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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route:Navy
33/36

私の居場所

 仲良さげにお昼ご飯を食べる場面を、私は結局夏休みが始まる最後の日まで見届ける羽目になった。

 何度も、何度も。

 私の席だった場所には私とそっくりの顔をした女の子が、志郎の隣に座って嬉しそうに笑っていた。

 志郎もそれに何の違和感を抱かないまま、自然に接している。

 ……ばか。

 私のことは、あの朝から見えていないかのように気づいてくれない。志郎だけじゃなくてクラスのみんなが、私のことが存在していないかのように振舞っていた。

 今座っているこの席だって、余っていた空席だ。誰の席でもない。そんな場所で、恋人が自分以外の女の子と仲睦まじくご飯を食べる景色を何度も見せられていたら誰だってやさぐれるに決まってる。

 これは悪夢なのだと、少し前から自覚し始めた。

 何度声を上げて叫んでも反応しないクラスメイト。ものを動かして、迷惑になるようなことをやったって何事もなかったかのように元に戻る教室。

 繰り返されるお昼休みと、見たくない光景。


「……」


 最初はあれだけ張り上げて、誰かに気づいて欲しいと叫んでいたのに、口からは掠れた音しか出ない。

 口調も、笑顔も、細かい仕草も全部、目の前の女の子は完璧に’藍沢絵裡’だった。私なんかよりずっと。

 お父さんが撮り溜めてきたホームビデオで必死に練習してきた私よりずっと自然に振舞っている。きっとこの子こそが本物の藍沢さんなのだろう。

 きっと私は偽物だ。いや、そんなことはずっと前から分かっていた。偽物だと自覚しながらここまでやってきた。

 ここまで、志郎を騙してきたのだ。

 受け答えをする志郎も心なしか、ホームビデオで何度も観た屈託のない笑顔を多く見せているような気がした。私はあの笑顔を崩さないために頑張ってきたのに、こんなに簡単に引き出してしまうなんて。


「……そこ、私の席なんだからさ。どいてよ」


 呟くような声は誰にも届かない。誰にも、振り向いてもらえない。

 言って伝わったとして、そこは間違いなく藍沢さんの席なのだから、間違ったことを言っているのは私の方になる。

 この身体に、本来いるべき意識。

 藍沢絵裡さんの心。

 どこかに消えてしまった、あるいはどこか深くに沈んでしまったのかもしれない彼女の代わりを務めている私なんかとは違って、そこにいるのが当たり前の人なのだから。

 これは、この光景が夢だろうが現実だろうが変わらないただの事実だ。

 空間が歪む。窓の外がどんどん暗くなって星が出て、また太陽が昇って昼を迎える。

 時間が進んでいるのか、戻っているのか判然としない。早送りした、あるいは巻き戻したビデオを観ているように、私だけが取り残されている。


「……いただきます」


 何度目かのお昼休み。私はまた風呂敷を解いてお弁当箱を開ける。

 美悠さんに完璧と言ってもらえた卵焼きがそこには収まっていた。箸を使って口に運ぶ。あんなに美味しくできたはずなのに、粘土を食べているような不快感が口の中に広がった。

 味がしない。

 夢だと思うようになってから、味覚だけじゃなくて感覚も鈍くなっている。

 この卵焼きを作れたことも夢だったら嫌だな。

 そんなことを思うと涙が溢れてきたけど、今はそれすらも枯れ果ててしまって、ただただ空しさだけが胸を覆った。


「絵裡先輩、こんな所で何やってるんですか ここ、絵裡先輩の席じゃないですよね?」

「……美郷ちゃん」


 急に、懐かしい声が聞こえて顔を上げる。

 翠谷美郷ちゃん。同じ中学、そしてこの水鳴高校でも一緒で、同じ探検部に所属している後輩。

 目を丸くする私を気にしていないようなそぶりで、隣の席の椅子を引いて座る。


「行かないんですか? 自分の席に」

「あそこはもう、私の席じゃないから」

「……先輩も、居場所がなくなっちゃんですね」


 美郷ちゃんは言って、ぼんやりと前を見る。視線の先では志郎と藍沢さんが変わらず楽しそうにお喋りをしていた。


「無かったんだよ。最初から。図々しく居座ってただけ」

「へえ、ならボク以下なのかもしれませんね。そんな相手にボクはやきもきしてたんですね」

「……ほら、私なんかに構ってないで、志郎はあっちで藍沢さんと何か盛り上がってるみたいだよ。いつもみたいに混ざってきたら?」

「いいです。そんな気分じゃないので」


 いつも以上に強気に食い掛ってくる美郷ちゃん。二人だけで話す機会はあまり無いのだけど、そうなった場合はいつもこんな感じになってしまう。

 理由は分かっている。少なくとも私は美郷ちゃんと仲良くしたいと思っている。でもこうやって同じ方向を、同じ人の顔を見ている状況が続く限り、そうなるには時間がかかると思う。


