102.平和な日々
スタンダル帝国が攻め入ったことによって、国民は改めて知った。
王による魔法結界が、ダイバーレス王国を守っているのだと。だから、長年外敵に煩わされず、自分たちの生活を送ることができているのだと。
また、ハーマン新王即位によるスリング禁止令の撤廃やフィリップ王弟を顧問とした育児改革によって、国民は前と同じように国王を信頼して生活するようになった。ダイバーレス王国を守ったヴェルデン公爵家のリカルドが宰相になったことも、国民からの支持を得る一因となった。
その中で、アンドリアン・クレイヴェルの処刑は、決定的な「けじめ」として国民に受け止められた。
彼がもたらした混乱と裏切りへの怒りは根強い。ハーマン国王がその罪に対して厳正な処断を下したことで、王としての信頼と支持はさらに高まることになった。
「スリングが使えるようになって一安心ね」
街角では、そんな声が聞こえる。
「ハーマン国王は傲慢だって噂だったけれど、ちゃんと国民のことを考えてくれているのね」
市場では、母親たちが赤ん坊をスリングで抱きながら買い物をしている。その光景が、日常に戻ってきた。
スリングの効果や実績を知る各領地からも、自分の領地でも早急に進めたいという声が上がっていた。王都には次々と陳情と提案が届いていた。
フィリップとエレオノーラは、城のフィリップの執務室で書類仕事に追われていた。
机の上には、羊皮紙が山のように積まれている。
互いに相談しながら必要な調整を行うことで、どんどん仕事が進んでいく。
「予算が十分にある領地は、すぐにでも保育施設を用意することができるわね」
エレオノーラはペンを走らせながら言った。
「ヴェルデン領で保育士の研修を行うのにも受け入れに限界があるから、先に建物を用意しておいてもらったらいいかしら……」
「そうだね」
フィリップは頷いた。
「あと、予算が無い領地には、新しい収入源を考えないといけないね。国から補助を出す方法もあるけれど、いつまでも続けられるわけじゃないし」
「予算が無い領地のリストを挙げてくれたら、後でその対策を考えるわ」
エレオノーラは書類を整理しながら言った。
「だから、まずはフィリップじゃなきゃできない国からの補助についての処理をお願いしたいの」
休む間もなく続く書類仕事と会議。
だが、国をよくしたいという強い想いが二人を支えていた。
民の信頼はフィリップとエレオノーラに集まり、それはそのまま国王ハーマンの信頼にもつながっていた。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえてくる。穏やかな午後の光が、部屋を照らしていた。
魔法結界の維持については、二人の協力による実験で、魔法水晶の魔力を満杯にしておけば十日ほど保てるということがわかった。
けれど、いつどんなことが起こっても大丈夫なように、毎日執務のあとに二人で魔法水晶の部屋に通っている。
今日も、書類仕事が一段落すると、二人は魔法水晶の部屋へと向かった。
薄暗い部屋の中央で、魔法水晶が青白く光っている。
「今日のぶんを補充しないとね」
フィリップが言いながら、魔法水晶に手をかざした。
エレオノーラも隣に立ち、フィリップの肩に手を置く。
「《内なる理の開示》」
もう、すっかり慣れてしまった半透明の画面を見ながら次のスキルを口にする。
「《愛の力》」
温かな光がフィリップを包み込み、魔法水晶へと魔力が流れ込んでいく。
水晶の輝きが、強くなった。
その様子を見ながら、ふと、思いついたようにフィリップが言った。
「前王が処刑されたあと、確信を得てからアンドリアンが動いたことを考えると、彼はたぶん、すぐに結界が弱体化するわけではないことまで予測していたんだな」
「さすがアンドリアンよね」
エレオノーラは、ふと視線を落とした。
「あの頭脳を、もっと発展的に使えていたら……」
知略に優れ、政治的な視野も持っていた男。けれど、それを復讐や破壊に使ってしまったアンドリアン。
彼の選択が悔やまれてならなかった。
ため息をつくエレオノーラの頬に、フィリップの手が触れた。
その温かさに、エレオノーラは目を閉じる。
魔法水晶の光が、二人を優しく包み込んでいた。
正式な婚約を交わしたとはいえ、二人とも忙しすぎて、のんびりと語らう時間などほとんど取れていない。
この毎日の魔法水晶への魔力の補充の時間が、二人にとって心温まるひと時だった。
(でも、もうそろそろ帰らなきゃ……。婚約したとはいえ、城に泊まり込むのは違うよね……)
そんなことを考えていたエレオノーラは、ふと思い出した。
先日、ハーマンがぽつりとこぼしたことを。
「魔法結界の維持にエレオノーラが深く関わっている以上、何かあってからでは遅い」
ハーマンは真剣な顔で言った。
「お前たちも早く結婚してしまったほうがいいのではないか?エレオノーラも城に住んだ方がいい」
けれど、フィリップとエレオノーラは顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「ハーマン王とカミーユ様の式が無事に終わったら、ですね」
エレオノーラは穏やかに言った。
「……そうだな。順番は大切だ」
ハーマンも苦笑した。
カミーユは王妃教育を終え、新年に挙げる式の準備を進めている。
一度は縮小を考えた新年の舞踏会を、結婚式の日程を合わせることで開催することにしたのだ。ハーマンがカミーユのことと予算の両方のバランスを考えて提案し、フィリップが了承した結果だった。
(ハーマンは、本当にカミーユのことが好きなのね)
エレオノーラは微笑んだ。
(王として国のことも考えていることも、昔と違って立派だわ。……あら、やだ。私ったら、なんだか母親の気分ね。私の育てた息子とは全然違うけれど)
国の未来が少しずつ形になりつつある。
誰かの犠牲の上に、それが築かれてしまったことは、消せない事実だった。
けれど、それでも――
(この国を、もっと良くしたい)
エレオノーラの静かな決意は、日々の行動に、言葉に、力強く宿っていた。
そして今、その決意を共にする伴侶が隣にいる。
執務室に戻り、二人は向かい合って座って残った書類の整理をしていた。窓の外には遠く街の灯りが見え、風が窓に打ち付ける音が響く。
今日どうしても手をつけなければならなかったぶんの書類の山は片付き、あとは明日登城してからの仕事だ。この仕事を始めた頃はエレオノーラが帰宅してからもフィリップが処理していたが、前世での和真と同じ道をたどってしまうのを危惧したエレオノーラがやめさせていた。
「……二度目の結婚式も楽しみだな」
さっきまで結婚のことを考えていたエレオノーラの心の中を読んだかのように、フィリップが言った。
「そうね」
エレオノーラは笑った。
「まさか、私がこんなイケメンの王子様と結婚することになるなんて!」
「こんなにグラマラスな美人と結婚することになるなんて!」
フィリップも笑って言う。
二人でおかしくて笑いあっていると、執務室のドアをノックする音が聞こえた。
コンコン、と軽い音。
ヘンリーが応対する。扉を少し開けて、確認する音がした。
「カミーユ様です。取り次いでもよろしいでしょうか?」
エレオノーラとフィリップは、首をかしげながらお互いの顔を見合わせた。
カミーユが、この時間に?
珍しいことだ。
「どうぞ」
フィリップが答えると、扉が開いた。
ピンク色の髪を揺らしながら、カミーユが入ってくる。
その表情は、いつもより少し硬い。軽くため息をついたあと、2人の方に蜂蜜色の瞳をまっすぐに向けた。
「お願いがあるの。助けてほしいの」




