106.レイモンドの功績
領主代行として働き始めてから、もう四年が経つ。俺は、空気の入れ替えのために執務室の窓を開けた。冬晴れの穏やかな、けれど冷たい潮風が頬を撫でる。
学園を卒業してすぐにこの職を任された時は、正直なところ不安だった。自分に務まるのだろうか、という迷いが胸の奥で渦巻いていた。
長く過ごすうちに、だんだんこの領地のすべてが自分の一部になっているように感じるようになった。港町の喧騒、子どもたちの笑い声、市場で飛び交う活気ある掛け声。
今でも、判断を誤れば何が起こるかなんてわからない。先日のスタンダル帝国の侵攻は、本当に危なかった。下手をしたら、このヴェルデン領が蹂躙されていたかもしれない。
(エレンのおかげだな)
スタンダル帝国の兵は本当に強かった。もし、エレンの教えてくれたトレーニングをしていなかったら、ヴェルデンの騎士団はあそこまで闘えなかっただろう。
(援軍にアッシュクロフト公爵夫人が来てくれたのも助かった。アッシュクロフトの騎士団は、エレオノーラのトレーニングを取り入れていたというだけあって、見事な戦いぶりだった。……王国軍が役に立ったのは、戦後処理だけだったな。でも、後衛に回したから、被害が少なくて良かった)
戦後処理がようやく落ち着いた頃、ハーマン陛下からの召喚状が届いた。
スタンダル帝国戦での功績を認められ、男爵の爵位を賜ることになるらしい。ハーマン陛下が即位して以来、初めての叙爵だった。領地として、スタンダル帝国と通じていたために取り潰しになったクレイヴェル子爵領の一部が与えられるという。
クレイヴェル子爵領は、もともとはアンドリアンの年老いた父が管理していた。彼は人がいいけれど仕事における能力はあまり高くなかったらしい。
(どうしてあの人から、あんな天才肌の子どもが生まれたのか……)
あまり状態がいいわけではない子爵領だ。一部とはいえ、最初のうちは管理が難しいだろう。そう考えて、身を引き締めた。
俺は執事のベルナーにヴェルデン領の管理を任せ、久しぶりに王都のヴェルデン邸宅へと向かった。
馬車が王都の石畳を踏む音が規則正しく響く。窓の外に流れる景色を眺めながら、自分の人生がまた一つ、大きな転換点を迎えたことを実感していた。
邸宅の重厚な扉を開けた瞬間、足音が近づいてきた。
「お兄さま、お帰りなさい!」
エレオノーラが駆け寄ってきて、手をぎゅっと握った。その手は柔らかく温かい。妹の熱意がそのまま伝わってくるようだった。
「スタンダル帝国戦は本当に厳しい戦いだったって、アメリア様から聞いたわ」
エレオノーラは頬を紅潮させながら言葉を続けた。
「戦火が大きくならなかったのは、お兄さまのおかげよ。アメリア様もお兄さまの腕を高く評価してくださっていたわ」
俺は小さく頷いた。妹の称賛が少し気恥ずかしい。
「ありがとう。だが、お前の改革がなければ、ここまでの成果は出せなかった」
「でも、それを形にしてくれたのは兄さまだもの」
エレオノーラはそう言って笑った。その笑顔を見て、心の中で静かに感謝した。
(エレンがいなければ、自分はここまで来られなかっただろう)
父も母も、この叙爵を心から喜んでくれた。
「レイモンド……お前はヴェルデン家の誇りだ」
父は短く言った。その声には普段見せない感情が滲んでいた。
「レイモンドったら、本当に立派だわ!さすが、私の息子だわ!」
母のクレメンティアははしゃぎながら、何度も肩を叩いてきた。力任せに叩くので、さすがにちょっと痛かった。
翌日、王城での叙爵式が執り行われた。
謁見の間に足を踏み入れると、高い天井と荘厳な装飾が視界に広がった。空気が張り詰めている。俺は背筋を伸ばし、ハーマン陛下の前に進み出た。
