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34.視察

 フィリップ第二王子のヴェルデン領視察は、早朝の澄み切った空気の中、王宮から派遣された使者の到着で始まった。


 エレオノーラは城の玄関で、緊張で手のひらに汗をかきながら待っていた。

「大丈夫だ、エレオノーラ。準備は完璧だ」

 レイモンドが隣で低い声で励ましてくれたが、彼女の心臓は緊張で今にもつぶれそうだった。

 やがて、立派な馬車がゆっくりと城の前に停まった。扉が開かれると、フィリップ王子が優雅に降り立つ。


 端正な顔立ちと整った体躯を持つ彼は、周囲の人々を自然と惹きつける雰囲気を漂わせていた。黒曜石のような深い瞳と、少し長めの前髪が柔らかな印象を与えつつも、その姿勢には毅然とした品格が感じられる。

(やっぱりお美しい方ね……)

 エレオノーラは思わず見とれてしまいそうになって、慌てて姿勢を正した。


 フィリップ王子の衣服は王族らしく華美でありながらも動きやすさを重視したデザインで、全体的に落ち着いた色調の紋章が胸元に施されていた。


「フィリップ殿下、ヴェルデン領へようこそいらっしゃいました」

 レイモンドが深々と頭を下げ、エレオノーラも慌てて続いた。


 フィリップ王子の視察は2泊3日という短期間の計画だった。1日目には観光地、2日目には保育施設の案内が予定されている。エレオノーラとレイモンドは、この重要な訪問を成功させるために入念な準備を整えていた。


「こちらが、ヴェルデン領の港でございます。新鮮な海産物が豊富に揚がることで知られています」

 エレオノーラは緊張で声が少し上ずりながらも、精一杯説明した。


 ヴェルデン領は海に面しており、豊かな自然と独特の文化を持つ。エレオノーラは、まず海辺の観光名所である白砂のビーチと、特産品の海産物が並ぶ市場へ案内した。

 市場では領民たちがこぞって王子を歓迎した。

「殿下、どうぞこちらを!」

「こっちの鯖のオイル漬けも召し上がってください!」

 漁師たちは特産の鯖のオイル付けの瓶詰や海藻を贈り物として手渡した。フィリップ王子は礼儀正しく受け取りつつも、特に感情を見せることはなく、静かに市場を回った。


(あまり興味をお持ちでないのかしら……)

 エレオノーラは内心で不安になった。王子の表情は終始穏やかだが、どこか他人行儀で距離を感じる。


 昼食時、ヴェルデン領直轄のレストランでは、海産物を用いた特別料理が振る舞われた。

「こちらが、当領地の特産料理でございます」

 エレオノーラは料理が運ばれる様子を、祈るような気持ちで見守った。

 この国では珍しい海鮮丼やエビの出汁の効いた味噌汁が王子の前に置かれる。フィリップ王子はそれを見て、一瞬ぴたりと動きを止めた。

(まさか、お気に召さないのかしら……)

 エレオノーラは冷や汗をかいた。


 ところが次の瞬間、フィリップ王子は箸を手に取ると、すごい勢いで食べ始めたのだ。

「あ、あの……」

 エレオノーラが声をかけようとした時には、王子は既に一杯目を平らげ、おかわりを求めていた。

「お口に合いましたでしょうか?」

 恐る恐る尋ねるエレオノーラに、フィリップ王子は短く笑顔で答えた。

「はい、とても美味しいです」

 その時の笑顔は、今までの儀礼的なものとは明らかに違っていた。

「この料理は、誰が考えたのですか?」

 今までの視察では特に何も興味を示さなかったフィリップ王子が、珍しくエレオノーラに質問した。

「はい、私が考えて、料理人に作らせたものです。領地の海産物を活かした特別なレシピです」

 エレオノーラが答えると、フィリップ王子は一瞬目を見開いた。

「そうですか」

 彼は短く返したが、それ以上は何も言わなかった。ただ、料理を一口食べるたびに目がわずかに細められる様子を、エレオノーラは見逃さなかった。

(もしかして、本当に気に入ってくださったのかしら?)


 2日目の視察は、エレオノーラが最も力を入れてきた保育施設の案内だった。

「こちらが私たちの誇る保育施設です!」

 エレオノーラは自信を持って、乳児施設、幼児施設、そして10歳までの児童施設へと王子を案内した。

 施設内では、子どもたちがビジョントレーニングのプリントや積み木遊びに熱中している。保育士たちが明るい声で子どもたちを励ます光景が広がっていた。


「見て見て、こんなに高く積めたよ!」

「僕の迷路、最後まで行けたー!」

 子どもたちの無邪気な声が施設に響く。

「ここでは子どもたちに遊びを通じて発達を促す仕組みを整えています」

 エレオノーラが熱心に説明する間、フィリップ王子は何度か口を開きかけた。しかし毎回、言葉を飲み込むようにして視線をそらしてしまう。

(何かおっしゃりたいことがあるのかしら?)

 エレオノーラは気になったが、不敬になるかもしれないと考えて、あえて声はかけなかった。


 昼食を終えた後、視察の締めくくりとして子どもたちとの交流が行われることになった。

「もしよければ、ぜひ一緒に子どもたちと遊んでいただければ」

 エレオノーラが提案すると、フィリップ王子は少し躊躇したようだった。

「私が……子どもたちと?」

「はい。きっと子どもたちも喜びます」

 フィリップ王子は少し考えてから、静かに頷いた。


 子どもたちは興味津々で王子に駆け寄ってきた。

「わー、王子様だ!」

「本物の王子様って初めて見た!」

「一緒に遊ぼう!」

 無邪気な子どもたちに囲まれて、フィリップ王子は最初こそ戸惑っていたが、簡単なボードゲームを一緒に楽しみ始めた。

「王子様、こっちに駒を置いてみて!」

「すごい!王子様上手だね!」

 あまり表情を変えなかった王子が、子どもたちの無邪気な笑顔に触れて満面の笑みを浮かべた瞬間、エレオノーラの胸は温かくなった。

(こんなに素敵な笑顔をされるのね)


 2日目の日中の視察が終わり、夕食の準備に入る前のことだった。

 フィリップ王子がエレオノーラの前に歩み寄ってきた。

「エレオノーラ嬢」

「はい」

 エレオノーラは緊張して背筋を伸ばした。

「夕食後に少し時間をいただけますか」

 それ以上の説明はなく、エレオノーラは一瞬戸惑った。

(夕食後に?一体何のお話だろう)

 しかし、彼女は冷静に答えた。

「もちろんです」

 フィリップ王子は軽く頷くと、踵を返して去っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、エレオノーラは胸の高鳴りを感じていた。

(何の話かわからないけれど、少なくとも私を口説くとか、そういうことではないよね。だって、いくら痩せたって言っても、私が残念令嬢だっていう話は有名なんだし。)

 そう考えて、深呼吸をして落ち着こうとしたが、なかなか胸の鼓動は収まらない。

(もう!あんなイケメンに近くで話されたら緊張するじゃない!)


 夕暮れの光が城の廊下を染める中、エレオノーラは今夜の会話に向けて、静かに心の準備を始めた。


前世も今世も、エレオノーラの身近にはイケメンらしいイケメンはいなかったのです。せいぜい兄レイモンドがかっこいいくらいですが、正統派イケメンとはちょっと違うので。イケメン耐性の低いエレオノーラ。


次回は、フィリップが主人公の話です。

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