水鳴祭
三十メートルという距離は、なかなか絶妙な距離だ。
一回走る程度なら大したことないのだけど、こうも連続で走り続けると堪えるものがある。
先にあるスイッチ——の代わりに立てられたカラーコーンがどんどんと遠ざかっているんじゃないかという錯覚すら覚える。昨日、クイズを出し合った後は結局今のように走り込みの特訓まで行うことになったのだけど、すでに筋肉痛が僕の足を襲っていた。
「ほれほれ~花の男子高校生がこれしきの走り込みでへばってんじゃねーぞ~」
「僕がぜんぜん運動しないことくらい知ってるだろ……」
カラーコーンをタッチして戻ってきた僕は、気楽そうに出題者役に回っている翔の煽りに息を切らしながら返す。
今日は絵裡も翠谷も探検部の本業——つまり発表会の資料作りでいない。隣で絵裡が走っているというプレッシャーで変に体力を減らすことも無いのだけど、昨日の疲れと足の痛みが必要以上に消耗を強いてくる。
「そりゃ俺ら探検部はみんな同じさ。絵裡なんてピンピンしてたぜ」
「あいつは違うんだよ。分かってて言ってるな」
地方の小さいものとはいえ陸上の大会で優勝経験のあるやつと比べないで欲しいものだ。本当、本番では一緒に走ることが無くて良かった。あいつに勝てる未来はどうやったって見えない。
「天野君、少し休む?」
そんな情けないことを考えているなど露知らず、緋村は僕に声をかけてくれる。こんなに走っているのも、クイズに対して緋村が答える速度が速いという理由がある。もちろん分からない問題もあるし、その場合は絵裡の特製問題集があんちょこ代わりになる。でも、分かるものに関してはほとんど即答に近い。
僕の疲労が蓄積する反面、緋村にとっては問題をたくさん解けるし、僕だって多く走れて良い特訓になる。どちらにとっても良いことには変わりない。
「いや、あと何回かやってみよう」
反射的と言っていい速度で僕は言葉を返して、ついでに踵も返してカラーコーンの方へ視線を向ける。
何でこうも大変で、慣れないことに一生懸命になっているのか。頭の片隅に疑問が浮かばなかったと言えば嘘になる。
でも僕が頑張ることで緋村が活躍して、楽しく笑ってほしい。そんな単純な気持ちで僕は今走り続けようとしている。
「筋肉痛って言ってたから、そこまで頑張らなくても……」
「い、良いんだよ! 僕が楽しんでやってるんだから」
改めて緋村から指摘されると普通に恥ずかしくて、振り返りながらつい声を張ってしまう。
楽しいのは本当だ。走るのは——というか運動すること自体得意ではないはずなのだけど、疲労感と同程度に楽しんでいる僕がいる。
「そう。不思議な感覚なのだけど、私も楽しい……のだと思う」
「なんだよそれ」
「頑張ることと楽しいことって、私の中では上手く結びつかなくて」
小脇に抱えた問題集の表紙を見つめながら緋村は言う。
頑張ること。緋村の努力。
医者になるという夢の実現にどれほどの努力と、それに伴う苦労があるのか、僕には想像することすらできない。
人の過去を勝手に想像するのは良くないが、廃病院で見た映像が現実のことであるのならば余計に、’楽しさ’なんて挟み込む余裕なんて無かったはずだ。
「頑張って楽しもう。楽しんで頑張ろう。たぶん、どっちもできるんだよ。僕も最近知った」
「そう、なのかな」
最近、というか今だ。話しながら今、そう感じることができるのだと知った。
緋村のために頑張ろうと思わなければ、この先そんな考えが自分に思いつけたかどうか怪しい。
さすがに恥ずかしいから面と向かって言えないけど。
「よーし、翔! 次の問題頼んだ!」
気恥ずかしさを紛らわせるために、翔に出題を促す。
次で何問目だろう。途中で数えるのをやめていた。
僕は再びカラーコーンを見据える。
「じゃあ天野君。天野君が筋肉痛なら、私は知恵熱を出すくらい頑張って楽しまなくちゃね」
背中にそんな言葉がかかって思わず笑いかける。
あまり聞き覚えの無い柔らかい声色から、きっと緋村は笑っているのだと思った。
その顔を確認しようと振り返りたかったけど同じタイミングで、翔の読み上げが始まった。
まったくタイミングが悪い。多分今振り返ったところで、緋村はあの冷静な、凛とした顔でクイズの答えを探しているはずだ。
「……」
そんな予想を立てながらも、いつ緋村の合図が来るかも分からないのに振り返ってしまった。
凛とした表情は変わらず。でも口元を上げて、その瞳には今まで見たことの無い炎のようなものが見えた気がした。
