灯を追う蛾
——……ロウ、シロ……起き……こら……起き、起きろー!!
「……!!」
「私がちょっとトイレ行ってる間におねむとは良い度胸じゃないのさ。図書室で資料を探す約束、サボってもらっちゃ困りますぜダンナ」
「忘れてないさ、忘れてない……ふわぁ」
ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。
実際には昼ご飯を食べ終えて、その後に絵裡がトイレから戻ってくるまでのほんの五分ほどの時間だったのかもしれないけれど。
「よぉし。お昼休みも少ししかないんだし、どんどん行くよ! どんどん!」
「元気だなぁ絵裡は」
「それが絵裡ちゃんですから!」
僕は絵裡の元気に半ば引きずられるように、目的地である図書室へと向かうことにした。
*****
図書室へ行ってみたは良いものの、短い昼休みの時間だけでは行き先を決められるはずもなく。
絵裡と手分けをして何冊か面白そうな本を借りて、空いた時間で読むことにした。
「一冊目からハズレ引いたかなぁ。タイトルが日本語なだけで、中身はほぼ英語じゃないかこれ」
目の前に広がるアルファベットの羅列。
原文をそのまま載せるなんて手抜きをせずに、せめて翻訳して欲しかった。
放課後に、授業でも無いのに英語の文章を読むことになるなんて。
どうやら外国の民俗学者が水鳴の怪談話を調査した時のレポートのようなものらしい。
物好きな学者もいたもんだと思いながら、僕は電子辞書を片手に目に留まったページを辿々しく訳していく。
ざっと流し読みをした感じ、内容は病院に出る小さな女の子の幽霊の話。
誰もいないはずのベッドからのナースコール。
応じた看護師は揃って、母親を呼ぶ少女の声を聞くという。
「よくありそうなお話だけど……ふーん」
病院の名前は「南水鳴病院」。
スマホで調べると今は廃病院になって、今は「新南水鳴病院」となって新しい場所に建て替えられているらしい。
ページをめくりながら、分からない単語の意味をルーズリーフに書き出していく。
別に全訳する必要は無いのだけど、スイッチが入ってしまうと完璧にやらなくては気が済まない性格なのだ。
「Castle……かすとる……あれ、なんだっけこの単語。つい最近見たような気がするんだけど……」
ずっと本とにらめっこしていたから首が痛い。
顔を上げて、気分転換がてらに記憶を遡ろうとする。
少し前の授業だったか、何かの本で読んだのだっけか……。
「キャッスル。城という意味よ。そこの文章は、城のような外観をしていると訳すのが良いんじゃないかしら?」
「あー、城か。そういえばそんな意味だっ……て、あ、ありがとう?」
背後からの声に、僕は気の抜けた返事を返してしまう。
凄く自然に耳に入り込んできた言葉だったから、絵裡や翔に応えるのと同じノリで返事をしてしまったが、返してくれたのは予想外の人物。
緋村紫苑。
僕の中の彼女の印象は、ある意味目立っている。
特定の誰かとつるんでいるというわけではなく、かといってイジメられていたり嫌われていたりなんて噂も聞かない、孤独ではなく孤高を保っているクラスメイト。
確かに同じクラスではあるけれど、僕は今まで彼女と会話を交わした記憶は無いし、これからも滅多なことがなければ無いと思っていた。
それが突然、あっちから話しかけられたとなれば動揺の一つや二つしてしまう。
「……」
僕の動揺も知らないような涼しげな顔で、緋村は帰り支度を始める。
数秒もしないうちに教室を後にしてしまう緋村に、何か声をかけなければという焦りがなぜか頭から身体中を巡っていた。
「あのさ、緋村。今度また分からない単語とかあったら教えてくれないか? クラストップの緋村に教えてもらえれば百人力だよ」
「……それ」
「え?」
僕の何とも情けない引き留めに、緋村は白く細い人差し指を向ける。
先にあったのは机上に積まれた分厚い辞書。
「辞書っとても便利よ。頑張って探せば、必ず探していた答えが見つかるもの。天野君も自分で探して訳した方が勉強になるんじゃないかしら?」
「そ、そうだね。まったくその通り……うん」
「英語の宿題ってわけじゃなさそうだけど、頑張ってね」
