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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route:Navy
34/36

 途中、何度も人ごみに押しつぶされそうになりながらも、ピンク色の派手な屋台と「イチゴ飴」という僕にとっては新鮮な文字列を見つけて、飛び込むように近づく。

 すっかり辺りは暗くなっているけれど、人の量は減るどころか増え続けているようで、今目の前にある列がイチゴ飴なのか隣の屋台のものなのかも判別がつかない。


「絵裡さーん、藍沢絵裡さーん」


 性懲りもなく呼びながら、絵裡の姿を探す。

 たこ焼きややきそばを焼く音。ザクザクかき氷を崩す音。人々の話し声、怒鳴り声、子どもの鳴き声、相変わらず大音量のBGM、その中で名前を呼ぶと自分がどのくらいの声量を出せているかも定かではない。

 暗くなった分、屋台を照らす明かりが各々点いたおかげで視界は非常に眩しい。絵裡の白い浴衣姿はすぐ見つけられそうなものなのに、なかなか視界に入らない。


「もう、どこに目付いてんのさ」


 目を細めながら視線を泳がせていると、そんな言葉が耳に入ってくるとともに、ぐいっと甚兵衛の裾を引っ張られる。


「ごめん……って、絵裡さん?」

「ふっふっふ。イチゴ飴おねーさんだよ。イチゴ飴をあげようね」

「こわ」


 振り返るとそんな怪しさ満点のセリフとともに、絵裡の声をした青色ワンピース女が狐のお面を被って立っていた。思わず確認をしてしまったが、これで絵裡じゃなかったら普通に不審者として通報案件だ。

 僕がおそるおそるイチゴ飴を受け取ると、青色ワンピース女はお面を少しだけずらす。中からはちゃんと、頬を膨らませた絵裡の顔が覗いてとりあえず一安心だ。


「まったくどこに行ってたのさ。後ろ向いたらいないんだから、久しぶりに焦っちゃったよ。探し回ってもいないし」

「ごめんって。ぼーっとしてたというか。その後もいろいろあったんだよ」


 言いながら、僕はイチゴ飴を一口齧る。しゃくり、という音ともにパリパリとした飴の部分と、イチゴの果肉の柔らかい感触が同時に歯に当たって若干頭が混乱する。

 口に広がる甘酸っぱさに、ほんの少しだけ疲労が和らいだ気がした。はぐれるだけでも緊急事態だし、迷子の誘導までしたのだから疲れるのも当然、本当にいろいろあったのだ。


「ま、言い訳は署の方でゆっくり聞きますけども。それはそうと、イチゴ飴、美味しい?」

「んー、なかなか不思議な味だな。美味しいし、疲れた身体に染みる……」

「だよねー、私も志郎ちゃん探すのに疲れちゃってぇ、お腹空いちゃってー。いろんなもの食べたいなー」

「それは僕もだよ。今度こそ、何食べたい?」


 分かりやすくねだってくる絵裡。かれこれ会場についてから一時間くらい、その時から小腹が空いたとか言っていた気がするから、きっと絵裡のお腹は今頃大合唱状態だろう。

 僕はポケットの財布を確認して訊く。今日は元からそのつもりだったから、準備は万端だ。


「目についたものすべて」

「うーん、暴食の化身。よし、それじゃ行くか」


 たぶん僕が思った以上に絵裡はお腹が空いている。

 暴れだす前に、と冗談半分に思って僕は右手を差し出す。

 たこ焼きでもかき氷でも、金魚すくいでも射的場でも、行きたいところに連れて行こう。

 今度ははぐれないように、しっかりと目も手も離さないように。


「待ってました!」


 と、まぁかっこよく決めようとした僕はそれこそ暴れ馬に引きずられる騎手のように、逆にその手を握られて引っ張られる。

 燃え上ってしまいそうなその手の熱は、僕の身体に急速に移って回っていくのを感じた。

 ぐい、っと意外にも強い力で握られた手と身体は、そのまま絵裡と一緒に人ごみの中を突進していく。上手い具合に人と人の間をすり抜けて、迷いなく小走りに進む絵裡の背中を視界にとらえるのに精いっぱいだった。


「お、おいマジで気を付けろよ」

「分かってるってー!」


 できれば僕が前に立って、なんて思ったけど。

 そうなるのはまだ先の話かもしれない。今にも大笑いが口からこぼれそうな絵裡の表情を見て、下駄が擦れて痛いから止まってくれ、だなんてとても言える気がしなかった。


*****


 あれから何件か屋台を回って、少なくともお祭りの食べ物の定番は一通り堪能するまで食べた。

 いつものごとく金魚すくいもしたし、射的もした。射的に関しては今回、絵裡のお眼鏡にかなう景品が無かったようなので一番高そうな景品を狙ったのだけど、あえなくすべて外してしまった。僕も腕が落ちたものだ。