「少し、一人にしてくれないかな」

「嫌です」

「意地悪だね、何かしちゃったかな」

「心当たりならいくらでもあると思いますけどね……」

「それもそうか。恨み言があれば、何でも聞くよ」

「じゃあ遠慮なく。……あまり馬鹿にしないでください」


 本当に一人になりたくて冷たい態度を取ったつもりだったけど、それ以上に強く、美郷ちゃんは言葉を返した。

 声色には何の装飾もない。今まで先輩後輩としてやってきた関係性を脱ぎ去って、裸の言葉が襲い掛かってきたような、そんなイメージ。

 さすがに怒らせてしまっただろうか。


「そんなこと」

「してますよ。ボクは知っています。天野先輩は、貴女の事が好きなんですよ。絵裡先輩。その人の事を、馬鹿にしないでください」


 違った。

 美郷ちゃんは自分のことではなく、志郎のことで怒っていたのか。

 それなら尚更違うよ美郷ちゃん。志郎が好きなのは私なんかじゃない。


「違うんだって、もともと全部、全部藍沢さんのものだったんだ。私は借りていただけ。だから、いつか返さなくちゃいけなかったんだ。その時が来たってだけで」


 もちろん、美郷ちゃんに事情は説明していない。ただなんとなく分かってくれる気がして、口が勝手に動いていた。家族と天野家の両親しか知らない秘密を、私は恋敵ともいえる後輩に話そうとしている。

 そう、その時が来たのだ。

 これが夢だろうが現実だろうが。

 もし夢ならこれは、きっと藍沢さんが戻ってきて私に身体を返すように伝えにきているのかもしれない。


「……それは、絵裡先輩の恋心も?」

「そう」

「天野先輩も?」

「……」

「じゃあ、ボクがもらっていっちゃいますね。絵裡先輩にはもう関係ありませんし」

「……」

「あの日見てましたよね、ボクの事。ボクが、先輩に告白した日。どう思いましたか? 振られているのを見て。安心しましたか? それとも、振るってわかってたから何も思わなかったとか」


 桜の雨の日。

 あれは中学校卒業式の直後だった。ぱらぱらと振り出した雨の中、隣にいた志郎が急に近づいてきた女子生徒に袖を掴まれてどこかへ連れていかれた。

 体育館の裏。そこには志郎に告白する美郷ちゃんの姿があった。結果は今美郷ちゃんが言ったとおりになったけど、あの時私は苦しいほどに自覚した。

 天野志郎を悲しませない。あの温かい笑顔を、曇らせない。

 空っぽの私が。藍沢さんを演じて、志郎の隣にいることを決めたロボットみたいな私の胸に、違う色の炎が宿った瞬間だった。

 そんな感情が燃えたと同時に、美郷ちゃんがフラれて安心したのは本心かもしれない。いや、心からの本音だった。


「今日はやけに意地悪だね……」

「そりゃ、腹が立ってますからね。なんせ、自分の好きな人をあっさり振ろうとしてる人が目の前にいますから」

「振ろうとか、そういうのじゃなくって、ただ志郎にはもう私は必要ないってだけの話で」

「それで、いいんですか?」


 ぐっと、顔を近づけて眉を曲げる美郷ちゃん。

 幼さの残る端正な顔立ちと、赤渕の眼鏡の奥に光る瞳が、私を刺して離さない。私はそれから逃げるように視線を逸らす。


「私にどうこうできる問題じゃないよ」

「ボクは、あなたの恋の話をしているんですよ」

「私の……」


 私の、恋。

 藍沢さんじゃなくて私の。

 志郎のために、藍沢さんのためにと必死になってきたこの二年間。確かに育まれた私の炎は、あの花火の日に溢れて、その勢いで志郎の手を掴んでしまった。

 あれは誰のためでもなく、私だけのものだった。

 口を開こうとしたところで、美郷ちゃんがすっと身体を引く。いつからあったのか、机の上で風呂敷を広げてお弁当箱を開けていた。


「ほら、そんな顔して食べてたら、せっかくのお弁当が不味くなっちゃいますよ」

「……なんの味もしないんだ。せっかく、作ったんだけどね」

「ふうん。あ、卵焼きあるじゃないですか。一個もらいますね」


 言うが早いか、美郷ちゃんは箸で私の作った卵焼きを摘まんでその小さい口に放り込む。

 どうせ味はしないから、全部あげる。そう言うつもりで止める気も起きなかった。もうこのまま何も食べず、藍沢さんにすべて返す覚悟を、この場所で静かにすれば良い。


「なんだ、ちゃんと美味しいじゃないですか」


 目を瞑ろうとしたところで、そんな言葉が聞こえた。

 言葉の意味を理解する前に、瞼を開けた視界が歪んでいるのが分かった。あの空間の歪みではない、涙によるものだということに気づくまでさらに時間がかかった。


「……へ?」

「美味しいって言ったんですよ。うん、いつだったかな。先輩のお弁当に入っていた卵焼きを食べたことがあるんですけど、同じ味がします。いや、それより美味しいかも」


 美味しそうに食べる美郷ちゃんの姿が涙で滲んで、そのまま歪んで消えていく。

 はっと息を呑んで周りを見渡すと、真っ黒な空間が広がっていた。

 変わらずにあったのは私のじゃない机。そして目の前には志郎と藍沢さんが笑ってお昼ご飯を囲んでいる姿が、スポットライトを浴びるように浮かんでいた。

 私はそこに手を伸ばして、降ろす。

 その場所に行くには、足を踏み切るには、まだ時間が必要かもしれなかった。


*****


 蝉の声に紛れた聞き覚えのあるメロディに惹かれて目が覚めた。

 閉じようとする瞼を無理やり開けて、まだ眠っている身体を起こしてカーテンを開ける。音は隣の藍沢家から。窓を閉めていてもかすかに聞こえるから、結構なボリュームでラジオか何かで流しているのだろう。

