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水平思考クイズを出す男

作者: ラムディー

「はぁ~っ」

 俺は両手を擦り合わせながら、手の間に暖かい息を吹き付ける。体が震えてがちがちと歯が噛み合わさった。

 雪空の下、俺は駅前のクリスマスツリーの前で寒さを耐えながら立っている。腕につけた時計を確認する。時刻は19時を15分ほど過ぎている。そのままポケットのケータイを確認するが、画面には何も表示されていない。そう、充電が切れてしまったのだ。

 電車を使って営業先に向かっている最中に人身事故に巻き込まれ、1時間ほど映画を見て時間を潰していたら、5年も使い続けてきた弱小バッテリーはあっという間にこと切れてしまった。

 人と待ち合わせるのにケータイがないのは何かと不便だ。今頃きっと、このケータイには遅刻の連絡が届いていることだろうけど…。もし相手が約束を忘れていたら? 寝過ごしてしまっていたら? そう思うと、こちらから連絡出来ない不安感に襲われてしまう。スマートフォンがなければ暇を潰す手段もなく、持て余す時間の中で更に不安は広がっていく。充電器を買いに行こうか? いや、その間に相手とすれ違ってしまっては面倒だ。結局、相手を信じてここで待ち続けるしかない。

 俺は寒さに体を震わせながら、チカチカとカラフルな光を明滅させるクリスマスツリーを眺め、ひたすら相手を待ち続けた。

「お兄さん」

 横から声がして振り向くと、そこには男が立っていた。俺が振り向くと同時に男は何かをこちらに投げた。反射的に俺はそれを手で受け止める。暖かい缶コーヒーだ。

「寒くない? それあげる。持ってるだけでも暖かいよ。」

 まだプルタブが起こされていない缶コーヒー。熱いくらいの温度だから、自販機から購入したばかりなんだろう。

 話しかけてきた男は色の抜けた明るい茶色の髪を襟足だけ少し伸ばし、左耳には小ぶりなゴールドのピアス、締まりのない緩い縦長のシルエットの服装と、だらしなさを感じる風貌だった。

「さっきからずっとここにいるけど、誰かと待ち合わせ?」

 何かのキャッチ? 先に缶コーヒーをプレゼントするくらいだ、超高額なぼったくりバーへ誘導されてもおかしくない。俺は少し警戒して、男から1歩距離を取りながら答えた。

「えぇ…、まぁ。」

「こんな寒い日にこんなに待つなんて、随分早く来たんだね。初デート?」

「いや、待ち合わせの時間はもう過ぎてるんですけど、相手が遅れてるみたいで…。」

 男の言葉に答えながら、横目で腕時計を確認する。時刻は19:20だ。

「へぇー。じゃあお兄さん、俺とゲームして時間潰さない?」

 俺は男の提案に驚いた。どこかのキャッチか何かだと思っていたが違いそうだ。この男の目的はなんなんだ?

