107.はじめの一歩
あの日から二日後、城の小ホールに三人が集まった。私カミーユ、エレオノーラ、そしてハーマン。全員が運動着を着ている。
広いホールの高い窓から差し込む光が、磨かれた床の木目を優しく照らしている。
色々と落ち着いたとはいえ、ハーマンは王として忙しい身。エレオノーラのレッスンを受けるためのまとまった時間を確保するのは、本当に大変だったみたい。ようやく実現したこの機会を、無駄にしたくない。
私はハーマンの姿を眺めた。
ハーマンは、原作通り、顔立ちだけ見れば悪くないのよね。いえ、むしろ整っている方だわ。こんな時でも、つい心の中でクラディスのハーマンの面影を探してしまう。癖のある金髪が額にかかって、意思の強そうな濃い眉が目元を引き締めている。目元は脂肪のせいか多少眠たげだけど、光を宿したような強い赤い瞳が輝く。
(……でも、そのすべてを台無しにしているのが、緩み切った体なのよね)
あごの下には幾重もの脂肪が重なって、首の輪郭が曖昧になってる。胸元も腹部も、運動着の生地がぴんと張ってる。
(エレオノーラの力を借りて、一体どこまで痩せさせることができるかしら……)
私は内心でため息をついた。
「まずはこちらを使って体操をします」
エレオノーラが差し出したのは、柔らかそうなチューブだった。
「腰に巻いて回すのです」
ヴェルデン領で製造されたという体操用ゴムチューブらしい。私は目を細めた。ダイバーレス王国にはゴムという素材が存在しないはずなのに。わざわざ輸入素材を用いてゴムにこだわって、道具まで作ってしまうエレオノーラの実行力には驚かされるわ。しかも、たかがゴムチューブなのに、貴族が使うものとして細工が施されている。手に取ると滑らかな触感が伝わってきて、しなやかで美しい弾力を持ってる。道具としての機能だけじゃなく、見た目の調和まで計算されてるのね。侮れないわ。
「では、巻いていきましょうか」
エレオノーラが真剣な顔でハーマンに近づいた。
「腰骨の、二つの出っ張ったところの間に……」
そう言いながら、ハーマンの腰に手を当てようとして。でも、その手が止まった。
「骨は、どこ……?」
小さな声で呟くエレオノーラに、私は思わず苦笑いしてしまった。
(脂肪に覆われて、骨が見つからないのね……)
エレオノーラが王相手に手荒に押していいものか悩み始めたので、見かねて私が手を貸すことにした。ハーマンの腰に手を当てて、慎重に触診していく。脂肪の層を押していくと、ようやく硬い骨の感触が指先に伝わってきた。
「ここよ」
私が場所を示すと、エレオノーラが素早くバンドを巻きつけた。
「では、回してみてください」
エレオノーラの指導で、ハーマンが腰を回し始めた。
でも、その動きは……酷いわ。
回ってるというより、左右に揺れてるだけ。上半身全体が不格好に揺れて、まるでバランスを失った振り子みたい。でも本人は、ちゃんと回してるつもりらしいのよね。真面目な顔で一生懸命動いてる。
「陛下、頭は動かさないようにしてください」
エレオノーラが優しく声をかけた。ハーマンは指示通りにしようとするけどうまくいかない。腰を回そうとすると、どうしても頭が動く。額に汗が滲み、苛立ちが募ってくる。
ハーマンは動きを止めた。そして、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ!」
ハーマンは得意げな表情を浮かべて、私の方を向いた。
「カミーユ、私の頭を押さえていてくれないか。そうすれば動かないだろう」
「……仕方ないわね」
私はそう言って、ハーマンの頭に手を当てた。
指先に、じっとりとした汗の湿り気が伝わってくる。髪が額に張り付いて、手のひらがぬるりと滑りそうだ。
でも、私は笑顔を崩さなかった。嫌がっているのが伝わったら、ハーマンが可哀そうだものね。
そして、ハーマンが腰を動かそうとした。
動かそうとしているのは、わかるのよ。けど。
「……ん……う、動かん……」
ハーマンの困惑した声が舞踏室に響いた。
その場にいた誰もが、なんとも言えない沈黙を守った。護衛騎士も視線を外したまま、ピクリとも動かない。私は口元を押さえた。笑っちゃダメよ。ハーマンはがんばっているんだから!