 それから野外ステージもやっていて、地区の子どもたちの踊りにみんなで混ざったり、マジックショーなんかもしていてなんだかんだ楽しんだ。

 お腹が重くなる代わりにポケットは軽くなったけれど、絵裡もかなりはしゃいでくれたから僕としては満足だ。


「いや~夏休みも折り返しになっちゃうね~」


 満喫し切ったような声で、前を歩く絵裡の背中が言う。

 僕らは腹ごなしにすぐ近くの川沿いを歩いていた。川向うにさっきまでいた公園が見えて、ぼんやりと遠い世界のように光っていた。

 祭りはフィナーレのようで、毎年お馴染みの盆踊りの曲がかすかに響いてきていた。それに重なるように昼よりは控えめになった蝉の声と、カエルや虫たちの声があちこちから聞こえてくる。

 そして夏休みも、いつの間にやら半分が終わろうとしていた。

 つい三日前くらいに、夏休みは何をして絵裡を楽しませてやろうかと思案していたような気がするが、本当に夢のように一瞬で過ぎていった感覚だ。


「あっという間だったな。絵裡は、楽しめたか?」


 祭りの熱気の余熱を逃がすように、なぜかため息交じりの声になりながら、訊いてみる。長い付き合いだから、顔を見ればその時にどう感じているかはある程度分かっているつもりだけど、それでも確かめるためにその背中に問いかけた。

 不安、なのだろうか。正直、楽しいと答えてくれることは今までの感触から分かっている。でも今胸の中にあるのは充足感の他に、寂しさとか空虚さとか、そういった類の感情だ。

 この何かが足りないような感覚は、直接言葉にして言ってもらえれば埋まるのだろうか。


「あったりまえじゃーん。私は志郎と居られるだけでずっと楽しいんだから!」


 訊くのが馬鹿らしくなるくらい、嬉し恥ずかしな返答。

 嬉しい、はずなのだけど、僕の心は思ったほど晴れなかった。満腹感と疲労感で情緒がマヒしているからかもしれない。その感情のちぐはぐさに折り合いを付けようと、ワンテンポ遅れてから曖昧な相槌を打つ。


「……おー、それは何というか。恋人冥利に尽きるな」

「なにその反応ー。じゃあさ、志郎はこの夏、何が一番楽しかった?」

「んー、そうだなー」


 ぐるぐると巡る思考に、絵裡の質問が重なる。

 思い返せばそこそこあったような、無かったような。

 今着てもらっているワンピースを買いに行ったのは夏休み前だったか。夏休みが始まってからは家族で父方の実家の墓参りを済ませて、翔とは次の探検部の行き先の下見と称して出かけたりもした。

 その他にもいくつか、なぜかあまり詳細に思い出せないけどけっこう忙しく過ごした気がする。


「……花火」

「え?」


 頭に浮かんだ言葉を呟いた瞬間、どん、と爆発音が空気中に響いて、少しだけ視界が明るくなる。

 締めの花火だ。これが始まったということはいよいよこの祭りも終わりを迎えるということ。


「花火だよ。やっぱり今年の夏、一番楽しかった。嬉しかったのはあの花火の日だ」


 ぱらぱらと上空で散って消えていく赤色の火花を眺めながら、僕は言った。

 虫に食われたかのような記憶の破片の中で、一つだけ鮮明に、僕らが恋人になれたあの花火の日の記憶だけが脳内に映った。

 まさに明かりが灯ったかのように、あの日の花火の光と絵裡の顔がフラッシュバックする。


「……」


 絵裡は口を開けたまま、虚を突かれたかのように固まっていた。

 僕が言ったことを理解できないかのような表情。その顔に僕も、そこはかとなく不安を感じる。さっきまで鮮明に見えていた光が、あっという間に暗い靄に包まれたかのようだった。

 僕がその手を掴んだ絵裡ならば、きっと同じ気持ちになってくれる。そう無意識に思っていたから尚更、目の前の表情が歪に見える。


「じゃあさ、もう一回花火しようよ。あそこのスーパーで買ってさ」

「い、今からか?」


 どん、どんと次々に上がる花火の合間を縫うように届く絵裡の提案に、僕は聞き間違えたのかと思って確認する。

 冗談のはず、と思いたかったがこの顔は本気だ。言い出したら一歩も引く気はない、やっぱりどこか懐かしい顔に、さらに頭が混乱する。


「うん。ここの川、花火やってもオッケーな場所だし。ほら、あそこでやってる人たちもいる」


 絵裡が指さす方にはいつの間にいたのか、中学生くらいの男女が数人、花火を振り回してはしゃぎ回っていた。家族連れでバーベキューでもしているのだろうか。近くには携帯コンロやテーブルが置かれていて、数人の大人が肉を焼きながら座ってその様子を眺めていた。

 その集団からほんの少し離れた位置に、女の子が一人、川にしゃがんで何かを探す素振りをしていた。

 彼らの家族か友だちか、判別は付かなかったが背格好は同じくらいだ。彼女は中学生の集団に混ざりたそうに、ちらちらと彼らの様子を伺いながらも、その手は忙しなく川の中で何かを探るように動いていた。

