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58.母、怒る

 ヴェルデン邸のサロン。午後の柔らかな光が窓から差し込み、金糸で縁取られたカーテンが微風に揺れている。


 クレメンティアの好奇心旺盛な視線を感じながら、スリングの資料を準備し終わったエレオノーラは深呼吸をして口を開いた。

「お母さま、ベビー・ラップの代わりになる商品を売り出したいの」

 クレメンティアの眉がぴくりと動く。

「みんなが『ベビー・ラップなんてもういらない』って思うような素晴らしい商品を作りたいんだけど、どうやって宣伝すればいいのか思い浮かばなくて」


 その瞬間、クレメンティアの顔色がみるみる真っ赤になった。

「……ベビー・ラップに代わるものを発売するですって?」

 クレメンティアは椅子から身を乗り出した。

「いったい何を考えているの!?私は長年、社交界の母親たちにベビー・ラップを薦めてきたのよ!それを否定するというの?」


 リカルドは書類から顔を上げると、落ち着いた声で口を挟んだ。

「まあ、落ち着け。まずは話を聞くんだ」

 エレオノーラは緊張で手のひらが汗ばんでいるのを感じながら、一歩前に出た。

「お母さま、実はベビー・ラップって、赤ちゃんの体に良くないものだったの」

(こう言ったら怒られるだろうけど、真実を伝えなきゃ)

「領地で正しい育児方法を教えたら、ベビー・ラップを使わなくても、みんな普通に子育てできていたのよ」

 クレメンティアの目がぎょろりとエレオノーラに向いた。

「そんなはずないでしょう!ベビー・ラップが無かったから、レイモンドの子育てはあんなに大変だったのよ?」

 彼女は手をひらひらと振った。

「どうしてベビー・ラップなしで『普通に』子育てできるの?説明してよ!」


 エレオノーラは資料の一枚を取って、母親の前に広げた。

「そもそも、首がすわっていない赤ちゃんを縦に抱くのが間違ってるの」

「一体どういうことなの?」

「頭の重さを首が支えきれなくて、骨格が歪んでしまうのよ。でもスリングなら、首がすわっていない頃は横に抱っこできるし、赤ちゃんの正しい姿勢も保てるの」

 クレメンティアは腕を組んだまま、まだエレオノーラを睨んでいる。その視線を感じながらもエレオノーラは続けた。

「領民から聞いた情報を元に古い文献で調べてみたら、ティモテウス・アウグスティヌスっていう医師が間違った育児方法を提唱した結果、縦抱きが一般的になっちゃったみたい」


 その名前を聞いた瞬間、リカルドの目が鋭く細められた。

「ティモテウス?」

 彼は低くつぶやく。

「確か、彼はアンドリアン宰相と親しかったはずだ」

 エレオノーラは驚いて父の顔を見た。

「もしかして、間違った育児法が国中に広まったのは……」

「アンドリアンの企みだろう。まさか、そこから始まっていたとは……」

 リカルドが重々しく頷く。


 クレメンティアはエレオノーラとリカルドの顔を交互に見て言った。

「2人とも、一体何の話をしているの?

 リカルドは、簡単にアンドリアンについての疑惑をクレメンティアに伝えた。

「つまり、間違った育児法を意図的に国内に流して、国力を下げたのではないかと思うのだ」


 クレメンティアは息を飲み込むと、遠い目をしてレイモンドの幼い頃を思い返した。

「レイモンドがあんなに泣いていたのは、ベビー・ラップが無かったからじゃなくて……」

 彼女の声が震える。

「そもそも育児法が間違っていたからなのね……」


 さきほどエレオノーラ達に向けていた怒りは、今度はアンドリアンに向けて再燃した。クレメンティアは勢いよく立ち上がり、椅子がガタンと音を立てた。

「許せないわ!騙されていたなんて!」

 彼女の目に炎が宿る。

「エレンちゃんの言う正しい子育てを、この私が国中に広めてみせる!本気で作戦を練るわよ!」


 クレメンティアはさっと書類を手に取り、眼鏡をかけて真剣に読み始めた。

(あら、お母さまって眼鏡をかけると知的に見えるのね)

 エレオノーラは初めて見る眼鏡姿の母に驚いた。

 リカルドは指を組んで、妻を見つめる。

「このスリングという代物、正しく使えば赤子の体を支えて親の負担も減らせる優れものらしい。作り方も単純だから安価に抑えられるそうだが……」

 リカルドは少し考えるような仕草をした。

「問題は、庶民はともかく貴族社会にどう広めるかなんだ」


「確かに、ただの育児用品として紹介するんじゃ平凡よね」

 クレメンティアは指で資料をとんとんと叩いた。

「高級な布を使って、家紋や花の刺繍を施せば、持つだけで格式を感じさせるものになるわ。貴族の母親たちの心を動かすには、まず見た目よ」


 リカルドは腕を組み、深く頷いた。

「確かに見た目を豪華にするのは必要だろうな。だが、それだけではベビー・ラップの完全な代替品にはならないだろう」

「そうね」

 クレメンティアは天井を見上げて考えた。人差し指を唇に当てている。

「大衆が求めるのは、特別な価値と物語だと思うのよ」

 少しの間、サロンに静寂が流れた。時計の針の音だけがちくたくと響く。


 クレメンティアが急に手を叩いた。パンっという音が響く。

「そうだわ!このスリングを子どもたちの未来を守る、公爵家主導のチャリティ活動として発表したらどう?」

 リカルドの眉が上がった。

「演出か……具体的にはどんな場を想定している?」

 クレメンティアは軽やかに笑みを浮かべ、エレオノーラをちらりと見た。

「慈善晩餐会で、エレンちゃんに母親たちへ直接使い方を教えてもらうのよ。そしてその場で寄付を募るの!」


 エレオノーラは思わず目を丸くした。

(え、私が人前で実演?)

 けれど頬には、緊張よりも楽しげな色が浮かんでいる。

「それは素敵だわ!」


 クレメンティアは優しく娘に歩み寄り、肩にそっと手を置いた。

「社交界復帰への一環だと思いなさい。劇的に痩せて美人になって戻ってきた領地改革で話題のエレンちゃんが、母親たちと目線を合わせて安心を与える姿は、きっと良い印象を残すわ」

 エレオノーラは胸に手を当て、小さく息を吸い込んだ。

(頑張らなきゃ。領地での経験を活かすチャンスだわ)


「わかったわ。せっかくなら、小さなお子さんがいる方にはぜひお子さんを連れてきてもらって——」

 エレオノーラは身振り手振りを交えて続ける。

「ただの説明じゃなくて、実際に赤ちゃんがスリングの中でどんな表情をするか、みんなに見てもらえるようにしたいわ」


 その言葉に、リカルドの厳しかった表情がふっと和らいだ。

「よし、それでいこう」

 彼はひげを撫でながら満足げに頷く。

「スリングは最高品質の布に美しい刺繍を施し、特別仕様にする。エレオノーラの実演によって、ただの新商品ではなく『公爵家が守る未来』という物語を添えるのだ」

 クレメンティアは満足げに頷き、エレオノーラの両手を取った。

「これが本当の社交術よ、エレンちゃん。形の裏に、物語を添えること」


 エレオノーラは母と父の顔を交互に見つめた。

(家族みんなで同じ目標に向かっていることで、私もやっと家族の一員として認められた気がするわ)



今回話し合った内容をもとに、次回フィリップのところで作戦会議です。

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