 時計を見ると朝の六時少し手前。近所迷惑で苦情が来なければ良いけど。

 なんてことを思った矢先に、その曲が何なのかを思い出す。

 中学時代、絵裡が朝のランニング前のストレッチで流していた曲だ。イヤホンで聴くと外れてしまうからという理由で、家のラジオを使って聴いていた。

 ピアノを主役にした軽快なメロディ。朝に聴くのにぴったりなそれは、八拍子で刻まれて確かにストレッチにもちょうど良い。

 なぜ今まで忘れていたのだろう。少なくともあの地区大会までは毎日のように聴いていて、その後も朝のランニングはほとんどあいつの日課のようなものだった。

 いつからかその日課をやめてしまって、僕もこの曲を聴かなくなってしまった。いつから、だったろう。


「……お」


 窓を開けて庭を覗くと、スポーツウェアを着た絵裡が身体を伸ばしているところだった。

 おはよう、と言いかけて止まる。

 昇りかけた日の光が、その横顔を照らす。ついこの前ビデオで観た姿から成長した絵裡は、凛々しくて澄んだ表情をしていた。

 走っていると思考が研ぎ澄まされるのだと言っていた。澄んで、空気や風景と一つになっていく感覚が気持ち良いのだと。

 これも最近では見ることの無かった顔だ。すごくリラックスしたような表情に、懐かしさとなぜか少しの寂しさすら覚える。


「おはよー志郎。今日は早いじゃん。お祭りが楽しみで目が覚めちゃった?」


 連日の暑さに比べるとほんの少し涼しさを感じる空気の中を、絵裡の声がこだまする。朝日がもう一つ昇ってきたような明るさが、靄ついていた僕の胸の中を照らした。

 顔を上げた絵裡の表情は、見慣れたそれに戻っていた。

 お祭り。

 今日は夕方から絵裡と一緒に夏祭りに行く予定を立てていた。

 午前中はそれぞれ用事があるから、それを済ませたら現地で合流することになっている。そこそこの時間はかかるが徒歩で行ける大きい中央公園で、毎年開かれるもはやお馴染みの夏祭りだった。


「爽やかな目覚ましで目が覚めたんだよ。おはよう絵裡。走るのか? どうしたんだよ急に」

「うーん。私は楽しみで目が覚めちゃって。暇だったし、久しぶりにね。最近全然走ってなかったから身体も鈍っちゃうし」


 ストレッチを終えたのか、腕を回しながら車道の方へと歩いて向かいながら絵裡は言う。

 この前ビデオを観返したことは言っていないから、今になってまた走る姿を見れるというのは本当に偶然なのだろう。

 僕はクローゼットから取り出した学校のジャージを羽織って、階段を下りて玄関の扉を開ける。昇り始めた日光が目と肌を容赦なく焼きに来る。やっぱり外に出るとそれなりに暑い。

 絵裡は道の真ん中でクラウチングスタートの姿勢を取って、短く息を吐いていたところだった。車通りの全くない時間帯だからできる荒業だ。


「一緒に走る?」

「いや、良いよ。車に気を付けるんだぞ」


 ただ、なんとなく見送りたいだけだった。

 短いランニングかもしれないが、僕じゃ絵裡の足とスタミナについて行けないことは明白だ。


「分かってるって。じゃ、いってきまーす!」


 ぱん、と空砲がなった気がして空を見ると白い煙がわずかに宙を漂っていた。今日の祭りの開催を告げる花火のようだった。

 それに気を取られている間に、絵裡は走り出していた。飛び出した時の風が、わずかに絵裡がいつも使っているシャンプーの香りとともに鼻をくすぐる。


「朝からよくそんな飛ばせることで……」


 どんどんと離れていく絵裡の背中を見て、僕は誰に言うでもなく呟く。

 無意識に足が動いたけど、追いつけないと僕の意識がそれを止めた。

 懐かしさと一緒に現れた寂しさは、きっとこれだ。

 一緒に居るのが楽しくて、一緒に居るのが当たり前の存在。自分の好きなことに向き合って楽しそうに、自信に溢れた不敵な笑みを浮かべる全力の姿勢。その自信に負けずに付いてくる実力は確かなもので、眩しい。

 あいつのすごいところで、僕が憧れたけど、なれないと勝手に諦めたところ。

 絵裡はこうでなくっちゃと思う反面、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかという寂しさは、ずっと持ち続けていた。

 なぜか、それを忘れていたのだ。

 忘れたまま、僕はあの花火の日に絵裡の手を掴んだ。


「……」


 自分の手のひらを広げて、じっと見つめる。じりじりと肌が焼かれる感覚が、容赦なく身体だけじゃなく精神を襲う。

 僕が掴んだのは、他の誰でもない絵裡の手だったはずだ。それなのにまだどこか遠くにいるような感覚。

 身体に籠る熱を逃がすように、僕はエアコンの効いた自室——ベッドへと再び身体を預けた。


*****


 家の用事を済ませている間に約束の時間が迫っていた僕は、結局母親に車で公園まで送ってもらうことになった。


「じゃ、いってらっしゃい。帰るときは連絡してね。絵裡ちゃんもついでに乗せてくことになってるからさ」

「分かった、ありがとう」


 相変わらずまとわりつくような蒸し暑い空気を、僕は車から降りて感じる。少なくとも窓の外から見ていた限りは日も落ちようとしていて涼しそうな風景だったのに。甚兵衛姿に下駄という完全に夏祭りの装備で来てみたわけだけど、涼しいのは格好だけだった。

 屋台が並び立つ中、友だち同士、家族連れ、カップル等々、いろんな人たちが歩いていて祭りの雰囲気と温度をさらに上げていた。

 この祭りで毎年のように流れている定番曲があるのだけど、例にもれず今年も大音量で流れて周りの人たちの声をほとんど聞こえなくしている。この曲を聴くと夏が来たんだと実感すると同時に、少し気を抜くとこの祭りの空気に意識を持って行かれそうになる。

