67.スタンダル帝国の育児グッズ
貴族向けのチャリティ活動の準備で忙しい毎日を過ごしていたある日のこと。エレオノーラの手元に、一通の招待状が届いた。
封蝋を開けて中身を確認すると、エレオノーラの顔がぱっと明るくなる。差出人はカトリーナ——フィリップの母親だった。
(フィリップ、約束どおり取り次いでくれたのね)
エレオノーラの胸が温かくなる。招待状の文字を指でそっと撫でながら、小さく微笑んだ。
実は、カトリーナとの直接の面識はない。側妃である彼女が華やかな社交の場に顔を出すことは滅多になく、エレオノーラも城内で遠目に見かけた程度だった。黒曜石のように深い瞳と端正な顔立ち——フィリップとよく似た美しい女性だという印象しかない。
「フィリップにふさわしいと思ってもらえたら嬉しいな」
期待と緊張が胸の奥で渦巻いた。
王宮に到着したエレオノーラは、侍女の案内でカトリーナの離宮へと向かう。春の陽射しが石畳に踊り、新緑の香りが鼻をくすぐった。
歩いていると、一台の馬車が目に留まる。窓越しに見えたのは、肩甲骨まで伸びるピンクの髪——カミーユ・ラフォレットだった。蜂蜜色の瞳は美しいが、その顔は疲労で青ざめ、目の下には濃い隈が刻まれている。
「やっぱり王太子妃教育は厳しいのね……」
エレオノーラは心の中でつぶやく。カミーユに対しては複雑な感情を抱いているが、あの憔悴した姿にはさすがに同情を禁じ得なかった。馬車が遠ざかっていく音を聞きながら、エレオノーラは足を速めた。
離宮に到着すると、光沢のある薄紫のドレスを着たカトリーナが優雅に出迎えてくれた。後ろに軽く結い上げられた艶やかな黒髪が美しい。
「ようこそ、エレオノーラ嬢。お会いできるのを楽しみにしていましたわ」
カトリーナの声は上品で、薄く笑みを浮かべている。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
エレオノーラは明るく笑い、軽やかに礼をした。
テラス席に案内されると、秋の陽光が二人を優しく包んだ。紅葉した木々の彩りと、さわやかな秋晴れの風が心地よい。
カトリーナは上品な手つきで紅茶を注ぎながら、天候や庭の手入れについて話しかけてくる。陶器のカップがかすかに鳴る音が、静寂を彩った。
「少し寒いかしら?今日は暖かいからテラスが気持ちいいと思ったのだけれど」
「大丈夫です。最近は雨降りも多くて寒い日が続きましたが、今日は暖かく気持ちがいい日ですね」
エレオノーラも軽快な調子で応じる。紅茶の芳醇な香りが鼻腔に広がり、緊張がほぐれていく。
しばらく世間話を楽しんだ後、カトリーナが紅茶カップをそっとソーサーに置いた。
「さて、本題に入りましょうか。何かお尋ねしたいことがあったのでしょう?」
エレオノーラは準備していた話題を切り出した。
「カトリーナ様は、スリングというものはご存じですか?」
そして、布でできた育児道具の形状や使い方について詳しく説明する。手振りを交えながら話すエレオノーラを、カトリーナは穏やかな表情で聞いていた。
「スタンダル帝国には、このような育児道具はあるのでしょうか?」
その質問を聞くと、フィリップと同じ黒曜石のような瞳に懐かしげな光が宿る。
「懐かしいわ。スタンダルでは『添い寝布』という名前だったの」
カトリーナの声が一層優しくなった。遠い記憶を辿るように、視線を庭に向ける。
「フィリップが産まれた時も、わざわざスタンダルから取り寄せて、添い寝布を使って育てたのよ」
母親としての温かい記憶が、カトリーナの表情を柔らかくしていく。
エレオノーラは更に踏み込んだ質問を続けた。
「では、ダイバーレス王国で売られている『エンジェル・ステイタス』や『ベビー・ラップ』のような育児グッズは、スタンダル帝国でも定番なのでしょうか?カトリーナ様もお使いになられましたか?」
その瞬間——カトリーナの眉が一瞬神経質そうに歪んだ。紅茶カップを持つ手が、わずかに震える。しかし、すぐに先ほどまでの柔らかい笑顔に戻った。
エレオノーラは気づかないふりをしたが、その変化を見逃すことはなかった。空気が急に重くなり、鳥のさえずりさえ遠く感じられる。
「……いいえ、スタンダル帝国では見たことがありませんね」
カトリーナの声は表面上は淡々としているが、どこか硬い響きがあった。
(スタンダル帝国では見たことが無い……?あのグッズはスタンダル帝国からの輸入品なのに?)
何かあるとは思ったけれど、これ以上追及するのは憚られた。エレオノーラは話題を変えることにした。
「そういえば、フィリップ殿下から伺ったのですが、まだ小さい頃から本をたくさん読んで、独学で様々なことを学んでいたそうですね」
エレオノーラがそう切り出すと、カトリーナの表情が再び柔らかくなった。
「ええ、本当に本好きな子でしたわ。まだ字も満足に読めない頃から、図書室に入り浸って」
カトリーナの口元に、母親らしい愛おしそうな笑みが浮かぶ。
「三歳の時なんて、分厚い魔法書を抱えて私のところに来て『これ、読んで』って。もちろん内容なんて理解できるはずもないのに、真剣な顔で聞いているの」
「まあ、それは可愛らしい」
エレオノーラも思わず微笑む。幼いフィリップの姿を想像すると、胸が温かくなった。
「でも五歳頃からは、もう私よりも難しい本を読むようになって。時々、『お母様、ここに書かれている意味を教えてください』と持ってくるのですけど、私にもわからないことが多くて」
カトリーナが苦笑いを浮かべる。
「それでも諦めずに、一人で辞典を引いたり、図書室の司書に質問したり。あの集中力と探究心は、本当に驚かされましたわ」
「また、いつでもいらしてくださいね」
カトリーナの柔らかく儚げな笑顔に見送られたエレオノーラは、離宮を後にした。。
ヴェルデン家に続く街道に出た馬車の中でエレオノーラは窓の外を眺めながら考え込んでいた。夕陽が石造りの建物を琥珀色に染め、車輪が石畳を踏む規則的な音が響く。
(スタンダル帝国では育児グッズを見たことが無いって……どうして?)
あの時のカトリーナの表情が脳裏に蘇る。端正な顔に浮かんだ微かな動揺と、取り繕うようにすぐに浮かべられた笑顔が、エレオノーラの記憶に焼き付いていた。
疑問は消えることなく、エレオノーラの胸に重くのしかかる。
「父上に相談して、詳しく調べてもらおう」
エレオノーラは心の中でそう決意し、窓の外に流れる王都の夕暮れを見つめ続けた。
次回は、カトリーナ目線の話です。動揺したカトリーナにはどんな事情があったのか。