 …もしかして、ナンパ? 男の俺がまさか、とは思いながらも、他にそれらしい目的が思いつかない。世の中は多様性の時代だ、可能性は0じゃない。

「…もしかして、ナンパですか?」

 思い切ってそう聞くと、男はぷっと大きく吹き出して笑った。

「ぷっ、ははっ! ナンパね! お兄さん面白いなぁ。悪いけど俺にソッチの趣味はないんだ。ごめんね。」

 男は俺の肩をばんばん叩きながらひとしきり笑うと、そのまま優しく肩を叩きながら謝った。相手に謝られたことによって、何故か俺の方がフラれたみたいになってしまった。

「俺も人を待っててさ。どっちかの待ち人が現れるまでの間だけ、一緒に暇潰さない?」

 人を待つ待ち時間に、見知らぬ人に話しかけて暇を潰すなんて。俺にはきっと真似出来ない。彼はきっと人見知りというものを知らずに陽気に生きて来たんだろう。

 知らない人と一緒にゲームをして時間を潰す、その場だけの仲。そんなのはなかなか体験出来ることじゃないし、充電切れでちょうど暇をしていたところだった。

「いいですよ。人が来るまでの間だけなら。」

「よしきた! それじゃあ、"水平思考クイズ"で遊ぼうよ。俺が問題出すから、お兄さんが解く役ね。」

「水平思考クイズ…、ウミガメのスープみたいなやつですか?」

「そうそう。やった事ある?」

「あるにはありますけど…、あんまり得意じゃないですね。」

 水平思考クイズ。短い物語を聞き、YesかNoで答えられる質問を繰り返して状況を整理し、物語の真相を推理するゲームだ。

 先程僕が例に上げた『ウミガメのスープ』だと、「ある男はレストランでウミガメのスープを注文した。スープを1口飲んだ男は、それが本物のウミガメのスープであることを確認し、帰宅後に自殺した。何故か?」というような内容の短い物語が出題される。

 これに対して回答者は、「自殺の原因はスープを飲んだことにあったか?」「男は過去にウミガメのスープを飲んだことがあるか?」などの質問を繰り返し、推理を進めていく。

 この物語の真相は、「男は過去に漂流したことがあった。一緒だった友人が次々と死んでいったが、男は決して死んだ友人を食して生きながらえることを選ばなかった。空腹で朦朧とする中、仲間から『ウミガメのスープだ』と言われてスープを飲み、見事に生きながらえた。後日男はレストランで本物のウミガメのスープを飲み、かつて飲んだウミガメのスープは死んだ友人のスープであったことを悟り、自殺した。」というストーリー。

 水平思考クイズに慣れた友人1人が出してくれ、不慣れな友人3人と一緒に解いていった。でもなかなか真相へ近づくことが出来ず、結局大きなヒントをディーラー自ら教えてくれることになり、半ば無理やり真相へ歩み寄って行った。

 そのせいもあってか、初めて真相にたどり着いた時、俺は『そんな無茶苦茶な。』と思った。

 答えを聞いた後でも、あの短い文章からこの答えをノーヒントで導き出せるとは到底思えず、それからはどこかこの手のゲームに苦手意識を持ってしまっていた。

「大丈夫大丈夫! 俺この手のディーラーには慣れてるから! 詰まったらいい感じにヒント出してあげるよ!」

 渋い顔をする俺に、男はそう言って説得を続ける。

「俺の考えたオリジナルのクイズなんだよ。ぜひお兄さんに解いてほしいなぁ。」

 男はきらきらとして目でこちらを見る。なるほど。それが彼の本音か。自分の考えたクイズを解いてくれれば誰でもよかったのかもしれない。

「まぁ…、いいですよ。待ち人が来るまでの間だけですけど。」

「やった!」

 俺は男から受け取った缶コーヒーのプルタブを起こす。開け口から盛れる白い湯気。

 コーヒーをひとくち、口に含んだ。熱いくらいのコーヒーが冷えきった身体に染み渡る。 コーヒーってこんなに美味かったっけ。そう思うほど、今の寒空の中ではこの缶コーヒーは至高の一杯だった。

「じゃあ、問題ね。『男は、酔いつぶれて眠ってしまった。その次の日の夜、男は寒空の下で凍え死ぬ事になった。』さて、何故でしょう?」

 先程まで笑いながら話していた男は、問題を出す前に少しだけ真剣な顔になってそう言った。ディーラーらしく雰囲気を出すためだろうか?