 この賑やかで楽しい空気に呑まれる感覚は嫌いじゃなく、むしろ好きだ。小学生の頃なんかは地区の集まりで強制的に太鼓の練習をさせられて、ここで披露した楽しくもあり大変でもあった思い出があるけど、今は気楽に足を運べる。


「集合場所はこの辺だったけど、この人ごみの中だと……お」


 待ち合わせ場所として決めた公園入り口付近にもたくさんの人が集まっていた。ほとんどの人がスマホを眺めながら立っている中、一人だけ僕の方へ手を振る姿が目に留まる。

 暗くなりかけた空の下、纏った白を基調にした浴衣は光り輝いているように見えて、目が眩むような感覚が襲う。


「なにさ、眩しくなるほど絵裡ちゃんが可愛かったのかな?」


 ひらりと裾を持って、まるでダンスでもするかのようにくるりと回る絵裡。

 持っていた肩掛け鞄には、楕円形の水晶の海がぶら下がって揺れていた。どうやらあのキーホルダーはお望み通り付けてくれたらしい。


「……うん、良い。可愛いよ」

「なんだよその間は~! んー、見惚れちゃってんの?」

「いや、その……幸せだなと思ったんだよ」

「……。うん、そらそうだ。こんな可愛い彼女とこれから祭りを楽しめるんだから。志郎は間違いなく、今一番幸せな男だよ。ほら、行こう!」


 いつも通り茶化そうと思っていたのだけど、なんだかんだ素直な感想が漏れてしまった。茶化し返されるかと身構えたけど、絵裡のお気に召したらしい。

 分かりやすすぎるくらいに顔を赤らめながら、屋台が続く道を指さす。


 たこ焼き、カステラ、焼きそば、かき氷、水風船に金魚すくい。例年と代わり映えはしないように見えるけど、どれも賑わっていた。遠くのステージでは催し物でもやっているのだろう、楽しそうな歓声が上がっているのが聞こえてきた。

 この祭りはほとんど毎年来ている。小学生の時は強制参加だったから言うまでもなく、それこそ絵裡と来たり、中学時代は同級生と、去年は探検部でも行ったっけ。


「それにしても、やっぱり人が多いな」

「ねー。のんびり進もうか」


 人の合間を分け入るように進む僕たち。のんびりと言いつつ絵裡はぐいぐいと前へ進んでいくから付いて行くので精いっぱいだ。

 とりあえず僕はこの祭りの雰囲気を楽しんで、ついでに屋台の食べ物で腹を満たせれば満足だから絵裡の行きたい場所に止まるつもりでついて行く。

 ほぼ毎年、こんな感じだ。ただ毎回金魚すくいだけはやっていて、絵裡と勝負になるから今日もやることになるのだろう。

 そんなことをぼんやりと考えながら足を進める。


「今年はどれくらいフードファイトできるかな」

「今日の財源は僕ら二人のお小遣いだけだぞ。マサさんはいないんだから、いつもみたいに食ったら破綻だぞ破綻」


 家族連れの時はだいたいお祭り気分で財布のひもが緩くなったマサさんに頼る形で、いろいろと買ってもらっていた。

 この前のワンピースの分は、月を跨いでお小遣いが再支給されたおかげで回復しているので、今年は僕の財布の頑張り所となる。これで絵裡が楽しんでくれるのなら本望以外の何物でもない。


「ただ、そうだな。リンゴ飴は買おう」

「あはは、それ絶対買うよね志郎。でもなんと今回はイチゴ飴もあるらしいよ」

「マジで? それって都会の小洒落た店にしかないと思ってたのにあるのか」

「調べが甘いねぇ志郎ちゃんは。今年の祭りのチラシに書いてあったよ」


 いつもと同じだろうと高をくくっていたから見ていなかったが、この祭りも少しずつ進化しているのだろうか。

 そこまで変わらないと思っていた祭りに、こういうちょっとした新要素が加わったのは、意外にも僕のテンションを少し上げた。


「もしあったら絶対買おう」

「だねー、私も食べたことないから楽しみ! というか第一目標をイチゴ飴にしよう!」

「いきなりデザートなのか」

「んー、それも確かに。小腹も空いてるし、タコ焼きとかも良いなぁ」


 弾んだ絵裡の声を聴いて、僕も心が躍る。

 あたりを見渡しても、今のところイチゴ飴らしき屋台は見つからない。その代わり、一瞬だけ目に入った青い光に気を取られて、意識がすべてそちらに持って行かれてしまう。


「ん、あれって……」


 焦点を定めると、それは射的の屋台だった。もっと言うとその台の上に置かれている見覚えのある景品——プラケースに入った青い楕円形のキーホルダーが目に入った。僕らが持っているものと変わらず、水晶の海の中を海月が泳いで、他の景品のおもちゃとは違う雰囲気を醸し出していた。

 やっぱりここにもあるのか、と何度目かの感想。

 あの時、得意げになって射的で取ったものだったから特別感のあるアイテムとして映っていたのだけど、こうやって地元のお祭りでも普通に売られていることを知ったときには多少のショックを受けたのを覚えている。

 それくらい、キーホルダーとしても祭りの景品としてもありふれたアイテムなのかもしれない。実際、この前話題に出してから初めて鞄に付けているのを見かけたくらいだから、絵裡も自分でねだったことは忘れていたのだろう。

