一緒に
記憶と感情と、目の前の映像が濁流のように頭の中に押し寄せては消えて、僕の脳内を、身体を揺さぶる。
モニターの映像が再びいくつかの断片に分かれていく頃には、僕は膝をついて泣いていた。全身の力が抜けて身体を支えられない。
喪失した記憶の最後のピース。ずっと蓋をしていた思い出。思い出と言うには衝撃的すぎる記憶を、あろうことか絵裡の視点で見ることになるとは。
忘れてしまっていた分を、より鋭利に抉られた気分だ。記憶を失ってしまった当時の感情ごと、まるで自分のことのように追憶して身体が震える。
絵裡はここまでの覚悟を持って、この一年と少しの期間を僕に向き合っていた。
言ってくれていたら、なんて言葉は浮かんですぐ消える。
絵裡は僕のために藍沢絵裡になり続けることを選んだ。全く知らない人を演じるのと同じことだ。参考資料はマサさんのビデオくらいしかない。そんな中で、僕という観客のためだけに、絵裡は絵裡を演じ続ける覚悟を決めた。
そしてこの水難事故は僕にとっても最後のトドメのようなものだった。
絵裡という、今まで隣にいるのが当たり前だった幼馴染が居なくなってしまうかもしれない。その恐怖と不安は、僕に計り知れないトラウマを与えた。
周りにある何もかも、これ以上変わらなければ良い。平穏に、静かに。変わらないまま、何事もなく過ぎればどれほど幸せかと、心から思い続けるようになった。
まるで夢の世界にいるように、変わらなければ良いと。
―—あなたは健康で、穏やかに生きていてくれたらそれで良い。
混乱を極めた事故の後、母親に言われた言葉を唐突に思い出す。
その言葉を聞いて僕は当時、母に怒鳴った。絵裡は入院までして大変な目に合っているのに、そんな他人事みたいに言うな、と。
ただその怒りはだんだんと収まっていって、代わりに生暖かい安心感が積み重なっていったのを覚えている。
僕じゃなくて良かった。歪な安心感が浮かんだことに嫌悪し、それでも絵裡が無事でいてくれたことに心から安堵した。
どうしてこんなことになってしまったのかと意味の無い後悔と自問を繰り返すうちに、僕の情緒はぐちゃぐちゃになって、しまいには記憶まで飛ばしてしまった。
絵裡の記憶喪失とはわけが違う、記憶逃避とでも言うべきもの。
意味の無い自責のために泣いたなんてことは露知らず、絵裡は僕の笑顔を曇らせないために絵裡を続けようとしてくれたと言う。
そして今まで、僕の隣で笑って、その背中を押してくれていたのだ。
軌跡は目の前のノートに書かれていた。ページを捲る手は自然に早まる。僕の記憶とモニターの映像が、刻まれた文字により鮮明な色を付け始めた。
*****
―—20XX年8月□日
貴女さ、友達多いって言われない? 友達から心配する連絡はいっぱい来るし、学校に行けるようになってからも色んな子に話しかけられるしでもー大変だよ。なるべく予習はしていったけど、何人かはやっぱり知らない子から話しかけられたし……正直、結構疲れたよー。
あ、そうだ。志望校の話、聞いたよ。先生に呼び出されて、入院中の成績は大丈夫だから頑張ってとか言われて、なんのこっちゃってお母さんに聞いたら、水鳴高校目指してたって聞いて……あの水鳴高校だよね、私もここ数日で名前は何回か聞いたよ……。
しかも志郎の勉強を見ることになってるんだってね。どれだけスーパーウーマンだったのさ貴女は。ここ最近の分は志郎が逆に学校で習ったこと教えてくれたりしてたけど、もうそろそろ、そうも言ってらんないし……。
お母さんに聞いた時ね、他の高校にしてもいいんじゃないかって言ってくれたよ。でも、志郎を誘ったのもあるし、頑張ってみるって言っちゃった。貴女も、志郎と一緒に水鳴高校行きたいんだもんね。
頑張るぞー!
―—20XX年9月△日
今日は陸上の地区大会のビデオ見たよ! すごいね! かっこよかったよ! ……って、手放しに褒めたかったんだけど……本当、すごいよ、貴女は。
あんな風には走れっこないよ! どうすればいいのさ! 別に今も体育とかで身体は動かしてるけど、あんな速度で走った事なんてないし……。まあ、こんな悩み抱えてるのも自業自得なんだけども。
なんでこんなに焦ってるのかっていうとね、体育祭が近いからなんだ。中学校最後のね。私からしたら初めての、なんだけど。っていうのは置いておいて、去年まで大活躍だったんじゃない? だから今年も注目されちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしてて。
きっと志郎も応援してくれるよね。なら、かっこいい所見せないとだよね。
貴女の身体は速く走るように鍛えていただろうから問題ないんだけど、私が身体の動かし方を思い出さないと駄目みたいだからね。貴女のビデオを繰り返し見て、研究することにするよ。
あー今からドキドキする。
―—20XX年9月〇日
今日は運動会当日! すっごく緊張したなぁ。きっと貴女は楽しみでしょうがないイベントだったんだろうけど、私にとっては日頃の成果が試されるみたいで居心地が悪くて……。でもちゃんと徒競走は一位だったし、クラス対抗リレーでもアンカーをちゃんとやりきって、なんとこっちも堂々の一位! これならきっと大丈夫だよね。志郎もすごいって褒めてくれたよ! きっと貴女みたいな走りは私にはできないんだろうけど、とりあえずひと安心かな。
あ、あと、祝勝会って言って志郎の家でご飯会もあったよ! 恒例行事なんだってね。私も大好きな、あの特製卵焼きが出てきて嬉しかったなぁ。貴女もいつも「一番とったから」って、いっぱい食べてたんだってね。私もこの間の差し入れの事とか、ほっとしたのとか、いろいろ考えちゃって少し泣いちゃった。志郎にそんなに卵焼き美味いのかって茶化されたけど……やっぱり美味しいよね。アレ。
―—20XY年3月□日
今日はね、中学校の卒業式があったよ。一年も経たないうちに卒業、なんて不思議な感じがしたけど、周りの雰囲気に流されて少し泣いちゃった。
この前書いた通り、無事に二人で水鳴高校に合格できたよ。
書こうか迷ったんだけど、今日、志郎が告白されてるのを見ちゃった。ミドリヤって子みたいなんだけど、知ってるかな? ああ、結果は志郎が断ったみたいだったよ。
私、物陰から見てるだけしかできなかった。どうすればいいか、わかんなかった。貴女だったら、どうしてたのかな。もし志郎がいいよって言ってたら、私はお祝いすればいいのかな。
でも、なんか違う気がして、わかんなくって、ねえ、どうすればいいのかな。貴女にとって、志郎は何だったのかな。私は、どうすればいいのかな。
―—20XY年3月□日
今日はね、志郎ママに買い物を頼まれて、志郎と一緒に行ってきたんだ。受験合格のお祝いのパーティーをやるんだって。本当、ウチも天野家もお祝いが好きだよね。
その時にさ、志郎が買い物袋持つよって気を利かせてくれたんだ。ちょっとびっくり。でね、家に着いた時、ふざけて「おかえり!」って言ってみたんだ。志郎の家なのにね。そしたら志郎ね、片手で顔隠しながら「なんだよそれ……ただいま」ってめっちゃ小声で言ったの。それがもー可愛くてさー。だからこれからも言ってみようかなって。貴女がもし帰ってきたら、是非言ってあげてね!
