26.領民の戸惑い
育児に関わる領民への講習会当日。
ヴェルデン城の大広間には、たくさんの人々が集まっていた。そして、その多くが、赤ちゃんを抱いている。
人々の会話する声の中に赤ちゃんの怒ったような大きな泣き声がたくさん聞こえる。その騒がしい中を、エレオノーラはのっそのっそと歩いて前に出た。
エレオノーラは、一人ひとりの顔を慈しむような柔らかな眼差しで見て、ゆっくりと口を開いた。
「今日は、大切なお話をします」
人々が、エレオノーラに注目する。
「これまで信じられてきたティモテウス・アウグスティヌスの提唱した育児方法は、本当は間違っていたのです」
話し声が無くなった。静まった会場に、赤ちゃんの泣き声だけが響き渡る。
「え……間違い……?」
「でも、あれは昔から正しいと……」
「ずっと信じて、その通りに育ててきたのに?」
動揺の声があちこちから上がった。
エレオノーラは、参加者一人ひとりの顔を見渡す。
「生まれた時から縦抱きにすべき、仰向けで背中をまっすぐに寝かせれば窒息を防げる、歩く前に訓練をすれば運動能力が高まる……どれも、赤ちゃんがつらくなるような子育て方法です。だから皆さんの育児も、必要以上に大変になっていたのです」
信じられない、という表情の奥には、長年信じてきた方法が否定されたことへの怒りや、自分の育児は間違っていたのかという悲しみも混ざり合っていた。
「では、どうすれば……?」
年配の女性が不安そうに問いかけた。
エレオノーラはにっこりと笑って答える。
「では、正しい方法をお伝えしますね」
そう言いながら、赤ちゃんの人形を太い腕で抱き上げた。
「まずは抱っこです。首がすわっていない赤ちゃんは、両腕で丸を作って、その中に赤ちゃんの背中とお尻を入れます」
説明を聞いた若い母親が、泣き叫んでいた自分の子を縦抱っこから抱き直してみる。泣いていた赤ちゃんが、少し声を弱めた。
「あら」
母親の顔に驚きが浮かぶ。
「うまく眠れない赤ちゃんには、この抱っこをしたままスクワットをしてみてください」
「スクワット……?」
半信半疑で動いてみる母親。数回繰り返すと赤ちゃんが泣き止み、さらに続けると瞼がとろんと下がった。周囲から驚きの声があがる。
「眠った……?」
「こんな、簡単に??」
「眠ってしまった赤ちゃんを寝かせるときは、平らで固い布団に仰向けに寝せるのではなく、毛布やタオルなどで丸い寝床を作ってから、そっと寝かせてくださいね。赤ちゃんの背中はCカーブになっているので、平らなところだと痛くてすぐに目覚めちゃうのです。寝返りできる子の場合は、寝ている間に邪魔なものをそっとどけてあげるといいですよ」
エレオノーラが寝かせ方を説明すると、人々はまるで食い入るように聞き入った。
「次に、首がすわっているかどうかを調べるためには、仰向けに寝かせて、両腕を持って上体を起こします。最初は頭がだらんとしていて、途中から自然に頭を上げることができる子は首がすわっています。でも、肩に力を入れて最初から頭も一緒に起きてくる場合は、首がすわっているように見えるだけです」
参加者が試すと、多くの赤ちゃんが肩に力を入れて起き上がった。
「もう3か月だから、もうそろそろ首はすわってるはずだと思っていたのに」
「え?うちの子、もう6か月なのよ?」
あちこちで困ったような驚きの声が上がる。
エレオノーラはうなずき、次々と体操を教える。
「肩が固まってしまった赤ちゃんには腕回し、股関節が固い子には足を持って膝を交互に曲げる運動。どの赤ちゃんにも有効なのは足首回し。回りやすい方向に十回、逆に五回です」
会場のあちこちに置いてある柔らかめのマットの上で、エレオノーラの細かい指導のもと皆が真剣な顔で実践するうちに、会場の空気が変わっていく。
怒ったような、文句を言うような泣き声が減っていき、かわりに小さな寝息や、母親たちの安堵の吐息が聞こえ始めた。そして穏やかな空気が大広間全体を包み込んでいく。
「……さっきまであんなに怒っていたのに……」
「こんなに落ち着くなんて……」
領民から、戸惑いの声が上がる。
エレオノーラは、にっこりと笑いながら伝える。
「今まで理由が思い当たらかった怒り泣きは、体がつらいという訴えだったのだと思います。体が楽になれば、泣くのは本当に必要なときだけ――お腹がすいた、おむつを替えてほしい、暑い寒い、そんなときだけです」
そこで領民を見まわし、少し間を置いてから優しく続ける。
「もちろん、もう少し大きくなってくると泣く理由も増えます。でも、どうして泣いているのか、大人が考えてあげてください。赤ちゃんはみんな、何かしらの理由があって訴えて泣いているのです」
参加者たちの目には、これからの育児生活に向けて安堵と決意が入り混じっていた。
「今日は本当にありがとうございました」
「家に帰って、早速試してみます」
そんな声が会場のあちこちから聞こえる。会場には、穏やかな赤ちゃんたちの寝息が響いていた。
次回は、領民への講習会です。