越えられる見込みのない距離感と壁を感じて、僕は無意味に負った精神的ダメージを顧みる。
別にまったく怒っているというわけではないけれど、いくら話したことがなかったとはいえ、あれがクラスメイトと話す時の距離感だろうか……痛い、胸が痛い……。
脊髄反射的に緋村に話しかけてしまった僕が悪いのだけど。
ただ、去り際に向けられた笑顔——十中八九愛想笑いだと思うけど——が、思った以上に柔らかくて、僕は礼を言うのも忘れてしまっていたのだった。
*****
「で、結局どこに行くんだよ」
「え? まさか部長様は私たちだけに場所探しをさせて、自分は報告を待つ楽なご身分に収まっていらっしゃったと? ちょっと表に出ちゃったりする?」
「こら絵裡、無駄に喧嘩を売るんじゃないよ」
「そうですよ。ボクは先輩方が無益な争いで血を流すところを二度も見たくは無いんです」
探検部室——とは名ばかりの貸会議室。
結局、僕らは約一週間後に迫った文化祭の出し物の内容を詰められずにいた。
正確には、探検する場所を決めていない。
「一応、水鳴の街を盛り上げるって名目で活動を認められているわけだしなぁ。その辺の公園に行って探検してきました~じゃ話にならねぇし」
「図書室で調べても、みんなが知ってそうなところが多かったんだよね」
「だいたいこの街、都市伝説がやけに多いんですよ。みんな聞き慣れちゃっているというか」
主に水鳴町に無数に存在する都市伝説に関係する場所に、実際に訪れて探索する。
探索で得た情報を文化祭なんかで発信することで、最終的には観光なんかに繋げる……みたいな狙いで、高校も活動を許してくれたらしい。
活動内容としてはそんな感じの同好会なのだけど、面白そうな場所はこの一年間で行き尽くしてしまった感はある。
「無難に心霊スポットとかですかね」
「つまんなーい。でも他に案がなーい」
「でもあんまりガチなやつ紹介すると、人が寄らなくなっちまうんだよなぁ」
部室に沈黙が訪れてしまう。このメンバーで沈黙はあまりよろしくない。
「ネタ被っちゃうけど、先月行った迷いの森はどうかな? 迷いの、なんて言って結局一本道だったし、あんまり情報は無かったけど、森の中をもっと探索すれば何かあるんじゃないかな?」
「……」
「……」
「……」
沈黙を破るためにも、あえてボツになりそうな発言。
だったのだが、沈黙は破れず、なぜか三人とも訝しげに僕の顔をのぞき込んでいた。
「そんなところ行ったっけ?」
「いや。前回俺たちが行ったのは***だろ?」
「え? なんて言った?」
「いや、だから***だって」
翔の言葉が上手く聞き取れない。
確かに日本語のはずなのに、脳が理解を拒否しているような。
「まぁ、あそこもそんなにネタは取れなかったですしね。先輩が思い出せなくても無理ないですよ」
「いや、思い出せないというか。行ったのは迷いの……」
言いかけて、視界が淀む。
頭が急激に何本もの鋭い棘に刺されたような感覚が襲った。
ずきずきと痛んで、声を出しそうになる。
「——んで、みんなのリアクションが一番良かったのは、志郎が持ってきた’南水鳴廃病院’かねぇ」
「無難っちゃ無難だけど、一番取れ高はありそー」
「一歩間違えれば迷惑動画投稿者になっちゃいますけどね……って先輩、どうしたんですか。顔色が悪いですよ?」
「え……いや、あれ」
翠谷に問われて、僕は声にならない声をなんとか絞り出す。
なんだっけ。
僕はさっきまで何を言いかけて、こんな頭痛と戦っていたんだっけ。
「なんでもない。何か思い出そうとしてたみたいなんだけど、思い出せないならきっとたいしたことないさ」
一瞬気になりかけて、途端にどうでもよくなってしまった。
そしていつの間にやら僕の提案した廃病院に、行き先が決まりかけていた。
「明日はたこ焼きの試食会があるとして、明後日にみんなで行ってみないか?」
「善は急げってやつ! 行こう行こう!」
なんだか時間がやけに早く進んだような気がした。
まぁ、良いか。
決まれば行動が早いのがこのメンバーの良いところだ。
とりあえずは明日のたこ焼き試食会。
少なくとも僕らは作る係ではないからせいぜい買い出しか、食べてあれこれ文句を言うだけになって暇な時間もできそうなものだ。
……。
緋村と会話する機会はあったりするだろうか。
