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29.判断は正しかった

ハーマン視点の話です。

「――そうか、エレオノーラはヴェルデン領に引っ込んだのだな」

 朝の執務中、部下のエルンストから報告を受けた。俺は羽根ペンをくるりと指の間で回しながら、満足げに椅子の背もたれに体を預けると、ギシっと音が鳴った。

(ちょっと体重をかけただけで悲鳴を上げるとは、この椅子は生意気だ。そんなに重いはずがないだろう。)

 そう思っていると、エルンストは深々と頭を下げて答えた。

「はい、殿下。エレオノーラ様は婚約破棄後、1か月の謹慎を経てヴェルデン領へ戻られたとのことです」

「次の縁談の話はどうなっている?」

「一切ございません。ヴェルデン公爵家からも、他家からも、そのような話は出ていないようです」


 エルンストの真面目な表情を見ながら、俺は満足して微笑んだ。婚約破棄後のあの女の行方が少し気になっていたが、結局は公爵家に戻されただけだった。しかも次の婚約者も見つからず、ただ領地に引きこもることになったとは。


「ふん……。縁談について他家に打診すらしていないということは、見限ったか」

 エルンストは曖昧に微笑んでこちらを見ている。否定しないということは、そういうことだ。

「そもそも公爵家ではあまり娘のことを大事にしていたようには見えなかったからな」

「殿下、それについても僭越ながら少し調べさせていただきました」

 エルンストが資料を取り出しながら続けた。

「ヴェルデン公爵夫人は、確かにエレオノーラ様をある程度かわいがっていたようですが、やはり長男のレイモンドを溺愛していたと聞いております」

「やはりそうか。まあ、当然だろうな」

 鼻で笑いながら、デスクに肘をついた。あの癇癪持ちで愚鈍な女なら無理はない。親であっても見限るだろう。

 そもそも、俺はエレオノーラが嫌いだった。


「エルンスト、お前はエレオノーラをどう思っていた?」

「殿下、私の立場では婚約者様について個人的な感想を述べるのは適切ではないと考えますが……」

「率直に言え。もう婚約者では無いのだから構わない」

 エルンストは少し困ったような表情を見せたが、やがて慎重に口を開いた。

「エレオノーラ様は……確かに、殿下の御方針に対して疑問を示されることがございました」

「そうだ。そこが気に入らなかった」

 愚鈍なくせに、俺が他の者に対して高圧的な態度を取ると、眉をひそめるところが特に腹立たしかった。

「殿下、しかしながらエレオノーラ様は一度も泣き言を仰ったことはございませんでした。芯の強い方だったと愚考いたします。教師からの評判はあまりよくありませんでしたが、心優しく、城で働く者たちからの評判は良かったと記憶しております」

 俺は舌打ちをした。

「だが、それもまた腹立たしかった」

 どれほどひどい扱いを受けても、泣き言を言わずに癇癪を起こすだけの気の強さが、ますます俺の苛立ちを増幅させた。下で働くものに対して優しすぎるのも気に入らない。彼らはちゃんと働くのが当たり前なのに、彼らのミスをかばうなど王太子妃としてあるまじき姿だ。


 そういえば、婚約破棄の場面でさえエレオノーラは涙を見せなかった。俺の前から毅然と立ち去る姿を思い出すと、今でも嫌な気持ちになる。普通ならあの場で取り乱すものだろうに。俺に泣いてすがりでもすれば、まだ可愛げもあったものを。


「それにしても、婚約破棄の手続きが無事に済んでよかった」

「おっしゃる通りです。意外にも、賠償金のみで済んでよかったですね」

 ヴェルデン公爵家は新興ながらも商業の力を持つ家だ。婚約破棄に対する抗議や圧力があるかと予想していたが、穏便に事を収めようとしたのは意外だった。

「陛下からのお咎めも無く済むとは、驚きました。王家と公爵家との約束を殿下が勝手に破棄したことについても特に何も無いとは」

 エルンストが不思議そうに首をかしげながら述べた。


「いや、さすがに勝手に婚約を破棄したことについては苦言があった。王家の約束の価値を下げると言われたが、それでも苦言程度で済んだのは、周りの皆が納得する理由だったからだろう。あんな女が王妃になるなんて、国の損失だ」

 エルンストは納得した顔でうなずき、眼鏡を軽く押し上げた。

「この婚約は元々ヴェルデン公爵が強く推進されたと聞いています。公爵家に箔をつけたいという理由だったようですね。王家としては輸出入をつかさどる公爵家を味方につけて力を増す目的もあったようですが、それにしてもあのご令嬢に王妃は無理だと考えたのでしょうね」

 やはり、婚約破棄した俺の判断は正しかったのだ。

 俺は満足そうに頷き、頬杖をついた。

 思えば、最初から無理があったのだ。エレオノーラとは価値観が合わなかったし、一緒にいても退屈だった。


「あんな女とは比べるまでもないが、カミーユを選んで良かった」

「カミーユ様でございますか?」

 エルンストの表情が少し硬くなり、襟元を直した。


「エレオノーラとは違い、自分で選び、見つけた女性だ。俺のことを理解してくれていると感じている」

「なるほど」

 エルンストは短く答え、手元の書類を整理する動作で視線を逸らした。

「エレオノーラのように、いちいち俺の言動に文句をつけることもないし、一緒にいるだけで心が安らぐ」

 エルンストは無表情で頷いた。

「カミーユは、本当にいい女だ。どう思う?」

「殿下がお選びになられた方ですから」

 エルンストの答えは当たり障りのないものだったが、俺は気にしなかった。

「家柄も貧しいとはいえ侯爵家だ。王太子妃としての条件も悪くない。何より、彼女と過ごす時間は楽しい」


 そこまでいぶかしげな表情で話を聞いていたエルンストが、眼鏡を軽く上げながら質問した。

「ちなみに、王太子妃教育の方はいかがですか?」

「順調だ。エレオノーラのように講義中で寝たり、すぐに疲れたり、うまくできないからといって癇癪を起したりするわけではないし、なんせ飲み込みが早いから教師たちも褒めているぞ」

 エルンストは、なるほど、と感心した様子でうなずく。

 カミーユのことを思うと、俺の心は自然と温かくなった。俺は椅子にゆったりと座り直した。


 まぁ、今後エレオノーラがどうなろうと、もはや俺には関係のないことだ。

 彼女がヴェルデン領でどんな日々を送るのか、知る必要もないし、考えたくもない。


椅子は別に生意気ではないです。普通の椅子です。ハーマンの重さに耐えらえないだけです。


次は、講習会後1か月経ったヴェルデン領の話です。

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