜですの?」

 アンヌの声が、まるで昨日のことのように頭に響く。彼女の赤い瞳には涙が滲み、その奥に怒りの炎が燃えていた。

「『愛している』って、『あなたしか考えられない』って仰っていたそのお言葉は、偽りでしたの……?」

 彼女の声は震えていた。かつての穏やかで優しい微笑みは、激しい怒りの奥に完全に隠れてしまっていた。私は唇を固く引き結び、胸の奥で何かが軋む音を聞きながら、ただ黙って彼女の言葉を受け止めるしかなかった。



 私が王位に就いてから、二十年以上の歳月が流れていた。窓から差し込む陽光は変わらずダイバーレス王国の城を照らしているが、その光の中で過ごす日々は、かつて思い描いていたものとはまるで違っていた。


 国の統治は決して容易ではなかった。それでも何とか均衡を保ちながら治めてきた。だが、王としての責務以上に彼の心を締め付けるのは、最愛の妻だったはずのアンヌとの関係だった。


 アンヌは侯爵令嬢として育った女性だった。強大な後ろ盾こそなかったが、初めて会った舞踏会で見せた優しい笑顔と、政治の話にも的確な意見を述べる聡明さに心を奪われた。私は迷うことなく彼女を正妃に迎えた。朝は共に朝食を取り、夜は同じ寝台で眠る。愛する妻と共に、平穏な王国を築いていけると信じていた。

 しかし、スタンダル帝国はそんな甘い理想を許さなかった。


「陛下におかれましては、我が帝国のカトリーナ王女を側妃としてお迎えいただきたく存じます」


 帝国からの圧力は強まる一方だった。ダイバーレス王国には先祖代々受け継がれてきた魔法結界がある。戦争になっても負けることはないだろう。しかし、スタンダル帝国の発達した文明に大きく依存している以上、彼らの要求を無下にすることはできなかった。

 私は夜な夜な執務室で頭を抱えた。代々の王家に流れる魔力が弱まってきているという事実も、彼を苦しめた。自分の代では何とか魔法結界を維持できている。だが、ハーマンの魔力は彼より弱く、フィリップは魔力が無かった。この先はどうなるかわからない。結界が破れた時、帝国の大軍が押し寄せてきたら――。

「国を守るためだ……」

 震える手で書類に署名しながら、そう自分に言い聞かせた。カトリーナを迎え入れることを決めた夜、執務室で一人、苦い酒を飲み干した。


 だが、時期があまりにも悪かった。アンヌはすでに第一子を身籠っていた。彼女のお腹は少しずつ大きくなり始めていた時期だった。その知らせを聞いた時のアンヌの顔を、私は一生忘れることができない。血の気が引き、真っ青になった顔。そして次の瞬間、激しい怒りに変わった表情。

 アンヌは決して許さなかった。


「私は一体何なのですか?」

 彼女の声は震え、握りしめた拳は白くなっていた。

「国を守るため私を犠牲にすることに、何のためらいもないのですか? せめて、せめて相談してくださればよかったのに……」

 アンヌは最後にそう言って泣き崩れた。その直後、突然顔を歪めて腹部を押さえた。

「痛い!」

 彼女の顔から血の気が引いていく。床に膝をついたアンヌを抱き起こそうとしたが、彼女は私の手を振り払った。

「触らないで!」

 絞り出すような声だった。侍女たちが慌てて駆け寄り、医師を呼びに走る。アンヌは苦痛に顔を歪めながら、それでも私を睨み続けていた。その瞳には、怒りと絶望と、そして深い悲しみが混ざり合っていた。

 医師たちに運ばれていく彼女の後ろ姿を、私はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。廊下に響く急ぎ足の音が遠ざかっていく。


 幸い母子ともに無事ではあった。医師からその報告を受けた時、私は安堵で膝から力が抜けそうになった。だが、それは束の間の安らぎでしかなかった。


 アンヌの怒りは日に日に激しくなっていった。顔を見れば怒りを表し、私を罵る。

 彼女は食事の席でも口を利かず、グラスを乱暴にテーブルに叩きつけた。侍女たちの前でも構わず、私の寝室の扉を激しく叩いては「裏切り者」と叫んだ。ついには宮廷での公式行事への出席を拒否し、自室に閉じこもるようになった。夜な夜な部屋から物が投げつけられる音が聞こえ、翌朝には壊れた花瓶や引き裂かれた肖像画が廊下に放り出されていた。側近たちはアンヌをなだめようと試みたが、彼女は誰の言葉にも耳を貸さず、カトリーナの名を聞くだけで激昂した。


 そして最悪の出来事が起きた。

 義務としてカトリーナと閨を共にしなければならなかった夜。カトリーナの部屋に向かう廊下で、自分の足音だけが響いていた。彼女もまた、政治の駒にしかすぎない。嫁いできてからも、何もできずにただただ暗い顔で離宮にいるだけのお姫様だった。何もしないで放置すれば、帝国との関係が悪化する。最悪の場合、戦争の口実を与えることになるかもしれない。

 たった一回のことだった。だが、その一回で全てが変わってしまった。


 アンヌの侍女から聞かされた。カトリーナとの閨の事実を聞いた王妃が一晩中泣き続けていたと。その次の日から、もうアンヌは泣く事は無かった。朝食の席で顔を合わせることもなくなり、廊下ですれ違っても視線を逸らされる。まるで存在しない者のように扱われた。ハーマンが産まれてからのアンヌは、常にハーマンのことだけ考えるようになった。もう二度と、かつての温かな関係に戻ることはないのだと悟った。


