1.婚約破棄と記憶の覚醒
煌びやかなシャンデリアが天井で輝きを放っていた。まるで星空のように、無数の光が揺れている。
王城の舞踏会。
豪華な衣装に身を包んだ貴族たちが優雅に踊る、華やかな空間。オーケストラの音楽が響き、香水の甘い香りが漂う。
その広間の中央に立つエレオノーラ・ヴェルデンは、まるで時が止まったかのように固まっていた。
「エレオノーラ。お前との婚約はここで破棄する!」
第一王子ハーマンの冷たい声が響いた瞬間、オーケストラの音楽が止まった。周囲のざわめきが、耳に突き刺さる。貴族たちの視線が、一斉にエレオノーラに集中する。
しかしエレオノーラにとって、婚約破棄の屈辱よりも、今この瞬間の身体的苦痛の方がはるかに切実だった。
彼女は深紅のドレスに身を包んでいた。ハーマンの瞳の色に合わせて選んだ色だ。金の装飾が映える豪華なデザインで、ウエストから下にかけてボリュームのあるスカートが優雅さを引き立てている。
このドレスのために、侍女と使用人たちが少しでも見映えを良くしようと懸命に——そう、本当に懸命に、力の限り締め上げてくれたコルセット。それが今や、まるで重い鎖のような拷問具となり、体を縛り付けていた。
少し動くだけでも息が詰まる。
「……どうして急にそんなことを?」
エレオノーラは、必死に酸素を取り入れながら、やっとの思いで尋ねる。ハーマンは嘲笑を浮かべた。彼の頬が、醜く歪む。
「理由は簡単だ」
ハーマンは腕を組んだ。
「お前がデブで愚鈍で癇癪もちだからだ。未来の王妃がそんな人物では、王室の名誉に関わる」
苦しさから、あぶら汗が額に滲んでくる。周囲は、相変わらずざわめいている。
そんな中、エレオノーラは立ち尽くすしかなかった。
その時、まるで舞台の主役のように颯爽と現れた人物がいた。
カミーユ・ラフォレット侯爵令嬢。
蝶のように軽やかな動きで、華奢な体にフィットした細身のドレスをひるがえす。肩甲骨でカールを描く艶やかなピンクの髪を揺らしながら、ハーマンの腕に絡みついた。
「私たちのために、身を引いてくださるわよね?」
カミーユは甘い声で言った。
「『残念令嬢』のエレオノーラ様」
酸素の足りていないエレオノーラの頭に、一気に血が上る。
「ラフォレット侯爵令嬢、誰が私に話しかけていいと言ったの!?」
エレオノーラは怒りに声を震わせて叫んだ。象のような足で大理石の床が揺れるのではないかという勢いで地団太を踏んだ。
次の瞬間——
豪奢なドレスの裾を踏んづけて、派手に転ぶ。床に後頭部を強かに打った。重い音が響く。
(痛い!!!!)
視界が真っ白に霞み、エレオノーラはその場に倒れ、意識を失った。
――――――
まるで雪崩のように、前世の記憶が一気に押し寄せてきた。
日本。
児童デイサービスの職員として働いていた自分。
夫との突然の死別。
苦労して育てた一人息子。その結婚式での誇らしい涙。
その後の悠々自適な一人暮らし。
そして、あの雪の夜。
猫を避けようとした愛車のハンドルの感触。
高橋真央としての四十五年の人生が、万華鏡のように鮮やかに蘇った。
――――――
前世の記憶を取り戻し、意識が戻ってきた。
エレオノーラは、大きく息を吐いた。そして、現実を確かめるように、震える指先で自分の頬に触れた。
(45歳の真央の顔とは違う……)
丸みを帯びた大福のように柔らかく握りごたえのある頬、コルセットで締め付けられて不自然にお腹の肉が載っている感触、そしてびっくりするくらいの体の重さ。これが夢ではなく、紛れもない現実なのだと実感する。
周囲からは、心配そうな視線と、苦笑が入り混じって注がれている。エレオノーラは「ゆっくりと優雅に」を心がけつつ、のっそりと立ち上がった。
「やっと起き上がったか。ずいぶん派手な音を立てたじゃないか」
ハーマンは肩をすくめた。
「癇癪を起こさなければ、そんな醜態を晒さずに済んだものを」
ハーマンの冷笑が耳を刺す。
そして、ハーマンはまだクラクラして何も言えないエレオノーラに更に言葉を重ねた。
「……どうした?話せないのか?それともコルセットがきつすぎて具合が悪くなったのか?」
全く的外れとは言えないその指摘に、いつものエレオノーラなら更なる癇癪を起こし、周りの調度品を片っ端から叩き壊していただろう。そして帰宅してから父に冷たく叱られるのがいつものことだった。
だがしかし。
(10数えて……深呼吸……)
児童デイサービスで何度も子どもたちに教えてきたアンガーマネジメントの呼吸法が、自然と思い出された。怒りの衝動を抑え込みながら、エレオノーラは姿勢を正した。
真央としての45年分の人生経験を思い出した青い瞳には冷静な光が宿っていた。その視線をまっすぐハーマンに向ける。
「私の価値をご理解いただけなかったことは残念です。この婚約は王家とヴェルデン公爵家の契約ですので、婚約破棄については私の父である公爵家に正式な書面での連絡をお願いいたします」
そこまで一息で言ってから、視線をカミーユに向ける。
「そちらの女性と、どうかお幸せに」
いつもよりもことさら優雅にカテーシーをして、エレオノーラは静かに踵を返した。再び転ばないように気を付けながら。
エレオノーラの毅然とした言葉に、ハーマンは一瞬、細い目を見開いて驚きの表情を見せたが、すぐに肩をすくめて笑った。
「追って書面と使いを送る。これ以上醜態をさらすなよ」
馬車に乗り込んだエレオノーラは、はしたないとは思いながらも必死でコルセットを少し緩めてから深く深呼吸をした。脳に酸素が届くのがわかる。そして、柔らかいクッションに身を預けながら目を閉じて、今までの、そしてこれからの人生について思いを巡らせる。
(まだエレオノーラは18歳。人生なんてこれからでしょ?むしろ、あの傲慢な王子から解放されて良かったわ。婚約破棄で一時は大変かもしれないけど...)
唇の端が、かすかに持ち上がる。
父親には怒られるだろう。もしかしたら、追い出されるかもしれない。けれども、もしそうなったとしても領地にいる兄は助けてくれるはずだ。
そして。
(だいたい、私が愚鈍で癇癪もちな残念令嬢なら、ハーマンは陰湿で思慮の足りない傲慢王子じゃない!自分のことを棚に上げてよく言ったものね。体型だって、私とたいして変わらないくせに、私のことをデブだなんて!)
馬車は静かに夜道を進み、ヴェルデン家の屋敷へと向かっていく。窓の外では、満月が優しく輝いていた。エレオノーラの新しい人生は、ここから始まるのだ。