 それにしても、この問題はなんというか…、ウミガメのスープなんかと比べたら単純すぎる気がした。

「これ、質問なんてしなくてもわかりますよ。これはずばり、男は意識を失うほどに酔いつぶれてしまったんです。そして真冬の屋外でそのまま凍え死んでしまった。」

「ん~、残念! それなら次の日の夜じゃなく、酔いつぶれたその日の夜に凍え死ぬはずでしょ? なぜ1日間を置いて凍え死ぬことになったのか? ここを推理してほしいんだよなぁ~」

「うーん、なるほど、確かに…。」

 前言撤回だ。何故1日間が空いているのか? それを考え始めたら、一気に何も思い浮かばなくなってしまった。

「死因に飲酒は直接的に関係していますか?」

「直接的に…っていうのは、お酒を飲んで屋外で意識を失って凍死…とかそういうことだよね? なら"No"かな。お酒を飲んだことは"間接的に"関わってくるよ。」

「何故飲酒していたかは事件と関係していますか?」

「No。そこを掘り下げる必要はないかな。」

「男が凍え死んだ場所は冷蔵庫の中ですか?」

「No!」

「じゃあ室内?」

「それもNo!」

「なら屋外か。」

「Yes!」

「季節は冬だった?」

「Yes!」

「なら寒い日の夜に屋外で凍死、ってことか。」

「Yes! お兄さん、質問のしかた上手だねぇ。」

 男は両の手のひらを擦り合わせながらそう言った。まだ大した質問もしていないというのに、最後まで俺の興味を薄れさせないために必死なんだろうか。

「他殺ですか?」

「Noかなぁ」

「じゃあ自殺?」

「うーん…、自殺かぁ……?」

「事故?」

「うん…、まぁ、事故かな。自殺とも事故とも言いにくいけど、どちらかと言えば事故だね。」

 ここまで聞いて、俺は質問をストップする。

 まだ全く真相に近づいてきている気はしないのだが、既に質問すべき道が尽きてしまった。

「あれ、詰まっちゃった?」

「はい…、すみません。何故男がその日の夜に屋外にいたのか、を詰めていくべきなのかとは思うのですが、なかなかどう質問していけばいいのかが分からなくて…。」

「なるほど。いいね、質問の方向性はすごくいい! それなら俺から1つ、大きなヒントを出しちゃおうかな。『この物語には、男以外にも登場人物がいる』よ。」

 なかなかに大きなヒントだ。物語に第三者が関わってくるとすれば、どう関わってきたのかを質問して先に進むことが出来る。

 それに、俺が『何故男がその日の夜に屋外にいたのか』を詰めようとしていた所へこのヒントはかなり大きな進展だ。

「男が凍え死んだ時、誰かと一緒にいましたか?」

「No!」

「凍え死ぬ直前まで誰かいましたか?」

「それもNo」

「じゃあ、男は誰かを待っていましたか?」

「Yes! 男は寒空の下、誰かを待ってたんだね。」

 誰かを待っていて、その人が来なかったから、男は待ちぼうけて凍え死んでしまった。なんとも健気なことだ。

「誰を待っていたのかは重要ですか?」

「Yes! そこを掘り下げていくといいよ。」

「待ち人は男にとって大切な人でしたか?」

 先程までテンポよく行われていた男との質疑応答が急に止まった。

 不思議に思った俺は男の方へと目をやった。先程まで人懐っこい雰囲気で笑っていた姿から一変、男は真面目な顔でこちらを見つめていた。その変わりように、背筋がぞくりと粟立った。

 かと思えば、男はすぐに先程までの笑顔を取り戻すように、にっこりと口角を引き上げた。それでもまだ、目の奥が笑っていないような気がするのは気のせいだろうか。

「うーん、それは分からないなぁ。大切かどうかって、その人の主観だからね。まぁでも、一般的には大切な人に分類されるんじゃないかな?」

 物語の中の登場人物は自分じゃない。だからその人の主観となる事は答えられない…、ということか? 何故男はこの質問であんな顔をしたんだろう…?

 …そういえば、この男も誰かを待っていると言っていたっけ。

 まさか、この問題の物語はこの男自身の話し? 既にこの男は死んでいて、俺は死者とこのゲームをしているとか?

