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109.つながる未来

 エレオノーラは、城に隣接している離宮の庭に置かれたベンチに座り、芝生の上を駆け回る二人の子どもを見つめていた。

 初夏の風が頬を撫でる。庭には花々が咲き乱れ、甘い香りが漂っていた。芝生を踏む小さな足音と、弾むような笑い声が耳に心地よい。


「待てーっ!」

「やだー!来ないでー!」

 栗色の髪を風に揺らしながら女の子が逃げている。黒い瞳をきらきらさせて、後ろを振り返りながら素早い動きで右に左に駆けていく。

 その後ろを甲高い声を上げて追いかけるのは、金色の髪に青い瞳をした男の子だ。体幹がしっかりしているのだろう、妹に振り回されても体がぐらつかない。重心を保ったまま、安定した動きで追いかけている。


 エレオノーラは二人の姿を見守りながら、胸の中に温かなものが広がるのを感じた。こんな穏やかな日常が、今ここにある。

「クラリッサ、前を見て――」

 エレオノーラが声をかけようとした、その瞬間だった。

 クラリッサと呼ばれたその女の子が小さく足を滑らせ、前のめりに倒れる。

 エレオノーラの心臓が跳ね上がった。

 だが――


 ぱっと、女の子の両手が前に出て、顔を守るように地面についた。

 どすん、という鈍い音。芝生に小さな体が沈む。

 エレオノーラは息を呑んだ。でも、次の瞬間。

 女の子はすぐに顔を上げた。


 エレオノーラが声をかけるより早く、男の子が駆け寄っていき、妹のそばに膝をついた。

「ほら、立てる?」

「うん!ありがとう、アルフレッド!」

 男の子は優しく妹の両腕を引いた。しっかりと起こす。妹は兄の手を握り返して、立ち上がる。二人とも、何事もなかったように次の遊びを始めようとしている。


 エレオノーラは、胸の奥でそっと息を吐いた。

(よかった。ちゃんと、両手をついて身を守っていたわ)

 パラシュート反射――とっさの時に手を前に出して顔を守る、あの反射がきちんと出ている。


 心の奥で、どうしても消えない前世の光景が浮かぶ。

 転んだ時にとっさに手が出なかった子ども。顔からアスファルトの地面に倒れ、鼻を骨折した、あの瞬間。血が流れ、泣き叫ぶ声。救急車のサイレン。

 エレオノーラは目を閉じて、首を横に振った。

(大丈夫。今のこの国の子ども達は、先天性の疾患でもない限り、パラシュート反射が出ない子はほとんどいないはず)



 エレオノーラは、この二人を育てるにあたって、今までダイバーレス王国中で伝えてきた育児方法を、ひとつひとつ忠実に守ってきた。赤ちゃんの抱き方、寝かせ方、体操。


 最初は、前世で息子を育てた時よりも、ずっと緊張していた。

 前世で息子が産まれてからの2か月、体のケアを習うまでのその期間は、本当に大変だった。そして、技術を身に着け、理論を学ぶまでに時間がかかり、息子の幼少期には十分な体のケアができたとは言い難かった。

 息子は大きくなっても、生活に支障が無い程度とはいえ、自閉傾向が強めであることで生きづらさを抱えていた。


(育児改革を提唱してきた私の子どもが、最初から正しい方法で育てても、ちゃんと育たたなかったら――)


 それは、自分の言葉や方法そのものの信用を失うことになる。国中に広めた育児法が、実は間違っていたと証明されてしまう。そんな恐怖が、常に心の片隅にあった。


 夜中に何度も起きて、子どもの呼吸を確認した。些細な発達の遅れにも神経を尖らせた。完璧でなければならない、という強迫観念に囚われていた。


 まだアルフレッドが幼かったある夜のこと。夜になってから、フィリップと遊びすぎて興奮してしまったアルフレッドは、布団に寝せてもなかなか眠らなかった。

 エレオノーラは、乳母のマリーに任せず、自分でスリングを使って寝かしつけをしていた。スリングを用意してアルフレッドを抱き、部屋の中をゆっくりと歩き続ける。揺れるリズムが、アルフレッドを眠りに誘うはずだった。

