廃病院
小さい頃の私にとって、彼はいつも目の前で輝く大きくて温かい灯だった。
そんな灯にいつしか惹かれて、自分もそうなりたいと、何も知らない私ははしゃいでいた。
そして彼女はそんな私を優しく見守って、笑顔で背中を押してくれた。背後にもほんのりと温もりを感じていた。挫けて後ろを向いたって、そこに光はあった。
—— 助けてあげられなかったんだ。
けれどあの日、視界を照らすかがり火が一気に二つも消えた。
悲壮に歪んだ彼の顔は、きっと一生忘れない。
あぁ、もう何も見えない。
自分が光を放たないと、前に進むことなんてできないんだ。
そう、思った。彼が失った光は、私が引き継いで灯し続けなければ。
まだ足元くらいしか照らせない光。そんなものでも頼りにしてがむしゃらに進むんだ。
……どこへ?
先に何があるのか、そんなことを考える余裕はなかった。
*****
南水鳴病院跡地。
スマホのマップでたどり着いたのは良いものの、今までこの場所にこんな建物が建っていたことなんて全く知らなかった。
学校から舗装された山道で自転車を走らせて三十分。
うっそうと茂る森の中を進むと、湖に浮くように、まるで合成写真のように立っていた。
見た目は至って普通の病院といった感じで、白塗りの四角い建物が何棟にも分かれている。
よく晴れているから明るく、知らなければ普通に営業中の病院にも見えるくらいにそれほど汚れていないし、朽ちてもいない。少なくとも外観を見た感じでは、だが。
「なんつーか、不気味じゃなさ過ぎて逆に不気味、みたいな」
「今までとはまた違う雰囲気があるな」
朝の十時。陽も程よく出て、鳥の囀りが聞こえる風の気持ち良い朝。
休日にしては少し早い集合時間に僕も含め五人とも遅れずに集まることができた。
「ちょっと、先輩」
「なんだよ後輩」
「本当にいるじゃないですか、緋村先輩」
「なんでちょっと嫌そうなんだよ」
「そ、そんなことはありませんよ。でも……いや、探検部に入るんですか?」
「そういうわけじゃない。けど、今回は本人の希望で一緒に行くことになったんだよ。昨日連絡したままさ」
「……そーですか」
本人の希望と言いつつ、遠慮気味だった緋村の背中をぐいぐいと押した僕の存在は内緒にしておく。
当の緋村は病院をまっすぐに見上げ、何か思いつめるような表情をしていた。
「緋村、大丈夫か?」
「え、えぇ。ところで具体的にどういうプランで探索をするの?」
表情と話題を変えて、逆に緋村が訊いてきた。
なんだかはぐらかされたような気がするが、そういえば具体的なプランはまだ決めていない。
「さて、どうする部長」
「第一段階はざっくり内装の把握からだ。本に書いてあった小さな女の子の霊は五階に出るって話だったけど、どの棟かは書いてなかった。二手に分かれて半分ずつ五階を中心に探索、珍しいものやら出来事があれば随時メモって感じだな」
最初は翔のことを勢いだけで生きていそうだなんて思っていたのだけど、こういう時はしっかりリーダーっぽいことをやってくれるから頼りになる。友だちが多いのも納得だ。
「チーム分けはどう分かれようか?」
「そりゃコイントスよ。みんな持ってきてるよな?」
「もちのろん」
「まぁ、使うだろうと思って一応は」
「コイン……?」
紫苑以外のメンバーは各々五百円玉大のコインを取り出す。
いつだったか、電車ですぐ行ける距離にある観光地に探索という名の旅行に行ったときに、販売機で買ったものだ。
わざわざ’Mizunari Explorer’の名入れまでして、後に入ってくる後輩のためにとか何とか言って多めに作っていた翔の顔が思い出される。
あれから新入部員は翠谷一人だけなのだけど。
ともあれ買って以来、二つのうち一つを決めるときはだいたいコイントスをして決めることが多い。
「表と裏で、分かれるぞー」
キィン、とそれぞれのコインが中空に舞う。
掌に着地した面には’Mizunari Explorer’の文字は見えず……つまり裏だった。
「表!」
「お、絵裡と一緒か」
「先輩、行きますよ」
「分かった分かった慌てるなって。緋村、最後にやってみてくれ」
ちょうど二人ずつで分かれたようだ。