エレオノーラも張り付いた笑顔を浮かべ、落ち着いた声で続けた。
「えーっと、それでは、壁に向かって、肘を伸ばして手をついてみてください」
ハーマンは言われた通りに壁に手をついた。少し前傾姿勢になって、再び腰を回し始める。
「ふむ、さっきよりは……なんとなく、回る……ような?」
本人は少し嬉しそう。
(……確かに、若干マシになったかもしれないわね)
少なくとも、頭を押さえるよりは良さそうよ。その様子を見て、私はほっとしたわ。
やがて疲れたハーマンが椅子にへたり込んだ。たったこれだけの動きなのに、息が上がってる。額の汗が顎を伝って落ちた。タオルでそっと汗を拭いてあげると、私の目を見て「ありがとう。助かった」と言う。スチルと同じような笑顔が、あごの肉で台無しだ。……けれど、やっぱり嫌いではないのよね。
次に、エレオノーラがハーマンの足元に膝をついて、そっと靴下を脱がせて足首を手に取った。まるで陶器を扱うような丁寧な手つきで、じっと観察を始めた。
「足首がどうかしたの?」
私が訊ねると、エレオノーラは足首や足の裏を見つめながら、慎重な手つきで回し始めた。
「どこにしわがあるかを見てるんです」
彼女の声は、職人が作品を語るみたいに真剣だった。
「しわがある場所は、うまく動かない部分なんです。そこから膝にかけて繋がっている腱を一緒に動かして、ほぐすようにするといいんですよ」
私は身を乗り出して、エレオノーラの手元を見つめた。確かに、ハーマンの足首には深いしわが刻まれてる。
「陛下の足首はガチガチに固まっているので、ほとんど動いていないように見えると思うんですけど」
エレオノーラは左手で膝を触りながら、右手で足を持ってかすかに回した。
「実は直径3ミリぐらいの円で回しているのですよ」
まるで彫刻家が石を削るような集中した表情ね。うまく回ると、膝にそっと添えた左手に足首の動きが伝わるらしい。
しばらくすると、エレオノーラが顔を上げた。
「陛下、もしかして書類仕事をするときに読み飛ばしたり、頭が痛くなったりしませんか?」
ハーマンは驚いた顔をした。
「……なぜわかる?」
「外側のくるぶしのあたりがカサカサしてしわが多い人は、目を使うことが苦手なことが多いみたいです」
エレオノーラは淡々と説明を続けた。私も思わずハーマンの足首を覗き込んだ。確かに、くるぶしの周りの皮膚がざらついてる。
「それから、足首の前側が硬い人は、感情のコントロールがうまくできないことが多いみたいです」
エレオノーラは自分の足首を指さした。
「私はここが硬かったから、よく癇癪を起こしていたのだと思います。陛下も同じところが硬いですね」
ハーマンは黙って頷いた。図星だったのね。
エレオノーラはさらにぼそぼそとつぶやき続けた。
「かかとも硬いのね……親指が内側に変形しているのは、靴が合わないからね……」
まだまだ時間がかかりそうね。私もこっそり靴下を脱いで、自分の足首を観察してみることにした。床に座り込んで足を伸ばす。
私もくるぶしにしわが多いわ。エレオノーラの言う通りなら、私も目を使うのが苦手ってことになるわね。確かに、長時間読書をすると疲れやすい気がする。前側はそんなに固い感じはしなかった。
手を使って足首を回そうとすると、エレオノーラの声がかかった。
「カミーユ様、自分で足首を回すときには、手を使わないで足を伸ばしたまま回した方が効果が高いですよ」
私は言われた通りに手を離して、足首だけで円を描くように回してみた。
ガタガタと、予想以上に足首がぎこちなく動いた。思っていたよりも固まっているみたい。自分では普通に動いていると思っていたのに、実際にはこんなにも硬直していたのね。少し驚いたわ。
「足指だったら手を使って回す必要があるんですけど」