*****
あぁ、これは夢の中だ。
うっそうと茂る森の中、僕の前を絵裡と翔、後輩がおっかなびっくり歩いている。
隣にはなぜか緋村の姿。
僕が何か話しかけると、彼女は少し頼りなさげに笑った。
会話の内容は聞こえない。ただそこまで悪い気分ではないことは確かだ。
前を向くと、ついさっきまで真っ暗闇だった森の奥に誰かが立っている。
白い髪に、紅い瞳。
うっすらと浮かぶ笑みに、僕は吸い込まれそうになって——。
——ようこそ。……め……せ…いへ。
……あれ、寝ていたのか。
いつ寝たのか全く記憶にない。
何か夢を見ていたような気がするけど、それも全く思い出せない。
「うーん、眠い。とりあえずは自習室に移動するか」
寝起きの身体を伸ばして席を立つ。
時計を見るともう数分で五時限目という名の文化祭準備時間が始まるところだった。
寝ぼけ眼で教室を見渡すと、ぽつりと一人、緋村が席に座っていた。
周りには、というか教室には僕たち二人しかいない。
みんなやる気に溢れているなぁなんて呑気に考えてから、僕の足は勝手に緋村の方へ向かっていた。
「緋村、行かないのか」
「……うん。私が行ってもできることはないし、気を遣わせてしまうから」
緋村は視線を目の前の本に落としたまま言った。
確かにすでに数日前のクラス会で役割は決まっていた。買い出しに行く人、道具を準備する人、作る人、そして特に役割のない僕のような食べる人……。
「良いじゃないか。僕と一緒にただ食べるだけの人で」
「それは申し訳ないじゃない。私、これといって準備に参加してきたわけじゃなかったし。食べるものだけ食べて、なんてことはできないわよ」
ごもっともな返事だ。
緋村は僕のように面の皮が厚い人間ではないらしい。イメージ通りで良かったとかどうでも良いことを考えて、僕は緋村の視線の先を追う。
机の上には分厚く真っ赤な参考書。見た目通り赤本だ。表紙には僕でも知っている高偏差値な大学の名前が記されていた。
「ここ、けっこう有名な大学だよな。目指してるのか? しかも医学部」
「……候補の一つよ。上を目指せるのなら、もっと上へ行くわ」
逆さに振ったって僕からは到底出ることはない言葉を、緋村はこともなげに言う。
確かにいつも一人で、誰とも喋ることなく本——今回みたいに参考書なのだろう——を読んでいたり、何か問題を解いていたりするけれど、この目標の高さなら納得だった。
「すごいな。やっぱり将来は医者を目指してるのか?」
普段、僕は他人に興味を持つことがあまり無い。のんびりと日々を暮らしていければ良いと思っているし、人間関係で言えば翔や絵裡といった騒がしい奴らや、小生意気な翠谷のような後輩がいるから、けっこう満足してしまっている節がある。
けれどなぜか訊いてしまった。
それは一人でいる緋村への哀れみだったのかもしれないし、漠然と’何か’を知れるんじゃないかという期待感でもあった。
「目指しているというか、ならなくちゃいけないのよ」
「ならなくちゃいけない? そりゃまた含みのある言い方だな」
「……」
踏み込みすぎたか。込み入った話はいつものメンツとも滅多にしないから、余計に距離感が分からない。
緋村も同じ気持ちなのか、すぐには答えない。
しばらくは言葉の代わりに沈黙が僕らの間を持たせていた。
「人間、そういうものじゃない。誰しも何者かにならなくちゃいけない」
「そんなことは……いや、そういうものかな?」
「そうよ。天野君は無いの? 将来どんな人間になりたいとか、どんな仕事をしたいとか」
「僕は……」
緋村のことを聞くつもりが、逆に自分の話題になってしまって言葉に詰まる。
すごく小さい頃、小学生くらいだったら何かしらあったのかもしれないが、もうほとんど覚えていない。
「どうだったかな。将来の夢を書いてくれって時は、小学校の先生とか、そんなようなことを書いていたような気はするけど」
「良いじゃない。教えるのが得意なの?」
「理由はあんまり覚えてないな。小学校の頃の先生が面白くて漠然と僕もなりたかったとか、そんな感じだったと思う」
学校の先生、なんて言葉は無意識に出てきた。本当はもっと具体的な理由があったのかもしれないけど、すぐには出てこない。
