28.マルテッロ公爵
ダイバーレス王国では、各公爵家がそれぞれ異なる分野を担当している。
豊かな土地を持つアッシュクロフト家は農業を、海に面し貿易が盛んなヴェルデン家は商業を、そして王都に隣接するマルテッロ家は工業を担当していた。この役割分担は王国全体の発展を支える重要な基盤である。大規模な取り組みを行う際には、必ず該当する公爵家の協力を得るのが習わしとなっていた。
エレオノーラは、兄レイモンドが手紙で約束を取りつけてくれたマルテッロ公爵のもとへ、健康のための靴の相談に向かっていた。ダイバーレス王国の半島の北西にあるヴェルデン領から王都を抜けて南側までの4日にもわたる旅。王都からヴェルデン領に向かう時よりも更に厳しい道のりだったけれど、エレオノーラは耐えることができた。
移動中の馬車の中で、エレオノーラの頭から離れなかったのは先日の領民講習会をやり直す件だった。馬車がガタゴトと揺れるたびに、彼女の思考もまた揺れ動いていた。
講習会のやり直しが決まってから、エレオノーラは改善案を練るために様々なことを観察するようになっていた。その日も何気なく馬車の窓の外を見ていると、ある光景が目に飛び込んできた。
小高い丘の斜面で、一人の羊飼いが羊の群れに目を配りながら、手にしたパンをゆっくりと食べている。
「羊の世話をしながら、手元のパンをちぎって食べている……?」
エレオノーラは、その一見すると何でもない日常の光景から新たな気づきを得た。一つのことに集中しながらも、もう一つのことを同時にこなす。この無意識に行われている行動こそが、領民が日々の生活の中で無理なく実践できるトレーニングにつながるのではないか。
そう考えると、仕事の最中にできそうなトレーニングはいくらでもあった。体の動かし方、目の動かし方、隙間時間でもできそうなトレーニングを次々と思いついた。
「これだわ!」
残りの道中では馬車の中で考えをまとめ、夜に宿泊施設で紙に書き留めて過ごした。
王都では、あえてヴェルデン邸宅には寄らずに宿泊施設に泊まった。まだ何も成し遂げていないエレオノーラには、邸宅で父と母に会って気持ちよく過ごせるとは思えなかった。また、ヒューゴやフランソワの顔を見たら気持ちが弱ってしまいそうで、それが怖かったのだ。
次の日、マルテッロ公爵領に入ると、煙突が立ち並ぶ町並みが見え、金属の匂いが漂ってきた。城下の市街は職人と、職人の作った品物を扱う商人の街だった。
やがて馬車はマルテッロ公爵家の重厚な門前に止まった。レンガ造りの城はどっしりと構えながらも、庭先に整えられた花壇や磨き込まれた石畳が訪問客を柔らかく迎えてくれる。
その日、公爵邸の応接間には公爵本人と、靴職人ギルドの長、そして名のある靴職人たち数名が集まっていた。皆が静かに扉を見つめる中、エレオノーラ・ヴェルデンは以前よりは痩せたとはいえ、依然として大きい体を押し込めるようにのそのそと部屋に入った。
「お待たせいたしました。お時間を取っていただき、ありがとうございます」
「ようこそ、エレオノーラ殿。さっそくだが、エレオノーラ殿が新しい靴の作り方を提案したいと言いだしたとか?」
威厳ある低い声で問いかけたのは、マルテッロ公爵その人だった。五十代半ば、彫刻のような顔立ちに白い髭。そして、自身も物造りが趣味だという無骨な指。
「はい。ぜひ、マルテッロ公爵の協力をお願いしたくて」
エレオノーラは椅子に身を沈めると、詳しい説明を始めた。
「まず最初にお伝えしたいのは、足に合った靴を作るためには、正しい測定が必要だということです」
エレオノーラは、持参した図面と、領地の職人に頼んで作っておいてもらった測定器具を机に広げながら続けた。
「長さだけでなく、足の幅、甲の高さ、踵の幅、指の長さ。そうした細かな寸法を測ることで、より快適で健康的な靴が作れるはずです」
ギルド長が眼鏡を押し上げ、興味深そうに図面を覗き込んだ。
「ヴェルデン公爵令嬢、それはつまり、靴の作りを全面的に見直すということですかな?」
「いえ、革の扱いや仕立ての技術については、職人の皆さまの感覚にこそ価値があります。ただ、測定の段階をもう一歩進めることで、その技術をより活かせると思うのです」
「これらは……何に使うんですかな?」