*****
それからの数日間はまさに光のように過ぎていった。
緋村のクイズ特訓は順調だった。さすがは緋村と言うべきか、まず問題のパターンや内容の把握スピードが早い。あらゆる知識に対して貪欲なのか、クイズの答えだけじゃなくそこから予備知識まで調べて自分のものにしようともしているようだった。
そういえば結局、翠谷が本番も解答者として参加することになったようで、一緒に練習をした。当然別チームだから敵に塩を送る形になってしまうが、そこは後輩だから大目に見る。
もちろんその間にも探検部の本業である発表会の準備も抜かりない。翔と僕で頭を突き合わせ、絵裡と翠谷にも協力してもらいながら、水鳴病院の歴史を調べたりパワーポイントで資料を作ったりしていた。
走り込みについては、翔にタイムを計ってもらいながら、僕一人で行うこともあった。たかが三十メートルと侮っているつもりはなかったが、何度も走っているとなかなか疲れる。
それでも緋村が問題に答えられるかどうかは僕の足にかかっているのだ。期待していないとは言ったものの、一秒でも早くスイッチを押せるように頑張らなければ。
「なんか、志郎がこんな生き生きしているところ初めて見たかもしれない」
文化祭前日。何本目かのダッシュを終えた後、翔が目を丸くしながら声をかけてきた。
放課後の練習だから、気づいたら日が暮れて暗くなり始めていた。
「そうかな?」
「そうだよ。なんつーか、志郎は全力で何かやるっていうより淡々とこなすキャラだと思ってたんだよ。それが今やそんな汗だくで、全力ダッシュだもんな」
「あー……」
言われて、かなり息が上がって身体が疲労していることに気づく。別に体を動かすことが得意なわけではない。体育の授業だって記録を伸ばそうなんて考えずに、せめて平均並みを取れるように頑張るくらいだった。
全力か。思えば今までの人生、何かに全力をささげたことはあっただろうか。記憶を辿っても印象的なものは思い出せない。中学の時は帰宅部とか、せいぜい図書委員とか、能動的な活動はあまりしてこなかった。
頑張らなければ、という意識はごく自然に心の底から出てきた。
翔の言葉に今更ながら、自分でも不思議な感覚が湧いてきていた。
「今からすごく身勝手なことを言うけどさ」
「おう」
「僕、緋村がクイズ大会に出るって言ってくれた時すごく嬉しかったんだよ」
「だいぶゴリ押ししちまったけどな」
「うん。その前から、いつも一人でいる緋村が可哀そうだって思ってた。悪い奴じゃないって感じたからなおさら、何か一緒に話せたり、できることはないかって思ってたんだ。何様だよって話だけどさ」
成績トップで顔だちも整っている。高嶺の花と言っても差支えのない緋村を、僕なんかが心配してどうなるのか。
話をしてみて、廃病院で彼女の過去らしき映像を見て、より一層思った。
「緋村には楽しんでほしい。せめて嫌な気持ちになってほしくない。だから頑張る。そんな感じかな」
彼女に強い光を見た。今はまだ眩しくて直視が難しい。
けれど走ればその光に追いつけるんじゃないかと、愚かにもそう考えたのかもしれない。
「くっくっく、それって……。いや理由はどうあれ、それを聞けてなんだか俺も嬉しいぜ。お前にも青春の二文字があったなんてな」
「なんだよそれ」
「自分の心に訊いてみな。さて、もうひとっ走り行くぞ!」
翔が白い歯を見せながら、僕をスタート位置まで促す。
何がそんなに嬉しいのやら分からないけれど、僕の足はまだ十分動きそうだった。
*****
今この現実が夢なのではないかと疑って、もう数日が経過しようとしている。
あるはずのない場所に立っていた廃病院。現れては消える父親と、子ども時代の自分。それからは普通に流れる日常。夢にしてはずいぶんと長い気がするけれど。
もし夢だとしたら、これは私が心の底で望んでいた展開なんだろうか。
いつの間にやらクイズ大会に参加することになって、探検部部室もまるでメンバーの一員のように出入りしてる。
私は少し話しかけづらいオーラを纏っている、と藤田君が少し前に話していた。いつも表情や雰囲気が張りつめていて声をかけづらいのだとか。
少し自覚できる部分はある。実際、私は私で自分のことで精一杯だ。定期テスト、受験、そしてその先のために、知識のインプットとアウトプットを止めてはいけないと考えているから。
誰かと仲良くできるのなら喜んでそうしたい。けれどやり方が分からないし、その余裕がなかった。
