11.ヒューゴと、ビジョントレーニング
ヒューゴ・グラントンは、昨日のトレーニングを終えた後、屋敷で山積みの書類と格闘した。体を動かすことも無く机に向かいっきりの一日を終えると、肩がカチコチに固まっているのを感じた。
「今日も疲れたな……」
固まった肩をさすりながら、ヒューゴは大きくため息をついた。
「なんか目も頭も痛いな。どうにかならないのか?」
そんな時、ふと思い出したのは、エレオノーラが教えてくれた腕をぐるぐる回す体操だった。もしかしたら、と思って試しに回してみると、さっきより肩が軽くなった。さらに、足首回しと首回しをしてみる。頭痛が、気にならない程度まで和らいだ。
「……これ、いいんじゃないか?」
次の日の朝、寝ている間に再び凝ってしまった肩を感じて、起きてからもう一度腕をぐるぐる回した。少し軽くなった肩に、改めてヒューゴはエレオノーラの体操の知識に感謝した。
エレオノーラが王太子妃教育で登城している間に読んだ本で得たという知識。物覚えの悪いエレオノーラが覚えているなんて、よっぽどやってみたかったのだろう。
(なのに、こんな簡単な体操すらやる心の余裕が無かったんだろうな。大変そうだったからな。)
ヒューゴは当時のエレオノーラを思い出して、心を痛めると同時に、婚約破棄になってからのエレオノーラの明るさを好ましく思った。
(婚約破棄されて良かったな、エレン)
いつものヴェルデン家の舞踏室に入ったヒューゴは、エレオノーラに話しかけた。
「エレン、昨日のぐるぐる体操、めちゃくちゃ役に立ったぞ!ありがとうな!」
声をかけられたエレオノーラは、目を瞬かせて振り返った。
「え?よくわかんないけど、役に立ってよかった!何か肩が凝るようなことでもしたの?」
「おう!昨日も書類が山みたいにあってな」
ヒューゴは苦笑いを浮かべながら続けた。
「片付けているうちに、首から肩までが石みたいにガチガチになってな。思いついて腕をぐるぐるやってから足首まわしや首回しもしたら楽になって、目や頭の痛みも少しやわらいだんだ」
それを聞いたエレオノーラは、ふむふむと考え込んだ。書類仕事で肩が凝るということは……?
「もしかしたらヒューゴって、ビジョンに課題があるのかもしれないね」
「ビジョン?」
「ビジョンに課題があるって、目が悪いということですの?」
ヒューゴとエレオノーラが話している間にやってきたフランソワも、首をかしげながら質問した。
「ううん、視力とはちょっと違うの」
エレオノーラは説明し始めた。
「『ビジョントレーニング』っていってね、目の動かし方や使い方を整えるトレーニングなんだって。目の使い方が偏ってたりすると、無意識に体のバランスも崩れて、肩こりや姿勢の悪さにつながったりするらしいのよ」
「へぇ……目と体って、関係あるのか」
ヒューゴは目を丸くした後、エレオノーラにたずねた。
「エレンはそのトレーニング方法も知っているのか?」
「もちろんよ!」
エレオノーラは嬉しそうに手を叩いた。
「でしたら、それも私たちに教えていただきたいのですわ!」
フランソワが期待に満ちた瞳でエレオノーラを見て言った。
「うん!まず、指を使った簡単なものからやってみようよ!」
ビジョントレーニングについては、前世で操体法の仲間から教えてもらった。真央はその効果の高さに驚き、すっかりハマってしまった。
ビジョントレーニングは、アメリカでは子どもたちが小学校に入る前に目の機能を調べる専門的な検査を受けることが推奨されているくらいポピュラーなものらしい。アメリカだけでなく、色々な国に眼科医の他に検眼学を学んだ国家資格を持つオプトメトリストという専門家がいると教えてもらった。
日本ではまだ広くは知られていなかったが、プロ野球選手を始め、各種スポーツ選手がビジョントレーニングで更に強くなっているということは、ビジョントレーニング界隈では有名な話だった。真央はテレビで野球を見ている時に、バッターボックスで遠近のビジョントレーニングをする選手の姿を見たこともある。その選手は、その打席でホームランを打った。
「ヒューゴ、私の人差し指の爪をよ〜く見ていてね」
エレオノーラは指を立てながら説明した。
「あ、顔を動かしちゃダメなの。目だけで追ってね」
エレオノーラは、ヒューゴの顔の前に人差し指を立て、ゆっくりと上下左右、斜め、そして円を描くように動かした。ヒューゴの目は一生懸命指を追うものの、動くたびに黒目が微かに震えている。
「……ヒューゴ、黒目が揺れてるね」
エレオノーラは優しく指摘した。
「もしかして、書類を読んでいるとき、文字が紙の上で踊っているように見えて、読みにくいんじゃない?」
「えっ、マジで!?文字って、踊るもんじゃないのか!?」