でも小さい子どもの頃の夢なんてそんなもんだろう。
漠然とした憧れ。ぼんやりと灯を追う蛾のように。
誰しも何者かにならなくちゃいけない、か。
そんなこと考えたこともなかった。そんな義務感めいた人生を歩んでいるわけじゃないから、緋村の言葉はなんだかとても新鮮だった。
「そうね。きっと最初はみんなそうだったのかもしれない」
「今は違うってことか」
「えぇ、そうよ」
混じり気の無い断言。
話してみて分かったけど、やっぱり緋村は僕が今まで接したことのない人種だ。考えていることをどう言葉に出そうものか、出力に時間がかかる。
緋村と比較して、それだけ僕が何も考えていないってだけだろうけど。
感心やら驚きやら考え込んでいる僕を、気づけば緋村が訝しげに見上げていた。
「雑談してしまっているけど、天野君、そろそろ行かなくって大丈夫なの?」
「ん、そういえば」
窓から刺すオレンジ色がだいぶ濃くなってきていたことに気づく。
緋村はその間にも机にある新しい参考書を開いて読み始めていた。
水晶みたいな瞳に夕焼けが映りこんで、まるで燃えているみたいだった。
「じゃ、僕は少し早めの夕飯を食べてくるからさ。緋村もキリが良くなったら来なよ」
「私は……いや、キリが良くなるころには日が暮れているわね」
やんわりと断られたことだけはわかった。
なぜだか必死になって緋村を誘っている自分に少し可笑しくなって、僕はそそくさと荷物を持って教室のドアまで向かった。
出ようとして、もう一度振り返る。
椅子に座って本に向き合って、ペンを走らせる緋村。
もはや当たり前のような見慣れた光景。
今まで日常に溶け込んでいたその姿が眩しく見えたのは、夕焼けのせいだけじゃなかったように思えた。
*****
成績優秀者一覧。
たこ焼き試食会から帰ってきた僕は、廊下に張り出されたその紙を見て、そういえばと思い出す。
文化祭ムード一色になって忘れかけていたけど、つい一週間ほど前に中間テストがあったのだった。
高校二年生のこの時期のテスト、そろそろ結果を気にしなければならないと分かってはいつつも、身を入れて勉強して臨んだ記憶はない。
「緋村、やっぱりいる」
五教科ごとに成績優秀者と点数が羅列された紙のすべてに、緋村紫苑の名前があった。
理科と数学はやはりというべきか一位、理科に至っては満点だった。
それに比べて僕はもちろんこの紙に名前が載るレベルでも無いし、かといって赤点だとかギリギリを攻めてもいない。
……。
何が彼女をそこまでさせるんだろうか。
「気になる……けど、なんだか言いたくなさそうな気もするんだよな」
その場をやり過ごせれば良いと思っている僕なんかよりずっと、いろんなものを抱えていそうなオーラを緋村からは感じていた。
だとしたら、それはいったい何なのだろうか。
それは僕にも持てる類のものなんだろうか。
考え出すとキリがない。なぜか妙に、焦っているような感覚になっている。
まだ数回しか言葉を交わしていないけれど、いつか話してくれる日は来るんだろうか。
「頼むよ緋村! お前のその圧倒的な知識量とひらめき力で、今年の水鳴祭を盛り上げるのに一役買ってくれ!」
教室の扉を開けて聞こえたのは、縋りつくような翔の声だった。
結局あのまま勉強を続けていたのか、席から一歩も動いていなさそうな緋村に頭を下げる翔。腰が曲がりすぎてほぼ土下座だ。
二人のほかには誰もいない。まぁ、すっかり暗くなったこんな時間帯に、教室に生徒がいること自体珍しいというものなのだけど。
「どうしたんだよ翔」
「おぉ志郎、グッドタイミングだ。お前も一緒に勧誘してくれ」
「何にさ」
「クイズ大会のプレイヤーだよ。クイズ研究会が主催する、水鳴祭のビッグイベントの一つさ」
「あー、なんだか去年もやってた気がするな。ちょっとしか見てなかったけど、なんだか頭の回転が必要な問題が多かったような」
「そう、それだ。クイズ研究会の知り合いに、強いクイズ解答者に心当たりがないか訊かれてさ。それならうちのクラスに学年トップがいるぞと口走ったが最後、絶対に緋村を連れてこいと駄々をこねやがってな」
「なるほど、それで緋村をね」
僕は頷いて、緋村の方を見る。
ペンを置いた彼女は眉をひそめて思い切り困惑しているようだった。
