40.正面がダメなら
宰相アンドリアン・クレイヴェル。
私は、調査書を読みながら、その名前を何度も見つめた。
エレオノーラがヴェルデン領での販売中止を決めたスタンダル帝国産育児グッズ。それをヴェルデン公爵に販売するように勧めたのは、アンドリアンだという。
そして、今回の改革に対しての妨害。
彼が、ダイバーレス王国の育児に焦点を当てて、何かを企んでいるのは明らかだった。
調べてみると、アンドリアンは幼少期をスタンダル帝国の祖父母の元で過ごしているらしいことがわかった。だから、スタンダル帝国の商人とつながりがあったのか。
だが、それ以上のことはなかなかつかめなかった。
スタンダル帝国の祖父母の方を調べるには時間がかかる。領地をまとめている前クレイヴェル子爵は人のいい好々爺だが、不穏な雰囲気は見られない。使用人はアンドリアンが帰国したときに全て入れ替えられていて、当時のことを知る者はいなかった。
私は調査書を机に置いた。
(たぶん、スタンダル帝国で何かあったには違いないけど、王が重用しているくらいだから、何らかの調査は入っていたはずなんだよな……)
私は椅子に深く座り直して、考えた。
調査書の表紙を眺めながら、私はふと、エレオノーラとの会話を思い出した。
若者や子どもたちの発達不全の元凶は、ティモテウス・アウグスティヌスという胡散臭い医者の提唱した間違った育児方法。そして、それに追い打ちをかけたのが、子どもの成長を阻害する有害な育児グッズだという話だった。
エレオノーラは、真剣な目で言っていた。
「とりあえず、育児グッズの使用をやめるだけでも効果がありそうなの」
その時の彼女の表情が、鮮明に思い出される。青い瞳に宿った決意。
私は息を吸った。
「……そうだ。正面からの改革がダメなら、今度は別の角度から攻めてみよう」
突然ひらめいて、私は立ち上がった。
執務室で書類を整理していたヘンリーが、驚いて顔を上げた。
「え?」
ヘンリーが不思議そうに首をかしげる。
「育児グッズの販売を完全に中止できれば、それだけで状況は劇的に変わると思うんだ」
私は、気分が高まるのを感じた。
「育児グッズの販売を中止するのに、王や宰相の許可は必要無い。ヴェルデン公爵さえ説得できれば」
私は大きな窓の外をじっと見やった。温かい陽光が差し込む街並みは、一見すると本当に穏やかで平和に見える。けれど、その美しい表面の裏では、多くの幼い子どもたちが苦しんでいる。不自然で間違った育て方によって、知らず知らずのうちに。
「ただ……」
私は困ったように小さく首を振った。
「エレオノーラ嬢が以前、公爵に直接願い出たときは断られたらしいんだ」
ヘンリーが眉を寄せた。
「では難しいのではないでしょうか」
「でも、それからもう一年以上経っているし、きっと状況は少しずつ変わっているんじゃないかな」
私は希望を込めて背筋をぴんと伸ばした。胸の奥には確かに不安もあったが、それ以上に何か確かな手応えのようなものを感じていた。
「何より、今度は私からの正式な申請という形になる。王族からの要請なら、可能性はきっとあるはずだ」
(――まずはエレオノーラに相談しよう)
そう心の中でつぶやいた瞬間、胸の奥が温かくなった。
前世でもそうだった。私が一人で悩んで行き詰まったとき、真央はいつも私に道を示してくれた。私一人では気づけなかったことを、彼女は笑顔とともに差し出してくれた。明るさと優しさに、どれだけ救われたことだろうか。
そして今、ヴェルデン領まで行けばエレオノーラがいる。
前世の真央と同じ魂を持つ、彼女がいる。
「殿下……少し、お顔が柔らかくなりましたね」
ヘンリーがそう言って、ほっとしたようにわずかに笑った。
「……そうかな?」
私は窓に映る自分の顔をちらりと見た。確かに、硬さが少し溶けている気がする。
――彼女の笑顔を思い出したからだ。
私はふっと小さく笑みをこぼした。エレオノーラに会いに行く正当な理由ができた。それが、こんなにも心の底から嬉しいとは。私の胸の内に、温かで希望に満ちた光がそっと差し込むのを感じた。
「ヘンリー、準備を頼む。ヴェルデン公爵のところに行く前に、まずエレオノーラ嬢に会いに行ってくる。」
そう口にした瞬間、まるで先ほどまでの暗かった世界に光が射したように感じた。彼女に会える。それだけで、私の心は希望に満ちていた。
次は、ヴェルデン領にいるエレオノーラ視点での話です。今回の話の続きからスタートです。




