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51.深夜の城

フィリップの話です。

 深夜の王宮は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。昼間の喧騒や政治的な駆け引きがうそのように静まり返り、重厚な石造りの廊下には私の足音だけがコツコツと響いている。


 私は計算していた。アンドリアン宰相が帰宅したこの時間なら、王と二人きりで重要な話ができるはずだ。余計な雑音が入ることなく、真実を伝えられる絶好の機会だった。

 執務室の重厚な扉の前に立つと、私は一度深呼吸をした。肺に冷たい夜の空気を取り込み、心を落ち着ける。

(ここが正念場だ)

「フィリップです。お時間をいただけますか?」

 私の声は廊下に響き、やがて中から低く威厳のある声で許可が下りた。


 扉を開けると、王は机に広げた書類の山に埋もれながら、疲労の色を隠せない表情で書類に目を通していた。王冠を外したその姿は、一国の君主というよりも、重責に押し潰されそうになっている一人の社畜に見える。


「こんな時間に何用だ、フィリップ」

 王の声には疲れがにじんでいる。

「申し訳ありません、陛下。どうしてもお伝えしたいことがありまして」

 私は王の前まで進み、深々と頭を下げた。そして顔を上げようとしたその瞬間だった。


「おや、こんな時間に弟君が父上に用があるとは珍しい」

 その声に振り向くと、ハーマンが執務室の扉の前に立っていた。

(なぜこのタイミングで……。2人だけで話せるタイミングを狙っていたのに)

 私は心の中で舌打ちした。

「兄上、こんな時間に何かご用が?」

「いや、特にない。ただ通りがかっただけだ」

 ハーマンは肩をすくめながら答える。

「だが、お前が父上と何を話そうとしているのか興味がある。私も同席していいか?」

 この「偶然の通りがかり」が本当に偶然なのか、私は疑問を抱いた。しかし、今は反論する立場にない。

 王は疲れた表情を浮かべながらも、面倒を避けるように「構わん」と短く答えた。


 ハーマンがどっしりと椅子に腰を下ろすと、王は私に鋭い視線を向けた。

「それで、フィリップ。何の話だ?」

 王の問いに、私は一瞬言葉を失った。当初の計画では、アンドリアン宰相の脅迫について詳細に報告するつもりだった。しかし、ハーマンの存在が状況を複雑にしている。

(この場で核心に触れるのは危険だ)

 私の直感が警告を発していた。

「いえ……育児グッズの販売と国内の若者の発達に関する調査の進捗について、ご報告をと思いまして」

 苦し紛れの言い訳だった。本来の目的とは程遠い、当たり障りのない話題にすり替える。

「ふむ。それで、具体的には?」

 王は眉をひそめながら続きを促した。こんな深夜にやってきた割には、大した話ではないのかという疑問が表情に現れている。


 私は言葉を選びながら慎重に進めようとした。しかし、ハーマンの鋭い視線が心をかき乱す。

「具体的には、育児グッズの販売に関する議論を続けております。しかし、アンドリアン宰相閣下の干渉により、少々問題が……」

 私がアンドリアンの名前を出した瞬間、ハーマンの表情がわずかに変化した。

「問題?」

 ハーマンが私の言葉を遮るように、鋭く問いただす。その声には明らかな警戒心が込められていた。


「そうです。ただ、今は詳しく申し上げられる状況ではありません」

 私は慎重に答えた。これ以上詳細を話せば、状況はさらに悪化するだろう。

「何だ、それは。曖昧な言い方では話にならないだろう」

 ハーマンの牽制するような態度に、王も困惑の色を浮かべた。息子たちの間に流れる微妙な緊張を感じ取っているのだろう。

 私はこの場ではこれ以上深く話すべきではないと最終的に判断した。

「後日、改めて陛下に直接お話しさせていただければと存じます」


 それを聞いて、ハーマンが鼻で笑った。その笑いには明らかな嘲笑の色が含まれている。

「直接?それほど大層な話なら、今ここで言えばよいのではないか?」

 ハーマンの挑発的な態度に対し内心では苛立ちが募っているが、それを表に出すわけにはいかない。

「兄上、この件は極めて繊細な問題です。陛下のお疲れを考慮して、適切な場を選びたいと思っております」

 ハーマンのいる場でこれ以上話したくない。嫌な予感しかしない。

「ふむ、まあよかろう」

 王はそう言ってこの微妙な場を収めようとした。しかし、ハーマンの探るような表情は最後まで消えることがなかった。まるで弟の真意を見抜こうとしているかのように。


 執務室を辞するとき、私は心の中でため息をついた。

(この夜の訪問は、結局何の進展も生まなかった)


 ただ、当初の目的は達成できなかったが、予期しない収穫があった。ハーマンの態度から一つの重要な疑問が生まれたのだ。

(ハーマンは、アンドリアンと何かつながりがあるかもしれない)

 もしそうであれば、この場でアンドリアンの名を出したことは完全に裏目に出たことになる。敵に手の内を明かしてしまったようなものだ。

(王の目が曇らされる前に、何としても真実を伝えなければ)

 私は心の中でそう決意しながら、夜の廊下を静かに歩き始めた。廊下に響く足音は、来たときよりも重く感じられる。


 自分の執務室に戻ると、そこではまだヘンリーが書類の山と格闘していた。深夜にも関わらず、彼は私のために働き続けている。

「ヘンリー、お前ももう休むんだ。体を壊したら、お前の代わりができる奴は他にいないんだから」

 ヘンリーは私の言葉に

「はい、これが終わったら休みます」

 と答えつつも、次の書類に手を伸ばそうとする。彼の責任感は時として行き過ぎることがあった。

「だから、これで終わりだって」

 私はその手をつかんで制止した。

「でも、殿下。私は殿下の補佐をしているだけです。殿下が倒れたら、誰が殿下の代わりをするのですか?」

 ヘンリーはまっすぐに私を見つめて言った。


 前世のことを思い出す。仕事を引き受けすぎて、疲れが抜けなくなってしまった日々。そして、居眠り運転での事故死。


(私だって、あなたと一緒の人生を送りたいもの。……できれば、ずっと、おじいちゃんおばあちゃんになるくらいまで)


 そう言ったエレオノーラの青い瞳が目に浮かぶ。前世では、本当にかわいそうなことをしてしまった。それでも、この人生を一緒に過ごしてくれると約束してくれた彼女のことを裏切ることはできない。


「よし。今日はもう2人ともおしまいだ。私ももう休む。ヘンリーも休め。2人とも、ちゃんと長生きするんだ」

 そう言って、私は執務室からヘンリーを追い出し、そして自分も自室へ戻った。


次回はハーマン視点での話です。

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