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105/109

105.劣等感

 俺は、婚約が決まって初めて彼女を見た日から、エレオノーラ・ヴェルデンのことが嫌いだった。

 ころころと丸い体に、パンパンな頬。鈍くさい行動。

 少しでも気に入らないことがあると、すぐに声を荒げて泣き叫ぶ癇癪持ち。

 全く仲良くしたいと思わなかった。


(……今思えば、同族嫌悪だったのかもしれない)

 俺も、傲慢だの何だの色々言われていた。

 しかし、エレオノーラは妙に人当たりがよくて、癇癪を起こすわりには、周囲の大人からは「優しい子」と褒められていた。

(……何が、優しい子だ)


 王族として生まれながら、俺は昔から他人にほとんど興味がなかった。

 母のアンヌだけが、自分の味方でいてくれればそれでよかった。

 だから、他人のために笑って、我慢して、頑張って"良い子"を演じるエレオノーラの存在が、どうしようもなく鼻についた。


 しかし、今のエレオノーラは昔の彼女とは別人のようだった。

 かつての樽のような体型は引き締まり、グラマラスな美人になった。今の彼女に"愚鈍"という言葉は似合わない。

 そして何より、あの癇癪持ちだった女が、今では明るくよく笑う女性になっている。最近は、怒っているところなど見たことが無い。


 それなのに。

(見ているだけで、イライラする)

 そう感じてしまう自分が情けなかった。

 まるで「お前は、昔から何も変わっていない」と、目の前に突きつけられているようだったからだ。


 複雑な感情を抱えたまま、戦争の混乱も落ち着き、国内の育児制度改革も形になってきたころ。

 俺は、珍しく会議などの予定が入らなかった午後に静かな執務のひとときを過ごしていた。古くからの側近エルンストを筆頭に、アンドリアンの息がかかっていたものたちの代わりに新しく雇った側近たちも、静かな雰囲気を壊さぬように気遣いながら、どんどん仕事を進めている。


 机の上には最終決裁の書類が積まれている。目を通して問題が無いことを確認し、羽根ペンを手に取り、サインをしていく。

 カリカリと、ペン先が紙を滑る音だけが部屋に響く。


 そこに、扉をノックする音が聞こえた。

 エルンストが応対すると、カミーユの声が聞こえた。

「かまわん、通せ」

 その声を聞いたカミーユが、ピンク色の髪を揺らしながら、部屋に入ってくる。

 そしてその後ろには、あの、エレオノーラがいた。


「……は?」

 俺は思わず固まった。

(カミーユも、俺と一緒になってエレオノーラのことを馬鹿にして嫌っていたはずだ。なのに、どうして一緒にいる?)


「今日からエレオノーラ様が、あなたのダイエットに協力してくれることになったのよ」

 カミーユは明るく言った。

「はあっ!?ちょっと待て、それはどういう……!」

 椅子から重い尻を持ち上げた。

「少しでもお力になれたら嬉しいです、陛下」

 エレオノーラは穏やかに微笑んだ。

 その笑顔が、妙にまぶしくて、思わず視線をそらした。

 そらした先に見えた側近たちは、聞こえないふりをして、執務を続けている。


「……そんなに、俺が太ってるのが嫌なのか」

 声が、かすかに震えている。俺の変化に気づいたのか、エルンストが一瞬眉をひそめた。

 思い返してみれば、カミーユはずっと、俺に痩せるように迫っていた。

 食事は控えめに出されるし、運動を促すような言葉も多かった。

 俺も太っていることをちょっとは気にはしていたが、まさか、あんなに嫌っていたエレオノーラに頼むほどだったとは。

(太ってる俺じゃ、愛される価値もないって……そう言っているみたいじゃないか)

 胸がずしりと重くなる。

 室内に、不自然な沈黙が落ちた。

 エルンストが気をきかせて、他の側近たちを部屋の外に出した。


 吹っ切れたはずの《愛の力》のことを思い返す。

 エレオノーラがフィリップを想う力の方が、カミーユが自分を想う力よりも強いという事実。

(愛されることですら、またフィリップに負けている)

 それが、ひどく惨めだった。羨ましかった。


「……俺のことを好きじゃないのなら、もう放っておいてくれないか」

 吐き出すように言った。

「カミーユは俺が王じゃなかったら見向きもしないんだろう?だから、《愛の力》の効きも弱かったんだ」

 ぽつりとこぼれた本音に、部屋の空気が重くなった。


 カミーユは困ったように微笑んで答えた。

「《愛の力》の効きは弱かったかもしれないけれど、私はハーマンのことが好きよ」

 その声は、優しかった。

「ただ、本当はもっとかっこいいはずのあなたが、そんな不健康な見た目だなんて、もったいないと思うの。好きだからこそ、見ていて苛々しちゃうのよ」

 カミーユは一歩近づいた。

「だから……協力してほしいのよ」


 言葉を失った。

 言い返せない。何も言えなかった。

 自分のことなのに、こんなにも情けない。

 エレオノーラは、心配そうな顔で俺のことを見ていた。

 ――それが、心底腹立たしかった。

 まるで、俺がどうしようもない駄目なヤツだと思われているみたいな気がした。


 俺は、落ち着くために、大きく息を吸って、吐いた。

 きっと、このままじゃダメなんだと、どこかでわかっている。

 でも――

(今さら変われって言われても……)

 どうすればいいのか、わからない。

 長い沈黙が流れた。

 結局、回答できずに、その場はお開きになった。


 深夜、自室に戻って一人になった。

 窓の外は真っ暗で、星だけが瞬いている。

 俺は、机の引き出しに手を伸ばした。

 いつもの習慣だ。夜食用の菓子を取り出す。

 引き出しを開ける。

 中には、甘い菓子が並んでいる。蜂蜜の香りが漂ってくる。

 手を伸ばしかけて――


 そっと蓋を戻した。

 引き出しを閉める。

 カチャ、と音がした。

 しばらく、じっと引き出しを見つめていた。

 そして、深く息を吐いた。


(……変われるだろうか、俺は)


 窓の外を見る。

 星が、静かに輝いていた。


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