なぜか張り切って進もうとする翠谷に待ったをかけて、僕はコインを緋村に渡す。
緋村は不慣れな手つきでコインを弾き、落としそうになりながらも掌の上に落とした。
握りしめた拳が開かれるのが、やけにゆっくりに感じた。
「……表よ」
「お~、一緒だね緋村さん! 先輩の私が探索の基礎を手取り足取り教えちゃうよ~ん」
「いや、別に探検部に入ったわけじゃ……」
「オーケー、決まったな。早速行くか!」
表がアタリで裏がハズレ。一般的にはそんなイメージがあるかもしれない。
普段僕はそんなことあまり気にしないのだが、今回ばかりは思い切りハズレを引いたような無念感が残ったのだった。
……気持ちを切り替えて、後輩と二人の廃墟探索か。
昼間とは言え暗いだろうから足元に気を付けてやらないと。
*****
「えー、先輩。怖いです。とっても」
「どうした後輩。あんなに勇ましく足早に進んでいった頼もしい翠谷はどこに行ったんだよ」
「中に入った瞬間から雰囲気が変わったというか。何かに纏わりつかれているような……とにかく気味悪いんですよね」
「まぁ、確かに」
入り口から入って、すぐに三人と別れて僕と翠谷は右のルートを探索することにした。
翠谷の言うように外から見た印象以上に中身は廃墟としての趣があるというか。
まずは広い待合室。
町やどこかの会社に管理されずほったらかしになっているのか、ずらりと並べられた椅子はそのまま放置されて所々破れているものも多い。
奥には受付カウンター。ちょうど陽のあたらない方角だからかなり暗く、そこに人が立っていたとしても近づかないと分からないかもしれない。
そして何よりも空気が違う。
外で飽きるほどピーチクパーチク歌っていた鳥たちの声はまったく遮られ、窓から陽の光は確かに入っているのにどんよりと暗く感じる。
「離れないでくださいよ、先輩」
「うーん、意味が違えばカッコいいセリフなんだけどなぁ」
緋村たちはもう先に進んだのか姿は見えない。
僕たちは待合室を進んで右、呼吸器科やら皮膚科やらと書かれた看板の方へ向かって歩みを進めてみる。
とりあえずまずは五階を目指してみよう。
「なんだか、つい昨日まで営業してましたみたいな保存状態のところもちらほらありません? ここが廃墟になったのって何年前でしたっけ?」
「十年位前に新しい場所に引っ越したって本には書いてあったな。それにしちゃいろいろ残りすぎだとは思うけど」
途中通り過ぎる診察室や検査室を覗いてみても、机や椅子、ちょっとした機材なんかが埃を被って置きっぱなしになっていた。こういうのは回収したりしないんだろうか。
進めど進めど、特にこれと言ってアクシデントは起きない。
どこからか聞こえてくる音も声もなく、聞こえるのは僕らの足音と慎重な息遣いだけ。
普通はそうなのだ。似たような廃墟に以前も来たことがあるが、意味深な落書きを見つけてはしゃいだり用途不明の道具を見つけたりで、’何か’に遭遇することはなかった。
逆にあったら警察沙汰か、下手したら戻って来れていない。
「お、階段だ。上がるぞ」
「エレベーター、何かの間違いで動いたりしませんかね」
「それはそれでネタになるから一石二鳥なんだけどな」
怖さを紛らわすために、僕らは文句を言いつつ階段を駆け上がる。
普段運動なんかしない僕にとってはこれだけで超重労働だ。おかげで少し恐怖心が抜けたような気もするけれど。
「はぁ、はぁ、翠谷、ついてこれてるか」
「ふぅ、ひぃ当たり前じゃないですか……! 先輩より若いんですよ、誠に不本意ながら!」
「なんだよそれ……」
息を切らしながら上がった先には、大きな自動ドア——と言っても今は全開放されているが——があって、その先が病棟になっているらしい。
いくつもの扉が並んでいるのが見えた。
「ここがそのまま例の病棟であればビンゴなんだけどな」
「確かにそうだったら楽ですね。はぁ、なんだか空気が薄い気がします。頭が痛くなってきましたよ……」
「大丈夫か? 少し休むか? そこに椅子があるけど」
「座ったら足が折れそうな見た目してますが、えぇ、ちょっと休みます」
体力以上に、変に緊張して精神力を使っているのは確かだ。