交友関係の広い翔のことだ、良いように使われたんだろうけど、まさか緋村にまで飛び火するとは。
「あれって、ステージに上がって大勢の人の前でクイズに答えるのよね? 私の性分に合わないというか……」
「なぁに、ちょちょいと知識を詰め込めばクラスナンバーワンの実力者の緋村ならすぐマスターするさ」
「私にはそんな時間……」
「おっと、知識を詰め込むのに無駄な時間なんてものはねーぜ。だろ? それに今回、優勝者にはなんと豪華賞品も付いてくる」
「ほう、豪華賞品」
合いの手を入れてみたものの緋村がモノに釣られるイメージが湧かない。
若干引き気味の緋村に隙を与えない翔もなかなかだが、彼女は何をもらったら喜ぶのだろうか。
「なんとお買物券五千円分……!」
「けっこう奮発だな」
高校生の文化祭の一イベントの賞品としてはなかなかのものじゃなかろうか。
比較対象が無いから分からないけれど、勝手にお菓子の詰め合わせとかを想像していた。
ただ、どうだろう。値段的には高価だが、素っ気ないというかなんというか。
「赤本二冊分……」
釣れる音がした。
そうか、緋村にとって図書カードはそう化けるわけか。確かに赤本は高い。この前本屋でたまたま見かけた時は驚きすぎて二度見したものだった。
「その通り。知識も増える。赤本も買える。俺はこの任務から解放される。良いことしかないな!」
「……私で、良いの?」
緋村は少し考えてから、遠慮がちに言った。
同じクラスになってから半年と少し。
クラスに馴染んでいるとは、申し訳ないがお世辞にも言えない。
そんな彼女がクラスを代表するような形で大舞台に立って良いのか。
捻くれた見方かもしれないが、そんな風にも聞こえた。
「最初から緋村に頼んでんだぜ?」
「僕も、ズバズバとクイズに答える緋村を見てみたいな」
だから僕はありのまま思っていることを口にした。
話してみた感じ、別に悪い奴じゃないんだ。単語が分からず困っている奴に教えてくれる優しさだって持ってる。きっかけさえあればこうやって輪の中に入っていけるはずだ。
「そう、分かった。うん、そこまで頼まれて断るのも悪いから、参加させてもらうわ」
快諾、とまではいかないけれどオーケーの返事。
途切れ途切れに答える緋村の声のトーンが少し上がっているように聞こえたのは気のせいじゃないと思いたい。
「よっしゃ! そうと決まればこれ、参加申請書とクイズの過去問。研究会からパクってきたぜ」
「何をしれっと渡してるんだよ。まぁでもこれで予習はできるわけか」
「ありがとう。……それにしても、自分がステージに立って早押し?とかをしてるイメージが湧かないかも」
「それも瞬発力よ~。なんなら練習するか? 早押しボタンもパクってくるぞ?」
「手癖悪すぎるだろ。あー、もし緋村が良かったらなんだけど、うちの部室もとい貸会議室を使ってクイズの練習とかしてみないか? 知っているかわからないけど、僕ら探検部ってのに所属しててさ」
それから僕は自分たちが所属する探検部について軽く説明した。
虎の威を借りる狐じゃないが、翔のフランクさを借りて僕もなんだか饒舌になっている。
よく考えたら今やっていることは文化祭のイベントに女の子を誘う、だ。普段の自分からしたら珍しく青春めいたことをしている。
今更ながら初心な中学生みたいな心持ちになって、緋村の反応を待つ。
「ふふっ、じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかしら。早押しの練習をしているところなんて誰かに見られたくないものね」
返ってきたのは淡い微笑み。
思わず息を吞んだ。
それは昨日見た愛想笑いではなく、自然に漏れた笑顔だと確信できた。
「頼もう! お友達との小粋なトークに花を咲かせていたらこんな時間である! 明日の打ち合わせをしに参ったわよ!」
そんな僕の衝撃を軽く吹き飛ばすように、がらがらと勢いよく開く教室の扉。
キャラブレブレな幼馴染の声で時計を見やると、すでに夜の十九時半。なかなかの時間だった。
「あれ、緋村さんだ。珍しい~どうしたのうちのメンズ二人に囲まれて。迷惑かけられてない? 大丈夫?」
「藍沢さん。いえ、大丈夫よ。ちょっと誘われただけよ」