 それでも思い出して付け始めてくれたのは嬉しかった。今日の祭りにも持ってきてくれたし、要望は口に出してみるものだ。


「あのさ、絵裡……」


 改めてお礼でも言おうかと隣を見ると、絵裡の姿は無かった。

 僕がぼーっとしている間に少し進んでしまっただけかと思って前方に目を凝らすけど、それらしき後ろ姿は視界に入らない。

 四方八方を見渡しても人、人、人。あんなに見分けのつけやすい空色のワンピースはどこにも見つけることができなかった。


「これは……はぐれたか」


 記憶にある限り、絵裡は小さい頃この祭りで一回だけはぐれたことがあった。気になるものがあればすぐに行ってしまう、今以上に制御の効かないじゃじゃ馬だったから尚更、いなくなるのはみんなが目を離した一瞬だった。

 当時はお互いの家族で来ていたから手分けをして探した。けど、今回は僕一人。あの時はどこにいたのだったか、見つけたのがマサさんだったし、昔すぎてさすがに覚えてない。

 完全に油断した。絵裡じゃなくとも、祭りというのははぐれやすいし、迷子になりやすい。


「絵裡ちゃーん。藍沢絵裡さーん」


 それこそ迷子の子どもを探すような調子で呼びかける。変質者として認識されないかギリギリのラインかもしれないけど、祭りの喧騒に紛れてそこまで目立ちはしないはずだ。逆を言えば、あまり呼びかけの意味をなさずに他の人の声や爆音で鳴り響く音楽にかき消されてしまうということなのだけど。

 そんな博打みたいな呼びかけに答える声も姿もなく、僕は立ち止まってスマホの画面を見る。画面には何のメッセージも来ていない。この混雑の中だ、僕とはぐれたことにまだ気づいていない可能性だってある。

 僕が隣にいることが当たり前のように、絵裡はいつだって歩いてきたのだから。

 それは僕も同じで、絵裡が隣にいることが当たり前だとずっと思っていた。

 ずっと思いたかったけど、そうではないと気づいてしまったから、僕はあの花火の日に絵裡の手を掴んだ。

 立ち止まって、楽しそうに笑う人々をぼんやりと眺める。喧騒がどこか遠くへと行ってしまうような錯覚が襲って、その声や音を徐々に鳴り止ませる。


「また、僕は何をうじうじと悩んでるんだか」


 思いつめると負のループに嵌ってしまう。今朝、ランニングに行く絵裡の背中を見送るときに思い出した感情と同じだ。

 結局言ってしまえば、今の僕は絵裡にふさわしいのかどうかって話だ。

 このテーマをちゃんと言葉にするのが怖かった。答えはきっと僕が一番よく分かっているから。

 今の僕は、ノーだろう。

 中学の時、自覚はしなかったけど僕は一度絵裡のことを諦めたのだ。絵裡に直接言葉にしてフラれたとかじゃなくて、僕が絵裡を眩しく感じてその背中を追うのを勝手に諦めた。

 自分だけで気持ちを整理して、ある種吹っ切れて、そのまま絵裡と向き合ううちに忘れてしまった感情。

 そして今までたいして変わらないまま、大切な何かを忘れたままここにいて、結局置いて行かれている。


「まったく、迷子なのはどっちなのやら……」


 足を動かしているけれど、動かしているだけだ。絵裡が行きそうな場所を考えて進んでいるわけではない。

 迷子。きっと絵裡ならこんなことにはならない。自分の行きたいゴールに、あの底力のある足を使って誰よりも速く向かうことができるのだろう。

 そのゴールは、きっといつか僕の知らない場所になって、僕はその背中を見失う。

 昔の僕は、そんな感情に少しずつ浸食されて、怖くなって諦めてしまった。そうしていつの間にか、何もかもがずっとこのまま変わらなければ良いと思うようになったのかもしれない。

 けれど今の僕は、きっとそんなことを怖がってはいられない。

 絵裡とこれからも一緒に居たいと心から思った。この夏休みだって楽しんでもらって、できるだけあの眩しい笑顔で居続けて欲しいと思った。マサさんにも、’娘を頼む’だなんてなかなか重い言葉を頂戴したのだ。


「こんなこと、してる場合じゃないな」


 無理やり自分を奮い立たせると、喧騒が徐々に戻って耳に響く。

 どれくらい考え込んでいたのだろうか。何度目かの溜息を吐いて、スマホの画面で絵裡の電話番号を呼び出して鳴らしながら足を動かす。

 数コール呼び出したが、出ない。やっぱりこの騒ぎの中じゃ着信も気づけないか。

 絵裡の行きそうな場所はどこだろう。直前までイチゴ飴の話をしていたから、まずは一番近いイチゴ飴の屋台でも探そうか。

 足を一歩踏み出したところで、甚兵衛の裾を何かに引っ張られるような感覚に動きを止められる。


「こんにちは天野君。こんばんは、かしら。この時間だと」


 振り返って、その薄紫色の浴衣姿が誰なのかを認識するのにたぶん三秒以上はかかった。

 言葉に詰まって僕は口を開けたまま何も言えずにいた。


「えっと、緋村?」


 ようやく絞り出した声で、その名前を確かめるために呼ぶ。

 そこにいたのはクラスメイトの緋村紫苑。

 制服か、せいぜいジャージ姿しかイメージがなかったから、目の前に映る、淡い紫色の浴衣姿にしばらく混乱してしまう。

 物静かで孤独、というより孤高を保っている緋村。そのイメージはこの前の”アンバランサー”の練習で少し崩れた。意外に負けず嫌いな、熱い一面を持っているのかもしれないという、いい意味での崩れ方だ。