自動ドア近くにある長椅子に恐る恐る座る翠谷を眺めてから、僕は再び病棟の方を覗く。
部屋は見えるだけで八つ。さらに左右に道が伸びているようだからまだまだあるのだろう。
——。
あれ、今、何かが動いたような。
曲がり角で何か長いもの——黒い、人の髪の毛のようなものが通り過ぎていったように見えた。
錯覚か? それとも絵裡か紫苑か、何らかのルートでこっちまで来たのだろうか。
「なぁ、翠谷——」
僕は振り返って、翠谷が座っていたはずの椅子を視界に映す。
そこには。
「お兄さん、カンジャさん?」
「え」
そこには、小さい女の子がぽつりと立っていた。
視界が暗くて見えづらいが、肩まで伸びている髪は黒。青か紫か、淡色系の色のスカートを履いていた。
真っ先に浮かんだのは件の幽霊少女。
僕はウエストポーチに忍ばせた懐中電灯に手を伸ばす。幽霊って光を当てたら倒せるんだっけ。
「カンジャさんなら、おとうさんのところに行かなくちゃ。なんでも治してくれるんだから」
お父さん。患者。治す。
事前に読んでいた情報は確か母親を呼ぶ少女だったっけ。だとしたら目の前のこの子は違うのか。
いや、何を僕は幽霊前提で話を進めているんだ。普通に迷子なんじゃないのか。それでもこんなところにいるのはおかしいし、入れ替わるように翠谷の姿も見えない。
「えーと、僕は患者じゃなくて、ちょっと迷子になっちゃってね。君は? どうしてここに?」
混乱する思考を吐き出すように僕は尋ねる。
「おとうさんにお弁当を届けに来たの。迷子ならおとうさんのところに行こう。きっと案内してくれるよ!」
こんな廃墟で、父親にお弁当を届けに来た?
もしそれが本当なら警察沙汰の事案だし、妄言なら治してもらうのはこの子の頭の方だ。
……いや、いったん考えるのはやめよう。
冷静に考えるのが馬鹿らしくなるくらいの嫌な胸騒ぎと、纏わりつく空気感が僕の身体全体に警鐘を鳴らし続けていた。
「そ、そうなんだね。じゃあお父さんの所に連れて行ってもらおうかな。ところで君の名前は? なんて呼べば良いかな? 僕は天野志郎っていうんだけど」
とりあえず自己紹介をしておく。
相手の正体が人間かどうかも分からないから、せめて自分の身分だけでも明かして少しでも不明瞭な部分を明かしておきたかった。
「天野さんね。よろしくー。わたしはね、シオンっていうの。ヒムラ、シオン!」
ヒムラ、シオン。
緋村紫苑。
そんな響きの名前、珍しいから聞き間違えるはずもない。同姓同名もだいぶ珍しいはずだ。
なんだ、僕は夢でも見ているのか。
確かにここ二、三日緋村のことを気にかけてはいたけど、こんな少女の形で出てくるなんて。これは本当に彼女のお父さんに診てもらった方が良いのかもしれない。
「こっち、ついてきて」
「あ、あぁ」
もうすでに情報量が多すぎて頭がパンクしそうだ。
とりあえず言われるがままに、ドアの向こうへスキップで進む少女——シオンの後をついていくことに決めた。
暗いから見失わないようにしよう。そう思って懐中電灯に手をかけた瞬間、急に視界が明るくなった。
同時に、頭の中でテレビのスイッチが入ったかのように、人の話し声、無数の足音、あらゆる種類の機械音が一斉に鳴り出した。
「え」
顔を上げると、そこはもう普通に病院だった。
病室からは点滴を引きずったおじいさんが出てきて、看護師たちが何やら話しながら廊下を速足で進んでいる。ナースコールがけたたましく鳴って、それに応答するスタッフが慌てていた。
天井の蛍光灯は一つも欠けることなく点いていて、床も壁もひび割れや汚れもない。
いや、これはもう、夢だろ。
おかしい。どこかで醒めないと。眠っているってことは、廃病院に行く前日だろう。集合時間に間に合わない可能性もある。
「……とにかくシオンちゃんに付いていくか。こういうタイプの夢は進んでいくといつの間にか醒めてたりするんだ」
自分に言い聞かせた独り言がやけにはっきりと自分の耳に返ってきたのは、気にしないことにした。
「おとうさんはすごいんだよー。病気で苦しんでいるカンジャさん、みんな治しちゃうんだから。みんなヒムラ先生に、ありがとう、ありがとうって言ってくれるんだ」