本当はね、おかえりって私にとってすごく温かい特別な言葉なんだ。この家にね、初めてきたときにね? ちょっと怖くって「お邪魔します」って言ったら、お父さんとお母さんが「おかえり」っていってくれたの。それが今でも忘れられなくてさ、志郎にもいつか言ってみてあげたかったんだ。
いつか、貴女にも私からの「おかえり」が届きますように。
―—20XY年4月□日
今日はね、ちょっと面白いことがあったんだ。なんと私、探検部って部活に入ることにしましたー!
貴女も知っての通り、水鳴高校には陸上部がない、だから部活どうしよっかなーて迷ってたんだー。……貴女だったら学外のクラブなんかにでも入ってたのかな。でもちょっと私には無理かなって思っちゃって、ごめん。やっぱり私は貴女みたいには走れないから。
まあ、それでね、なんか志郎にはすぐ友達が出来たみたいで、藤田君って人なんだけど、その人に探検部立ち上げの数合わせに入ってくれないかって頼まれちゃって。志郎も入るみたいだしいいかなーって入ることにしましたー!
勝手な事してごめんね。でも、やっぱりいくら走っても貴女の背中には追いつける気がしなくって。なんだか苦しくなってきちゃって。そんな顔、志郎にも見られたくないから、やっぱり陸上はここでやめることにするよ。勿論、貴女が帰ってきたら好きにしてね。
まあ、それまでは探検部の一員として志郎の隣にいようと思う。
ところで探検部って、何するのかな?
―—20XY年9月□日
最近、日記を開ける日が多くてごめんね。高校生活は順調だよ。友達もいっぱい作れたから、今度みんながどんな子なのか、まとめておくね。
それはそうと、問題です。今日は何の日でしょうか!って、まあ貴女ならわかるよね。そう、志郎の誕生日だったよー!志郎、十七歳おめでとー!
今日はねぇ……実は色んな事があったんだ。去年は私、志郎の誕生日知らなくって、当日教えてもらってから何も用意できてなかったんだ。だから、今年はその分も含めて頑張って何かしようって決めてたの。
ここでもうひとつ問題です。志郎の大好物といえば?そう、天野家特製卵焼き!あれをね、サプライズで私が頑張って作ってみようかなって挑戦したんだ。でも、全っ然うまくいかなくってさー。もー失敗に次ぐ失敗。全部スクランブルエッグにしかならなくって、家族で食べきれない分は学校のお昼に食べてって……もうしばらくはスクランブルエッグ見たくないかな。
結局さ、当日にも間に合わなくって、合わせる顔もなくって……せっかく今年こそ喜んでもらいたかったのにってキッチンで凹んでたらさ、志郎が様子を見に来ちゃったんだよね。出てってって言っても聞かなくってさ。何も言わず歩いてきて、スクランブルエッグをひとつ摘んで、やっと喋ったかと思ったらなんて言ったと思う?「なんだ、ちゃんと美味しいじゃん」だって。「ちゃんと」って何さ。もー失礼しちゃうよね。嬉しいやら恥ずかしいやらで多分にやにやしちゃってたんだと思う。そしたら、志郎がまた言ったんだ。「絵裡は凹んでるよりそうやって笑ってるほうがずっといい」だって。
そう言われてさ、ああ、やっぱりこの人の隣で笑っていたいなって思った。思っちゃったんだ。
多分、無理なんだと思う。多分今までも、これからも志郎の事を何回も好きになっちゃって、その度に我慢することなんて出来ないんだと思う。だから、もう嘘はつきたくないんだ。
私は、志郎の事が好きです。
―—20XZ年7月〇日
貴女に謝らなければならないことがあります。志郎に告白して、付き合うことになりました。貴女は何て言うのかな。祝っては……くれないよね。これって横恋慕になるのかな。わからないや。
でも今、すっっっごく私は幸せです。ごめんなさい。でも絶対、これから志郎を幸せにしてみせます。
志郎は私の、大事な人だから。
―—20XZ年7月△日
志郎が赤本を眺めてたんだ。ついこの前受験が終わったと思ったら、次は大学受験。時間が経つのは早いね。志郎が見ていたのは教育学部の本。お父さんが撮ってたビデオで観たんだけど、小学生の時の授業参観で志郎は学校の先生になりたいって言ってたのを思い出した。今でも変わらず、そうなのかな。貴女は何になりたい?