 …まさか、な。非現実的な妄想を、俺はぶんぶんと首を振って追い払った。

 ずっと笑顔だった男が急にあんな顔をしたせいで、変なことを考えてしまった。ただ一瞬の出来事だったんだ。別に笑顔でない瞬間があること自体はおかしい事ではない。ずっと笑顔でいることは疲れるし、休んでいただけかもしれない。

 変なことを考えるのはやめよう。今はこの問題に向き合わないと。

「待ち人は家族でしたか?」

「Yes。」

「母親か父親?」

「No。」

「兄弟ですか?」

「No。」

「じゃあ…、配偶者ですか?」

「Yes」

 配偶者。つまりこの物語の男は、自分の妻を待っていたわけだ。

 なんだか、この物語の状況は今の俺の状況にも少し似ている。今俺は、自分の妻と待ち合わせをして、ずっとここで待ち続けているのだ。このまま妻が来なければ、俺も物語の男のように……。そう思うと肝が冷え、俺は少しでも体を温めようと、まだ手元に残っていた缶コーヒーにまた口をつけた。

「待ち合わせしていたのは配偶者だけですか?」

「Yes。」

「何故待ち合わせしていたのかは重要ですか?」

「No。そこはどうでもいいね。」

「妻が待ち合わせ場所に来なかったことと、男が前日の夜に飲酒をしたことは関連がありますか?」

「お、お兄さん鋭いねぇ。それYesだよ。」

 物語の全貌は見えてきた。

 男が飲酒したことによって、何かしらがあって次の日の待ち合わせ場所に妻が現れなかった。その妻を待ち続けた男が寒空の下で凍え死んだストーリー。

 あと謎なのは、何故妻が来なかったのか、ただ1点になった。

「妻は、男が飲酒したことに怒っていましたか?」

「うーん、難しいね。でもすごくいい質問だから、具体的に答えちゃおうかな。ずばり、妻は怒っていた。飲酒をしたこと自体には怒ってない。でも、妻を怒らせた原因は飲酒をしたことに関連があると言っていいね。」

 そういえば俺も、昨日の夜は急な飲み会に巻き込まれて泥酔していたっけ。ノリのいい連中との飲み会でついつい酒が進んで…、やばい。どうやって家に帰ったのかもちゃんと覚えていない。

 今朝はその飲み会のせいで朝寝坊をしかけた。朝目が覚めると、家を出なくては行けない時刻の2分前だった。

 そういえば朝起きると、俺は昨日のスーツを着たままだった。夜にどうやって家に帰って来たか覚えてないが、帰ってきてそのまま寝てしまっていることは確かだ。朝から大事な会議があったから遅刻することも出来ず、俺は昨日のスーツを着たまま家を飛び出した。