「へぇ、それはすごいね。どんな病気の人を診ているか分かる?」
「んーとね。ひどい咳をしている人とか、すごく痩せちゃっている人とか、とにかく辛そうな人たちかな」
どうやら僕の夢の中では、緋村の父親は内科医っぽいようだ。呼吸器系か、内臓系か、詳しいことはわからないけど。
顔を輝かせながら誇らしげに話すシオンちゃん。
思いつめて、いつも遠くを見つめているような今の緋村からは想像できないくらい、真逆だった。
別棟への渡り廊下を進み、階段を上る。
進むうちにたどり着いたのは、他のより少し良い素材で作られていそうな木の扉だった。
「おとうさん、お弁当届けに来たよ」
「あぁ、シオン。ありがとう」
扉を開けて中に入ると、シオンちゃんと同じ髪色の男性が座っていた。考え事をしていたのか、やや長めのその髪に手を置いて、こちらを見ずに返答した。
デスク上のネームプレートには’緋村誠一’と書かれていた。夢にしてはだいぶリアルな名前だ。
「この人は天野さん。迷子なんだって。帰り道を教えてあげてほしいの。助けてあげて」
「迷子……?」
シオンちゃんの声に誠一さんは顔を上げる。
口元は上がっていたが、その眼鏡の奥にある隈のできた目には光が見えなかった。
まるで仮面。その面を剝がしたら、いったいどんな形相が飛び出してくるのか。何かどす黒いものが眠っている、そんな想像をさせるような表情だった。
「その、すみません。診てもらいに来たわけじゃなくて、通りがかっただけですぐ帰りますんで」
通りがかりがわざわざ六階まで上がって院長室に入るかというツッコミを自分にしつつ、僕の足は自然と後ろに引いていった。
「あぁ、良いんだ。僕は医者だからね。人を、助けるのが仕事なんだ」
「あはは、わざわざそんなことまで助けていただかなくても」
自分でも笑顔が引きつっているのが分かる。
もう明らかに後ずさりする僕を誠一さんと、そしてシオンちゃんが笑顔で見つめていた。
「おとうさん、助けてあげてよ」
助けてあげてよ。
たすけてあげてよ。
たすけてよ……。
たすけて、たすけてよ!!
シオンちゃんの声が少し低くなって、悲痛な叫びに変わっていく。
次第に合唱のように、いくつもの声——低い男声、しわがれた老人、泣き叫ぶ女性——様々な声が指揮者のいない合唱のように不揃いに、喚き散らすようにあらゆる方向から聞こえてきた。
豪風が通り過ぎるような音がその声をものすごい勢いで吹き飛ばして、同じように誠一さんやシオンちゃんが霧のように消えていく。
「でもね……」
止まない轟音の中、誠一さんの声が消え入りそうになりながらも続く。
「助けられなかったんだ」
映像が写真のように豪風と一緒に流れていく。その一つ一つが何なのか、明確に認識はできなかった。
けれどその中で一つ、はっきりと映ったものがあった。
病室に横たわる一人の女性。やせ細った体躯と顔。目を瞑って、息をしているのかどうかも分からないくらい微動だにしていない。
その横にはおそらくシオンちゃんと誠一さんらしき、女の子と男性が俯いて立っていた。
女の子は泣いていた。その小さい身体から、悲しみと絶望があふれ出てしまっているようで、見ているこっちまで苦しくて泣きだしたくなるようなそんな表情だった。
突風が一瞬吹いて、視界が変わった。
所狭しとベッドが並べられた、薄暗い病室らしき場所。その中央に、僕の同級生の緋村がいた。
彼女の片手には懐中電灯。まるでスポットライトに当たっているように、ぽつりと一人浮いているようだった。
「緋村!!」
声を出しても緋村は答えない。相変わらず遠くを神妙な面持ちで見つめていた。
代わりに答えたのは、またしても怨嗟にも似た助けを求める声。
それは僕を、そして目の前の緋村を呑み込もうとしているのが分かった。
声も心も精神も飲み込まれそうになりつつも、それを払いのけるように僕はひたすら緋村の名前を叫んだ。
とんだ悪夢だ。もう自分が何を叫んでいるのか分からない。この耳に響いているのが自分の声なのか怨嗟の声なのか、それも区別がつかなくなっていたけど、それでも彼女の名前を叫んでいた。