あの時、貴女はお花屋さんになりたいって言ってたけど、私はね……。
このまま、私は私の進みたい道に歩いて行っても良いかな?
志郎と一緒に、同じ道を歩いても良いかな?
―—20XZ年8月×日
知ってたんだね、全部。
まあでも、貴女に恨み言を言う権利は私にはないよね。
だからお礼だけ言おうと思って、書くね。
楽しい夢を、ありがとう。
貴女の代わりに過ごした二年間、すっごく楽しかったよ。この日記に書いたことも、書ききれなかったことも、全部全部大事な私の宝物だよ。
偽物の私はこれから消えるんだと思う。貴女が、本物なんだから。
志郎も、貴女が隣にいるんだから、もう大丈夫だよね。私のことで泣かせちゃった分は、もう笑えているといいな。
いってきます。
さようなら。
*****
「待ってくれ!」
気づけば僕は叫んで、ノートを投げ捨てていた。
落ちたノートは裏表紙を僕に向ける。そこには大きく’おかえり’と文字が書かれていた。
直感的にわかってしまった。これはきっと絵裡から絵裡に向けた、祝いの言葉。いつか帰ってくる身体の宿主に向けた特別な言葉。
僕が最初に見るべきではないし、’いってらっしゃい’すら言う資格はない。僕からは、どれだけの感謝の言葉を送っても送り切れないし、謝っても謝り切れない心残りもたくさんある。
まだその背中を見送るには早すぎる。
モニター上に無数に映っていた映像が、次々に消えていく。かき集めなければ消えて埋もれてしまう記憶のように。
絵裡の部屋だった空間が、少しずつ歪み始める。所々に綻びが生まれて、破れた隙間からは学校、水鳴ストリート、川、金糸山、様々な景色が垣間見える。
雨風で軋んだ窓みたいな歪な音、嵐の時のような轟音が代わる代わる耳に襲い掛かる。
「絵裡!!」
部屋を震わせるつもりで叫ぶ。喉が裂けるほどに力を込めて、その名前を呼ぶ。
消滅しかけた映像も、壊れかけた空間もそれで元に戻ったりはしない。
何も変わらないまま。記憶を取り戻せば、きっと絵裡は絵裡のままだ。望み通り、何も変わらない日常が僕を待っている。
だけど、僕があの花火の日に手を取ったのはきっと——。
「……」
日記帳の裏表紙に、雫が落ちる。文字が濡れて、その形を崩す。
雨かと視線を少しだけ上げると、そこには青空があった。
空色のワンピースと、見開かれた丸い瞳に、僕の視線は奪われた。
「あ……」
いつかの朝、僕と絵裡の前に現れた女の子——二人目の絵裡の顔と、目の前の女の子の顔が重なる。
あの時の二人の絵裡の顔は瓜二つだった。だけど確かに今目の前にいるのは、あの時絵裡に掴みかかろうとして、’待って’と手を伸ばしたあの女の子だと、そう確信することができた。
「絵裡……?」
「……」
女の子は答えない。
けれど答えずとも、僕にはちゃんとその姿を認識することができた。
自信なさげに俯くその瞳は、少し濡れていた。
「……忘れてごめん、絵裡」
ともすればそのまま消えてしまいそうだったから、僕はすくい上げようとして言った。
救われたいのはどちらかと言えば僕の方なのに。
それでも謝って、引き留めないとこのまま消えてしまう確信があった。
僕があの事故の記憶を失っていなければ、少しの異変にも気づけたかもしれない。
彼女が藍沢絵裡を演じ続ける必要も生まれなかったかもしれない。
女の子は——絵裡は驚いたように顔を上げて、それから表情を歪ませる。
嬉しいのか、悲しいのか。苦しいのか、幸せなのか。
それを断定する資格は無いけれど、ただ言葉は返ってきた。
「私も、忘れてごめん、志郎」
震えた声は空気を伝って、そのまま僕の心も理性も打ち震わせて、自分でも理解できない感情になって涙として流れていた。
今、目の前に映る絵裡を忘れてしまっていた。
記憶を失って、’藍沢絵裡’として振舞おうとする彼女であり、日記の主。
僕の思い出に存在する、勝気な表情も自信満々な雰囲気も、そこにはない。だから本来この呼び方は正確ではないのかもしれない。
だけど’藍沢絵裡’であると、僕が肯定してあげなくてはならない。
少なくともこの二年、彼女が藍沢絵裡だったのだから。
「絵裡って、呼んでくれるの?」
「それ以外に、なんて呼べばいいんだよ。僕の眼には絵裡にしか見えないよ」
震えた声で言う絵裡の眼からは、涙が止まらずに流れ続けていた。
これ以上涙のダムを決壊させないように、努めて穏やかな声色で返す。
絵裡はまた少しだけ笑みを見せて、息を吐く。
「私は、偽物だよ。志郎も見たでしょ。あなたの知ってる藍沢さんは、あの川の事故からいなくなっちゃったんだ。私はただの……うん、絵の裏の白紙みたいなもの。何の意味もないんだよ」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
無理やり笑おうとしているけれど、今にも大声を上げて泣き出しそうな、そんな笑みを浮かべながら。
確かに絵裡は僕のことを’あなた’なんて言わない。’絵の裏の白紙’だなんて、洒落た言い回しもしない。
けどその顔は、あの花火の日に見せた笑顔に少し似ていた。僕が小さい時から知っていた絵裡ではなく、僕があの時初めて知った絵裡の笑い方。
「何の意味もないことは無いさ。少なくとも、僕の手を掴んでくれた。絵裡と離れたくないんだって、気づかせてくれた。過ぎて変わっていってしまう時間の中で、絵裡だけはずっと一緒に居て欲しいって、はっきりと自分の心に向き合えた」
線香花火に照らされた絵裡の顔。その時は記憶がないことなんて知らなかったし、気づけない馬鹿な僕だった。こんな笑い方をするようになったんだと、これは変化なんだと思っていた。