そして片膝をついた。
冷たい大理石の床が膝に当たる感触が、この瞬間の重みを物語っていた。
ハーマン陛下が剣を俺の肩に当てる。その重さが、新たな責任の重さのように感じられた。
「レイモンド・ヴェルデン。汝の忠誠と功績により、新たに男爵に叙す。領地は、旧クレイヴェル子爵領の一部とする」
俺は深く頭を垂れた。
王座に立つハーマン陛下の姿を見上げると、かつての傲慢な雰囲気は影を潜めていた。王という役目の重さに向き合い、必死に努力している様子が窺えた。
(変わったな……。エレオノーラほど劇的な変わり方ではないが、好ましい変化だ)
家族も式に列席していた。エレオノーラが満面の笑みで拍手をしている。父は満足げに髭を撫でつけている。母クレメンティアは涙を流して喜んでいる。その光景が目に焼き付いた。家族の喜ぶ顔を見られて、本当に良かった。
式が終わると、すぐにヴェルデン領へ戻った。
自分の居場所は、あの海の香りがする領地にあるからだ。王都の華やかさよりも、あの土地の素朴な温かさが、今の俺には必要だ。
領に戻ったその日、寒い中なのに広場には多くの領民が集まっていた。
「男爵様、おめでとうございます!」
「レイモンド様のおかげで、私たちはこの土地で安心して暮らしていけるんです!」
喜びの声が次々と飛び交った。俺は一人一人の顔を見つめながら、頭を下げた。だが、その中で一人の老人が不安そうな顔で声を上げた。
「でも……レイモンド様は男爵になられたんだから、ヴェルデンを離れてしまうんじゃないかのう……?」
その言葉に、広場全体の空気が変わった。ざわめきが広がる。人々の表情に不安の色が浮かぶ。
俺は広場の中央に歩み出た。
そして、口を開いた。皆に聞こえるように声を張る。
「私はヴェルデン領を離れるつもりはない。クレイヴェル領の統治は、私の信頼するものに任せる」
広場がざわめいた。驚きと安堵が入り混じった声が、あちこちから上がる。
(ローレンスの息子は頭の回転が速い上に柔軟性がある。困った時にはちゃんと相談してくるし、心配は無いだろう)
俺は言葉を続けた。
「この地は、私の人生そのものだ」
俺は胸に手を当てた。
「今回の戦いで、皆が命を懸けて戦ってくれたこと、私は一生忘れない。だからこそ、これからはヴェルデン領の復興と発展を通じて、恩返しをしていくつもりだ」
少し間を置き、一人一人の目を見て言った。
「皆の協力があって、今の私がある。これからも、共に歩もう!」
言葉を終えると、静まり返っていた広場に拍手が起こった。
最初は小さな音だった。だがそれは徐々に広がり、やがて一つの大きなうねりとなった。拍手の波が広場全体を包み込む。子どもたちが歓声を上げ、老人たちが目を潤ませている。
深く息を吸った。潮風が再び頬を撫でる。
自分はヴェルデンの男だ。この地とともに、これからも生きていく。
爵位が変わろうと、自分の本質は何も変わらない。
この地を守る。
それが、俺の誇りであり、使命だった。
ただ……。
その夜、自室で一人になってから、窓辺に立って夜空を見上げた。
「男爵位を得たことで、さらに結婚相手を探しにくくなってしまったな。つり合う家格で、ヴェルデンに来てくれるような令嬢は、見つかるだろうか……」
小さくため息をついた。
しかし、俺はヴェルデン領を離れる気は無いし、嫁を貰ったところで、あの母がどのように出るのかわからない。エレオノーラのように外に出るならともかく、公爵家に迎え入れて嫌な思いをさせるのは申し訳ないと思う。
(今は、エレオノーラさえ幸せであれば、それでいい。もう少し落ち着いてから跡取りのことは考えよう)
星空は美しいが、その美しさが今は少し寂しく感じられた。