 勇気を出して声を掛けたら良いのに。

 あるいは誰かが気づいて声をかけてあげたら良いのに。あるいはかけられない理由でもあるのか。例えば、喧嘩をしたとか——。


「……危ないよ」


 降って沸いたようなその風景を食い入るように見つめる僕から、咄嗟に出た言葉がそれだった。

 自分の声が耳に届いて、急に地面に穴が開いたかのような浮遊感を覚える。

 どこまでも落ちていくような、それでいて重力の無い真っ暗な空間に放り出されたかのような感覚と、右も左も、上も下も分からなくなるような理由の分からない恐怖。

 ―—いや、理由は分かっている。忘れているだけだと脳は言うけど、心が思い出さないように必死にその記憶に蓋をしている。

 川のせせらぎ。家族。肉の焼ける香ばしい匂い。いくら待っても来ない幼馴染——。

 息が荒くなる。引いてきた汗が、吸ったシャツから逆流してきたかのように戻ってくる。


「じゃ、やろっか」

「え?」


 絵裡のあっけらかんとした声に、その感覚のすべてが吹き飛ぶ。

 目の前には花火セットの大袋。手持ち、ねずみ、線香花火、この前のものよりさらにいろんな種類が入っているようだった。


「いや~、でっかいのが売り切れてなくて良かったね。これで思う存分やれるよ」

「あ、あぁ……」


 いつの間にか僕は土手を下りて、あの中学生集団と少し離れた位置の川沿いに、絵裡と一緒に立っていた。

 近くにはマッチ箱とロウソク、ちゃっかり水の入ったバケツまである。

 全く記憶にないのだが、どうやら僕らはスーパーに行って、どう考えても二人でやる用ではない花火セットを購入したらしい。

 瞬きするくらいの一瞬。それくらいまでに放心状態で僕は買い物に行ったのだろうか。思い返そうとすると頭に靄がかかるが、そんな気がしてきた。


「この前の続き、今度は私がオビツー役ね」


 マッチ棒を擦ってロウソクに火を灯してから、絵裡がはにかんで言う。

 ぼんやりとした頭で聞いていたから一瞬何のことだか分からなかったが、あの日のちゃんばらのことか。


「またあのシーンかよ」

「だって楽しんでたじゃん志郎。それにこのシーンはいつまでたっても色褪せないのよっと!」


 言って、絵裡は手持ち花火に火を点ける。

 最初は静かに、そしてだんだんと弾けてオレンジ、緑、赤と激しく変わっていく火に、僕は目を奪われる。

 両手に花火を持ってくるくると回る絵裡。目まぐるしく変わる色に照らされたその姿に誘われるように、僕も花火の先端を火に近づける。


「お、やる気になった?」

「仕方ない、銀河の平和でも守ってやるか」

「かかってこーい!」


 場違いな期待かもしれない。

 最後の確認というか。さっきから纏わりつく妙な感覚を吹き飛ばしてくれる何かを、僕がこの夏で一番楽しかった、嬉しかったこの花火で見つけることができるかもしれない。

 相変わらず危ない遊び方をする絵裡に合わせるように、僕も花火を振り回す。空に打ちあがる花火に負けないくらい、僕らは夜を、すぐ近くに横たわる黒い水面を照らした。


「うおー、負けないからねー!」

「く、あはは!」


 ただ、そんな期待もすぐに楽しいという感情一色に呑まれる。目の前の笑顔と光に、僕のすべてが集約されるような感覚。

 別にもう、役とか、勝ち負けとかはどうでもいい。

 自然に腹から笑いが込み上げる。

 ぐるぐると円を描くように花火を回して挑発する絵裡に、僕も突進するふりをして花火をがむしゃらに振り回しながら——もちろん火花が当たらないように気を付けながら——近づく。

 まったく、一切の不安の無いようにはしゃぐ絵裡に、結局僕もつられてしまっている。状況はこの前と同じだけど、すっかり夜空色になったワンピースで軽やかに舞う絵裡は、ほんの少しだけ幼く見えた。

 僕らの笑い声と、頭上で爆裂する音。視界をぼやけさせる煙と、鼻と肺に入り込んでくるその独特の臭い。消えては周りを照らし続ける火花は、もうこのまま終わることは無いんじゃないか。これまでの違和感なんて全部気のせいだったんじゃないか、そんな気がしてくる。