でもだからこそ今は、目の前にいるのが二人目の絵裡でも全く別の女の子でもない、変わりつつある絵裡なんだと、改めて定義づけることができる。そう思えば、僕はこれからも絵裡と変わらず向き合うことができるはずだ。
「この思いは、絵裡が記憶を失ってたって変わらないよ。忘れたなら、今度は一緒に思い出そう。そりゃ思い出してくれた方が良いかもしれないけど、思い出せなくても、僕が覚えている。絵裡が絵裡であることには変わりないんだから」
僕だけじゃない。マサさんのビデオや僕の家族だって、絵裡のこれまでを覚えている。その延長線上に、今の絵裡が歩いて、変わっていきながら続いて行けば良い。
少しの望みをかけて絵裡の顔を見つめる。表情はまだ、晴れない。
「でも志郎が一緒にいたいのは、藍沢さんで、私じゃない。そうでしょ、志郎? 私は最悪なことをしたの。いつかバレる嘘をついて、人の恋心に胡坐をかいて、志郎を好きになっちゃった。私に藍沢絵里さんの人生を歩く資格なんてない。これは返さなくちゃいけない、私は消えないとダメな嘘つきなんだよ……!」
頭を振って、膝をつく絵裡。
悲痛な叫びが胸を打つ。
日記にも書いてあった。自分は偽物なんだと。いつか返さなくちゃいけないと。抱えなくても良い罪の意識を背負って、絵裡はずっと僕の前で笑っていた。
これは僕がかけてしまった呪いに等しいのだろう。嘘をついた原因は、間違いなく僕なのだから。
ごめん、と言いかけて飲み込む。
「先生になりたいって夢」
「……え?」
「赤本を眺めてた時、言ってくれたじゃないか。僕でさえ忘れてたんだぞ? 僕の大切な夢なんだから忘れないって、そう言ってもらえてすごく安心した。大げさかもしれないけどさ、前を向いてみようって思うようになった。何か目標を持って進んでみようって思うようになったんだよ」
僕の言葉に、はっと顔を上げる絵裡。
記憶じゃなくて、マサさんのビデオで観た記録なのかもしれない。それでも僕の過去を、止まっていた時間を進めてくれたのはあの時の絵裡の言葉だったと思う。
あの時の言葉、肩にかかった手。
明確に僕の未来を定めたわけじゃない。向かうべき道を指し示したわけじゃない。
だけどあの言葉は僕の背中を押した。
きっと僕はそれに、灯を貰ったのだ。それだけは忘れちゃいけない。
「過去のことは思い出せなくてもさ、きっとこれからのことは覚えていてくれる。それだけでも僕は心強いし、一緒に歩いて行ける気がするんだ」
実際の未来、僕が先生になるかは分からない。まったく違う将来を志すかもしれない。それこそ進んでみないと分からない。
けれどそれも含めて、絵裡には隣にいて覚えていて欲しい。
絵裡が僕の思い出せない記憶を持つなら、僕が絵裡の思い出せない記憶を持とう。
罪の意識なんて余計なものを背負う余裕なんてないほどに、楽しい思い出を作って、僕と絵裡の二人で背負うことにしよう。
だからもう無理に笑わなくて良い。嘘をつかなくても良い。
呪いをかけてしまったのが僕なら、呪いを解くのも僕の役目だ。
「僕を悲しませちゃいけない、泣かせちゃいけない。そんな使命だって、お前が背負う必要なんてないんだよ。僕は絵裡の隣に居られれば、ずっと笑っていられるんだ。だから、絵裡」
―— 一緒に居てくれ。ずっと一緒に、笑いながら生きよう。
声にして届けられたかは分からない。それを確認する代わりに、身体は勝手に動いていた。
どこかへ消えてしまわないように、僕の両腕は絵裡の身体を抱きしめる。少し力を入れただけで崩れてしまいそうな、細い胴体。
絵裡は一瞬固まってから、声を上げて泣き始めた。
その涙をせき止めるダムはもう一片も残っていないようで。
肩に流れる涙は温かく、いつの間にか冷え切っていた僕の身体を少しずつ温めていくようだった。
*****
声を上げて泣き疲れたのか、座り込んだ絵裡はしばらくそのまま肩を震わせていた。
僕も何も言わずに隣に座っていた。思えば、こんな状況は初めてだ。泣いている絵裡の隣なんて、今まで座ったことが無かった。
「……」
どれくらい時間が経ったか分からない。窓の外はずっと薄紫色で、朝方なのか夕暮れ時なのか判断に困る。夜道を走って藍沢家にたどり着いたのだから、自然に考えれば夜であるはずだ。
そもそも中央公園からここまで、一度も止まることなく走って来ることは僕には不可能。時間の体感も、すでに自分でもよく分からなくなっている。
何かがおかしい。それだけは分かるけど、具体的に今の状況を説明する言葉を見つけることができない。
「ずっと、不安だったんだ。もう一人の私が志郎と登校していたのを追いかけた後、みんなが私のことを見えてないみたいに振舞い始めて。志郎にも何度も叫んだんだよ。私はドッペルゲンガーなんかじゃない、って」
ぽつりぽつりと、絵裡はまだ震えた声で言葉を落とす。
ドッペルゲンガー。そんな話をしたのがもうかなり昔のように思える。
対峙した二人の絵裡。今の口ぶりからすると、あの時追いかけてきた方が、隣に座る絵裡で間違いない。
だとしたら、僕と手を繋いで登校したあの絵裡がドッペルゲンガーなのだろうか。いや、そもそもドッペルゲンガーなんてものを真に受けて考えるのがどうかしている。
「これは、きっと夢なんだよな」
確かめるように言って、僕は腕をつねる。答える痛覚は、さっき頬をつねったときよりも確かに鈍い。
どこからどこまで。遡って考えようとすると頭に靄がかかる。
「夢、だと思いたかった。でも私が記憶を失ったのは現実でさ。みんなから認識されなくなった時、あぁもう時間なんだって、自分を納得させようとした。納得しようとしたけど、怖くてさ……」
