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71.社交術

「確かに赤ちゃんは泣き止んだようですが、それだけで発達にいいと言えるのでしょうか?」


 エレオノーラは深く息を吸い込んだ。ここからが本当に大切な部分だ。

「どんな育児方法が正しいのかは、赤ちゃんの顔を見ればわかります」

 エレオノーラの声が静かに、しかし力強く響く。

「この子の穏やかな表情を見てください。これが答えです。この子の姿だけでは足りないと思われるなら、後ほどの実演の様子を皆様ご自身の目で確かめてください」

 エレオノーラは、オリヴィアの顔をまっすぐに見つめた。

「たとえティモテウス先生の理論が学術的に評価されていたとしても、赤ちゃんを苦しめ、赤ちゃんを育てる人を苦しめる方法が正しいと、どうして言えるのでしょうか」

 成り行きを見守っていた参加者たちがざわめいた。その声がエレオノーラに届く。


 そして、エレオノーラは会場を見回した。

「皆様、実は……現在ダイバーレス王国で主流となっているヴェルデン公爵家で輸入した育児グッズについて、調査したのです。それらの多くが、スタンダル帝国産として売られています。しかし——」

 ざわめきが収まり、参加者たちの視線が集中する。


「商人から提示されたリストにあったスタンダル帝国産の育児グッズは、実はスタンダル帝国では使用されていなかったのです」

 会場に衝撃が走る。ざわめきが一気に大きくなった。

 オリヴィアの表情が変わった。眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。

「それは……どういうことですか?確かな証拠があるのですか?」

 フィリップが立ち上がった。

「スタンダル帝国出身の我が母からも同様の話を聞いており、現地での調査も済んでいます」

 第二王子の言葉に、会場がさらにざわついた。


 エレオノーラは続ける。

「これらの育児グッズは赤ちゃんを苦しめるだけでなく、赤ちゃんの正しい発達を妨げる疑いがあります。赤ちゃんの成長に適さない環境を作れば、将来的にこの国の民の能力が低下します。そうなれば、国力全体が弱くなる……」

 エレオノーラの声が広間に響き渡る。

「誰の考えでそんなことが起こったのかはわかりません。でも、私は許せません。この国の未来を、子どもたちの未来を、そして子育てに苦労する方々を守りたいんです」

 エレオノーラの声が広間に響き渡った。


 その瞬間、クレメンティアが優雅に立ち上がり、エレオノーラの隣に並んだ。

「皆様、私からも一言よろしいでしょうか」

 クレメンティアの声は穏やかで、完璧なタイミングだった。

「娘がこのように成長し、国の未来を憂う姿を見て、母として誇りに思います」

 参加者たちから温かい拍手が起こる。

「この育児グッズの販売には私も関わっておりました。ヴェルデン公爵家として、過去に不適切な商品を流通させてしまったことは、深く反省しております」

 クレメンティアが深く頭を下げる。その姿は完璧に計算されていた——謝罪でありながら、同時にヴェルデン公爵家の誠実さをアピールしている。

(お母様……)

 エレオノーラは複雑な表情で母を見つめた。母の言っていることに間違いはなく、その効果もわかるけれど、胸の奥がざわざわした。


「ベルトラン伯爵夫人、あなたのお孫さんもちょうど生まれたばかりでしたわね?」

 クレメンティアが自然な流れで話を広げていく。

「ええ、そうなのです。ぜひ、このスリングを娘に勧めてみます」

「リディア夫人、婦人会の影響力は絶大ですから、ぜひこの活動にお力添えをいただけませんか?私どもヴェルデン公爵家も、全面的に協力させていただきます」

「もちろんですわ、クレメンティア様。これは王都中に広めるべき情報です」

 リディアが力強く答えた。


 クレメンティアの話術は見事だった。参加者たちは次々と前のめりになり、質問を投げかけ、協力を申し出る。その中心にいるのは——エレオノーラではなく、クレメンティアだった。

 エレオノーラは立ち尽くしたまま、その様子を見ていた。

 胸の奥でモヤモヤが大きくなる。

(お母さまは確かに有能だし、世論形成の天才。でも——)