「……ひゅー。叫びすぎて喉痛い」

「高校生にもなって小学生みたいな遊び方するからだよ」


 どれくらい時間が経ったかは、この身体の疲労に訊けばだいたい分かる。

 言葉通り枯れた声で地べたに座り込んだ絵裡に、僕は言う。


「いーじゃん。こういうのが好きなの、私は」

「あぁ、分かってるよ」


 満足そうな絵裡の声を耳に入れながら、僕も息を整えがてら座り込んで、周りの景色を見渡す。

 前方に見える公園の明かりはさっきより少し暗くなったように見える。屋台の片づけを始めたのだろう。

 空はほんの少しの星が浮かんでいるだけで、光の花は一つも咲いていない。

 バケツには激闘の末の燃えカスが、所狭しと墓標のように刺さっていた。消えてしまえば一瞬で、まるで夢のような光たち。

 それを見ていると、さっきまでの興奮が急激に冷えていくのを感じた。

 我ながら忙しい情緒だ。抑えられていた有象無象の暗い感覚は、すぐに僕の心を蝕もうとせり上がってくる。


「……線香花火、やるか」


 暗い渦を払いたくて、あるいはずっと空きっぱなしの胸の穴を埋めたくて、僕は立ち上がって花火の袋を漁る。

 ささやかな火花が弾ける音だけが響く静寂、現れては消えてしまう細く小さな光の枝、そしてそれを見つめる絵裡の顔。

 あの時の、あの感覚。もう一度目にすれば、今度こそ。

 ずいぶんと薄くなってしまった袋を開けると、綺麗に線香花火だけが束になって残されていた。

 その中から一本取ってしゃがんで、小さくなったロウソクの火にその先端を近づける。


「あー、もう地味なのしか残ってないね」


 火種ができるのを待つだけ。

 そう思っていた僕の思考は、降ってきたその落胆したような声に止まる。

 それは絵裡としては何の変哲もない言葉。派手で騒がしいものの方が好きだし、自身もそういうやつだ。僕の記憶にいる絵裡と、何一つ乖離するはずがない。

 そのはずなのに。

 蝕んでいた暗い渦はより大きく暗く、胸の穴はより大きくなる。


「……地味って、好きになったんじゃなかったのかよ」


 渦の中に埋もれていた映像を取り出して、僕はやっと声を出す。

 確かに、あの時絵裡は言った。

 儚くて綺麗で、感傷的になるけれど、好きになったと。

 あれは冗談とかその場のお世辞とか、そんなものじゃなくて、心の底からの言葉だった。だから僕も、あの絵裡でさえ変わってしまうのだと怖くなって、しまいにはその手を掴んだ。


「なぁ、絵裡も……」


 僕は苦笑いをしながら顔を上げる。口が引きつっているようで、自分でも無理に笑おうとしているのが分かる。

 そこにある一本を取って一緒にやろう、そう言おうとした。


「……」


 そこには能面のような絵裡の顔があった。さっきまでの笑顔がまるでお面だったのではないかと思うほどの、冷たい表情。

 絵裡が絶対纏うことのない、黒く、氷のように冷ややかな雰囲気は、じめじめとした夏の空気を一瞬で真冬のように凍えさせる。

 背中に冷や水を浴びせられたような、という表現ではもはや生ぬるい、全身を鋭い氷と鉄で刺されたような痛みにも似た感覚。

 同時に僕の内側で、暗い渦がいよいよ大きくなって何かが違うと唸りを上げている。

 僕は咄嗟に地面に片手を付いて、絵裡から距離を取ろうとする。

 線香花火は火花を一つも出さないうちに、僕の身体の動きで落ちてしまった。


「どうしたのさ、志郎。やらないの?」


 ひどく無関心な、その声がトドメだった。

 気づけば僕は線香花火を捨てて走り出していた。

 寒さと痛みから、そして絵裡から逃げるように背中を向けて。


 ―—待って。


 背中から、どこかで聞いたような、絵裡であって絵裡でないような声が耳に響く。

 それでも僕は止まらない。止まれなかった。ここから離れないとおかしくなる、そう身体と頭が言っていた。


「はぁ、はぁ……!」


 無我夢中で足を動かしたからか、途中で派手に転んでひざを擦りむいた。赤く滲んだ血は他人事のようで、痛みは無かった。あんなに痛かった足の指も、何の感覚もなかった。

 ただ焦りと消えない違和感だけが、強烈に頭に残り続けていた。


*****


 景色が黒から白へ。白から青へ、それから朝の通学路、校門前、教室、見知らぬ病室、翔と探検の下見に行った山、翠谷と中学生時代に過ごした図書室、席で佇む緋村の横顔——。