そんな私が、普通に友だちを作って、文化祭を楽しもうとしているなんて。
ちょうど今みたいに、ひたすら机に向かって問題を解いていたりする姿を見て、彼らは声をかけてくれたのだろう。
それは実際に正しい。クイズのためとはいえ、知識を吸収できるのは楽しくもあった。
友だち。少なくとも藍沢さんは”仲間”と言ってくれた。他の探検部のメンバー——特に天野君はクイズの練習でもかなり親身になって付き合ってくれる。
久しく感じたことのなかった温かさを感じた。
小さかった頃、まだ母親が元気だったころの家族の中にいるかのような感覚もあった。
現実でも些細なきっかけで、この温もりを手に入れることができるのだろうか。
それとももう醒めていて、本当に現実なんだろうか。夢心地。ふわふわとした、おかしな感覚だ。
考えれば考えるほど思考の渦にはまっていきそうな気がしたから、私は顔を上げて窓の外を見る。陽が沈みかけていて、空がオレンジから紫に変わりかけているところだった。
「さて、もうひとっ走り行くぞ!」
「了解!」
窓を開け放しにしていたから、聞き覚えのある声が耳に入る。覗き込むと、藤田君と天野君が走り込みをしているところだった。
スタートの合図とともに天野君が走り出す。フォームがどうとか、もっとスピードが出る方法とか、見識が無いから口出しはできない。けれど、とにかく懸命に走っていることだけは分かった。
ゴールを見据える天野君の真っすぐな目。
小さい頃の将来の夢は曖昧で覚えていないと言っていたけれど。
その視線はもしかしたら私なんかよりも強く、何かに向かって伸びているように見えた。
*****
「引き続き水鳴祭一日目午後の部となります! 校内だけでなく地域の皆様にも楽しんでいただけるよう様々な出店、イベント等が盛りだくさんです! 楽しんでいってください!」
水鳴祭実行委員長がアナウンスを終えるや否や、校舎の内外に再び人があふれ出す。
なんだかんだ言いながら始まってしまった水鳴祭。
午前の部は、僕らが探検部の発表会で慌ただしくしている間に終わった。発表会自体は短く終わったものの、軽い怪談話としても受けが良いように見えた。翔が軽快な口調で話しつつも詳細に客の興味を引いてくれたおかげだろう。
職員を実地調査に向かわせよう、などとスーツ姿の大人がひそひそと話していたのは聞かなかったことにする。もし本当に何か良からぬことにあの廃墟が使われていたら肝が冷えるどころの話ではない。
そんなこんなで午後の部が始まってからようやく文化祭の雰囲気を確かめることができた。
僕らのクラスのたこ焼き屋を始め、クレープ、唐揚げ、チュロス、綿菓子等々、食べ物のにおいがあちこちから漂ってくる。
食べ物以外にもお化け屋敷、古本・古着販売、軽音楽部のライブ、写真部の写真展等、常設の催し物が多数用意されている。去年はどこから回って良いのやら、翔と校内を右往左往したものだった。
「さてと、この後はいよいよクイズ大会だな。俺もなぜか実況として呼ばれてるから、お前らの雄姿を間近で眺めさせてもらうぜ」
「なんだか去年に比べると忙しいな」
「楽しいから良いじゃねーか。出店類はまた明日のんびり回れば良いし」
僕と緋村、それに緑谷が参加するクイズ大会は目玉イベントの一つで、十四時から開催される。
あと三十分もしないうちに体育館に集合しなければならない。
練習の成果を発揮するのはどちらかと言えば緋村の方だけど、僕もそれなりに緊張してきた。
気晴らしついでに、僕はこっそりと絵裡お手製の’サンなん’クイズ集を開いて、適当なページに目を止める。
「問題! 形によって、プロフェッサーやリベンジがなどの種類がある、」
「ルービックキューブ」
「ばっちりだな」
抜き打ちクイズにもしっかり答えてくれる緋村。
どうやら準備体操が必要なのは僕だけのようだった。
*****
「知力! 体力! アンサー! ランナー! 異なる二本の柱が織りなす、絶妙なバランスの上にのみ存在する勝利! 相棒を信頼し、好敵手を裏切れ! 振り返るなランナー、振り返らせるなアンサー! クイズ、”アンバランサー”開幕です! なぜか実況を担当することになりました探検部所属二年の藤田翔です! よろしくお願いしまーす!」
マイクによく乗る翔の声でクイズ大会は始まった。
出演チームは全部で五つ。それぞれ二人一組で固まって、ステージ裏で企画説明のアナウンスを聞いていた。