 私にとって、王宮はもはや安らげる場所ではなくなっていた。豪華な調度品に囲まれた自室でさえ、息が詰まるような圧迫感に満ちていた。


 ——あれから二十余年。

 アンヌの笑顔を思い出せたのは、もう何年ぶりだろうか。毎晩、遅くまで執務に追われる毎日。アンヌが拒否した王妃としての執務も、今は私が代わりに取り仕切っていた。


 そんな中、執務室の扉が控えめに叩かれた。

「陛下、ご報告がございます」

 入ってきたのは、宰相のアンドリアン・クレイヴェルだった。黒髪を整然と撫で付け、常に冷静な表情を崩さない男。彼こそが、私が唯一信頼を寄せる存在だった。


 アンドリアンは実直で有能な男だった。過去に彼自身が抱えていた複雑な因縁については耳にしている。だが、その判断力とバランス感覚は極めて優れており、国内の政務を任せるに十分な人物だった。私が王位に就く際に直々に登用した宰相で、この人材を見つけられたことは自分の数少ない功績の一つだと思っている。


「何だ?」

 椅子に深く腰を沈めたまま、私は尋ねた。

「スリングという育児用品が、国内で急速に広まっております」

 アンドリアンの声は、いつものように感情を排した平坦なものだった。

「スリング? あの、フィリップが関係している育児グッズか?」

 フィリップ――カトリーナの息子の名前を口にする時、苦い味が口の中に広がった。

「はい。赤子を布で包んで抱えるというものでございます」

 アンドリアンは手にした書類をめくりながら続けた。

「しかし、これはスタンダル帝国の添い寝布とほぼ同じ形状をしております。ティモテウス・アウグスティヌスによれば、この道具は子どもの発達に悪影響を及ぼす可能性が高いとのことです」

「帝国と同じ形状……?」

 背筋に冷たいものが走った。

「ええ。ティモテウス・アウグスティヌスがどれだけ危険だと訴えても、国民はもう耳を貸しません。街では子育て中の国民が競うようにスリングを使い始めています」

 アンドリアンは一呼吸置いて、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「陛下、帝国がダイバーレス王国の育児方針に干渉してくる理由をお考えください」


 私は眉をひそめ、机の上で指を組んだ。

「つまり、帝国が何かしらの策を講じていると?」

「可能性は十分にあります」

 アンドリアンの声が少し低くなった。

「スタンダル帝国は長年ダイバーレス王国を狙っております。育児に関する混乱を引き起こし、次世代を弱体化させ、ひいては国力の衰退を図っているのかもしれません」


 執務室に重い沈黙が流れた。窓の外から聞こえる鳥の鳴き声だけが、時間の流れを告げている。

「……陛下、国の未来を思えば、放置するのは危険かと」


 それは単なる憶測かもしれなかった。しかし、帝国の名が出たことで、私は冷静さを失っていた。時間をかける余裕は無い。今、この間にも帝国の策略が進行しているかもしれない。調査は後でいいだろう。私は即座に立ち上がり、決断を下した。

「スリングの使用を禁じる。王命として、国内での販売および使用を即刻禁止するのだ」

「……御意」

 アンドリアンが静かに頭を下げ、足音を立てずに部屋から出て行った。


 扉が閉まった後、私は再び椅子に沈み込んだ。心臓が早鐘のように打っている。これはただの育児用品の話ではない。国の未来に関わる問題なのだ。

 机の引き出しから、フィリップが提出したスリング販売の効果に関する報告書を取り出した。紙にはインクで整然と文字が並んでいる。最初こそ慎重に読んでいたが、あまりにも順調に事が進んでいるという内容に、次第に疑念が募るようになっていた。まるで誰かが仕組んだ罠のように、すべてが上手く行き過ぎている。

(やはり、信用できない――)


 フィリップはカトリーナの子だ。どれだけ聡明で、礼儀正しく振る舞おうとも、私にとっては決して完全に信頼できる存在ではなかった。

 それに、不自然なほど静かなのだ。母であるカトリーナが王宮で疎んじられ、侍女たちからも冷たい視線を向けられているのに、フィリップは何も言ってこない。まるで感情を持たない人形のように、ただ黙々と自分の仕事をこなしている。その不気味さが、私の不信感をさらに募らせていた。

 そんなフィリップが、唯一力を入れて取り掛かっているのが育児改革だ。珍しいこともあるものだと思って、ついスリングが国に広まることを黙認してしまったのは、結果的に自分の判断の甘さによるものだ。王としての責任を痛感する。


「……フィリップめ!」

 怒りが込み上げ、机を叩いた。鈍い音が執務室に響く。

 もしかすると、スリングの導入はスタンダル帝国の策略に加担する行為だったのではないか。

(フィリップが意図的にそれを進めたのだとすれば……)

 それは反逆に等しい。許すわけにはいかない。


 血の繋がりなど、何の意味もない。息子だからといって信用できるわけではない。この王宮には、この国には、誰一人として信用に足る者はいない。

 いや、一人だけいる。

 アンドリアンだけは違う。あの男だけは、この私が見極め、選び抜いた唯一の存在なのだから。


 私は、そう信じて疑わなかった。


次回は、エレオノーラの回です。

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