絵裡の声がまたしぼんでいく。
きっと僕より不可解な状況に、ずっと早い段階で陥っていたのだろう。すっかり疲弊しきっているように見えた。
まだ、絵裡の心の中で整理しきれていないことだってたくさんあるだろう。
こんな意味の分からないところに居続けたら落ち着くものも落ち着かない。
「夢なら、醒めないと。帰ろう、絵裡」
僕は立ち上がって、しゃがんだままの絵裡に手を伸ばす。
帰り方など分からない。でも、この絵裡の部屋のようで決してそうではない、この謎の空間からは早く出たかった。
相変わらずモニターだけは壁にかかっていて、そのほとんどはあらゆる角度で撮られた僕か、絵裡の姿。
なによりも早くこの曇った絵裡の顔を少しでも晴れさせたかった。
「やっぱり藍沢さんも、志郎のことが好きだったんだよ。さっきの映像を見て分かった」
絵裡は僕の手を掴まずに、ぽつりと言った。
恥じらいもなく肯定するのならば、そうなのかもしれない。僕が一方的に絵裡に憧れ、その先の好意まで向けて、挙句の果てには勝手に諦めかけて。
絵裡は自分の道をひた走って、僕のことなど振り返らないと思っていた。
その実、絵裡も今の僕と同じようなことを考えて、離れたくないと思ってくれていたらしい。
「でもさ……! 私だって、志郎のことが好きなの」
しゃがんでいた絵裡が、そう言って僕の手を掴む。
震えて、少し冷えた手。それでも少しだけ熱を帯び始めたような温かみが、少しずつだけど伝わってきていた。
僕は頷く。その気持ちはあの花火の日に受け取って、僕も同じように伝えた言葉だ。
’藍沢絵裡’を好きなことに、変わりはない。
「ねぇ、私と一緒に……」
「志郎」
絞り出されようとした言葉の間を、氷のように冷たい音がすり抜ける。
背筋を突き刺してそのまま切り裂くような声は、文字通り背後から聞こえた。
「違うよね、それ」
白色の、少しぶかぶかのパーカーに身を包んだ女の子。
銀色の髪は、この世のものとは思えないほどにきめ細やかに輝いていて。
見覚えが無い。そう判断しようとした瞬間に、腰に着いたモノが目に留まって離れなくなる。
五百円玉大の、まるで海を切り取ったかのような楕円形の薄青く透き通った水晶。その中を泳ぐように、海月の模様がふわふわと浮いている。同じような寒色のビーズやアルミ製の貝殻でシンプルに飾り付けされたキーホルダー。
絵裡と初めて行った祭り。その時に、僕が射的で取ったキーホルダーそのものだった。
「これが何よりの証拠だよ志郎。私が、藍沢絵裡。それは偽物なの。自分でも言ってたよね」
キーホルダーを掲げて、少女は言う。
低く表情の薄い声色だったけど、確かに絵裡の声ではあった。
だけど僕は知っている。いや、思い出した。この声の正体を。
いくつかの記憶の断片が脳内に上がってくる。混乱しつつも、それを冷静に俯瞰し、理解しようとする自分もいた。
「……ルサルカ」
その中で、一番異質な単語を拾い上げて口にする。
自分が思っていたより声は落ち着いていた。奥深くに眠っていたものが、ほんの少しだけど覚めるような感覚が頭の中に広がっていく。
「正解。あれ、とうとう記憶が戻ってきちゃったのかな」
「きみがルサルカで、夢の世界を作ってその中で、人を食らう怪物だってこと。それくらいだ。夢……どこからどこまでが夢なんだよ」
少女——ルサルカの姿を見て思い出した情報はごくわずか。
郵便受けに入っていた見慣れない手紙。探検部で集まって次の行き先を話し合った光景。山の奥、湖に浮かぶ様に建っていた、城。
そこで様々な夢を見た。数えきれない時間を過ごしたはずだけど、内容は覚えていない。僕はその夢の中でこの少女と出会い、怪物だと知り、そして何かしら言葉を交わしたはずだ。
声以外で、どこか話し慣れた感覚があるのはきっとそのせいだろう。
たぶん恐怖はすでに麻痺してしまっている。
「’藍沢絵裡は記憶を失っている’、’中学三年生の時に起きた水難事故’。これらすべてが夢だったことにしようか。そうしたら志郎も、私もみんな幸せだよ」
からかうように言う少女。
明らかに嘘をついているような口ぶりだが、僕にはその真偽を確かめるすべがない。
拳に力を入れる。指の爪が掌に食い込むくらい強く、血が出るくらいの覚悟で握ったはずだが、血の一滴も流れるどころか痛みも感じない。
「まだ、夢は続いているのか。早くここから出してくれ。僕らはもう、帰らないといけないんだよ」
帰って、また新しく絵裡と歩まなければならない。こんなところで立ち往生している場合ではないのに。
夢を夢として認識する。そうすれば自ずと夢から覚めて、現実へ戻れる。普通はそうだ。だけど未だに僕らがこの世界に囚われているということは、ルサルカの意思と力によって出られなくなっているのだろう。
「うん、帰ろうよ。だけど私も一緒だよ志郎」
「なんでさ。僕は絵裡と帰るんだよ。怪物はお呼びじゃない」
僕は言い放つ。
ここがルサルカの作った夢の世界ならば、あの時に現れた二人の絵裡の説明も付く。
あの朝僕を追ってきた方が本物の絵裡で、僕の手を引いて教室に戻った絵裡がルサルカだったのだろう。
そしてそれ以降は何食わぬ顔で藍沢絵裡として、僕の隣に立って、笑っていた。まるで自分が本物だと信じ込んで、もう片方を消したドッペルゲンガーのように。
夏休みの間ずっと、僕は怪物のことを幼馴染だと、恋人だと思い込んで接していたことになる。
せいぜい祭りの夜、あの花火の時間で違和感を覚えることができたのがせめてもの救いか。
