73.次の局面を睨む
アンドリアン宰相の視点での話です。
「……なんだ、この数字は」
いつものように執務室で書類を見ていた私は、一つの報告書を見て手を止めた。
スタンダル帝国にある私が関与している商会の報告書の育児グッズの売り上げ——その数字が、激減していた。
私は眉間に皺を寄せ、指先で机を叩いた。規則的な音が執務室に響く。
ヴェルデン公爵には、育児グッズの販売中止はやめるように釘を刺したはずだ。実際、中止したという話は聞いていない。
「一体、何が起こっている……?」
私はただちに直属の部下に命じて、何が起こっているのかを調査させた。
数日後、報告を受けた私は、静かに怒りを募らせていた。
スタンダル帝国側では特に何も起きていない。問題は、こちら側にあった。
ヴェルデン公爵家がチャリティ活動として行った『スリング』という名の添い寝布の実演販売——それが原因だった。
「しかも、『エンジェル・ステイタス』『ベビー・ラップ』の悪評をばらまいたりしているとは」
私は腕を組んで、椅子の背もたれに体を預けた。執務室の窓から差し込む午後の光が、書類を白く照らしている。
(ヴェルデン公爵……まさか、こんな手を使ってくるとは)
表向きは育児グッズの販売を続けながら、別の商品を広めることで実質的に販売を妨害している。巧妙だ。
しばらく目を閉じて考える。暖炉の火が燃える音が部屋に響く中、私はゆっくりと目を開けた。
「よし、とりあえず公爵をからかってみるか」
その日の城での会議が終わった後、私は廊下でヴェルデン公爵リカルドの姿を見つけた。
石造りの廊下を歩く彼の背中を見つめながら、私は慎重に言葉を選ぶ。探りを入れながら、相手の出方を見極める必要がある。
「ヴェルデン公爵、少し時間をいただけますか?」
私は落ち着いた声で話しかけた。リカルドが振り返る。
「何でしょうか、宰相」
彼の表情は冷静だが、わずかに警戒の色が見える。
「どうして、スタンダル帝国の添い寝布を輸入することになったのか教えていただけますか?」
私は穏やかに、しかし意図的にその名前を使った。
リカルドの表情が一瞬動く。戸惑い——そして、すぐに理解した様子だった。
(やはり、何か裏があるな)
彼は少し間を置いてから、淡々と答えた。
「スタンダル帝国の育児について調べたところ、子どもの発達に良いということが分かりましたので、販売することにしました」
簡潔すぎる説明だ。本来ならもっと詳細な情報があるはずだが、リカルドは意図的に省いているのだろう。
私はしばらく沈黙し、微笑を浮かべた。
「なるほど、それは興味深い」
私は穏やかな口調を保ちながら、核心に触れた。
「ちなみに、ヴェルデン公爵夫人や公女が『エンジェル・ステイタス』や『ベビー・ラップ』についての悪評を広げているという話も耳にしたのですが」
リカルドの目が鋭く光った。
「そのことですが、宰相」
彼は髭を撫でながら続けた。
「あれらのグッズは、スタンダル帝国では販売されていないということが判明しました。あのリストは宰相に紹介された商人から提示されたものだったはずですが、どういうことですか?」
(これが、ばらまいている悪評の根拠だな)
しかし、私は表情一つ変えずに答えた。
「それは誠に遺憾なことです」
私は冷静に言葉を紡ぐ。
「私は育児用品の流通を支援するべく、スタンダル帝国の信頼できる商人をご紹介したつもりでした。しかし、彼らが個人的な利益のためにリストを偽っていたとすれば、それは私にとっても予想外のことです」
リカルドが一瞬目を大きくした。その様子を確認して、私は続けた。
「ただし、公爵」
私の声が少し低くなる。
「王国の財務を担う公爵家として、なぜそのリストの信憑性を独自に確認しなかったのですか?商人の紹介に落ち度はなかったと考えています。最終的な品質と輸入の判断は、公爵家の責任ではありませんか?」
リカルドは眉をひそめた。少し苛々した様子が伺える。しかし、彼は冷静に答えた。
「ならば、やはり育児グッズの販売は中止にしてもよさそうですね。公爵家の判断と責任をもって、中止することとしたいと思います」
(……なるほど。やはり、そうきたか)
しかし、添い寝布が国中に普及してしまった今、育児グッズの販売中止を阻止したところで意味はないことはわかっている。何も困ることは無い。私は穏やかに微笑んだ。
「承知しました。公爵家のご判断を尊重いたします。育児グッズの販売中止については、問題ございません」
リカルドが、今度は驚きを隠せなかったようで目を見開いた。そして何かを探るようにこちらを見つめる。私のあまりにもあっさりとした同意に、警戒を強めたようだ。
「それでは、失礼します」
私は優雅に一礼し、廊下を歩き去った。
執務室に戻った私は、窓の外を見つめながら、静かに笑みを浮かべた。
(さて、それでは次の段階に進もうか)
育児グッズの販売など、所詮は小さな駒に過ぎない。本当の狙いは、もっと大きなところにある。
さて、次は誰視点の話でしょうか。アンドリアンの暗躍に乞うご期待。




