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隅っこの本音

バザー1週間前。

放課後の体育館、薄く汗のにじむ空気の中で「友の会」の面々がまた集まっていた。

今日の会議は、担当ごとの最終確認。新たに決めることはもうない。

それぞれの進捗を報告して、最後の準備に向けて整えるだけ――の、はずだった。


「では、始めましょうか」

いつものように、副会長の長田真由美が柔らかく口を開いた。


(……やっぱり、この人だったんだ)


今日子は、思わず長田をじっと見てしまった。

先日、仕事中に訪問先のお客さん宅で水漏れのトラブルがあり、業者を手配して一緒に対応した。

修理に来た水道業者の担当者が、最後に名刺を差し出してきたのだ。


《長田研二》

ああ、この名字――

すぐに今日子の脳裏に浮かんだのは、PTAの副会長・長田のことだった。


もしかして、ご主人…?

そう思ったけれど、あえて確認はしなかった。

話す必要もないし、詮索したいわけでもない。

ただ、長田がことあるごとに口にする「主人が管理職で忙しくて~」という言葉が、頭の中で引っかかっただけ。


(……水道業者も管理職には違いないけど)


どんな仕事でも立派だ。

それは今日子も重々わかっている。

でも、“管理職”や“忙しい”という言葉に、どこか違うイメージを持たせようとしていた気がして――ちょっとだけ、もやっとした。


会議は淡々と進んでいく。

児童数の確認。食券の枚数。当日の配置。

大きな変更もなく、必要な情報を一通り確認したところで、自然と空気が緩み始めた。


「うちの子、昨日も宿題やらずに寝ちゃって…ほんと困る~」

「でも栄光中の推薦もらってるんでしょ? すごいじゃない~」

「いやいや、たまたまですよ~ほんとに~」


また始まった、“自虐風自慢タイム”。

誰かが自分を下げたかと思えば、別の誰かがさりげなく上げる。

遠慮と見せかけた自己PRの応酬。

中でも堂々と自慢を繰り出すのは、やっぱり長田と堀田だった。


「今月、主人がまた東京出張で。リモートのときより忙しそう」

「へぇ〜やっぱり出世組は違うわ〜」


「今週はピアノの発表会でバタバタで。子どもたちもだけど、親のほうが緊張するのよね」

「堀田さん、いつもすごいよね。完璧なママって感じ」


その言葉の端々に、やっぱり“勝ち”をちらつかせる気配。

言葉の裏を読み合い、聞こえないようで聞こえている比較の数々。


(マウント合戦、いつ終わるんだろ)


そう思いながら、今日子はふと机の上に配られた確認用紙に目を落とした。

印刷された行をなぞるようにペンを走らせながら、心のどこかで「もう会議じゃなくて、発表会にしたらどう?」なんて思っていた。



会議がひととおり終わり、配られた確認用紙をざっと目で追いながら、今日子は水筒の麦茶を一口含んだ。


部屋のあちこちでは、小さな輪ができて、いつものように雑談が始まっていた。

今日子は、そこに加わることもなく、自分の椅子に座ったまま、なんとなく全体をぼんやりと眺めていた。


そのとき、部屋の壁際。備品棚の近くで話す二人の声が、ふっと耳に入ってきた。


「ねえ、聞いた? 堀田さんとこ……今、大変らしいよ」

「え、なにが?」

「旦那さんの会社、倒産したって。うちの人が、取引先の人から聞いたって言っててさ。あの感じじゃ、知られたくないんだと思うけど…」


「ええ……それは、ショックだね」

「うん。でも本人はいつも通りピアノの話とかしてるでしょ? すごいなって思う」


会話は、そこからさらに続いた。


「そういえば、北村さんとこも……浮気とか、離婚とかって噂、あるらしいよ。近所に住んでる人が言ってたんだって」

「うそ、あんなに家族仲よさそうなのに…」

「わかんないよね、ほんと。見た目だけじゃ」


声はひそやかで、表情は見えなかったけど、その言葉の端々に、ほんの少しだけ優越感と興味が混ざっているのがわかった。


今日子は聞こえないふりをして、手元の確認表に目を戻した。

でも、胸の奥に、なにか小さな重さが残った。


(……みんな、大変なんだな)


マウント合戦に見えた会話も、もしかすると、何かを隠すための鎧なのかもしれない。

「うちは大丈夫です」と言いながら、誰にも言えない不安を抱えているのかもしれない。


(私も、見せてない顔があるしな)


そう思ったら、急に少しだけ、みんなのことが愛おしくなった。


派手に争ってるように見えて、実はみんな、同じ場所で踏ん張っている。

家庭で、職場で、自分なりの場所を守るために。


今日子は、静かに立ち上がって、自分の椅子を元の位置に戻した。

そして、さっきよりほんの少しだけ柔らかい気持ちで、周りの輪をちらりと見やった。




夜。


「ただいま~」

今日子が帰宅すると、リビングからテレビの音とともに、務の「おかえり」が返ってきた。

テーブルの上には、夕食を終えた後の食器がきちんと重ねられている。


「ごはん、あっためておいたよ。鮭と、豚汁と、ほうれん草のおひたし。お味噌、ちょっと濃いかも」

「……やさしさがしみる〜」


今日子はすぐに部屋着に着替え、テーブルにつく。

湯気の立つ豚汁をひとくち飲んで、「あー」と声をもらした。


「うまい……今日、ほんと疲れたんよ」

「PTA?」

「うん。バザーの会議。もう決めることもないのに、いつものように雑談が始まってさ。今日も“うちはダメで〜”って言いながら、自慢が始まるのよ。聞き飽きたって思ってたんだけど…」


お茶を注ぎながら、務がふっと顔を上げた。


「うん」


今日子は少しだけ声を落とした。


「そしたらさ、備品棚の近くで話してる声が聞こえて。堀田さんのとこ、旦那さんの会社が倒産したらしいって。あと、北村さんのとこも浮気で離婚するとかしないとか…」


「……」

「ほんとかわかんないけど、なんか、びっくりしちゃって。あんなふうに“ちゃんとした人”に見えてても、裏では大変なこと抱えてるんだなって」


務は、ソファにもたれながらテレビの音を少し下げた。


「まあ、あるよ。人んちのことなんて、見えてるとこだけだし。むしろ、ちゃんとして見せようとする人ほど、何かあるのかもね」


今日子は、焼き鮭の身をほぐしながら、ぽつりと言った。


「なんかさ、私も変に気を張ってたのかも。ちゃんとしてるように見せなきゃって。でも、みんなそうやって、ちょっとずつ無理して頑張ってるんだなって思ったら……なんか、ちょっと優しくなれた」


務は、少し笑ってうなずいた。


「うん。今日子は、そのまんまでいいよ」

「……ちょっと怒りっぽくても?」

「まあ、そこは愛嬌ってことで」

「出たー、都合よくまとめた!」


そう言いながらも、今日子はくすっと笑った。


食器の片づけは後にして、ふたり並んでテレビを眺める。

画面の内容はあまり頭に入ってこないけれど、隣にいる人のぬくもりが、今夜は何よりもありがたかった。


「……まあ、いろいろあるよね」


その言葉は、ただの呟きだったけれど、ふたりの間に、静かに沁みこんでいった。

バザー1週間前、今日子は確認会議の中で耳にした“誰にも言えない話”に触れ、人は皆、表に見せないものを抱えているのだと知る。

家に帰り、夫・務にその気持ちを静かにこぼす夜。

「まあ、いろいろあるよね」――気負いすぎず、肩の力を抜いて生きる大切さを、ふたりでかみしめる。

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