 笑い声、泣き声、歓声、慟哭、励まし、迷い。

 聞いたことのない声、嗅いだことのない匂い、食べた記憶の無い味、未知の感触。

 記憶にあるものから無いものまで、いろいろなものが、走る僕の周りを現れては消えていく。


「ここは……」


 景色が収束する。

 見覚えのある部屋が目の前に広がっていた。

 中央には折り畳みのテーブル。近くには少し埃の被ったゲーム機。勉強机には筆記用具と化粧品がいくつか、奥のベッドにはサメのぬいぐるみが転がっていた。

 絵裡の部屋だ。

 訪れたのはつい最近な気もするし、もうずっと前のことのようにも感じる。勉強会をしたその日のままの状態で、僕の目の前には絵裡の部屋が広がっていた。

 ただ一つ、ベッドのすぐ横の壁に埋め込まれるように設置された大きなモニターを除いては。


「はは、長距離ランナー目指せるかもな、僕」


 誰に聞かせるわけでもない独り言を呟く。

 さほど驚いていない自分に、もはや驚いていた。

 あの公園から、僕の体力でどう頑張って走ったところでここまで来られるはずがない。息もさほど上がっていない。

 夢、か。

 だとしたらどこからどこまで。どうしたら覚めることができるのだろう。


「痛……くはないけど」


 頬をつねってみても、感覚はある。けれどどこか鈍い。確かに触っている感覚はあれど、握る強さに比例した痛みは無い。

 結論を付けられないまま、僕は目の前のモニターを見つめる。

 何も映っていないから、真っ黒なその画面はうっすらと僕の姿を映し出す。甚兵衛に下駄姿のはずだったのに、映し出された僕はなぜか学校の制服を着ていた。

 見間違いかと思って視線を下に移すと、やはり実際に制服——夏服を着ている。いちいち驚いていたら気が持たない。他に異常がないか、僕は辺りを見回す。


「……ん?」


 視線をさらに落として足元。見慣れないノートが落ちていた。

 あの時勉強会で使ったどの参考書ともノートとも見覚えのない、紺色の、少し小さめのノート。表紙には’日記’と、簡素に書かれていた。


「絵裡、のかな」


 絵裡の部屋に落ちているのだからその確率が一番高いだろう。いくら恋人とはいえ、勝手に覗くのは失礼。そんな当たり前のことは頭に浮かんだけれど、僕の手は勝手にそのページを捲っていた。

 一ページ目の日付は二年前の八月。

 最初の一文を読み始めると、内容を理解するよりも早くに頭の中に映像と音が流れ出す。視界の隅に光るものが写って視線を動かすと、壁の大きなモニターが様々な映像を映し出していた。

 そのほとんどは、誰かの視点から見た僕——天野志郎の姿。

 広がっている映像に若干の恐怖を覚えつつも、僕はまた日記の文章を目で追う。リンクするように、モニターの映像も動き出しているようだった。


*****


 ―—20XX年8月〇日


 これから、日記をつけることにしました。

 日記ってどういう風に書いていくべきなのかな。丁寧な感じで書くべきなのかな?それとも普段通りでいいのかな?

 あ、でもさっきお母さんに言われたばっかりだったっけ、普段通りが一番だよって。

 日記帳を買ってもらうのに緊張して「日記帳を買ってもらえませんか?」って言っちゃって。ちょっと寂しそうにしてたから気をつけないと。癖をつけるためにも、普段通りな感じで書いていこうと思うよ。よろしくね。

 これを書こうと思ったのには理由があるんだ。

 貴女が、記憶を失くす前の藍沢絵裡さんが、いつか帰ってくるかもしれない。

 忘れちゃったことを全部思い出せるかもしれない。

 そうなった時に、私がいなくなっちゃったりしても大丈夫なように、色々起きたことや、感じたことを書いて残しておこうと思って。

 そうすれば、貴女がその先を生きていくのにも役に立つかなって。まあ、記憶を失くしちゃった私が、これ以上忘れないようにっていうのもあるけどね。

 なるべく色々書いていくつもりだけど、毎日はちょっと無理かもしれない。

 でも、大事なことはきっと書いておくから、役立ててくれると嬉しいな。



 ―—20XX年8月△日


 貴女と志郎には、謝らなきゃいけない事があるんだ。

 うーん、なんて言ったらいいのかな。ちょっと説明するとややこしくなっちゃうんだけど、今、私は記憶喪失になった事を志郎に隠してるんだ。あの日私は病院で目覚めて「私」になったんだけど、その事はウチの家族と天野家の両親しか知らないんだ。

 お父さんが沢山撮ってたホームビデオやアルバム、貴女が置いて行ってしまったものをかき集めて、なぞって、藍沢絵裡であり続けようって決めたの。

 志郎に嘘つくなんてって怒るよね。なんでそんな事をって思うよね。でも貴女なら多分、分かると思う。

 病院で面会ができるようになってからすぐにね、志郎が会いに来てくれたの。それでね、「大丈夫?」って聞いたの。

 その時は何故か咄嗟に「大丈夫」って笑って言っちゃったんだけど、それを聞いた志郎がね、泣いたんだ。

 本人は笑おうとしてたみたいで、なんかくしゃくしゃの顔になってたんだけど……その表情を見てね、ああ、この人は泣かせちゃいけないんだって、これ以上悲しい顔させちゃいけないんだって、そう思ったの。だから、志郎の事を忘れた、だなんて言えなかった。

 こんなことを書いたのもね、今日、志郎が突然謝ってきたの。何か喧嘩してたの? 勝手に許すのも怒るのも違うと思ったんだけど、志郎の暗い顔を見たら反射的に「気にしてないよ」なんて言っちゃった。良いよね? 私がいなくなってから、ちゃんとお話ししてね。

 貴女のアルバム見たよ。色んな志郎と一緒に写ってた。どれも、素敵な笑顔で。そんなふうになれたらいいなって思った、私のわがままなんだ。これから何が起きても、自業自得。

 いつか限界が来るかもしれない。まあ、滅茶苦茶なことをしてるのは確かだからね。

 だから、早く帰ってきてね。志郎が笑っているうちに。


*****


 そこまで読み終えて、僕は身体が浮くような感覚を覚えてノートを机に置く。

 立ち眩みだ。

 モニターを見ると相変わらず数々の映像が、記憶の断片のように入れ替わりながら映し出されていた。


「絵裡の……記憶」


 書いてあることの意味を、僕の頭は理解したがらない。でもこの内容から、どうしても確定している事実が、情報として突き付けられる。

 絵裡が、記憶を失っている?