 でも、いつもよりも時間がかかった。

 やっと、アルフレッドが眠り、丸い巣のようにクッションを並べた寝床にそっと寝かせたときには、もう背中と腰が痛くなっていた。しかも、体は疲れているのに頭は冴えてしまって眠れそうに無い。

 

 エレオノーラは寝室の隅で、必死に自分の体をほぐし始めた。普段から整えているとはいえ、幼少期の間違った育て方の弊害は大きい。もともと歪んでいた体は、ちょっと無理をするだけで、すぐにバランスを崩してしまう。肩をゆっくりと回し、ゆるめていくけれど、神経が高ぶっているからか集中できない。顔を歪めながら、それでも黙々と続ける。


 その姿を見て、フィリップが静かに近づいた。

「エレオノーラ」

 優しい声。でも、エレオノーラは手を止めて、顔をしかめてフィリップを見上げた。

「フィリップ、だから夜に遊ぶのはほどほどにしてって言ってるじゃない!大変だったよ」

 つい、文句が出てしまったエレオノーラに対して、フィリップは困った顔で言う。

「ごめんね。でも、アルフレッドにとっては、遊んでもらえなくてそのまま寝るのと、遊んでもらえるのとどっちがいいんだろうね」


 フィリップの言葉が心に刺さる。エレオノーラは、カチンときて言い放った。

「じゃあ、フィリップが寝かしつけをしてよ!!いっつも、マリーに任せてばっかりじゃない!」

 フィリップはため息をついた。

「マリーを頼るのは、さぼっているからじゃない。それぞれが、得意なことやできることを活かして育てるほうがいいんじゃないかな?マリーは僕よりもスリングを使うのが上手だろう?」

 エレオノーラは黙り込んでしまった。


 フィリップは、エレオノーラを抱き寄せて言った。

「アルフレッドを大切に思う気持ちは分かる。でも、君自身の体も大切にしてほしい。全部を母親がやらなくてはいけない理由なんて、無いんだ」

 フィリップはエレオノーラの髪を撫でた。

「君が倒れてしまったら、アルフレッドはもっと困ってしまう。君が全部をやることよりも、君が元気で機嫌よくアルフレッドと関わることの方がいいと思うな」

 そして、彼は腕に力をこめた。

「僕にいつも無理しすぎないように言うのは、エレンだよね。僕も、エレンが無理しすぎるのを見るのは心が痛い。アルフレッドも、エレンも、どっちも僕の大切な家族だ」


 その言葉に、エレオノーラは堪えていたものが一気に溢れた。

 声を上げて泣いた。フィリップの胸に顔を埋めて、子どものように泣いた。ずっと張りつめていた糸が、ぷつんと切れた。

 フィリップは何も言わず、ただ彼女の背中を撫でてくれた。


 それからは、自分らしく子育てができていると思う。

 子育てに正解はない。悩むときもある。うまくいかない日もある。でも、そのたびにフィリップが一緒に考えてくれている。今は乳母となったマリーが支えてくれる。一人じゃない。それが、どれだけ心強いか。


「もう一回やろう!」

「今度は負けないよ!」

 二人が再び追いかけっこを始めた。草を蹴る音、笑い声、初夏の風。


「元気だね」

 背後から、穏やかな声がする。

 エレオノーラは振り返った。

 執務を終えたばかりのフィリップが、上着を腕にかけて立っていた。少し疲れた顔をしているが、子どもたちを見る目は優しい。


「お帰りなさい」

 エレオノーラは微笑んだ。

「ただいま」

 フィリップも微笑み返した。

「今日は早く切り上げられたよ」


 育児改革は軌道に乗り、結婚前のように休む間もない日々ではなくなっている。フィリップは今、家族との時間を大切にできる働き方をしている。エレオノーラが請け負っていた仕事も出産する頃には引継ぎができて、今は週に何回か短時間だけ登城すれば大丈夫だ。

 フィリップがエレオノーラの隣に立った。二人は並んで、走り回る子どもたちを眺めた。庭の花々が風に揺れ、甘い香りが漂う。


「気づいたら、もうこんなに大きくなってたね」

 フィリップがしみじみと言った。

「本当ね」

 エレオノーラは頷いた。

「ついこの前まで、スリングで抱っこしていた気がするのに」

 あの小さかった赤ちゃんが、もう走り回っている。

「時間が経つのは早いな。……子どもが大きくなったのを見ることができて、本当に嬉しいよ」

 フィリップが小さくため息をついた。

「前世で和真が亡くなったのは、まだ子どもが小さいときだったからね」

 エレオノーラは同意した。真央が息子を育てていたときは、ひとりでの子育てだったから毎日必死に生きているうちに、あっという間に大人になってしまった。……たぶん、アルフレッドが小さい頃に、あんなに自分ひとりでの子育てにこだわってしまったのは、そのせいもあるのだろう。