「志郎だって楽しんでたじゃん。一緒に笑ってさ。そりゃ卵焼きは上手く作れなかったけど、お弁当だって美味しくできたし。アンバランサーだって楽しかった。私の走る姿、かっこよかったでしょ。もっと私のことを好きになったし、ずっと一緒にいたいって、思ったでしょ?」
「それは、絵裡であってお前じゃないんだルサルカ」
まくし立てるように押し寄せる言葉の波を遮って、僕は言う。
確かに二人が入れ替わったあの日以降、僕も吞気に絵裡の隣で笑っていた。むしろ懐かしさすら覚えて、絵裡に昔抱いていた憧れや諦め、いろいろな感情や記憶が頭をもたげたくらいだ。
まったく気づくことができなかった僕は恋人失格だし、今振り返って絵裡に合わせる顔が無い。そんな苛立ちも込めて、僕は続ける。
「そのキーホルダーも返せよ。怪物が、これ見よがしに藍沢絵裡を騙るな。いつまでも幼馴染の、僕の恋人のフリなんてしなくても良いんだぞ」
白いシルエットの中で、浮くように輝く海色の水晶。
僕と、まだ記憶を失っていなかった絵裡の間の数少ない形ある記録。いくら夢の中であろうと、ありふれた景品であろうと、それを他人に持っていられるのは我慢ならない。
「……それは、その女に言ってよ」
返ってきたのは低く、それでいて今までになくはっきりと、負の感情を孕んだ声。
決して叫んでわけではなかったのに、怒声を浴びせられたような感覚に僕は少しだけ怯んでしまう。
「怪物って言うなら、そこにいる女が怪物で、偽物だよ。大切なキーホルダーも、私たちの大事な話も、全部忘れちゃうような薄情なやつだよ。そのワンピースだって、本当は私が買ってもらえたはずなのに。なんでよ志郎……やっと会えたのに」
「何を……」
強気だった少女の口調が徐々に勢いを失って、今にも泣きだしそうにすらなっている。
その表情に、僕の中で保っていた警戒心や緊張感が途切れる。
潤んだ瞳と腰に光る海色の水晶が煌めいて、僕の目を刺す。
「私はルサルカ。夢の世界に人間を呼びだして喰らう怪異……と同時に、志郎、あなたの幼馴染。藍沢絵裡だよ」
一息に言う少女。
言っている意味が理解できない。正確には理解を拒んでいる。だけど心の奥底では、頷いている自分もいた。
一瞬だけ、目の前の少女と絵裡——それも少し幼い、中学時代の絵裡の姿に重なる。
「夢を見せて取り込んだ人間、水の中に溺れて意識を失った人間、そんな彼ら彼女らの意識を依り代に、私は存在する。二年前のあの日、私は溺れた藍沢絵裡の意識にしがみついて、この意識を覚醒させたの。だから私はルサルカであり、藍沢絵裡でもある。ねぇ志郎、だから戻ってきてよ。そいつは抜け殻なの。小さい時から一緒に居たのは間違いなく、私の方なんだから」
ルサルカの声が、水中の中で聞く音のようにくぐもって聞こえる。
ある時は絵裡、ある時はひどく冷たい少女の声になって、僕の頭に反響する。
言葉一つ一つが泡のように頭の中で浮かんで、その器をいっぱいにしていく。
これは嘘だ。今までと同じように、僕らをここに残すように仕組んだルサルカの話術だ。そう断定することで頭の中を空っぽにして振り切ることが簡単なはずだった。
でも。
「絵……裡」
気づいたら僕の視界は涙で歪んでいた。
どうして泣いているのか自分でも分からない。
ただ、涙をぬぐって次に視界に映ったのは、完全に中学の時の制服を身に纏った藍沢絵裡だった。
「違う……いや、でも」
目の前にいるのは怪物のはずだ。正直この状況では自分の記憶も認識も、頼れる確固たるものは無い。すべては本当に僕の夢かもしれないし、ルサルカが作り上げた巧妙な幻覚かもしれない。
震えた声と身体で僕は振り返る。
空色のワンピースを着た絵裡が、表情を崩して涙を流していた。
その感情を読むのはとても難しくて。許しを請うような、それでいて肩の荷を下ろしたような、どこか安心したような顔にも見える。
「違くない。志郎だって思ったでしょ。私は誰よりも、藍沢絵裡だった。私の力は失った記憶までは覗くことはできない。そこの女が知らない記憶も感情も、私が藍沢絵裡だから答えることができたの」
責めるような口調は、記憶とともに僕の胸を刺す。
例えばあの日の喧嘩のわだかまりを、僕は二年越しに解消することができた。
話し方や表情、どこか懐かしさを感じた頼もしい背中。細かい所作は紛れもなく僕が昔から知っている絵裡で、きっとそれは記録ではなく実感を持った記憶でしか生まれないもの。
認めるべきなのか。目の前にいるのも、確かに僕の幼馴染であり恋人の藍沢絵裡であること。正確にはルサルカという怪異と、藍沢絵裡が水のように溶けあってできた存在だということを。
だとしたら僕は二年間、絵裡をこの怪物の中に置き去りにして、平気な顔をして暮らしていたことになる。
奇しくもあの時とは逆の立ち位置で、二人の絵裡に挟まれている。だけどあの時と違うのは、どちらも本物の絵裡だということ。
だとしたら、僕はどうするべきだ。どちらかを選べというのだろうか。
「もう、やめて。私のせいで大切な二人に喧嘩してほしくないんだ」
背後から、ため息交じりの声でそんな言葉がかかる。
悲しげでどこか穏やかなその声色は、ほんの少しだけ僕とルサルカの間にあった張りつめた空気を和らげる。
「そうだよ、あなたが消えれば良いんだ。そうすれば私が志郎の隣に戻って来れる。何もおかしなところはない、平和に解決するんだよ」
和らいだのはほんの一瞬。無機質に言葉を返したルサルカは懐から何かを取り出して、それを地面に放る。
それは鞘に納まったナイフのようなもの。地面に落ちると同時に鞘が外れて、この世のものとは思えないほどに透き通って、それでいて禍々しい青い刀身を露わにした。
