56.疑念の影
フィリップ視点での話です。
私は蒼白になりながら、鍵付きの引き出しを見下ろしていた。手が小刻みに震えている。
「そんなはずは……」
そこに収めていたはずの書類が、どこを探しても見当たらない。アンドリアン宰相についての調査をまとめ、あとは最後の確認をして王に渡すだけになっていた重要な書類だった。
私は引き出しを何度も開け閉めした。しかし、やはり書類はない。
「確実に鍵をかけたはずなのに」
それが、どうして消えてしまったのか。
胸がざわめき、思考が混乱する。冷や汗が背中を流れ落ちた。
「一体誰が持ち去ったというんだ?」
この執務室に自由に出入りできるのは限られた人物だけだ。私は指折り数えながら考えた。
私自身を含め、信頼する部下たち、父である国王、そして母であるカトリーナ。兄のハーマンに関しては特に警戒を強めていたため、彼が侵入することは困難なはずだ。
「でも、断言できる根拠もないな」
私は頭を抱えた。
そう考えていると次の可能性が頭をよぎり、私は思わず身震いした。
「もし、母上が……」
母カトリーナはスタンダル帝国の第三王女として生まれ、ダイバーレス王国の側妃となった。
「側妃となったからには、ダイバーレス王国のことを第一に考える立場のはずだ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。しかも、私は母に大切に育てられてきた自信がある。
「でも……」
しかし、スタンダル帝国の第三王女だったことが、最近スタンダル帝国からの使者と密会しているという話のアンドリアン宰相との内通に繋がる可能性を考えると、背筋が凍りついた。
「まさか、そんな……」
震える声が漏れ出す。私は椅子の背もたれを強く握りしめた。
そして、さらに悪い想像が頭をもたげてくる。信頼を置いてきた部下たちの顔が次々と思い浮かんだ。
ヘンリー、カーク、そして他の側近たち。彼らの中にハーマンやアンドリアンと通じている者がいるのだろうか。
疑念が渦を巻き、頭の中が混沌とする。私は額に手を当てた。
「いったい誰を信じればいいんだ……」
私は執務室の椅子に力なく座り込んだ。また一から作り直すのか?でも、アンドリアン側があの書類を手に入れているならば、全てにおいて対策を練られてしまうだろう。
「どうすればいいんだ……」
そんな時、側近のヘンリーが疲れた顔でノックをして入ってきた。
「殿下、ヴェルデン公爵より、重要な報告があるとのことです」
私は疲れ切った表情で顔を上げた。
「分かった。通してくれ」
私は人払いをしてカークをドアの前に立たせ、ヴェルデン公爵を迎え入れた。緊張した空気の中、公爵が口を開いた。
「殿下、重要な証拠を掴みました」
公爵の表情は少し興奮気味だった。
「レイモンドと連絡を取って、アンドリアンからの紹介で働いている者の不正を突き止めました。貿易証明書の手数料を約3割増しで発行していたのです」
私は身を乗り出した。
「それは確実な証拠があるのか?」
「はい。更にその者は既に拘束し、牢に入れてあります。必要があればいつでも証言できるようにしてあります」
「素晴らしい!」
私は思わず手を叩いた。しかし、公爵の表情は曇った。
「ただ、今まで手数料として多く取っていた分はアンドリアンに流れていると思われ、ヴェルデン領には残っていません」
公爵は更に続けた。
「アンドリアンが持っているというヴェルデン公爵家の輸出入に関わる不正の書類とは、その多く取った手数料をヴェルデン家で着服しているという内容ではないかと推測しています」
私は頷いた。
「確かに、それはあり得る話だ。もしかしたらアンドリアンは、着服したものを使ってヴェルデン公爵領の改革をしていると指摘するかもしれません」
私がそう指摘すると、公爵は深く頷いた。