 そんな彼女がさらに浴衣姿で登場となると、最初の印象もさらに薄まっていく。


「そう、こんな格好で話しかけるのもどうかと正直躊躇ったのだけど、ちょっと、ね」


 言って、緋村は自身の背後に顔を向ける。視線を追ってみると黄色の浴衣を着た小さな女の子が隠れるように立っていた。

 目に涙を浮かべて、緋村の浴衣の袖を掴んでいる。


「ちょっとって……あれ、緋村、妹なんていたのか」


 緋村に兄弟姉妹がいるというのは聞いたことが無い。というか、そういえばそもそも僕は緋村のことをまだほとんど知らない。


「私は一人っ子。で、この子は迷子みたい。泣いているところに声をかけて、いろいろと慰めようとはしたものの、私もどうしたら良いか分からなくて」


 確かによく見てみると、二人の顔はあまり似ていない。

 ただ同じように、困った顔が二つ並んでいた。


「この人ごみの中探すのも危ないし。一緒に泣きだそうかと思ってたところよ」

「……ボケなのかマジなのか微妙なトーンで言うのやめないか」


 緋村の真顔と至って真面目な声色に、絵裡にするようなツッコミが追い付かない僕。少なくとも、クラストップの緋村のそんな醜態はイメージが崩れるのでできれば見たくないのだが。

 それにしても、あちこちで迷子が大量発生中らしい。こんな人の量では当然と言えば当然で、今までほとんどはぐれなかったのがラッキーくらいに思った方が良いのかもしれない。


「迷子センターみたいな場所があったような気がするから、まずはそこに行って親御さんを呼び出してもらうくらいかなぁ僕らにできることは」


 町で運営している祭りだから、ちゃんとした運営本部みたいな場所が公園内の建物を使って設置されているはずだ。過去に何度か見たことがあるし、実際に迷子の呼び出し放送も聞いたことがある。


「なるほど。そんな場所があったのね。私もこういうところに慣れてなくて、初めて来たから分からなくて」

「あぁ、それは仕方ない。良かったら案内するよ」

「本当に? 頼んでおいてなんだけど、もし何か他の用事があるようなら私が探して連れていくわ」

「……」


 件の建物は確か公園の中央付近にある。そこまで距離は無いと踏んでの提案だったのだけど、そういえば僕自身も迷子だったのをすっかり忘れていた。

 僕は緋村と、不安そうに俯く女の子を交互に見やる。任せても良いのかもしれないが、こういう場所を歩き慣れていなさそうだから少し心配は残る。優等生だからと言って何でもできるわけでないし、何でも知っているわけではない。

 それならいっそのこと迷子センターで絵裡を呼び出してもらっても良いのかもしれない。あとで頬を膨らませながら文句を言われそうだが、このまますれ違うよりは良い。


「良いよ。せっかくだから行こう。……こんにちは。今日は誰と来たのかな?」


 僕はしゃがんで、女の子に声をかける。見たところまだ五歳くらいだろうか。小学校には上がっていないように見える。

 潤んだ瞳を震わせて、女の子は手のひらを広げて僕に見せる。意図を汲めずに考える僕の耳に、か細い声が届いた。


「エリカ、五歳。ママ、いなくなっちゃった。パパがいたと思ってついて行ったら違くてね……」


 ありがちな迷子のパターンだ。少し視線を外しただけではぐれるのだから、こんな小さい背丈で人ごみに紛れようものなら親も簡単には見つけられない。


「そっか。じゃあ、エリカちゃん。ママを呼び出せる場所まで一緒に行こう」

「ママ、来てくれるの?」

「うん。エリちゃんが探してますよって言えばきっとすぐに飛んで来てくれるよ。あ、ほら。あそこに飛んでる鳥さんみたいにさ」


 僕はちょうど視界に隅に入った、電信柱から飛び立ったカラスを指さして言う。気づけば空は紫色から徐々に紺色へと移って、光を奪い始めていた。


「ママ、飛べるかな。羽生える?」

「エリカちゃんのためなら飛べるかもよ。確かめるためにも見に行こう」


 僕は女の子——エリカちゃんの小さな手を取って、歩くように促す。基本的にこの手は離さないようにはするけど、こまめに振り返ってちゃんとついて来れているか確認しないと。歩幅も小さいから慎重になりすぎるくらいがちょうど良いはずだ。ここでさらに迷子になったら目も当てられない。


「子どもの扱いに慣れてるわね」

「そうかな?」

「えぇ、まるで幼稚園の先生みたい」


 緋村はからかうふうでもなくそんなことを言う。

 言うに事を欠いて幼稚園の先生か。今の僕はけっこう軸がブレブレだから、そんな言葉一つでもそれが自分に向いているのかもしれないとすぐに気持ちが揺らいでしまう。

 それにしても確かに、僕もこんなにスムーズに話を進められていることに自分で少し驚いている。


「天野君は、下の兄弟とかいるんだっけ?」

「僕も一人っ子だよ。……まぁ、そうだな。昔は近所の幼馴染の中でも年上だったから、そのせいかもな?」


 少し昔の記憶を遡って、それらしき理由に思い当たって僕は言う。

 小学校高学年くらいの話だが、近所に幼馴染が何人かいた頃は僕と絵裡が最年長だった。ぐずった子を慰めたり、喧嘩の仲裁に入ったり。男子だったから、というのもあるかもしれないが、絵裡よりも僕がそういう役回りをすることが多かった。どちらかというと絵裡は年少の子たちと騒いでどこまでも行ってしまうやつだったから。