舞台袖から見えるだけでも、観客の座るパイプ椅子はほとんど埋まっているようだった。
「藤田君、クイズ研究会の人たちより張り切っているように見えるわね」
「研究会のメンバー主力が解答者として参加。それ以外がみんな人前で話したりするのが苦手なんだってさ。今までも企画とクイズだけ立案して実行は外部の人たちに任せてたとか」
「それでよく成り立ってましたね……」
「私の友だちも数人駆り出されてるっぽいよ~。お化け屋敷行くつもりだったのにって愚痴ってた」
「それは可哀そうに……て、あれ絵裡?」
ナチュラルに会話に混ざったのは障害物競走に呼ばれているはずの絵裡だった。
冷やかしに来たのかと思ったが、周りにいる人数をぱっと数えてもピッタリ十人。
「ボクの相方になるはずだった人が急遽欠席。障害物競走の開催規模縮小で藍沢先輩があぶれて、結果的にボクのランナーに収まったわけです」
「こらこらあぶれてるとか言わないの。まぁ、そういうことだから紫苑ちゃん、志郎、よろしくね。手加減は無しだよ?」
にへらと笑んで手を振る絵裡。ステージから差し込んだ光に半分だけ照らされたその顔に、ぞくりと背筋が震えた。
いつもの笑顔なのだが、これはランナーとして立ちふさがった”強者の”笑みだ。こいつの実力は、少なくともこの中では僕が一番よく分かっている。本当に予想外のダークホースだった。
「アンサー、解答者じゃなかっただけまだマシかしらね」
「そう、かなぁ。かもしれないなぁ」
緋村の言葉に僕は言い淀む。もし絵裡が解答者だったら師弟対決みたいなものだ。問題への慣れはおそらく絵裡の方があるだろうから、緋村にとってはまだ良かったのかもしれない。
あとは僕が走り負けなければ良いだけ。接戦になったら分からないけど。
「さて、そろそろ参加者の紹介と行きましょう。エントリーナンバー一番! 研究会期待の新人……」
そして警戒するのは絵裡だけじゃない。そもそもクイズ研究会のメンバーも相手チームにいるわけだから、緋村だって油断できないのだ。
翔のアナウンスで僕らはステージに上がってそれぞれ自己紹介をする。こうやって観客席を見下ろすと緊張感は増すものだ。
ステージと観客席の間に見えるのが、僕らランナーが押すべきスイッチ。あれを押すことで初めて緋村たちアンサーが答えることができる。
「ランナーの皆様はステージから降りていただき、スタート位置についてください。さっそく第一問を読み上げさせていただきます!」
やけに様になっている司会の声に従って、僕らは階段を下りる。
偶然か、スタート位置について横を見ると絵裡の顔があった。
「徒競走で私に勝てたこと、無かったよね?」
「バカ言え。何年前の話をしてるんだよ」
小学校くらいの頃には確かに負けていた。女子に負けるなんてと、よく他の男子たちに馬鹿にされたものだったが。
振り返ってみれば当然だ。中学に上がってからは地区大会で優勝できるほどの実力になっていたのだから。
「単純な早押しクイズが続きます。分かった段階でアンサーはランナーに合図してください。第一問……」
始まる。翔の読み上げに、観客戦のざわめきも一瞬だけ静かになった。
「第一問。漢字では’十柱戯’と表記される、正三角形に……」
「走って!」
問題の読み上げ途中。マイクを通した翔の声に被さるように、緋村の声が僕を動かす。
もう分かったのか。ジッチュウギ?ってなんだ。漢字のイメージが全くわかない。分からなくても、僕は走ってスイッチを押せば良い。余計なことは考える必要はないのだ。
「……並べられた十本のピンの倒した数を競う室内スポーツといえば……」
僕が走っている間にも問題は読み上げられる。後ろから、それぞれのアンサーの合図と地面を蹴る音が同時に聞こえた。
スイッチまで残り僅か。とりあえず一問目は取れる。
——。
「……!」
「最初に押したのは天野選手。緋村選手、解答権を得ました!」
「ボウリング」
「正解!」
確かにスイッチを押して、一問先取はできた。
けれど背後に感じた風圧に、僕は走った以上の疲労感を感じ取った。
「あー、追いつけると思ったんだけどなー!」
すぐ後ろで悔しがる絵裡。手一つ分の距離だったかもしれない。かなり先行で走り出せていたはずなのに、この一瞬でここまで距離を詰められるとは。
「先に心臓がやられるぞ……」
絵裡だけじゃなく、翠谷だってクイズ練習には付き合ってくれたのだ。万が一緋村より先に答えられたら追いつける自信がない。
これはなかなか厳しい戦いになりそうだ。