 少し特殊な書かれ方をしているから頭が混乱しかけたが、きっとそういうことだ。

 日にちを見る限り二年前の夏から、記憶をなくしているらしい。

 そして記憶を失ったことを言わないまま、絵裡は絵裡として僕の前に立って、話して、笑っていた。ずっと過ごしてきた幼馴染なのに、僕はこの日記を読むまで気づくことができなかった。

 唯一気づけたかもしれないタイミングは、日記の中で言うなら’僕が突然謝った’という日。この日の記憶は、確かに最近も思い出した。あれは僕にとって、絵裡と向き合う上で残っていたわだかまりみたいなものだった。本当にちょっとした冗談とすれ違いで起きてしまった喧嘩に対する、「気にしていない」という絵裡の言葉。それは僕自身の情けなさとか、諦めとか、卑怯さみたいなものを自覚させるには十分なものだったから。

 でも本当にそのくらいのはずだ。

 絵裡は絵裡のまま、僕の前に立っていた。くだらない冗談も、あどけない笑顔も、頼もしい背中も。少なくとも、つい最近までは絵裡に対して違和感を覚えることは無かった。

 ここ数日で湧き続けている違和感だって、きっと僕の認識の問題だ。絵裡は十分すぎるほどに絵裡だった。

 二年前というと、中学三年生だ。その頃の夏、記憶をなくすような出来事があっただろうか。そんな素振りが例え無かったとしても、僕は気が付くことができなかったのだろうか。

 日記を読み返す。病院での出来事というのは、頭の中を掘り返してみても思い当たる記憶がない。特段、僕も絵裡も大きな病気なんてしたことは——。


「……」


 長く白い廊下。行き来する白衣の医師や看護師。電子音を鳴らす医療器具。肩で息をしながらそれらとすれ違って、たどり着くクリーム色の扉。

 扉を開けたその中で、呆然とベッドに座る絵裡。

 こんな記憶は無い。あってほしくない。思えば思うほど、質感を持って記憶が溢れて来る。

 寒気がするのに、汗が溢れて来る。

 拒絶する僕に追撃をするように、モニターは再び一つの映像を映し出そうとしていた。



*****


「星、見たかったなぁ」


 真昼の雲ひとつない青空にぼやいてみる。見えるのはさんさんと輝く太陽ばかり。

 結局私達は、去年までと同じく川に来ている。

 志郎達がバーベキューを楽しんでいる中、自分はそれに混ざる気が起きず、こうして川に浮かんだり泳いだりを繰り返している。

 あれから志郎とはうまく話せていない。最近、志郎は自分と目が合うとすぐにそらすようになった。今までの経験則から行くと、あれは何かこちらに後ろめたいことがある時の反応だ。

 今回の原因はわかっている。あの日の喧嘩だ。もっというと、あの日の朝のテレビのせいだ。

 今思うと、あんな流星群の事や、占いで「第一位は双子座の貴方! 普段と違う事をやってみるといいかも? 今日がチャンス!」みたいな連続で後押しされた気分になって、突撃してしまったのも良くなかったのだろう。流れを枕に頭を冷やしていると、どんどんやらかしたという実感が湧いてくる。

 じゃあどうすればいいんだろう。どうすれば、志郎は私と一緒にいてくれるんだろう。

 生まれた時からずっと隣にいる幼馴染。正直頼りない部分もあるから面倒をいろいろ見てきた手のかかる弟。でも、自分の話していることに耳を傾け、笑ってくれるお兄ちゃん。もうずっと、家族みたいな存在。

 ずっと一緒にいるのが当たり前だと思ってた。でも、受ける高校を選ぶ時に言われたのだ。


「絵裡って意外と頭いいよな。水鳴高校とか受けるんだろ? すごいなぁ。僕には無理だよ」


 志郎が口にしたのは家から一番近い、でもそこそこ高偏差値の高校。何の疑いもなく一緒に行くつもりでいた。だから、そう言われた時に本当にびっくりした。

 大慌てで私は志郎を説得し、私が勉強見るからと請け負って志望校を揃えたものだった。

 一応、志望校のランクを下げる、というのもアリではあった。だけど、あの時は勉強を見るっていえば沢山一緒にいられるからと深く考えていなかった。美悠さんも喜んでくれてたし。