「誘われた……?」
「なんだその心の底から引いたような目は。何を履き違えようとしてるんだよ」
「おほほ、分かってるって~。翔ならともかく志郎にそんなこと無理無理~」
「俺ら二人を一気に敵に回したところで、こっちに戻って来たってことはなんか用があったんだろ?」
対面早々ひどい侮辱を受けたような気がするが、とりあえず置いておいて。
確かに何か話すことがあったんだろうか。
外も真っ暗だ。早く帰らないと心配性な絵裡の両親がけっこううるさく言いそうなものだが。
「明日の時間とか決めてなかったじゃん。どうする? 朝から行っちゃう?」
「だなー。夜も考えたんだけどさすがに雰囲気出すぎだよな」
「夜は安全面とかも考えて普通に危なそうだからね。朝の十時くらいに集合して探索、お昼食べて解散とか?」
「おっけー、じゃあその予定でグループチャットに書いとくね。ワック食べに行こうよ。新作のてりやきバーガーが出たらしいよ」
「お前はもうそっちがメインだろ」
本当は夜に行ってみたいというのもあったのだけど、動画や写真を撮るにあたって映りが悪くなる可能性が高い。だいぶ前に同じようなことをして失敗しているし。
「みんなでお出かけ? 仲良いわね」
「ほら、’城のような外観’をした廃病院だよ。探検部の活動でさ、みんなで行ってみようって話になったのさ」
僕は言って、昨日読んでいた分厚い本を鞄から出す。
緋村に単語を教えてもらったページを開いて、まさに城のような外見の建物の挿絵を指さす。
「あぁ、昨日の……」
本を手に取って、緋村の言葉が止まる。
まじまじと見つめたその瞳が見開いて、何度か言葉を紡ごうとするように口をぱくぱくと動かしていた。
「ん? どうしたんだよ緋村」
そんな衝撃を受けるようなリアクションが返ってくるとは露にも思わず、僕もちょっと緊張しながら様子を伺う。
「いえ。いや……何でもない」
「そうか? ちょっと顔色悪いような気がするけど」
「遅くまで勉強頑張りすぎなんじゃねーの? 緋村も早く帰った方が良いぜ。俺らも帰るからさ」
「そそ。休むのも頑張るためには必要よ~」
確かに根詰めすぎているのかもしれない。絵裡もだが、紫苑の親だってきっとここまで遅いと心配するだろうに。
「よーし、解散解散! 帰るよ志郎、翔。夜ごはんが待っている!」
「あいよー」
「だね。じゃあ緋村、また来週な。部室を使いたかったら僕か翔に声かけてくれると助かるよ」
僕は緋村の机に置かれた本を手に取って鞄に戻す。
絵裡と翔は先に教室の外に向かって歩き始めていた。
「あの、天野君。もし良かったらこの廃病院に私も一緒に行っていいかしら?」
「え? 緋村も?」
今日で一番予想外な言葉に、僕は思わず鞄を落としそうになる。
「たまには運動も必要かと思って。邪魔、かしら」
「いやいや、そんなことないって! 人数が多いほうがいろんな発見があるかもしれないしさ!」
明らかに何かを誤魔化していそうな理由付けだったけど、ここで断るほど非常な人間でもない。
ある種高嶺の花だった緋村が今日一日でここまで話しかけてくれたり、クラス行事に参加してくれたりで勝手に嬉しくなっているからつい声も大きくなってしまう。
「翔! 絵裡! メンバー追加! 緋村も行くってよー!」
「マジ?!」
「お~! 賑やかになってきたねぇ。いっそ入部しちゃう? 探検部に」
「それは、もう少し考えさせてもらおうかしら……」
まぁさすがにそれはいきなり距離を詰めすぎかもしれないけれど。
将来的にそうなったら、どんなふうになるのだろう。
楽しくなるような未来だったら大歓迎だ。
「じゃあ尚更早く帰って寝ないとな。近くまでみんなで一緒に帰るか?」
「あぁ、もう少しだけやっていくから、先に帰って大丈夫よ」
「まだやるの?」
「えぇ、このページだけね」
言って、緋村は机にあった赤い本を手に取る。
もう受験のために解き始めているということか。中身がどんな問題なのか、全く想像ができない。
「そうか。帰るときは気を付けてくれよ、暗いからさ」
「えぇ、ありがとう」
翔と絵裡を追って、僕も今度こそ教室を後にする。
閉まる扉の隙間から、もう何度目か分からない、ペンを走らせる緋村の姿を視界に残しながら。