ヒューゴは驚いたように目をパチパチさせた。
「父さんはどうして書類をあんなに速く読むことができるんだろうって、ずっと疑問だったんだ。俺はよく見間違うしミスも多くて」
エレオノーラは、それを聞きながら、前世のことを思い出して言った。
「もしかしたら、目の使い方が上手になれば、見間違いも減るんじゃないかしら」
前世の児童デイサービスでは、ヒューゴと同じように目が揺れる子がたくさんいた。彼らの中には、「高橋さん、指を震えさせるのやめてよ!うまく見られないよ!」と訴える子もいた。もちろん、指は震えていない。黒目が揺れることで、そう見えるだけなのだ。
そういう子は大抵、本を読むのが苦手で、漢字もなかなか覚えられなかった。文字を見るのに余計なエネルギーを使うため、読書の後はぐったりしてしまう。でも、ビジョントレーニングを続けると、目が上手に使えるようになり、本を読めるようになったり、漢字を覚えられるようになったりした。成績が上がって喜ぶ子どもたちの顔が思い出される。
次は2本の指を交互に素早く見る練習だ。
「上、下、上、下」
「右、左、右、左」
エレオノーラの掛け声に合わせて目だけで見る。斜めも前後もやってみたが、ヒューゴは特に問題なくできた。焦点を合わせることはできるらしい。だから、見間違いで時間がかかっても、なんとか書類仕事をすることができていたのだろうとエレオノーラは思った。
「次はフランソワの番ね!」
エレオノーラは同じように人差し指を立てて動かしてみる。だが、フランソワの目の前を通過するときに指を見失ってしまったらしく、ついフランソワはエレオノーラの顔を見つめてしまう。
「フランソワ、爪を見てね!」
エレオノーラが茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「そんなに私のことが好き?」
フランソワは頬をぽっと赤らめた。
「確かにエレンのことは大好きですけれど、エレンの顔を見つめたいわけではないのですわ」
眉をぽよぽよと寄せて困ったように訴えた。
「どうしても指を目で追うことができないのですわ〜」
「そっか」
エレオノーラは頷いて、フランソワにたずねた。
「目の前のものを見るのが苦手そうだけど、どう?」
「確かに目の前で細かいものを見ているとすぐに目が疲れてしまうのですわ」
フランソワは悲しげにうつむいた。
「お母さまと一緒に刺繍を練習しているときも、針を思ったところに刺すのが大変で、困っているのですわ」
「フランソワの困りごとも、トレーニングを毎日続ければ良くなるかもしれないね!」
デイサービスでは目の前をうまく見られない子も多かった。彼らの多くは人の話を聞くのが苦手で、いつもぼんやりとしていた。でも、ビジョントレーニングを続けるうちに、目の前をうまく見られるようになったり、人の話に集中できるようになったりする子が多かった。
フランソワも、ぼんやりして話を聞いていないことがたまにある。その様子が、あの子どもたちの姿に重なった。
次に2本の指を交互に見る練習をした。フランソワはそれぞれの指を見るのに時間がかかった。焦点をぱっと合わせられないので、書類仕事は苦手だろうな……とエレオノーラは思った。文字を認識するまでに時間がかかると、文章がなかなか頭に入ってこないはずだ。
「次は、エレンの番ですわ!」
フランソワが楽しそうに提案した。
エレオノーラは「お願いね!」と明るく頷き、フランソワの爪の動きに目を従わせる。左に指が動いた瞬間、エレオノーラの表情が不自然に強張った。エレオノーラには、フランソワの爪が二重にぶれて見えていた。
「エレンったら、左側を見るときものすごく怖いお顔になっていますわ!」
フランソワが思わずくすくすと笑い出す。
「えっ、本当?」
エレオノーラは驚いて鏡へ向かった。自分の表情を確認すると、確かに左を見るときに目つきが鋭く、眉間にしわが寄っている。顔に変な力が入って、歪んで見えた。
「……こんな顔になってるのね。これはひどいわ」
エレオノーラは苦笑いを浮かべた。
「私も、全然ちゃんと目が使えていないみたい」
2本の指を交互に素早く見る練習も、左方向がうまく見られなかった。
ヒューゴが愉快そうに声を上げる。
「本当にひどいな、エレン。左を見るとき、鬼のような顔になっているぞ!」
「もう、うるさいなぁ」
エレオノーラはヒューゴを軽く睨んだあと、言った。
「これからビジョントレーニングも毎日のメニューに入れてやってみようよ!」
3人の基本的なトレーニング内容の説明はここで終わりです。さて、このトレーニングを続けたら、彼らはどんな風に変化するのか。
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