70.復帰後初めての社交
ヴェルデン公爵家の広間は、秋の陽光が優雅に差し込み、華やかな雰囲気に包まれていた。今日は復帰後初めての社交のチャリティ活動——エレオノーラにとって、新しいスタートを切る大切な日だ。
鏡の前で深呼吸をする。グラマラスな体のラインが、深い青のドレスに映える。胸の奥で緊張と期待が渦巻いていた。
「エレンちゃん、今日の参加者はちゃんと全員覚えているわね」
クレメンティアが最後の確認をする。
「えぇ、大丈夫です。」
クレメンティアが満足そうに微笑んだ。
案内状を作成していた時の母の言葉が蘇る。『社交とは、世論を作ること。そして世論を作るためには、人選が何よりも大切なの』——名簿には、アンドリアン宰相との関係の薄い名が並んでいた。
「王都で最も影響力のある婦人会の会長、リディア・マーシャル夫人。三つの領地を持つベルトラン伯爵夫妻。王立学園の理事でもあるオリヴィア・サンフォード男爵夫人……」
エレオノーラが重要な参加者の名前を復唱すると、クレメンティアが満足そうに微笑んだ。
「エレンちゃん、あなたならできるわ。今までの努力を信じなさい」
母の言葉に、エレオノーラの背筋が自然と伸びた。
来賓が次々と到着し始める。エレオノーラは広間の入口で、一人ひとりを丁寧に出迎えた。
最初に到着したのは、リディア・マーシャル夫人だった。
「まあ、エレオノーラ様!こんなにお痩せになって……それに、お美しくなられて!」
リディアが目を見開く。
「これはもう、婦人会の皆に伝えなくてはなりませんわ。この変化は奇跡的ですもの」
続いて現れたのはベルトラン伯爵夫妻だった。夫人は優しい笑みを浮かべながら、エレオノーラの手を取った。
「エレオノーラ様、本当にお久しぶりですわね。娘が先月出産したばかりで、育児のことで相談したいことがたくさんあるのですよ」
「まあ、それはおめでとうございます。ぜひお話を聞かせてください」
エレオノーラは微笑んで優雅に礼をする。しかし、その横でクレメンティアが誇らしげな顔をしているのが目に入った。
(お母様……まるで自分の手柄のようね)
そう思ってしまい、エレオノーラは胸の奥に小さなモヤモヤを感じた。でも、それを振り払う。今日はそんなことを考えている余裕は無い。
そして、オリヴィア・サンフォード男爵夫人が入ってきた。
「エレオノーラ様、お招きいただきありがとうございます」
オリヴィアの挨拶は丁寧だったが、縁なし眼鏡の奥からの鋭い視線がエレオノーラを値踏みするように見つめていた。
「グラントン侯爵令息ヒューゴ・グラントン様、アッシュクロフト公爵令嬢フランソワ・アッシュクロフト様がお見えです」
フランソワと、フランソワをエスコートするヒューゴが目に入り、エレオノーラの顔がぱっと明るくなった。二人とも、緑色のアクセントの入ったミルクティーベージュを身にまとっている——お互いの色を取り入れたコーディネートだ。
「二人とも、参加してくれてありがとう。今日のコーディネートも素敵ね」
エレオノーラがいたずらっぽく微笑むと、二人とも顔を赤くして下を向いた。
そして——
「フィリップ殿下がお見えです」
執事の声に、エレオノーラの心臓が高鳴った。フィリップが穏やかな笑みを浮かべて入ってくる。
「エレオノーラ嬢、今日も素敵ですね。この会がうまくいくことを期待しています」
「フィリップ殿下、ありがとうございます」
胸の奥が温かくなる。広間全体がざわめいている。
フィリップは、今まで社交の場にはあまり顔を見せたことが無かった。そんな彼が、このヴェルデン公爵家のチャリティ活動に現れた。このチャリティ活動がどれだけ重要なのかを印象付けるのに彼が一役買ってくれたのだった。
(まぁ、みんな、フィリップがイケメンであることに目が釘付けなんだけどね……)
エレオノーラは苦笑しつつ、会の始まりの準備をした。
「それでは、皆様。本日は、私の想いを聞いていただきたく、この場を設けさせていただきました」
エレオノーラが中央に立つ。領民に対しての講演の時とは違う緊張で手が震えそうになるが、深呼吸をして落ち着かせた。
「私は、この国の未来を担う子どもたちのことを考えてきました。領地で活動する中で気づいたのです。謝った育児方法を信じ、正しい育児方法を知らないために、苦しんでいる母親と赤ちゃんがたくさんいることに」
参加者たちがざわめく。
オリヴィアが眼鏡を直しながら、冷静な声で言った。
「エレオノーラ様、『誤った育児方法』とおっしゃいましたが、それは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?まさか、ティモテウス・アウグスティヌス先生の理論のことでは無いですよね?」
ダークブルーのシンプルなドレスを纏った彼女に視線が集まる。その言葉に、会場の空気が少し張り詰めた。赤ちゃんたちの泣き声だけが響き渡る。
(そ、そんな反論がくるなんて、聞いてないよ!)
エレオノーラは心の中の焦りを必死で隠しながら息を整えて、答えた。
「それについては、これからご説明させていただきます。まず、今日ご紹介したいのは、『スリング』という育児道具です。スタンダル帝国では『添い寝布』として、古くから使われてきた道具なのです」
エレオノーラが美しい布を手に取ると、陽光を受けてきらめいた。
そこへ、招待されていたエミリア・ドノヴァン伯爵夫人が、泣いている赤ちゃんを抱いて現れた。夫人は大分苦戦していたようで、緩く編み込まれた薄茶色の髪が少し乱れていた。
「申し訳ございません、エレオノーラ様……この子がどうしても泣き止まなくて」
エミリアの赤ちゃんは「ベビー・ラップ」の中で顔を真っ赤にして泣き続けている。
「大丈夫ですよ。赤ちゃんは、何か不快なことを訴えているだけです」
エレオノーラは優しく近づき、エミリア夫人の肩にそっと手を置く。
「よろしければ、スリングを試してみてもいいですか?」
「ぜひ、お願いします……もう、毎日こんな様子で、どうしたらいいのか」
エミリアが涙声で頷く。
エレオノーラは丁寧に実演を始めた。
「まず、布をこのように肩にかけてから、片手で赤ちゃんの背中が丸くなるように横抱きをして……」
ヴェルデン公爵家の家紋入りの布が赤ちゃんの体を丸く包み込む。
オリヴィアが腕を組んで、懐疑的な表情で口を挟む
「しかし、ティモテウス先生の理論では、赤ちゃんは縦抱きが基本とされていますが」
エレオノーラの耳にも、参加者たちの「赤ちゃんは背中をまっすぐに寝せなきゃいけないって……」という囁きが聞こえてきたが、そちらを見つめて微笑んだ。
「こうやって、ゆっくり体が上下するように歩くんです」
すると——泣き声が徐々に小さくなり、体の力が抜けてくる。
数分後、赤ちゃんは完全に静かになり、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
「まあ……」
「『ベビー・ラップ』では、あんなふうに泣き止んだりしないわ……」
広間中から感嘆の声が漏れた。
エミリアが涙を流しながら言った。
「信じられません……この子がこんなに安らかに眠るなんて」
リディアが立ち上がった。
「これは素晴らしい!私も娘に教えてあげたいですわ」
しかし、オリヴィアは依然として慎重だった。
「確かに赤ちゃんは泣き止んだようですが、それだけで発達にいいと言えるのでしょうか?」
次回はチャリティ活動後編です。