「確かに、そうすればヴェルデン公爵家のダメージはさらに大きくなります。殿下が進めようとしていた、ヴェルデン公爵領を参考にした改革のイメージも下げることができる。その可能性は高いでしょう」
公爵は少し考えてから続けた。
「それならば、ヴェルデン公爵領の出納簿があれば、対抗できるかもしれません。ただ……」
公爵は腕を組んで困った顔をした。
「ヴェルデン領からレイモンドを出すわけにもいかないし、私が王都を離れるわけにもいかない。妻にはシーズンオフとはいえ社交を一手に任せてあるので、あまり長期間王都を外すことができない。誰がアンドリアンの息がかかった者なのかわからない状況で、家臣に運ばせるわけにもいきません」
公爵は深刻な表情で首を振った。
「となると、動けるのは……」
「エレオノーラ嬢だけということですね」
私はすぐに理解した。しかし同時に不安も湧き上がる。
「だけど、エレオノーラ嬢自身も、アンドリアンからは狙われている可能性が高い。ヴェルデン領改革の中心人物で、育児グッズの販売に対して反対していることが知られていますから」
公爵は深く頷いた。
「昔の癇癪ばかり起していた頃のエレオノーラであれば、『行ってこい』と言ったかもしれません。でも、あれだけ頑張って領地改革まで成し遂げたエレオノーラを、そんな危険な目に遭わせるわけにはいきません」
公爵が、父親としてエレオノーラのことを心配する気持ちはもっともだ。
私が代わりに行くことができればいいが、それだと公爵家への内政干渉と捉えられかねない。
「であれば、私と私の直属の騎士を護衛として出しましょう。ただ、私の方でも色々あったので、ちょっと時間がかかるかもしれませんが」
私はそう提案したが、公爵は慌てたように手を振った。
「そんな、殿下自ら同行していただくことはありません!護衛騎士を貸していただけるだけで十分です。我がヴェルデン家の騎士団も最近練度が上がっているので、ちょっとやそっとではやられることはないでしょう」
公爵は胸を張って言った。しかし私には、別の考えがあった。
「公爵、もっと状況が落ち着いてから言おうと思っていたのですが」
私は深呼吸をして、公爵の青い目をまっすぐ見つめた。
「私は、ゆくゆくはエレオノーラ嬢と婚約したいと考えています」
公爵は一瞬目を大きくして驚いたが、すぐに納得するように微笑んだ。
「なんとなくそうではないかと考えていました。けれど、本当にあの娘で大丈夫ですか?」
「エレオノーラ嬢がいいのです」
私は迷いなく答えた。
「もう少し落ち着いてから正式に王に承諾を得ようと考えています。時間がかかるため、公爵には迷惑をかけることになって申し訳ないですが、お待ちいただきたい」
「エレオノーラは何と言っていますか?」
公爵は興味深そうに尋ねた。
「私の改革が終わるまで待つと言ってくれました。結婚適齢期を過ぎてしまうけれど、一度ハーマンに婚約破棄された身なので、今更気にしないと」
私は苦笑いを浮かべた。エレオノーラらしい、飾らない答えだった。
「なので、私の大事なエレオノーラ嬢を危険な目に遭わせたくないのです。ちょうど今取り組んでいたことが終わったところなので、私もエレオノーラ嬢に同行してヴェルデン領に行ってきます」
少なくとも、国内では私よりも剣において強いものはいない。私がそばにいるのが、一番いい。
公爵はひげを撫でながら考えて、そして言った。
「ならば、私から言うことはありません。あの娘をよろしくお願いします」
公爵は深々と頭を下げた。私も立ち上がって応えた。
「必ずエレオノーラ嬢を守ってみせます」
失った書類への不安は残っているが、少なくとも新たな希望の光が見えてきた。私は窓の外を見つめながら、決意を新たにした。
(エレオノーラは絶対守り切ってみせる)
次は、エレオノーラの回です。エレオノーラはスリングを開発して、どうしようと考えているのでしょう。