 ただ、それから嫌でも考えてしまうようになったのだ。志郎と離れ離れになってしまうことを。

 勉強のほうは幸い順調で、このままいけば問題なく合格できるだろう。

 そしたらその後は? 高校卒業したら大学? 就職? と考えだしたらキリがない。

 だから、今のままじゃダメだと思って……突撃した。

 結果、二人の間に微妙な空気が流れている。志郎にひどい事まで言ってしまった。

 まぁ、志郎も志郎だった。あれはあまりにもデリカシーにかけるというか、バ……。

 って言ったから今の状態になってるんだよなぁ。あれは言い過ぎだった。冗談味もなく、本気の罵倒が口から出ちゃったから。


「……怒ってる、だろうなぁ」


 川のせせらぎが全て消していくのを分かっていて口に出す。素直に謝れるならとっくに謝っている。きっかけがあれば、何かしら話はできるだろうけど。

 でも、今回は頑張ったほうだと、思う。

 それをさぁ。

 今もこうやって近くを泳いでいるのは志郎が謝って来た時に備えてるわけで。でもそれを悟られるのもしゃくだからたまに潜ったりしている、それを意地になって繰り返しているためにまだお肉にすらありつけていない。空腹を紛らわすため、また少し潜る。

 と、泳いでいると底に何かが落ちているのが見えた。アルミ缶? バーベキューのトング? いや、ナイフか何かのように見える。よく見ると、美しい装飾が散りばめられている。何かすごいものかもしれない。


「絵裡ー!」


 志郎の声が聞こえた。水面から顔をあげる。何か言っているみたいだが、詳細まではわからない。

 もしかしたら、謝りにきたのかもしれない。

 この綺麗なやつを志郎にもっていこう。昔から、彼はこういうのが好きだった。

 その綺麗なものをもった志郎がする笑顔が、私は昔から大好きだった。

 その笑顔を見たら、全部素直に言えるかもしれない。ごめんも、もしかしたらそれ以外も。

 少し深いが気合いをいれて潜る。とくに石に挟まったりもしていないそれは案外簡単に、手に持っても驚く程軽く、持ってあがることができた。今度は立ち泳ぎして、志郎に向かってアピールする。


「志郎ー! ねえ見て見て! なんか……」


 その瞬間、身体が川に沈む。

 誰かに掴まれた? 川の底から? 流れが変わった? こんな急に? 何が起きたか検討もつかない。

 こちらから目があったままの志郎は、動かない。


「助け……」


 言い終わる頃には水の中。水面越しに揺らめく志郎にはやはり届かない。


「……助けては……くれないか。やっぱり、怒ってるだろうなぁ……」


 誰にも届かない声が泡になって水面へと浮かんでいく。

 遠のいていく意識の中、頭に浮かんでは消えていく記憶の数々。

 いちいち数えるまでもなく、その主役は自分と。

 

 ―—私を、ひとりにしないで。


 意識が途絶える前に届いた、誰かの声だった。


*****


「あれ、藍沢さん…藍沢さん!!良かった、目が覚めたんですね!先生呼んできますね」


 ぼやけた頭でもはっきり聞こえる位の声量で誰かが叫んでいる。目をこすってピントがあってくると、看護師っぽい人が廊下に出ていくのが見えた。

 誰のことか知らないけど、自分みたいな寝ている人間がいる部屋で騒ぐのは正直いただけない。おかげで完全に目が覚めてしまった。

 ここは、何処だ? 病院? 何故?

 程なくして出ていった時と同じ様に慌ただしく入ってくる人。


「ああ、藍沢さん!よかった、意識が戻ったんですね」


 自分の方向に、二、三人が歩いてくる。

 まずい、彼らに勘違いされている気がする。

 察するにここは「藍沢さん」の病室で、寝ているのもその人のはず、しかし何らかの何かしらがあって私が今、占拠してしまっている。そんな馬鹿な事があるか?

 あるいは彼らが書類を取り違えてしまったのかも知れない。医者は激務だとよく聞く。そういう事もあるだろう。

 きっとそうに違いない。言うなら早いうちが良い。


「あ、ああの、私、藍沢さんじゃ、ないと思うんですけど…」

「え? それじゃあお名前は?」

「あまの……」


 浮かんだ名前を口にする。


「ああ、天野さんは今日はまだ見えてないですね。昨日はいらっしゃってましたけど」 

「そう、ですか」


 いまいち会話が噛み合わない。

 あれ、あまのじゃないと言われている? だとすれば……。


「私が、藍沢さん?」


 私が訊くと、中心にいた白衣の男の人の表情から笑顔が消えた。


「……少しお話しましょうか」


 医師と話してわかった事がいくつかある。

 まず、記憶を失っている事。自分、及び周囲の人間に関する事を、おそらく軒並み忘れてしまっている事。

 次に、少ししたら自分の親がやってくる事。……お父さんとお母さんの事すらわからなくなってたら、嫌だな。

 そして、私が眠っていたのは数日間であること。その間、毎日様子を見に来てくれていた天野さん、という男の子がいること。

 それが、今私がこの世界で知っている事のすべてだった。

 それが、「藍沢さん」が置かれている状況の全てだった。

 