 そんな経験がここで活きた、ということにとりあえずしておこう。今のところそれくらいしか心当たりがない。


「ほら、緋村も反対側の手を繋いでやってくれよ」

「じゃあ、失礼して……」


 よほど慣れていないのか、緋村は恐る恐るといった感じでエリカちゃんの手に触れる。その様子がおかしくて吹き出しながら、目の前に相変わらず広がる雑踏を見やる。


「もし人にぶつかったりして手を離しちゃったら名前を呼んで。お兄ちゃんは志郎っていうんだ。こっちはひ……紫苑お姉さん。良い? 僕はエリちゃんって呼ぶからさ」


 こうして二人で手を繋いでいれば少なくともはぐれることは無いだろうけど、約束事は決めておく。奇しくも呼び方が絶賛迷子中の幼馴染と同じだから、ついでにあいつもひょっこり釣られてくれると嬉しいのだけど。


「うん、わかった」


 まだ目元に涙は残っていて不安そうながらも、しっかりと返事をするエリカちゃん。きっと芯は強い子なのだろう。

 僕はその表情に少し安心して、それから二人よりも前に出ながら足を動かし始めた。


*****


「見つけてくださって本当にありがとうございました。ちょっと目を離した隙に居なくなってしまうものだから……ごめんねエリカ、怪我とかしてない?」


 それから十数分歩き続けて、はぐれることもなく迷子センターにたどり着くことができた。こんな喧騒の中だから道中、気の利いたことは言えなかったけど、心なしかエリカちゃんの表情は少しずつ和らいでいったように見えた。

 園内放送が流れて数分の後、まさに飛ぶように血相を変えて駆け込んできた女性に、エリカちゃんも吸い込まれるように飛びついたのだった。


「うん、平気! 志郎お兄ちゃんと紫苑お姉ちゃんが手を繋いでくれてたから、怖くなかったよ」

「良かった……本当に、ありがとうございました」


 少し涙目になった母親は、僕らに向き直って深々と頭を下げる。僕が言うのも変だが、まだ若そうな見た目をしているからきっとこういうことも初めてで、本当に不安だったのだろう。

 一方のエリカちゃんは自分が迷子だったことを忘れたかのように、見ていて清々しくなるような笑みで母親の胸に顔をうずめている。


「いえいえ、僕らもここに連れて来るくらいしかできなかったので」


 その笑顔につられて、僕も和やかに返す。ともかくエリカちゃんが無事に笑顔を取り戻すことができて良かった。高校生の僕ならともかく、こんな小さな女の子が一人ぼっちになるというのは、たとえ短い間でも心細くて、とても怖いことのはずだから。


「十分ですよ。この子、寂しがり屋だから。一緒に居てくれただけでも心強かったと思います」


 我が子を抱きしめて、母親は言う。

 僕からしてみればほんの短い間、手を繋いで傍にいただけ。ただそれだけでも助けになれたのなら、僕も迷子になった甲斐があったというもの。

 横目に緋村を見ると、同じように安心した表情があった。クールな印象が強いけど、浴衣姿も相まって一層穏やかな顔が見れて得をした気分になる。普段の教室でこんな顔になる緋村を想像できない。


「じゃあ、僕らはこれで」


 安心やら気恥ずかしいやらで居づらくなっていたから、お別れの挨拶を口にする。母親も丁寧に礼を言ってくれて、お互いに会釈を交わした。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん。行っちゃうの?」


 手を引かれてそのまま雑踏に消えてくものだと思っていた小さな背中が振り向いて、僕の顔を真っすぐに見つめる。


「……」


 その顔に、その瞳に、僕は強い既視感を覚えて咄嗟に言葉を出せなかった。

 行かないで。置いて行かないでと、そんな風に僕を見つめるその瞳。エリカちゃんの言葉は決してそういう意味ではないのは分かっているのだけど、なぜか感情だけが敏感にその声なき声に反応していた。


「来年の夏も、きっと来るよ。その時はお互い迷子にならないで会えると良いね」


 来年も、再来年の夏もずっと。

 どこかでその言葉を、誰かに言った気がする。そしてそれに応えてくれた誰かも。

 これも小さい頃の記憶だろうか。頭の中を直接触られているような、無理やり視界を歪まされているような奇妙な感覚に襲われて軽く眩暈を覚える。


「うん、分かった! 約束だよ!」


 眩暈の中で、元気な返事をして再び背中を向けるエリカちゃんとお母さんに手を振る。開いた扉の向こうには相変わらずの人ごみと、眩しいくらいの屋台の数々が広がっていた。


「……ふう。とりあえず一安心だな。緋村も付いてきてくれてありがとうな」


 徐々に引いていく眩暈を抑えがてら、僕は深呼吸をして隣にいる緋村に話しかける。成り行きとはいえ、なかなか緊張感のある体験だった。


「私からも、ありがとう。一人ではあの子を連れてこれなかった。助けなきゃと咄嗟に身体は動いた割に、何もできなくて不甲斐ないわ」

「それでも、偶然とはいえ僕に声をかけてくれたのは結果的に良かったんじゃないか。ま、自分で言うことじゃないけどさ」


 偶然上手くいっただけだ。緋村ができなかったから、僕が代わりにやった。でもかといって、僕が特別に得意なことだったわけじゃない。

 今にして思えば何かを、誰かの背中を思い浮かべて参考にしながら、真似をするようにやっていた気すらする。


「うん。あなたなら助けてくれると思って」

「え?」


 咄嗟に言われて、僕は訊き返す。僕の知らないところで緋村の信頼を勝ち取っていたのだろうか。それとも人が良さそうとか、頼みごとをしやすそうとか、表面的な印象の話だろうか。


