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老科学者の空虚な日常

身も心も持たずに

作者: 一飼 安美

 男は科学者「だった」という。かつて、学会を追われるまでは日々研究を「していた」いう。ある日を境に妄想に取り憑かれ、正気を無くしたという理由で誰も男の相手をしなくなった。自分の爺さんほどの歳の科学者「だった」という男に、くだらねえと言ってやった。科学ってのは妄想の歴史だ。空を飛びたいだの明かりをつけたいだの、できたことのないことをできるかもしれないなんて考えるトンマが、実際にやっちまう。妄想しなくなったら科学者なんて終わりだ。爺さんは、そんな君だから聞かせてはいけない、と話たがらない。仕方ねえから、言ってやった。もう調べた、と。学会を追われる直前のあんたの論文と記録、断片的な動向くらいは伝え聞いている。おそらくは、とあたりをつけたからわざわざやってきたのだ。爺さんはオレを疑っていたが、寄生虫だろ?と言ってやると驚いたようだった。思ったより、賢い若者だ。そういう爺さんに、思ったよりは余計だと言い返した。だが、この先の話はオレにはついていけない。爺さんは、君より少しだけ、調べが進んでいると言って話し出した。


 自分の体を持たない生物、とは何かわかるかい?そう聞かれて、寄生虫だろうと答えたが、寄生虫にはれっきとした本体がある。だから除去が可能で、取り出せなくもない。体を持たない生物は、取り除くことができない。どこを探してもいないのだから、取り出せない。……オレが思っていたより、爺さんはどうかしているようだ。だが真剣な様子で、止めることはできなかった。本体はわずかな異物に過ぎないのに、自分の体を求めて体内を駆け回る。そして作り替える。恐るべきことに、時間をかけて進む、と爺さんは語った。その最大の恐怖は、脳に届いたときに起こるという。


 脳髄とはサーキットの塊、何を感じ何を考えるかは内部構造が決める。その構造は各自の経験が影響し、一人として同じ人生を歩んだ者がいないなら一人として同じものにはならない。個性とか、性格とか呼ばれるものがこれにあたる。だがもし、何かが割り込みをかけてサーキットを作り足し、埋め尽くしてしまったらどうなるか。異なる二つの回路は同一の脳髄の中で作動するごとにお互いに摩耗し、最終的には原始的なものが残る。その結果、一つの脳の中にある「人格」と呼べるような代物は、いつのまにか入れ替わっている。その過程たるや、想像を絶する苦痛。脳が占拠されて自分が消えていくことは、見えない何かに喰われていくことに似ているという。苦痛に負けて主導権を手放せば……それで最後。原始的な異物は、原始的であるが故に二度と反転することはなく、置き換わったまま一生を過ごす。今までそこにいた人物は、姿だけを残して消え去り、違うものになる。私たちの思うより、ありふれた現象だと科学者は語った。オレはつい、考えすぎだろうと爺さんを止めた。深刻なのはわかった、真偽はともかくあんたは真剣だ。だが、そんな話は聞いたことがない……。爺さんが何かを見つめていることに気がついて、本棚の小説に目が向かった。脳だけが発達した、弱いくせに乱暴な生き物。自分では何もできないから、乗っかっているのだ。確かそれは……。


「トライポッド?」


 ……私のことは忘れてくれ、と爺さんが言うものだから、言ってやった。科学は妄想だと言っているだろう。トンチキなことを考えるヤツがいて、言い出すヤツがいて、調べたら本当だったなんてことが今までに山ほどあった。あんたの話を、真に受けはしないが……そういうのが科学だ。どんなおかしな話も、おかしいとは思わない。そういうもんだろ?爺さんは小さな声で、ありがとうと呟いた。おいおい、何言ってんだよ。信じたわけじゃない。これ以上聞く話もないし……ついていく自信もない。帰るよ。そう言って爺さんの家を出るときに、オレは言い残した。……何かあったら言えよ。オレがまだオレだったら……できることくらいするよ。心配無用だ、と爺さんは言っていた。それ以来、爺さんがどうしているかは知らない。

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