「これを自分の身体に突き刺してごらん。楽になれるよ。もう私を演じる必要なんてないんだ」
決して絵裡が言わないような残酷な台詞。でも内に秘めた、絵裡の暗い本音なんてものは、思い返してみれば今まで聞いてこなかった。
これはルサルカではなく、絵裡の心からの叫び。僕の知る絵裡とはかけ離れた言葉にもかかわらず、そう感じて、理解することができてしまった。
「そう、だよね。分かってる。だから消えようと覚悟を決めたんだっけ。あはは……」
「……」
絵裡は困ったように笑って頬を掻く。
演じ続けることが偽物だというのなら、確かに背中で笑う彼女こそが偽物ということになる。実体が意味を持たない夢の世界でならなおさら。でもだからと言って、彼女を切って捨てることはできない。
何か一言、僕が言葉を間違えれば彼女はもう戻ってこない。地面に転がるナイフを手に取ってしまう。そんな確信はあった。
「そのナイフを通して、今度は私——ルサルカがあなたの意識に憑依する。その代わりに私——藍沢絵裡が元の身体に戻るってわけ。志郎がこの世界に居てくれないなら、それが唯一の解決方法だよ」
「待ってくれ! だめだ。絶対に拾っちゃだめだからな絵裡」
力なく項垂れる絵裡に僕は叫ぶ。
人間の意識を依り代にする怪物、とか言ったか。本当かどうか、信じるか信じないかはこの際どうでもいい。夢の中だからきっと何でもありだ。
だから僕は必死に止める。絵裡に消えて欲しくない。確かに藍沢絵裡としては偽物だったのかもしれない。それでもこの二年間、僕の隣に居てくれて、見守って、想いを伝え合えた女の子は確かに存在した。
「志郎……!」
顔を上げて僕を見つめるその瞳は確かに言っている。
口には出していないけれど確かに、’消えたくない’と。さっきまでのはっきりしない表情とは打って変わって、確実に助けを求めていた。
「なんでよ。私じゃ駄目なの? そいつだって私の真似をしてただけ。本物の私じゃ、なんで駄目なの? 私をこれ以上一人ぼっちにしないでよ!」
張りつめていた糸が揺られるように、ルサルカは震えた声で僕に訴える。
紛れもなく絵裡の声で、言葉が僕の後ろ髪を引っ張る。
「駄目なわけじゃない。違う、二人ともなんだ。二人合わせて、僕にとっては藍沢絵裡なんだよ!」
幼いころから遊んで、笑って、時には喧嘩をして。勉強も運動も何でもできて、自信家で、不敵に笑って走り切る憧れてしまうような幼馴染。
記憶を失っても、僕のことを想って傷つけないように、笑っていられるように健気に隣に立とうとしてくれた女の子。僕の肩を、手を掴んで夢を、道を思い出させてくれた。止まっていた時間を進めてくれた。ここまでくればよそよそしい呼び名で呼ぶのもおかしい。彼女だって藍沢絵裡なのだ。
そのどちらかを選んで、どちらかを無かったことにする。
そんなこと僕にできるはずが無いし、選べるわけもない。
「そんなの、間違ってる。なんで、嫌だよ。このままじゃ夢が覚めちゃう。そんな欲張りは許されないよ」
「こんな時くらい欲張りにならせてくれよ! 僕の、大切な人のことなんだから!!」
「……!」
反射的に語気を強めて返す。柄にもなく叫んでしまって、ルサルカは少し怯んだような表情を見せる。
間違っているだなんて、欲張りだなんて、生れて初めて言われた。
今までの僕の人生はおよそ順風満帆と言えるものだった。
これまで怪我という怪我も、大きな病気にかかったことも無い。
友だちもそれなり、幸いなことにいじめやトラブルなんかとも無縁で。
この十七年、おかげさまで平穏な人生。
晴れていれば気分が良くて、雨が降っていれば少し悲しい。
それは言ってしまえば、波風の立たない海で、あてもなく流れに流される船と同じ。
でも僕はここに来て、その船から灯を見つけられたのだ。思い出した、とも言える。
であれば、僕はそれに向かって船を進ませる。灯が二つあるのなら、それを二つとも取りに行くべきなのだ。
「……知ってるか、ルサルカ。絵裡って最近、僕に隠れて卵焼きの練習してたみたいなんだ」
「ちょ、いきなりどうしたのさ……」
唐突な話題の切り替えに、背後にいる絵裡が顔を赤くして僕の袖を掴む。
でもここで言うべきことだ。腕にかかる、すでに曖昧になってしまった重みが、確かに存在することを証明するために。
再びルサルカを見据えて、口を開く。
「日記に書いてあった。あのスクランブルエッグしか作れなかった絵裡が、僕に喜んでほしいからってね」
「それが、どうかしたの?」
「絵裡は、いつまでもお前の知ってる絵裡のままじゃないってことだよ。ルサルカ、僕は今きみに話しかけてるんだ。もうお前の知らない絵裡が、僕の中にはいるんだ。だから、返してくれないか」
目の前の絵裡の奥底にいる、怪異に向かって言葉を投げる。
僕と一緒に居たいと言ってくれたのは間違いなく絵裡の本心。それは理解しているつもりだ。だけど、ここは譲れない部分で、話をしなければいけない。絵裡にも、そしてルサルカにも。
「違う、私だよ、絵裡だよ。私だって寂しかった。ずっと、ずっと一人で。やっと志郎をこの城に招待できてさ。今度こそこの夢の世界でずっと一緒に、変わらない世界で過ごせると思った」
変わらない世界。
それは僕がずっと望んでいた世界だ。
笑って、僕のことなんか振り返らずに走って行ってしまうと思っていた絵裡。
水難事故が起きて、本当に僕の目の前からいなくなってしまうんじゃないかと恐怖したあの日。
きっとルサルカの手を取れば、そんな変化とは無縁の、変わらない日常を平穏に過ごしていけるのだろう。