 もういい大人だというのに、昨日は久々に後先考えない学生のような真似をしてしまったな。俺はそのことを思い出して恥ずかしくなり、ぽりぽりと頭をかいた。

「男は酒癖が悪いですか?」

「知らないけど悪いんじゃない?」

「男は酔った勢いで暴力とか、何かしらの不祥事を起こしましたか?」

「それも知らないし、起こしてても別に違和感は無いけど…。問題としてはNoって言った方がミスリードにならないかな。」

 問題を出す男は、そう答えながらまた少し顔を顰めた。答えへ近づかない質問をしてしまった俺の頭の悪さに呆れているのだろうか。

「暴力だとかそんな大きい事じゃなくてさ、もっと主婦の気持ちに寄り添った方がいいと思うよ。」

「主婦…? 男の妻は主婦だったんですね。」

「あ、やば…、出したかった所じゃない場所のヒント出しちゃった。まぁいっか。」

 男の妻は主婦だった。俺の妻と同じだ。

 …ああ、そういえば、俺も酒関連でよく妻を怒らせていた事があったなぁ。

「男は、その日の夜突然飲みに行くことを決めましたか?」

「Yes」

「男が妻に飲み会へ参加する旨の連絡を入れた時、妻は既に夜ご飯を作っていましたか?」

「Yes」

 チェックメイトだ。

 全ての謎が解け、ストーリーが一直線に繋がった。

「真相、わかりました。回答してもいいですか?」

「お、いいねぇ。聞かせて?」

「真相はこうです。まず、男は仕事終わりに、突然飲み会に誘われました。この物語の男の飲酒とは、飲み会のことだったんです。男は妻に『飲み会に参加するから夜ご飯は要らない』と連絡しましたが、妻は既に2人分の夜ご飯を準備してしまっていました。妻は男の連絡の遅さに苛立ちました。次の日の夜、男と妻は外で待ち合わせをしていましたが、怒っていた妻は待ち合わせを放棄してしまった。その結果男はいつまでも妻を待ち続け、冬の寒い夜の中で凍え死んでしまった…。」

 よくできた物語だ。自作の水平思考ゲームにしてはしっかり作られている。

 そして何より…、この物語は、今の俺の状況とあまりにも似すぎている。

 俺は昨夜、突然飲み会に誘われ、夜遅くに妻に連絡を入れた。いつもいつも、もっと早く連絡してと怒られていた。そしてそういう日は決まって当てつけのように、飲み会から帰った俺にアピールするように『あ~美味しい』と、詳細な食レポをしながら2人前の料理を平らげる妻の姿があった。

 そういえば昨日は飲みすぎて倒れるように寝てしまったから、妻の嫌がらせのような食レポを見ることが出来なかったな。

 『もっと早く連絡して』と怒りながらも、食レポというユーモア交えた嫌がらせをしてくる妻に、俺は少し甘えてしまっていた。

 突然夜ご飯はいらないと連絡しても、妻はそこまで怒らないと思ってしまっていた。

 でも、普通に考えればいつまでも平気でいられるわけが無い。せっかく2人分の食事を作っているのに、急にいらないと言われてしまう気持ちなんて想像に容易い。

 きっと、俺の妻も、この物語の男の妻と同じことで怒ってしまっているんだろう。いつもは平気そうにしていても、何度も何度も繰り返していてはいつかは堪忍袋の緒が切れてしまうものだ。

 妻が優しすぎることに俺が甘えすぎたせいだ。全て、俺のせい。

 今すぐ帰って妻に謝ろう。

「すごくよくできた問題でした。楽しかったです。…解き終わってすぐで申し訳ないのですが、すぐにしないといけない事を思い出してしまいましたので、これにて失礼します。またどこかでお会いした時はぜひ、また遊んでください。」

 俺は早口にそう伝え、すぐに踵を返して帰路につこうとした。

 がしっ。

 俺を引き止めるように、腕を掴まれる。振り返ると、俺の腕を掴んでいるのは問題を出してくれた彼だった。

「不正解」

「…え?」

「残念だけど、不正解。まだ正解してないのに帰らないでよ。」

「そんな…、今ので不正解…? …いや、真相も気になるんですが、俺はもうすぐに行かないといけない所が…」

 俺が無理やり帰ろうとすると、男は腕を掴む力を強めた。

「帰るなよ。最後まで解けって」

 ぞくっと背筋に寒気が走った。先程までは砕けた口調ながらも優しい口ぶりだった。笑顔でどこか人懐っこい雰囲気を持った男だったが、今は親の仇を見るような目でこちらを睨んでいる。

 男に腕を掴まれ、その力の強さに驚いた。細身に見えていた男だが、袖からちらりと覗く腕は意外にも筋肉質だ。長年運動をしていない俺じゃ、肉体勝負になれば到底勝てないだろう。

 そしてその腕にはなにやらタトゥーのようなものが見える。手首に生える細い2本の線しか見えないが、オシャレタトゥーというには余りにも全貌が見えなさすぎる。ということはそれなりに大きいデザインの可能性があるということだ。