「絵裡!……私達のこと、わかる?」


 しばらくして、部屋に知らない人が二人、入ってきた。


「……お父さんと、お母さん?」


 そう、医師から聞いた。

 しかし、その返答で十分だったようで、女の人が泣き崩れる。

 男の人は、その背中をさすりながら、少し震えた声で言う。


「そうだ。お父さんと、お母さんだ」


 胸に罪悪感がこみ上げる。自分のせいで、二人が悲しんでいるように見えるから。

 しかし、「藍沢さん」であって「藍沢さん」ではない自分にはどうしようもなかった。


「電話口で、絵裡の事は先生から聞いていたんだ。だから、いろいろ持ってきた。なんでも、何かしら思い出せないかなって」


 男の人がアルバムを取り出す。表紙には絵裡、と書かれている。

 言われるがままに開き、目を通していく。どれもこれも、笑顔、笑顔、笑顔。

 素敵なアルバムだ。体全体を使って幸せだといわんばかりに表現しているような写真ばかり。見ているだけで、自分まで笑顔になってくる。

 でも、知らない。ここに写っている人間は、誰一人として。

 羨ましくなって、まじまじと見てしまう。

 自分と思しき人物ばかり追っていたが、見ていると気づく事があった。


「この男の子は、なんていう人?」

「ああ、その子は天野志郎くんだよ。隣に住んでる子で……いつも一緒に遊んでたんだよ」


 へえ、となる。藍沢さんには、ボーイフレンドでもいたのだろうか。

 あまの、アマノ、天野。そういえば、目が覚めた時に最初に思いついた名前だった。藍沢さんにとっては、よっぽど大切な人だったのかもしれない。


「いいなぁ……」


 幸せだったんじゃないかな、藍沢さん。家族に大切にしてもらって、大事な人がいて、沢山、笑って……。

 何故か涙が勝手に溢れていく。ごめんなさい、藍沢絵裡さん。あなたの居場所を、あなたの幸せを、奪ってしまって。

 私にはきっと、もったいない。


「大丈夫だよ、絵裡。ゆっくり思い出していけばいいんだから」


 涙声で、女の人に背中をさすられる。

 きっと、この人たちがお父さんとお母さんなんだなという実感は、少し持てた気がする。

 両親との会話が一段落すると、彼らは帰っていった。また来るよ、と言い残して。


「……ふぅ」


 少し泣き疲れてベッドに横たわる。藍沢、藍沢絵裡、と口の中で転がす。

 この先どうすればいいんだろうか。一人ひとり「あなたは知らない人になりました」と藍沢さんの元友人達に言ってまわればいいのだろうか。そうしたら気は楽になる。

 でも、あの人はどうすればいいんだろう。天野志郎。藍沢さんの大切な人。

 あの人が泣く顔を想像してみる。さっきの両親みたいに泣くのだろうか。 

 想像はできない。きっとさっき見た写真の数々が笑顔で埋め尽くされていたせいだろう。

 もしかしたら、藍沢さんの前で泣いたことすら無いのかもしれない。

 まさか、とは思う。でももし、本当にそうだとしたら。

 どれだけお互いがお互いを大切に思っていたか、今の自分には想像もつかなくなる。

 まあ想像もつかなくて当然か。忘れちゃったんだから。


「まいったな…あはは…」


 苦笑まじりの笑いが出る。きっと、藍沢さんはこんな笑い方しないだろう。

 ばたばたばたとけたたましい足音がする、止んだと同時に、部屋のドアが開く。


「絵裡!絵裡!!……大丈夫か?」


 ずかずかとぶつかりそうな勢いで入ってきて、すんでの所でとまる。

 確認を取らなくてもわかる。この人がきっと、天野、天野志郎だ。

 答えないといけない。自分は藍沢さんではないと。自分は、あなたの大切な人ではないと。


「う、うん。大丈夫だよ志郎。あはは……」 


 今の自分にできる最大限の笑顔でそう答えた。

 ……何故?


「そうか……そっかぁ……よかった、よかったよ……」


 言って彼は顔をくしゃくしゃにして、泣いて、笑った。

 ああ、とすぐに合点がいった。

 この人は、この人だけは、泣かせちゃいけないからだ、と。

 

 言った。言ってしまった。偽ってしまった。嘘をついてしまった。

 私は図々しくも、藍沢さんであると天野志郎に宣言してしまった。

 藍沢さんの居場所にいたいから、天野志郎の隣にいたいから、彼を騙してしまった。

 彼に酷いことをしている。無責任なことをしている。藍沢さんに、成り代わろうとしている。

 私が悪い。言ってしまった私が。でも、彼も悪い、と私は思う。

 天野志郎が天野志郎でなかったら、こんな罪に手を染めはしなかっただろう。

 藍沢絵裡が藍沢絵裡でなかったら、きっと彼に愛されることもないのだろう。

 それがわかっても、撤回する気はなかった。そしていつか。

 いつか、彼にこの嘘がバレでもした時には言ってやるのだ。

 志郎も悪いんだからね、と。そう、決めた。

 その時が、来ない事を願って。


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