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30.変わりゆく街と広がる効果

 第二回の講習が終わってから、もう一か月が経った。

 エレオノーラは、この日は保育施設の設置場所を決めるため、街の視察に出ていた。馬車の窓から街並みを眺めながら、彼女の心にひとつの思いが浮かんだ。

「せっかく街を訪れるのなら、講習を受けた領民たちの暮らしがどう変わったのか、この目で確かめたい」

 そう考えると、居ても立ってもいられなくなった。街のはずれで馬車を止めるよう、御者に指示を出す。

「お嬢様、歩いて行くのですね」

 侍女のマリーが嬉しそうに笑った。エレオノーラの行動力を知っているマリーは、きっとそうするだろうと予想していたのだろう。

「えぇ!やっぱり、近くで見てみないとね!」

 エレオノーラは明るく笑い、護衛騎士を伴って商店街へと足を踏み入れた。


 講習は間違いなく成功だった。二回目は特に、領民が生活の中で無理なく続けられる方法を多く伝えた。

「このくらい簡単な方法だったら続けられそうです」

「毎日少しずつでも効果が出そうですね」

 明るい表情で口々にそう言いながら帰っていった領民たち。あの時の彼らの希望に満ちた顔を思い出しながら、エレオノーラは期待に胸を膨らませていた。


 商店街を歩いて様子を見てみると、客足が途切れた瞬間、あちこちで人々が奇妙な動きをしている。店番をしながら、片手を突き出して指を目で追う人。商品の整理をしつつ、遠くと手元を交互に見つめる人。店先で首をゆっくりと回す人。品出しの動作が妙にゆっくりとしていて、筋膜の動きを確かめながら体を動かしているのがよくわかる人。


 街全体が、まるでゆったりとした体操をしているかのようだった。


 エレオノーラは思わず眉をしかめた。自分が提案したこととはいえ、こうして街全体で繰り広げられる光景は、少しばかり不気味でもあった。

「マリー、これって、何も知らないで見たら、まるでゾンビみたいじゃない……?」

「そ、そうですね。ちょっと怖いですよね……」

 マリーの顔も引きつっている。


「エレオノーラさま!」

 声をかけられ振り向くと、エレオノーラやマリーの困惑のことなんて全然気づいていない様子で、さっきまでゾンビのようにゆっくりとストレッチをしていた魚屋の主人が笑顔で手を振っている。そして、エプロンを着けたまま店先から勢いよく駆け寄ってきた。

「立ち仕事で足がパンパンになっていたんですが、教わった通り寝る前に足首をゆっくり回すようにしたら、もう、全然違うんです!足が軽くて助かってます!」

 魚屋の主人は嬉しそうに話しながら、その場で素早く足踏みしてみせた。

「それは良かったわ!」


 エレオノーラはぱっと笑顔を広げる。自分の提案が役に立っていることがわかって、心から嬉しかった。

(役に立っていなかったら、私のやったことは、ただゾンビの街を作り上げただけになってしまうもの)


 続いて八百屋の店先では、買い物をしていた若い女性が照れくさそうに近寄ってきた。そして、頬を赤らめながら話しかける。

「あの、エレオノーラさま。おかげで肌がきれいになったんです。顔の吹き出物も全然目立たなくなって!こんなに変わるなんて思いませんでした!」

「まぁ、それは嬉しい報告ね!これからも頑張ってね!」

「はい!エレオノーラ様も!」

 彼女は、エレオノーラの顔をのぞきこむように見上げて言った。

「……エレオノーラ様、少しお痩せになられましたよね?お顔のラインがすっきりしました」


 エレオノーラも、忙しいながらも毎日のトレーニングを欠かしていない。1か月で、更に10㎏ぐらい減ったのではないかと自分でも感じていた。服もまたワンサイズ小さくなり、フランソワとおそろいで作った青のドレスがちょうどよくなっていた。


 視察する場所まで歩きながら更に観察すると、どうやら領民同士が声を掛け合い、励まし合いながら続けているらしい。パン屋の前では、常連客同士が「今日も首回し、やりましたか?」と声をかけ合っている姿も見えた。小さな努力が街全体に広がり、新しい習慣として根付きつつあるのを感じた。

 エレオノーラの胸は、温かい満足感で満たされていた。


 食事の途中、向かいに座るレイモンドがふと口を開く。低い声が食堂に響いた。

「エレオノーラのおかげで、騎士団が見違えるようになった」

 レイモンドが、普段よりも穏やかな表情でそう切り出した。

「騎士団が?」

 エレオノーラは目を丸くした。エレオノーラは、騎士団と直接かかわったことは無かった。


 ダイバーレス王国は王家の魔法結界で守られており、他国からの攻撃はほぼない。だがヴェルデン領は港を持つ貿易の要地だ。賊の出現や不測の事態に備え、独自に騎士団を擁している。レイモンドはその騎士団長を務めていた。

 レイモンドは筋肉質な腕を組みながら続けた。


「先月、お前が教えてくれた体のケアやビジョントレーニングを訓練に取り入れたんだ」

 エレオノーラにとっては初耳だった。驚いているエレオノーラに、レイモンドはちょっと恥ずかしそうに言った。

「お前には言っていなかったけれど、お前が1回目に領民に説明した内容を自分でもやってみたら、手ごたえを感じた。領民は普段の生活があるから難しいかもしれないけれど、騎士団のトレーニングとしてならできると判断した」

 レイモンドはうなずいて、エレオノーラを見つめた。エレオノーラは、黙って取り入れるなんて不器用なお兄さまらしい行動だと思って、微笑んで話を聞いた。


「今日ちょっと時間があって訓練に久々に参加したら、驚いた。若いのに動きが鈍かった者も、熟練の者も、皆この一か月で体のキレが格段によくなっていた」

 レイモンドは思い出すように目を細めた。

「前は俺に一方的に叩きのめされていたやつが、今日はこっちの太刀筋を見切って受け流すことができるようになっていてな。正直、びっくりした」

「本当に?」

 エレオノーラは笑顔を弾けさせた。騎士団が自分のトレーニングの効果で強くなっているなんて思いもしなかった。

「もしできたら、それぞれのトレーニングの負荷を強めたら、更に動きが良くなると思うの。試すように伝えてね」

「助かる」

 レイモンドは力強く頷いた。そして少し間を置いてから、普段は見せない優しい表情を浮かべた。

「......ありがとう、エレン」

 不意の感謝に、エレオノーラは少し照れながらも、明るく笑って頷いた。

 その笑顔は、街を歩いたときに感じた喜びと同じ輝きを放っていた。自分の知識と努力が、多くの人の役に立っている。そんな充実感が、彼女の心を温かく包み込んでいた。


エレオノーラはゾンビと形容しましたが、私はいつも太極拳のようだと思っています。ゆっくり動くのは速く動くよりも難しいですね。


次回は、一人の領民から見た領地改革後のヴェルデン領の話です。どんな風に変わったのでしょう。

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