エレオノーラの補足を聞いて、私は足指を一本ずつ回してみることにした。親指から順に、エレオノーラの指示通りに回しやすい方に十回、逆に三回ずつ回していく。人差し指、中指と進めていくと、薬指が硬くて回しにくかった。力を入れても、スムーズに回転してくれない。
まだハーマンの足首ケアが終わらなさそうだから、私は自分の足指のケアを続けた。小指まで終わって、回し終わった後に立ち上がると、驚くほど足が軽くなっていた。床を踏む感覚が、さっきまでとまるで違うの。体重の乗せ方が自然になったみたい。
それだけじゃないわ。こころなしか、目の周りのこわばりも消えている。視界が少し広がったような感覚。私は心の中で決めた。ハーマンの体のケアに付き合いながら、自分の足首のケアもしていこう。
足首のケアが終わって、再び腰回しに挑んだハーマンの動きは、さっきよりも少しだけスムーズになっていた。
体の重心が安定したのかしら。揺れる幅が小さくなっている。足首が柔らかくなったことで、全身のバランスが良くなったのね。
「……だったら足首のケアを最初にやればよかったのに」
私がそうつぶやくと、エレオノーラは首を横に振った。
「腰の方が全体バランスを整えるものなので、腰を最初にやってみたんです」
彼女なりの理由があったのね。順序にも意味があるのだわ。適当にやっているわけじゃない。
最後は、ウォーキング。本当は外で歩きたいところだけれども、今は冬だから無理なのよね。
エレオノーラがハーマンの靴をチェックして、中に詰め物を入れて大きさを調節した。靴の中敷きを何度も出し入れして、最適な厚みを探している。
「これで歩いてみてください」
ハーマンが歩き出した。
ドシン、ドシン。
まるで象みたいな足音がホールに響きわたる。
「少し背伸びしながら歩くと、体が軽くなりますよ」
エレオノーラが声をかけた。ハーマンは言われた通りに少しかかとを上げて歩こうとする。
「足の中指も使って」
エレオノーラが横を並んで歩きながら指示を続けた。
「あ!足をねじらないで!脛の筋肉も使うのを意識して。背伸びはやめませんよ!」
ハーマンの歩き方が少しずつ変わっていく。足音が軽くなった。姿勢も若干良くなっている。
私も付き合って同じように歩いてみた。確かに、歩き心地は悪くないわね。普段よりも体が前に進みやすい。姿勢が整っていると、体の感覚まで違ってくるのね。呼吸も楽だわ。これは意外な発見だった。
問題はハーマンよ。
歩き出して十分も経たないうちに、ハーマンの息が荒くなった。
「……はぁ、はぁ……も、もう無理……」
そして、歩くのを諦めて、座りこんでしまった。
まるで長距離マラソンでもしてきたみたいな荒い息づかい。顔は真っ赤で、額からは汗が滝のように流れている。たった十分の散歩で、この有様。
私の中で、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。でも、ここで感情的になっても仕方がないわね。私は深く息を吸って、冷静さを取り戻した。
「ハーマン」
私は振り返って、彼の赤い瞳をまっすぐに見た。
「簡単に無理とか言わないで」
声は低く、でも力強く言った。
「私のことを愛していると言うなら、痩せることを諦めないで」
(言い過ぎかもしれないけれど……)
ハーマンの目が見開かれた。私は優しく続けた。
「私も付き合うから、一緒にがんばりましょう」
しばらく沈黙があった。廊下に、私たちの呼吸音だけが響く。
やがてハーマンは、疲れ切っただらしない顔を引き締めた。赤い瞳に、わずかだけど決意の光が宿る。
そして、また歩き始めた。
足音は重い。でも、さっきよりも力強い。
私も横に並んで歩き出した。エレオノーラが微笑んで、私たちの後ろを歩いてくる。
長い道のりになるでしょうね。でも、諦めるわけにはいかないわ。
私たちは、城の廊下を歩き続けた。