 ふと、エレオノーラはつぶやいた。

「……子どもたちがこんなに育ったっていうことは、私たちの結婚式も、もうずいぶん前のことね」

「春だったね。雪が溶けたばかりで」

 フィリップの目が、懐かしそうに細められた。


 離宮の庭で挙げた、あの日の式。

 ヒューゴとフランソワは、二人揃って自分たちのことのように喜んでくれた。フランソワは泣きながら笑い、ヒューゴも涙を流しながら喜んでくれた。

 リカルドとレイモンドは温かく祝福し、兄レイモンドは「お前は本当によくやった」と肩を叩いてくれた。母クレメンティアは終始はしゃいでいて、周りの人々に「私の娘なのよ!」と自慢していた。

 エレオノーラは内心でため息をついた。

 結局、母は何も変わらなかった。でも、距離を取りつつ、折り合いをつけていくしかないと悟ったあの日。完璧な家族関係なんて、存在しないのだから。

 国民は、育児改革で国を救った二人の結婚を、盛大に祝ってくれた。街は飾りつけられ、祝福の声が響き渡った。


 その輪の中には、少し痩せて、顔つきが引き締まったハーマンの姿もあった。

「おめでとう、エレオノーラ」

 ハーマンの態度には、かつてのような傲慢さは見られない。

「これからも……頼りにしている」

 隣で、カミーユが嬉しそうに頷いていた。彼女の目には、確かな友情の光も宿っていた。


 結局、ハーマンが痩せた今となっても、カミーユの《愛の力》だけでは魔法水晶の必要とする魔力量までは届いていない。けれど、最初の時に比べて明らかに増えている。ハーマンは変わらずカミーユを大事にし、カミーユはまんざらでもないようだ。

 二人のそんな様子に、エレオノーラは心から祝福できる自分がいた。

 憎しみは、もうない。


 フィリップは、今は過労死とは程遠い働き方をしている。

 前世では、休みの日に少し子どもと触れ合うのが精一杯だった。疲れ果てて帰宅し、子どもが寝た後に夕食を食べる。そんな日々。

 今世では違う。

 フィリップは子どもが幼い頃はおむつを替え、泣けば抱き上げ、今は一緒に遊び、必要と思われる教育についてエレオノーラと一緒に悩んでいる。彼は父親として、夫として、共に歩んでくれている。


(これが、本当の父親のあるべき姿よ)

 エレオノーラは苦笑しながら思う。

 前世では、ちょっと手伝っているだけで「イクメン」なんて呼ばれて得意げだった同僚もいたけれど。育児は手伝いではなく、双方が協力して進めるものなのに。


 二人の子どもは、すくすくと育っている。

 笑い、泣き、怒り、喜ぶ。健康に、力強く。


「結婚してから、今まで、本当に信じられないくらい幸せだ」

 フィリップがエレオノーラにもたれかかる。

 エレオノーラは微笑んだ。

 フィリップは、庭を走る子どもたちから、ゆっくりとエレオノーラへ視線を戻した。


「この世界に君がいてくれたから、僕は本当の幸せを知ることができた」

 フィリップの声は静かで、でも確かだった。

「前世では味わえなかった、家族との温かな時間。子どもたちの笑い声。君と並んで歩く、この穏やかな日々。すべてが、君がいてくれたからだよ」

 エレオノーラは、そっと微笑んだ。

 目頭が熱くなる。でも、涙は流さなかった。ただ、フィリップの手を握った。

 フィリップも、その手を握り返す。

 温かい。

 ただ、穏やかで確かな日常が、ここにある。

 風が吹いて、花々の香りが強くなった。子どもたちの笑い声が、庭に響く。

 エレオノーラとフィリップは、手を繋いだまま、その光景を見つめ続けた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


そのうち、回収できていないあれこれのために外伝を書くと思います。

そちらも読んでいただけると嬉しいです。

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