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66.前進

 明るい日の光が差し込むフィリップの執務室に、リカルドとエレオノーラが足音を響かせながら入ってきた。リカルドの手には、レイモンドが用意した書類の束がしっかりと握られている。昨夜エレオノーラから預かったその重要な書類を、リカルドは夜更けまでかけて慎重に確認していた。


「これでアンドリアンが不正文書を使ってきたとしても問題ありません」

 リカルドが机に書類を置きながら、確信を込めた声で言った。

「また、アンドリアンが指示した不正の証人がヴェルデン家の牢にいます。どんな捏造した書類を提示されたとしても、対抗する手段は十分にあります」

 胸を張って断言する父の様子に、エレオノーラは少しほっとした。


 フィリップが深く頷いた。

「ヴェルデン公爵がそうおっしゃるのであれば、間違いないでしょう。これで一安心です」

 彼の表情にも安堵の色が浮かんでいる。

 エレオノーラは笑みを浮かべながら二人のやり取りを見守っていたが、手をパンと叩いて話題を切り出した。

「では、次の具体的な行動を決めましょう。この間話した育児グッズの件を確認しておきたいです」


 エレオノーラの提案で、3人は椅子に腰を落ち着けて、以前の議題について再確認を始めた。

「まず、マルテッロ公爵に頼んで、スリングの量産をする。マルテッロ公爵と明日お会いする約束をしてあります」

 エレオノーラが指を折りながら説明する。

「量産型スリングとは別に、貴族用の高級スリングも発注するんだ。その納期に合わせて、子どもたちの未来を守る、公爵家主導のチャリティ活動を主催するからな」

 リカルドが腕を組みながら加えた。いつもの商売人としての計算高さが顔に出ている。

「量産型スリングの納期にあわせて、改革に協力的だった領地から順にエレオノーラが講習会を開き、子育て支援をしていく」

 フィリップが最後にまとめながら、少し心配そうな表情も見せる。

(エレオノーラが各地を回るとなると、また護衛の問題が……)


 一通り確認が済んだところで、エレオノーラがふと顔を上げた。


「そういえば、スタンダル帝国にはスリングみたいなものはあるのかしら?」

 リカルドは髭をなでつけながら窓の方を見て言った。

「スリングみたいなものは、アンドリアンから受け取ったスタンダル帝国の商品リストには無かったと思う。どれも『楽に育児ができる』ばかりを謳ったものだったはずだ」


 フィリップがはっと思いついたような顔をした。

「スタンダル帝国の王女だった母上なら何か知っているかもしれない」

 その言葉に、エレオノーラの瞳がキラキラと輝いた。まるで宝石を見つけた子どものような表情だ。

「それなら、カトリーヌ様にお会いできませんか?」

 身を乗り出して期待に満ちた声で尋ねる。

(カトリーヌ様なら、きっと色々なことを教えてくださるはず!)


 フィリップは母親のことを思い浮かべながら、優しくうなずいた。

「近いうちにお茶会ができないか、母上に伝えておくよ。きっと喜んでお会いしてくださると思う」

 カトリーヌはあまり社交の場に現れることは無いが、城内でのエレオノーラの評判を聞いて好意を持っていたのをフィリップは知っていた。

「ありがとうございます!フィリップ殿下」


 エレオノーラが手を合わせて喜んだ。その輝く笑顔を見て、フィリップの胸が温かくなる。思わず頬が緩み、目元に優しさが宿った。

 リカルドも満足そうに頷く。

「カトリーヌ様からの情報があれば、我々の計画もより具体的になるだろう。それに、スタンダル帝国の育児事情を知ることで、相手の弱点も見えてくるかもしれん」



 次の日、エレオノーラは再びマルテッロ領に向かった。今度の目的はスリングの提案だ。

 王都からマルテッロ公爵家までは半日程度の道のりで、道中も見通しがよく安全だが、万が一を考えて精鋭の護衛騎士を引き連れていた。

 レンガ造りの重厚なマルテッロ城の応接間に通されると、やがてマルテッロ公爵が服飾ギルド長を伴って現れた。

「お久しぶりです、マルテッロ公爵」


 エレオノーラがすっと立ち上がって明るく挨拶する。

 マルテッロ公爵は一瞬目を見開いた。以前の丸々とした体型から見違えるほどすっきりと痩せた彼女に、驚きを隠せない。

「……おお、えらく見違えたな」

 片眉を上げて白い髭を撫でながら椅子に腰掛ける。

「あの時は丸いが芯があると述べたが、芯の部分はこんなに見事な美人だったとはな」

「……それは褒めてくださっているのでしょうか?」

 エレオノーラが頬を赤らめて戸惑う。

「もちろんだとも。芯の力で立てるようになりたいという目標は、見事に叶えられたようだな」


 賞賛に満ちた声で続ける。

「前回の提案は実に見事だった。評判が評判を呼び、今や貴族が靴を作りにこの地まで足を運ぶほどだ」

「本当に嬉しいです」

 エレオノーラの顔が明るくなった。

「大人の靴はとにかく売れる。足が痛くないという快適さには勝てんということだな」

「子ども靴のほうは……?」

「残念ながら、思っていたほどは売れん。親たちは『すぐ大きくなるから』と、大きすぎる靴を履かせる」

 エレオノーラは小さく頷いた。

「でも、それでもいいんです。少しずつでも広がっていけば、きっと未来は変わりますから」


「それでは、本題に入ろう」

 公爵が試作品の布を取り出した。

「手紙の図をもとに作らせてみたが、これが『スリング』で合っているかな?」

 エレオノーラが受け取って装着してみる。

(もう試作品ができているなんてすごい!懐かしいな、スリング)

 エレオノーラはスリングを肩からかけてみたが、何も入っていないとうまく形が取れなかった。


「赤ちゃんぐらいの大きさの何かがあればいいのですが……」

 すると、マルテッロ公爵の従者が応接間の壺を手渡した。

 エレオノーラはぎょっとしてマルテッロ公爵を見る。

「あぁ、かまわん。儂が趣味で作ったものだ」

(赤ちゃんのかわりに、壺……)


 苦笑いしながら、エレオノーラは壺をスリングに入れて抱いてみた。壺であることに違和感はあるが、大きさも重さもちょうどよく、まるで赤ちゃんを入れているような恰好になった。

「概ねの形はこれで大丈夫です。ただ、もう少し深くした方が安定するのと、布のふちを頑丈にした方がよさそうですね」

 ギルド長が興味深く観察してメモを取る。


「ならば、その形で生産することにしよう。ギルド長、平民向けのものであれば、100個ほど作るのに何日かかるかな?」

「はい。10日程度で作成が可能だと思います」

「ありがとうございます!あと、2通目のお手紙にも書きましたが、貴族向けの高品質なものもお願いしたいです」

「あぁ、心得ている。ギルド長、どうだ」

「そちらは10日だと10個程度の作成になります」

「それで十分です」

 エレオノーラは満足そうに頷いた。貴族向けはデモンストレーション用で、実際は受注販売になるだろう。


(まずはお母さまと協力して、貴族向けのチャリティ活動の準備をしなくちゃ!)


次回は、エレオノーラとカトリーナのお茶会の話です。

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