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37.和真先生

 子どもを寝かしつけているうちに、うっかり一緒に眠ってしまったらしい。真央は小さく「あらー」とつぶやきながら起き上がった。肩が凝っているのを感じて操体法で体を緩めてから、改めて寝る準備をするためにリビングに戻る。すると、そこにはまだ和真がいた。

 テーブルの上に書類を山のように広げて、真剣な顔でペンをカリカリと走らせている。その集中した横顔を見て、真央は思わず苦笑いした。


「ねえ、もう12時過ぎてるよ?」

 真央は笑いながら声をかけ、和真の背中にそっと抱きついた。けれど和真は一瞬こちらを振り向いただけで、困ったような苦笑いを浮かべてまた手元の書類に戻ってしまった。

「あと少し。今日中に仕上げたいんだ」

 その言葉を聞いて、真央は抱きついた手をゆっくりほどく。そして演技たっぷりに大げさなため息をついてみせた。

「和真先生は、本当に頼まれごとを断れないんだから」

 彼は穏やかな目をしたまま、でもどこか申し訳なさそうに肩をすくめた。

「断れないんじゃなくて……断りたくないんだ。期待してもらえるのは嬉しいから」

 真央の胸の奥で、愛おしさと心配が混じり合った。この人の優しさが好きだけど、その優しさが心配でもある。

「でも、体がもたないでしょ。またコーヒーばっかり飲んでるし……」

 真央がそう言ってため息をつくと、和真は気まずそうに目をそらす。真央は空になったカップを手に取る。

(……何杯目だろう)

 まだ温かいカップをキッチンに運びながら、真央の頭の中では昔のことがよみがえった。


 和真は小学校の特別支援学級の先生だった。子どもたち一人ひとりを本当に大切にして、時間をかけて寄り添っている。その姿がとても素敵で、真央は自然と惹かれていった。

 児童デイサービスには利用している子どもを学校まで迎えに行った時に必ず担任の先生と引継ぎをするシステムがある。真央が担当している子の担任が和真だった。6歳年上の彼は、穏やかなのに芯がしっかりしている人だった。子どもが自分らしく生きられるように、できることを一緒に見つけようとする姿勢に、真央はどんどん心を奪われていった。


 そしてある日のこと──

「あの…もしよろしければ、今度お食事でもいかがですか?」

 真っ赤になって真央に告白する和真の顔を、今でもはっきりと覚えている。そして、それに応えた自分の顔も同じように真っ赤になっているのがよくわかっていた。


 結婚しても和真は本当に優しかった。

 料理をしていると、仕事から帰ってきた和真がやってくる。

「いいにおいがする」

 和真が後ろからそっと真央を抱きしめる。その温かさにほっとする真央だったが、慌てて振り返った。

「やだ、和真ったら。熱いから危ないでしょ。火傷しちゃう」

 真央は笑いながら和真の手をそっと外した。

「でも、真央の手料理が一番美味しいよ。どんな高級レストランより上だよ」

「もう、お世辞ばっかり。口がうまいんだから」

 そう言いながらも、真央の頬は自然と緩んでしまう。


 二人で並んで食べる夕食。それぞれの職場であったこと、職場での子どもの話、特別支援に関わる新しい知識。些細な会話も、すべてが宝物のように幸せだった。こんな時間がずっと続けばいいのにと、真央はいつも思っていた。


 だけど、今年の春に異動した先の学校はあまりに忙しすぎた。授業の準備に、保護者対応に、校務分掌の雑務に、行事の段取りに――気がつけば、放課後の彼は毎日夜遅くまで職員室に残っていた。そして家に帰ってきても、さらに夜中まで仕事をしている。真央は心の中でため息をついた。


「ねぇ和真、今日はもうやめよ?明日でもいいじゃない」

 そう声をかけても、彼は疲れた顔で首を振る。

「明日は明日でやることが山ほどあるんだ。今日終わらせておかないと、迷惑をかけてしまう」

「本当に、和真先生はいつも熱心なんだから」

 真央は明るく笑ってみせたけど、胸の奥には重い不安がどんどん積もっていく。いつか倒れるのではないかと思って。体を壊すのではないかと思って。毎日そんな心配ばかりしていた。


 そして、あの日。

 なかなか帰ってこない和真を、真央は眠れずにソファで待っていた。時計の針がコチコチと音を立てて日付をまたいだ頃、電話が鳴った。スマホを持つ手がぶるぶると震えた。嫌な予感がした。

「……事故?」

 聞こえてきた言葉を、頭が拒絶した。けれど、現実は容赦なく突きつけられる。居眠り運転の単独事故だった。無理をし続けた結果、彼は二度と帰ってこなかった。

 胸の奥から叫びがこみ上げて、息ができなくなる。世界が崩れ落ちる音を、真央ははっきりと聞いた。


 ――その瞬間。

 エレオノーラは弾かれたように目を覚ました。息が荒く、心臓が激しく打ちつける。額には汗がにじみ、体が震えていた。

 窓の外には朝日が昇っている。柔らかな金色の光が部屋に差し込んで、ここが現実だと優しく知らせてくれる。

「……夢だったのね」


 エレオノーラは胸に手を当てて、深く息を吐いた。ゆっくりと呼吸を整える。

 和真は──今はフィリップとして生きている。あの頃のように、自分を削って無理をしている様子は見られない。

「あれは、もう終わったこと。私たちには、ちゃんと未来がある」


 エレオノーラはその言葉を心の奥深くに刻み込んだ。夢の中の記憶は胸に痛みを残したけれど、その痛みがあるからこそ、今という時間を、そしてこれからを大切に守りたいと強く願った。


教員の仕事がブラックだという話と働き方改革の話は今でこそ有名ですが、和真が生きていた時代は、若者はこのくらい働いて当たり前という風潮でした。


次回は、フィリップ視点での話です。

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