 それに加え、途中で帰ろうとした俺に怒っているのか、今にも人を殺しそうな鋭い目付きで俺を睨んでいる。

 もしかしたら危ない人かもしれない。今すぐ妻に謝りたいというのに、俺にはこの男を怒らせたまま帰る勇気はなかった。

「…じょ、冗談です。ちゃんと最後まで解いていきますよ。…にしても、あれで正解じゃないなんて…。これ以上何を詰めるべきなのか、さっぱり…。」

 俺がそう言って男に向き直ると、男は腕から手を離さないものの、少しだけ手の力を緩めてくれた。

「じゃ、時間もないし、また大きいヒントでも出しちゃおうかな。」

 睨んだ目を少しだけ綻ばせると、男はさっきの調子に戻って話し始めた。

「『この物語には、男と妻の他にもう1人、登場人物がいる』よ。」

 男と妻の他にもう1人…? 先程の質問で、男と待ち合わせていたのは妻1人だけであることは分かっている。なら、残りのひとりはどこに出てくるんだ…?

「重要なのは、物語が始まるもっと前。妻は夜ご飯を作る前、その"もう1人"と会ってたんだ。」

「夜ご飯を作る前に会っていた…? その人物がなんで、この物語に関わってくるんですか…?」

「さぁ。それは、そのもう1人が誰なのか。なんのためにどこで会ってたのかが分かれば、自然と分かるんじゃない?」


「その人物は、宅配業者ですか?」

「No」

「その人物とは、仕事の用事で会いましたか?」

「No」

「じゃあプライベート?」

「Yes」

「その人物は妻の知っている人ですか?」

「Yes」

「妻の友人ですか?」

「No」

「その人物は男も知っている人ですか?」

「No」

「その人物は妻と血縁関係がありますか?」

「No」


「うーん…、なんでしょう…? 家族でも友人でもない、プライベートの用事で会う人…?」

「またまたぁ。とぼけちゃって。本当はわかってるくせに。」

 そう言って男は鼻で笑った。

「妻は不倫してたんだよ、白昼堂々ね。」

 なかなか答えにたどり着かない俺に痺れを切らしたのか、男はそう言った。

 不倫…、確かに、家族でも友人でもない。さっきまでこの物語は自分の話しと似ていると思っていたが、ここでやっと自分の状況とは違う要素が出た。自分の妻は不倫なんてしていない。俺は自分の妻が不倫をしていれば確実に気がつくという謎の自信があった。

「男の方は不倫に気づいてないんだけどね。不倫相手がわざと家にタバコを置き忘れても、何も不審に思わなかったんだって。ザルすぎてウケるよね。」

 タバコ…? そういえば、最近妻は喫煙を始めていた。あれほど煙の匂いを嫌っていた割に、初っ端からハードボイルドな銘柄を選ぶなと思っていた。

 でも、不思議には思わなかった。妻も社会で働く大人の1人。酒やタバコに寄りかかりたくなる夜があっても不思議ではない。

 そう、頭では納得しているはずなのに…。何故か俺の心臓は早鐘を刻み始める。

「…そのエピソードは、やけに具体的ですね。」

「ああ、失礼。物語を考えていると、バックボーンまで考えちゃってさ…。物語の真相とは関係ないけど、誰かに話したくなっちゃってさ。」

 男はにやにやと口の端を上げながらそう言った。

「さて、ここまでわかったら後は、不倫相手と妻の間に何があったのか、それが何故この物語と繋がったのかが分かればゴールかな。あと少し、頑張って」

 自分の話しじゃないと分かっているのに、何故か胸のざわめきが治まらない。すごく嫌な予感がする。





「不倫相手は、男の妻を殺しましたか?」





 どくん、どくんと心臓が跳ねる音が聞こえる。自分の心臓の音をこんなに大きな音で聞いたことは無い。早く答えを聞きたいのに、まるでスローモーションかのように時が流れる。




