1.婚約破棄と記憶の覚醒
煌びやかなシャンデリアが天井で輝きを放ち、まるで星空のように光り輝いていた。豪華な衣装に身を包んだ貴族たちが優雅に踊る王城の舞踏会。その華やかな空間の中で、広間の一角に立つエレオノーラ・ヴェルデンは、まるで時が止まったかのように硬直していた。
「エレオノーラ。お前との婚約はここで破棄する!」
第一王子ハーマンの冷たい声。周囲のざわめきが耳に突き刺さる。ハーマンの瞳の色に合わせて選んだ深紅のドレスが、重い鎖のように体を縛り付けていた。金の装飾が映える豪華なデザインで、ボリュームのあるスカートが優雅さを引き立てる。侍女たちが少しでも見映えを良くしようと懸命に、そう、本当に懸命に、力の限り締め上げてくれたコルセットが、今や拷問具となっていた。少し動くだけでも息が止まるほど苦しい。
「……どうして急にそんなことを?」
なんとか必死に酸素を取り入れながらも、冷静を装って問い返したエレオノーラに、ハーマンは嘲笑を浮かべた。
「理由は簡単だ。お前がデブで愚鈍で癇癪もちだからだよ。未来の王妃がそんな人物では、王室の名誉に関わる」
苦しさからあぶら汗を滲ませながら立ち尽くすエレオノーラの前に、まるで舞台の主役のように颯爽と現れたのは、カミーユ・ラフォレット侯爵令嬢だった。蝶のように軽やかな動きで、華奢な体にフィットした細身のドレスをひるがえし、肩甲骨でカールを描く艶やかなピンクの髪を揺らしながら、ハーマンの太い腕に絡みついた。
「私たちのために、身を引いてくださるわよね?『残念令嬢』のエレオノーラ様」
カミーユの蜂蜜色の瞳には優越感が滲んでいた。酸素の足りていないエレオノーラの頭に、一気に血が上る。
「ラフォレット侯爵令嬢、誰が私に話しかけていいと言ったの!?」
エレオノーラは怒りに声を震わせて叫んだ。象のような足で大理石の床が揺れるのではないかという勢いで地団太を踏み、そして、その豪奢なドレスの裾を踏んづけて派手に転んだ。強かに後頭部を打ったその瞬間、エレオノーラの視界が真っ白に霞み、激しい頭痛に襲われてその場に倒れた。
まるで雪崩のように、前世の記憶が一気に押し寄せる。日本の児童デイサービスの職員として働き、忙しい日々を送っていた自分。夫との突然の死別、苦労して育てた一人息子の結婚式での誇らしい涙。その後の悠々自適な一人暮らしを満喫する日々。そして、あの雪の夜。猫を避けようとした愛車のハンドルの感触。高橋真央としての45年の人生が、万華鏡のように鮮やかに蘇った。
前世の記憶を取り戻し、意識が戻ってきたエレオノーラは、まるで現実を確かめるように、震える指先で自分の頬に触れた。45歳の真央の顔とは違う、丸みを帯びた大福のように柔らかく握りごたえのある頬、コルセットで締め付けられて不自然にお腹の肉が載っている感触、そしてびっくりするくらいの体の重さ。これが夢ではなく、紛れもない現実なのだと実感する。
周囲からは、心配そうな視線と、あからさまな嘲笑が入り混じって注がれている。エレオノーラは「ゆっくりと優雅に」を心がけつつ、のっそりと立ち上がった。
「どうした、また癇癪か?それともコルセットがきつすぎて具合が悪くなったのか?」
ハーマンの冷笑が耳を刺す。全く的外れとは言えないその指摘に、いつものエレオノーラなら更なる癇癪を起こし、周りの調度品を片っ端から叩き壊していただろう。そして帰宅してから父に冷たく叱られるのがいつものことだった。だがしかし。
(10数えて……深呼吸……)
児童デイサービスで何度も子どもたちに教えてきたアンガーマネジメントの呼吸法が、自然と思い出された。怒りの衝動を抑え込みながら、エレオノーラは姿勢を正した。
真央としての45年分の人生経験を思い出した青い瞳には冷静な光が宿っていた。その視線をまっすぐハーマンに向ける。
「私の価値をご理解いただけなかったことは残念です。この婚約は王家とヴェルデン公爵家の契約ですので、婚約破棄については私の父である公爵家に正式な書面での通達をお願いいたします」
そこまで一息で言ってから、視線をカミーユに向ける。
「そちらの女性と、どうかお幸せに」
いつもよりもことさら優雅にカテーシーをして、エレオノーラは静かに踵を返した。再び転ばないように気を付けながら。
エレオノーラの毅然とした言葉に、ハーマンは一瞬、細い目を見開いて驚きの表情を見せたが、すぐに肩をすくめて笑った。
「追って書面と使いを送る。これ以上醜態をさらすなよ」
馬車に乗り込んだエレオノーラは、はしたないとは思いながらも必死でコルセットを少し緩めてから深く深呼吸をした。脳に酸素が届くのがわかる。そして、柔らかいクッションに身を預けながら目を閉じて、今までの、そしてこれからの人生について思いを巡らせる。
(まだエレオノーラは18歳。人生なんてこれからでしょ?むしろ、あの傲慢な王子から解放されて良かったわ。婚約破棄で一時は大変かもしれないけど...)
唇の端が、かすかに持ち上がる。
(お父様には叱られるでしょうね。でも、最悪の場合はお兄様の領地で働かせてもらえばいい。それに……)
そこまで考えて、つい苦笑する。
(なにより、ハーマンのこと大嫌いだったのよね。私が愚鈍で癇癪もちな残念令嬢なら、ハーマンは陰湿で思慮の足りない傲慢王子じゃない!自分のことを棚に上げてよく言ったものね。体型だって、私とたいして変わらない、むしろお似合いだって周りが言うくらい同じようなものだったのに、私のことをデブだなんて!)
馬車は静かに夜道を進み、ヴェルデン家の屋敷へと向かっていく。窓の外では、満月が優しく輝いていた。エレオノーラの新しい人生は、ここから始まるのだ。
もし、面白いと感じていただけましたら、ブックマーク登録と、ページ下の 『ポイントを入れて作者を応援しよう!』 より、評価 ★★★★★ をいただけますと幸いです。
8月いっぱいは毎日21時に更新します。9月からは2日に1回を予定しています。
X(旧Twitter)のアカウントは、@kitanosiharu です。感想お待ちしています!
https://x.com/kitanosiharu