だけど僕は分かってしまった。いや、本当は最初から分かっていたけど目を逸らしていた。
変わらないものなどない。時間は嫌でも進んでいって、いつかすべては変わっていって、僕のもとから離れていってしまう。
ならば、僕も変わってついて行かなければならない。灯を持って、背負って、立ち上がって走り始めなければならないのだ。
「夢の中なら確かに、ずっと変わらない世界で過ごせそうだ。だけど僕は変わりたいと思うようになってしまった。絵裡の隣に立って、前へ進んで、変わっていく景色を見たいと思った。そこには二年前までの絵裡も、それから先の絵裡も、両方がいないと進めないんだよ」
不敵に笑うその背中を追って走る。今の僕ならそれができるのかもしれない。
でもそれは、背中で震える絵裡が、今の天野志郎を形作ってくれたから。僕の高校二年間を見守って、思い続けてくれた感情が、枯れ果てた薪に火をくべて立ち上がらせてくれた。
平凡な僕は、それでようやく藍沢絵裡の隣に立つ決心をつけることができた。
目を見開いて動かないルサルカに、僕は続ける。
「あわよくば僕も、お前みたいに笑えれば良いと思ってる。変わって欲しくないのは、僕が誇れる僕と、絵裡がずっと一緒に幸せに生きること。そのために、僕は変わっていくよ」
無理やり、僕は笑顔を作る。
そんな状況ではないけど、こうやって笑って隣に立ちたかったからその練習だ。
変わっていくのはきっと怖いこと。だけどそれに慣れていかないと、たぶん幸せにはなれない。
伝えたいことは伝えた。沈黙が流れて、それからルサルカ——いや、絵裡は笑った。
「……変な顔」
言って、口元を上げる。
そこにはどこか清々しさのようなものが見えた。
ふとその背後に視線を向けると、いつの間にか空間が綻びを見せ始めていた。風景の欠片が一つずつ空に吸われていくような、そんな現象が錯覚ではなく目の前で起こり始めている。
「変な顔だけど、見たことない。聞いたことのない声と、言葉。でも……あぁ、なんでかカッコいいなって思っちゃった。私と居た時は、絶対にそんな顔しなかったくせに」
声を詰まらせて、それから僕の背後——絵裡に目を向ける。それから穏やかな声で問う。
「あなたが変えたんだ。他には? 私のいない間に、志郎はどう変わった?」
それが絵裡のものなのか、ルサルカのものなのか判別がつけられなかった。
問われた絵裡は、困惑しながらも首をかしげて、それから口を開く。
「えっと、志郎って意外と線香花火が好きなんだよ」
「うん、見た。知ってる」
「あー、それから、もうすぐ受験でさ。背伸びしてちょっと難しい大学受けようとしてるの」
「知ってる」
「……」
きっと夢の世界で、僕と絵裡のやり取りを見ていたのだろう。
さらに首をひねって、梟みたいになりそうな絵裡の顔がおかしくて、こんな状況なのに僕は噴き出しそうになる。
「でもさ、二年だよ。思い出はいっぱいあるから話し尽くせない。それに……やっぱり私も消えたくない。あのさ藍沢、さん。いや、ううん。私。この先もさ、私たちの知らない志郎のこと、見ていきたくない?」
今度は絵裡が、絵裡に問うた。
それに彼女は、はっと口を開けて、それから笑みを浮かべる。今度は得心がいったような、曇りの無い表情に見えた。
「……私が、誰よりも志郎のことを分かっていた気でいた。でもあなたは私の知らない志郎を知っている。あなたも、ちゃんと志郎を好きになって、あの表情を引き出したんだね」
語尾は震えて、その表情は一瞬で崩れる。
「見たくなっちゃったじゃん、知りたくなっちゃったじゃん、私も」
言って、絵裡は膝をついて、それから声を上げて泣き出した。その声がこだまして空間を震わせるごとに、周りの景色が崩れていく。
割れた空間の向こうには、真っ白な空間。
どこかで見たような錯覚に、僕は軽く眩暈を起こす。
「あ、絵裡!」
強く手を引かれる感覚に、思わず叫ぶ。
絵裡が立ち上がって、僕の手を引いて小走りに前へと進んでいた。温かい手の感覚が全身へゆっくりと伝わる。それが原動力になるように、引きずられるように、僕も前へと足を動かす。
その先には肩を震わせて泣くもう一人の絵裡。
強く握りしめられていた拳に手を置いて、絵裡が絵裡に言った。
「おかえり。私」
泣き声に混ざりつつもはっきりと、その声はこの空間全体に響いた。
それが合図だったかのように、景色はすべて剥がれて、上も下も周りすべてが真っ白な場所に成り代わる。
僕の視界では空色の絵裡と、涙を流す白い髪の少女——ルサルカだけが色を持っていた。
徐々にすすり泣きに変わるルサルカの声だけが、静かな空間にぽつり、ぽつりと雨のように降って、こだまする。
僕の手は、絵裡の手と一緒にルサルカの手を握っている。
強く、強く。込められた力が少しずつ熱を持って、三人を温めようとしている。
「……うっ、ひぐ……た、ただいま」
途切れ途切れに、ルサルカは言う。
見れば幼い少女だ。人を夢に捕らえて喰らう怪異とは到底思えないくらいに。
もうそこに’藍沢絵裡’はいない。直感で認識することができた。けれど彼女は答えた。
「うん、おかえり。やっと言えた。やっと、聞けたよ」
絵裡は目を瞑って、噛み締めるように繰り返す。頬に涙が伝っていた。
それから彼女の手はゆっくりと、ルサルカの背中に回る。
その光景を見て、視界が歪む。泣いていた。すぐに理由は見つからない。安心したことは確かだ。
だから今度は絶対に離さないように。僕は確かに誓って、’藍沢絵裡’を両腕で包み込んで、抱きしめていた。