 母は完璧なタイミングで、完璧な言葉で、場を掌握した。それが余計に、エレオノーラの心を複雑にさせた。

 ただ、母の巧みな社交術で場の熱が高まっているのにも関わらず、なおも不満を漏らす者たちの顔が、ところどころに見え隠れした。

 オリヴィアもその一人だった。眼鏡を指で押し上げながら、慎重に言葉を選ぶ。

「しかし、国中が今まで支持してきたティモテウス先生の理論を覆すには、もっと確実な根拠が必要なのではないでしょうか」


 その時、ヒューゴが声を上げた。

「国中で支持してきた結果、今の若者はどう育ったのか。最近の子どもたちは昔にくらべて大きな怪我をしやすく、集中力が続かないという話は有名です。私はグラントン領で、このスリングを広めていきます」

「アッシュクロフト領でも、導入いたしますわ」

 フランソワも続く。


 二人の声に、エレオノーラは我に返った。

(お母さまのことを考えている場合じゃないわ!)

「オリヴィア様のおっしゃることはごもっともです。今まで信じていたことを覆すのには勇気がいります。けれど、王立学園の理事であるオリヴィア様なら、子どもたちの姿の変化を感じ取っていらっしゃるのではないですか?」

 オリヴィアの眉が少し上がる。


 エレオノーラは一人ひとりの顔を見つめた。

「私は学者ではありません。理論で戦うこともできません。でも、母親たちの苦しみを見てきました。赤ちゃんたちの不快そうな泣き声を聞いてきました。そして、私自身、自分を上手にコントロールできない子ども時代を過ごしてきました」

 その声が震える。


「皆様が協力してくださるなら、きっと大きな変化を起こせる——私はそう信じています。お願いです。子どもたちの未来のために、力を貸してください」


 その後、用意していたデモンストレーション用のスリングを試す人が殺到し、エレオノーラや領地から呼び寄せた保育士たちはその対応に追われた。たくさんの赤ちゃんがスリングで安らかに眠る様子をオリヴィアは厳しい眼差しで見つめていた。


 マルテッロ公爵領の商人たちはたくさんのスリングの注文を受けた。収益は、これからの活動と、スリングの寄付に使われる予定だ。


 チャリティ活動が終わりに近づく頃、参加者たちは興奮気味に話し合っていた。

「ちょっと慣れるまで時間がかかりそうだけど、すやすや眠る赤ちゃんの顔の愛らしさといったら!」

「私の領でも販売してもらいたいわ」


 そんな熱気の中、オリヴィアはエレオノーラの前に立った。

「……エレオノーラ様の熱意は、確かに伝わりました」

 オリヴィアが小さく息を吐く。

「学術的な検証は必要ですが、今日見た限りでは、スリングには赤ちゃんを安らかにする効果があるようです。王立学園の保護者会でも、この件を取り上げてみましょう」

 その言葉に、エレオノーラの顔がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます、オリヴィア様!」


 会場の熱が落ち着いてきたころに、エレオノーラとクレメンティアは前に出て挨拶をした。

「本日は本当にありがとうございました。これからも、子どもたちのために、一緒に歩んでいただけると嬉しいです」

「ヴェルデン公爵家では、これからも育児に関わる支援をしていきます。どうぞ、みなさまご協力をよろしくお願いします」


 参加者が退場するタイミングでフィリップが近づいてきた。

「フィリップ殿下がいらっしゃったことで説得力が増しました。ありがとうございます」

「素晴らしかったよ、エレオノーラ嬢。きっとうまくいくはずだ」

 フィリップの黒曜石のような瞳が優しく輝く。そして、小さな声で囁いた。

「エレオノーラの想いが、人々の心を動かしたんだ」

 二人が視線を交わした。もっとお互いをねぎらいたい気持ちがあるが、今ここではない。二人はもどかしい思いを抱えながら、フィリップが会場を後にする。


 最後にヒューゴとフランソワがやってきた。エレオノーラは、二人の顔を見るとほっとして、大きな息を吐いた。

「エレン、堂々としていて素敵でしたわ~」

 フランソワの言葉に、思わず抱きついてしまう。フランソワは何も言わず、ただただエレオノーラの背中を撫でた。

「エレン、よく頑張ったな」

 ヒューゴも優しく微笑む。

「二人とも……ありがとう」

 エレオノーラの目に涙が滲んだ。

(お母様は確かにすごい……でも、私は私のやり方で、がんばるのよ)


盛大に育児グッズ批判をしたヴェルデン公爵家。今回のチャリティ活動をきっかけに、ダイバーレス王国全体にスリングが普及していきます。マルテッロ公爵領の職人は大忙しです。


次回はデモンストレーション巡回です。

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