ギルド長が不思議そうに問いかけると、エレオノーラは一つ一つ手に取りながら説明を始めた。
「まずこちらは、足の長さを正確に測るための道具です。足の踵をこの端に当てて、つま先がどこまで届くかをこのスライドで測ります。左右で長さが違うこともあるので、それぞれ測る必要があります」
職人たちは、「ふむふむ」と頷きながら道具を覗き込んだ。
「そしてこちらは、足の横幅を測るための器具です。足を挟んで、どれくらいの広がりがあるかを確認します。甲の高さもこの部分で測定できます。人によって、同じ長さでも、甲が高い人や低い人がいますから」
「なるほど、幅と甲の高さまで……そこまでは考えたことがなかったな」
「それからこちらの巻き尺を使って、土踏まずの周囲や踵、指の付け根あたりの周径を測ります。これによって、足がどこで幅広になっているか、どこが細いかといった違いも見えてきます」
ギルド長が感心したように唸った。
前世で、なかなか自分の足に合う靴を見つけられなくて困っていた真央に操体法の仲間のひとりが教えてくれたオーダーメイドの靴屋。その店を訪れたときのことは、今でもはっきり覚えている。真央は、足の測定の工程が面白くて仕方なく、使われていた道具のひとつひとつに興味津々で質問を繰り返した。店員が困りながらも丁寧に答えてくれたおかげで、彼女の頭には、その仕組みがしっかりと刻み込まれていた。
――まさかこんな形で、その知識が役立つとは。
彼女はそんなことは微塵も表に出さず、落ち着いた声で続けた。
「こうして測ったデータをもとに木型を調整すれば、足により合った靴が作れるようになるはずです。特に、甲の高さと踵の幅を正しく捉えることが、歩きやすさを左右します。実際、踵が浮いてしまったり、つま先に体重がかかりすぎて痛くなったりするのは、そういった部分が合っていないからです」
「確かに……今までは、足の長さと全体の雰囲気で木型を作っていたからな。甲の高さや踵の形までは見ていなかった」
ギルド長が真剣な表情で頷き、他の職人たちも道具を手に取りながら、試すように自分の足に当てていた。
エレオノーラには、ここまでの説明はうまくいった自信があった。しかし、腕を組んだまま難しい顔をしているマルテッロ公爵の反応が気になった。
ギルド長は一通り道具を試し終わったあとに、エレオノーラに尋ねた。
「思いつきでは考えつかない道具ばかりですね。なぜ、そんなに靴にお詳しいのですか?」
エレオノーラは、にこりと笑って言葉を返した。
「歩いていて痛い靴は、嫌いなんです。それで、昔調べて本で読んだことがありまして」
その答えに、ギルド長や職人は、納得できない様子もありながらも、とりあえず頷いた。
ひとつひとつ丁寧に説明を加える彼女の顔には、汗が滲んでいた。
「革は伸びたり縮んだりする素材ですので、先ほどもお話したとおり、最終的な調整は職人の方々にお願いすることになります。ただ、この測り方を活用すれば、今よりもずっと“足に合った”靴が作れるようになるはずです」
部屋に沈黙が訪れた。職人たちは図面や器具を順に手に取り、真剣な眼差しで確認していた。
「なるほど……これは面白いかもしれん」
低く唸るように言ったのはマルテッロ公爵だった。視線には明らかな関心があり、それを見たエレオノーラはほっとした。
「ギルド長。研究してみる価値はありそうだな?」
「ええ、公爵様。我々もこの方法を試してみたいと思います」
「ありがとうございます」
エレオノーラは丸い体を上手にたたみ、深々と頭を下げた。
「もし、うまくいったら――まずは私が、その靴を買わせていただきたいと思います。そのあと、ヴェルデン領を中心に広めて、ゆくゆくはダイバーレス王国全体に広めていくことができればと……そう、願っております」
言い終えたあと、彼女は一歩下がって姿勢を正した。その姿を見て、公爵はふっと口元をゆるめた。
「面白い娘だな、君は。……丸いが、芯がある」
その言葉に、エレオノーラは驚いたように目を丸くしたが、すぐに頬を緩め、まっすぐ公爵の目を見て言った。
「はい。……今はまだ丸いですが、いずれ、芯の力で立てるようになりたいと思っております」
公爵は満足そうにうなずいた。そして、これからの靴の作成について思いを巡らせた。
次回は、その頃のハーマン王子の話。




