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60.忠誠

フィリップの側近、ヘンリーの話です。

 僕の名前はヘンリー・フィールド。男爵家の三男坊で、ダイバーレス王国のフィリップ第二王子様の側近をしている。


「なんでこんな奴が王子様の側近なんてやってるんだ?」と思う人がいてもおかしくない。僕は思い込みが激しくて、人と話すのが苦手だ。パーティーでもいつも壁際にくっついて、じっと手をもみもみしながら早く終わらないかと考えている。そんな僕がなぜこの地位にいるのか。

 答えは簡単だ。フィリップ殿下が僕に手を差し伸べてくださったからだ。


 学園に入学して初めて殿下を見かけたとき、僕の心臓は急に早く打ち始めた。端整な顔立ち、背筋をぴんと伸ばした優雅な歩き方、そして何より、その聡明な瞳。僕は釘付けになってしまった。

 その上、殿下と同じ学級で学ぶこととなり、僕が語学の授業中に教師に当てられて緊張のあまりパニックになりそうだったところを「落ち着いて、大丈夫だ。頭の中で10数えてから、ゆっくりと話すんだ」と声をかけてくださった。

 それ以来、僕の心は殿下一色になった。


 人の輪に入るのが怖くて、いつも一人で本を読んでいた僕だったが、殿下がいてくれたおかげで学校生活を乗り越えることができた。

 新しいことが始まると頭の中がぐちゃぐちゃになって、手が震えて、どうしていいかわからなくなる。そんな時、殿下はいつも僕の前にしゃがんで、目を見て言ってくださった。

「大丈夫だ、ヘンリー。まずはこれから始めてみよう」

 その優しい声に、僕は何度も救われた。殿下が具体的な手順を教えてくださるおかげで、僕は少しずつ前に進むことができた。


 しかし、その恩義を裏切る最悪の行動を、僕は取ってしまった。

 あの日、アンドリアン宰相に呼び出されて執務室に入ると、宰相は冷たい笑みを浮かべていた。そして告げられた言葉に、僕の頭は真っ白になった。僕の実家、フィールド男爵領での不正が発覚したというのだ。

 手のひらに汗がにじみ、足がガクガクと震えた。宰相の声が遠くから聞こえてくるようだった。


 男爵領では昔、農作物の収穫量が激減して、領民の生活が苦しくなった時期があった。父上は税を下げて立て直そうと必死だった。でも状況は悪化する一方で、困窮した一部の領民から「子どもを育てきれないから手放したい」という痛ましい申し出があった。

 その時、スタンダル帝国の奴隷業者がやってきた。「子どもたちを引き取って、安全に育ててあげます」そんな甘い言葉で父上を誘惑したのだ。追い詰められた父上は、その提案に飛びついてしまった。

 ダイバーレス王国では、奴隷売買に関わる行為は死罪にも匹敵する重罪だ。それを知りながら、父上はその場しのぎの選択をしてしまったのだ。そしてその事実が、ついに宰相によって暴かれた。どうやら、スタンダル帝国に記録として残っていた文書が宰相の手に渡ってしまったらしい。


「この件が公になると、お前もフィリップ王子の側近ではいられなくなるだろう」

 宰相の冷たい声が、僕の耳にまとわりついた。僕は椅子にしがみつくように座り、ただ震えていた。

「それが嫌なのであれば、今フィリップ王子が作成している書類を私のところに持ってくるのだ」

 恐怖に支配された僕は、もはや考える力を失っていた。手が勝手に動くように、宰相の指示に従ってしまった。フィリップ殿下の執務室の机の中から重要書類を盗み出して、宰相に渡してしまったのだ。殿下が僕を信用して預けてくれていた鍵を使って。


 でも、その後一人になって冷静になった時、僕は自分がしてしまったことの重大さに気づいた。胸が苦しくて、息ができなくなった。

 僕はフィリップ殿下を裏切ってしまったのだ。

「殿下の努力を、僕の馬鹿な行動で全部無駄にしてしまった」

 その思いが胸を締め付けて、食事も喉を通らなかった。もう僕には、側近として殿下にお仕える資格なんてない。部屋の隅で膝を抱えて座り込み、毎晩そのことばかり考えていた。それでも殿下は、調子が悪くなった僕を見ても「大丈夫か?」と優しく声をかけるだけで、問い詰めるようなことはしなかった。


 僕は、殿下がヴェルデン領に向けて出発する前に全てを告白する決意を固めた。もう嘘はつけない。書類を盗んだこと、実家の不正のこと、そしてアンドリアンに脅されたこと。全部、全部話そう。


 僕の告白を聞いて、殿下はしばらくの間、静かに目を閉じていらっしゃった。僕は椅子に座ったまま、手をぎゅっと握りしめて殿下の反応を待った。心臓の音が耳の中で響いている。

 そして、殿下が口にされた言葉は、僕が想像していたものとは全く違っていた。

「ヘンリー、お前がそれを選ばざるを得なかった理由は理解した。そして、それを後悔していることも」

 僕は涙をこらえようとしたが、もうどうにもならなかった。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

「はい」

 僕は震え声で頷いた。

「僕は、自分の弱さに負けて殿下を裏切ってしまいました。殿下の側近としての責務を果たせず、申し訳ありません。いかようにも罰してくださってかまいません」


 殿下は深い溜息をつき、不格好にもポロポロと涙を流す僕をじっと見つめていらっしゃった。その眼差しには、怒りではなく、深い悲しみが宿っていた。

「過去は変えられない。しかし、未来は変えられる。これから何をするべきか、一緒に考えよう」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸が熱くなった。まだ殿下は僕を見捨てていない。まだ僕と一緒にいてくださると言ってくださっている。

「殿下……僕は……」

 声が震えて、うまく言葉が出てこない。もう一度力を込めて、殿下をまっすぐに見て言った。

「もう一度、殿下のために生きたい」


 殿下の表情が、ふわりと柔らかく和らいだように見えた。そして僕の肩にそっと手を置き、力強く言われた。

「君の決意を信じる。ヘンリー、僕には君の助けが必要なんだ。共にこの国を守ろう」

 殿下の手のぬくもりが、僕の震える心を落ち着かせてくれた。

「もし、また同じように脅されたら、すぐに僕に言うんだ。一緒にどうすればいいのか考えよう」


 僕はその言葉に、全てを救われた気がした。涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭いながら、心の底から思った。

 フィリップ殿下のために、今度こそ恥じることのない行動を取ろう。僕の犯した罪は消えることはない。でも、それでも殿下の力になれるなら、どんな困難でも乗り越えてみせる。

 今度は、殿下を裏切らない。絶対に。


ヘンリーは自閉傾向が強い若者でした。フィリップは和真のとき特別支援学級で経験したことを思い出して対応していたのでしょう。


次回は、フィリップとエレオノーラがヴェルデン領へ向かいます。

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