「No」




 俺はその答えを聞いて唖然とした。

「…ん? 聞こえなかった? Noだよ。」

「あ…、ああ、Noですね。」

 良かった。

 自分の話しじゃないと分かっていても、ここまで似た物語の中で妻が死ぬなんて、気が気でなくなってしまう。早くなった鼓動が徐々に収まっていく。

 …嫌なことを考えてしまっていた。杞憂に終わってよかった。

「不倫相手は、男のことを殺そうとしていましたか?」

「Yes」

 物語が一気にダークなサスペンスへ舵を切る。

「不倫相手は妻を監禁しましたか?」

「No」

「不倫相手は、なんらかの方法で男を凍え死にさせようとしましたか?」

「No」

「お兄さん、最初の方に自分がした質問、忘れてない? 男の凍死は"事故"。他殺じゃないよ。」

 ああ、そういえば最初にそんな質問をしていたっけ。ゲームも後半になってくると、どうしても最初の方の質問が抜けてしまう。

 …ちょっと難しくなってきた。てっきり、不倫相手が男を殺すために、妻を拘束したものだと思っていたのに。

 不倫相手に殺意があったことは明確になった。だが、その殺意とは裏腹に男は事故死してしまった。つまり不倫相手の殺人が失敗しているのだ。

 次はここを解き明かす必要がありそうだ。

「不倫相手の殺人計画が失敗したことによって、男が事故死してしまいましたか?」

「Yes」

 殺人計画が失敗したことで事故死。曲がりなりにもその不倫相手の目的は果たされてしまったことになる。問題は不倫相手がどう殺そうとし、何故失敗したのかだ。

「不倫相手は、男に直接手を下して殺そうと試みましたか?」

「直接手を下す…、それは不倫相手自身が行動したかどうかってこと?」

「そう」

「ならNoだね」

 回答はNo。でも今の質問があったということは、少し返答に迷う要素があったということだ。となると…。

「不倫相手は男を毒殺しようとしましたか?」

「Yes」

 ビンゴだ。直接手にかける刺殺・絞殺などではなく、罠を仕掛けて知らぬところでかかるような殺害方法であったということが言いたかったんだろう。

「毒は経口摂取するタイプの物でしたか?」

「Yes」

「男は、不倫相手のしかけた毒を飲みましたか?」

「No」

 飲んでいない。ここが失敗のポイントだ。まず、不倫相手はどこに毒薬を仕掛けたんだ? 妻と不倫相手は、白昼堂々不倫をしていた。"不倫相手がタバコを置き忘れる"なら、場所は男と妻の家だろう。

「男には毎日飲む薬がありましたか?」

「No」

「毒は飲食物に仕掛けましたか?」

「うーん、Noかな」

「毒はコップなどの食器に仕掛けましたか?」

「Yes」

 食器に仕掛けた。家の中で不倫をしていたのなら、食器に細工をすることくらい容易いだろう。不倫相手は、男のものと思われる食器に毒をしかけた。そして男はその食器を使わず、死ぬことはなかった。

 けれど、次の日の夜、男は凍死することになった。

 妻が、来なかったから。

「…妻は、生きているんですよね?」

 不倫相手は妻を殺してない。なら妻は生きている。でも、それだと俺の中での推理が合わない。

 俺の推理だと、恐らく………





「No」





 男は冷たくそう言い放った。いつになく俺に向けた視線が冷たかった。

「え…? さっき、妻は殺していないって…、」

「さっきのは『不倫相手は妻を殺しましたか?』って質問だったからNoと答えた。でも今回は『妻は生きているか?』って質問だったからNoと答えた。別に矛盾はしてないでしょ?」

 どくん。また胸が高なった。全身が心臓になったように、身体中が鼓動に合わせて脈を打つ。

「まぁ、ここまで来たらさすがに正解かな。もう概ねわかってるみたいだし、答え合わせにしようか。まず、一日目の昼。男の妻は、いつものように家に不倫相手を呼び、男の愚痴を零しながら不倫相手の愛を求めた。不倫相手は、妻を救いたかった。そのため、男を殺すことを決意した。男と妻の家にはピンクとブルー、2色の食器が用意されていた。妻がいつもピンクのコップで水を飲んでいることを知っていた不倫相手は、ブルーの食器に毒をしかけた。その日の夜、妻はいつものように2人分の夕食を準備し、2色の皿に持った。しかしその夜、男は突然飲み会に誘われ、家で夕食を取らなかった。仕方なく妻は1人で2人分の食事を平らげ、ブルーの皿に盛られた毒を嚥下した。男は泥酔状態で帰宅し、妻の安否を確認することなく眠りについた。その影響で朝も寝坊し、リビングに立ち入ることなく家を出た。そして夜、妻と待ち合わせをしていた男は、冬の寒空の下で来るはずのない妻を今も待ち続けている。」


 心臓が早鐘を鳴らし、額から脂汗が滲む。震え立った皮膚が服と擦れてちくちくと嫌な感触がする。余りにも、自分の今の状況と合致する点が多すぎる。ブルーとピンク、2色の食器。1人で2人分の食事を平らげる妻。物語を聞きながら、容易にその様子が脳内で再生出来てしまうほどに。

「は…、はは、すごい、よくできた物語ですね。よくこんなの、思いつきましたね。」







 男はにやりと唇の両端を釣り上げて厭らしく笑った。









「…本当は気づいてるくせに。

 木田 栞の旦那さん?」








 その言葉を聞いた瞬間、俺は目の前の男につかみかかった。目の前の男の胸倉を掴み、ツリーに押し付ける。男も俺を突っぱねるように抵抗する。危惧した通り男の力はとても強かった。

「何が"殺してない"だ…! お前が殺したんじゃないか…!」

「俺は殺してない! お前が死ねば…、お前が飲み会になんて行かなければ栞は死ななかった! お前があいつを殺したんだよ!」

「ふざけるなっ…!」

「それはこっちのセリフだよ! お前が素直に離婚に応じていれば、俺はお前を殺す気なんてなかった! いつまでも彼女を脅して離婚に応じないから、俺は仕方なく…!」

「何の話だ!? 俺は離婚を切り出されたことは1度もない…! 夫婦関係は円満だった!」

「嘘つくんじゃねぇ!!」

「嘘なんてついてない!!」

 頭の中が真っ白になる。

 今、何が起きてる? この男の話しはどこまでが本当? 今起きていることは、本当に自分の身に起こっていることなのか? どこにぶつければいいのか分からない怒りを、俺はただ目の前の男にぶつけた。

 男に足をかけ、体勢を崩したところを押し倒した。硬いアスファルトの感触が膝に伝わる。そのままギリギリと力任せに男の首を絞める。柔らかい首筋に爪先が沈み、指先にじわじわと赤色の液体が滲む。男は苦しそうに大きく口を開けて喘いだ。

 激しかった男の抵抗も徐々に弱くなっていくのを感じていた。

 その時、突然の目眩が俺を襲った。くらりと視界が歪むと、体全体に力が入らなくなり、俺は横になるように倒れ込んだ。俺の手から逃れた男は生理的な涙を流しながら、ゴホゴホと大きく咳き込んでいる。

 この手で殺してやるつもりだったのに、何故か鉛のように体が動かない。そんな俺の顔を覗き込むように、男は俺の目の前にしゃがみ込んだ。男はにやりと不敵な笑みを浮かべている。

「さて…、それじゃあ、クイズ第2問を始めようか」

 こんな時に何を…、そう言ってやりたいのに、口が動かない。どんどんと瞼が落ち、視界が狭まる。

 やがて視界は真っ暗になり、薄れゆく意識の中で最後に男の言葉が聞こえた。

「『男は、なんの疑いもなく差し出された缶コーヒーを飲んだ。そして二度と目覚めることは無かった。』さて、何故でしょう?」

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