「誰かが困っていたら子犬みたいな顔をして覗き込んで、少し強引にでも寄り添って助けようとする。あなたはそういう人でしょ?」

「……」


 思った以上にしっかりとした言葉が返ってきて、僕は否定も肯定も返せない。

 僕の何を知っているんだと言い返すことはできたけど、不思議とその声と言葉には説得力というか、重さのようなものがあった。


「そう、なのかな」

「うん。あなたが忘れてしまっても私が覚えている。私が忘れてしまっても、きっとそんなあなたを知っていて、覚えている人もいる」


 引きかけた眩暈が、今度は少し違う形で戻ってくる。

 じんわりと熱く、それでいて多幸感に満ちた不思議な感覚。言葉の意味は分からないけど、正体の分からない何かが、脳のプールから一部分を覗かせているような、そんな情景が頭に浮かぶ。


「逆もそうかもしれない。他の誰もが忘れてしまっても、あなただけが覚えていることだってあるかもしれないわよ」


 僕が忘れていること。僕だけが覚えていること。

 例えばさっきの、誰かの背中。あの知っているようで知らない感覚は、忘れているのだけど確実にいつかは覚えていたこと、だったような気がする。

 背中といって真っ先に思いつくのは絵裡だけど、その答えはなぜかしっくりと嵌らない。あいつも迷子の子どもを見かけたらもちろん助けはするだろうが、手を引っ張って、大声で一緒に親御さんを呼んで探すだろう。

 他の誰か。思い浮かべていくけれど、その誰もが答えではないと直感が言う。

 そんなに縁遠い人ではない。すぐ近くに、それこそ隣に並んで歩いてくれた人。

 本当に何かを、誰かを忘れているんじゃないかと不安と焦りが、急激に胸にせり上がってくる。


「あー、もう。言葉遊びが好きなんだな緋村は」

「どちらかというと私が好きなのは謎かけかな」


 似たようなものだ。トートロジーもクイズも、明確な答えが無ければ意味がない。知っているのなら今すぐでも答えを教えて欲しいくらいだ。


「それにしてもあんな約束をしてよかったの。天野君、藍沢さんと付き合っていたんじゃなかったかしら。恋人を放って年下の女の子とデートの約束なんて」

「年下の女の子の範囲が狂ってないか? ……いやいやその前に、どうしてそのことを?」


 唐突な切り返しに、僕は頭を切り替えられない。絵裡との関係はクラスの誰にも言っていないし、聞かれたら答えるくらいのつもりでいたのだけど。


「これでも学年トップの優等生だから、私」

「迷子センターの存在を知らないくせにクラスメイトの恋愛事情を知っている優等生がいてたまるか」


 話をして分かり始めたけど、絵裡とは違う方向で僕のツッコミ魂に火を点けてくれるやつかもしれない。真面目な印象があっただけに意外だ。悪いやつではないのだろうが。


「約束、ね。来年もこのくらいの大盛況なら、巡り合うこと自体が奇跡だよ」


 今度こそ頭を切り替えて、僕は扉の向こうにいる大勢の人たちを想像する。家族連れだって無数にいる中で一人、エリカちゃんに会える確率はいくらだろうか。

 それこそ覚えているか分からない。五歳くらいの時の記憶なんてあっという間に更新されて、新しいことで埋め尽くされていく。


「それでも隣にいてくれたこと。一緒に歩いてくれたこと。その安心感はきっと、あの子の胸に残って温かい灯として残るわよ。そして同じように、その灯を困っている誰かに移す」

「今度はやけにロマンチックな物言いだな」

「まぁ、私自身がそうだったから」

「そうなのか……うん、そうだと良いんだけど」


 深くは踏み込まないでおくが、緋村にもいろいろあったのかもしれない。少なくとも彼女から話さない限りは訊かない。


「天野君はそんな風に、藍沢さんの隣を歩いていくのよね」

「そうありたいと願ってるよ。あぁ、うん。そうであるために、僕も頑張らなくちゃと思っているところなんだ」


 この際、緋村がなんで僕らのことを知っているのかは置いておく。

 絵裡の灯が僕であること。隣にいてふさわしい人間で、笑っていられる場所。そのためにはまず僕が、天野志郎という人間として形にならなきゃならない。

 理想も夢も憧れも無い。

 そんな空虚な存在から、少しでも人間になって絵裡の背中に追いついて、隣に立ちたい。それがここ最近、僕の胸の内で燻っていた考えで、埋もれてしまっていた灯なのかもしれない。

 不安の裏を返せば、きっとそういうことなのだろう。

 灯、か。

 緋村が言うように人から人へ移っていくものだとしたら、僕はその灯を誰から受け取ったのだろうか。


「なるほど。だからあんなに張りつめたように見えたのね。足、上げてみて」

「足?」


 考えに浸っていた僕は痺れたような頭の感覚にあまり物を考えられないまま、言われた通りに足を上げる。

 しゃがみながらバックから白い布のようなものを取り出した緋村は、そのまま僕の足——正確には足の指の間にそれをあてがう。


「い、痛っ……!」

「張り切って走り続けるのも立派なこと。でもたまには一休みしても良い。そうだったわよね、天野君?」


 痛みであまり言葉は入ってこなかったが、よく見れば僕の足は履き慣れない下駄で擦れていたようだった。

 あてがってもらったのは何か薬品が塗られた傷ガーゼみたいなものだろうか。やけに沁みる。


「今はこれくらいしかないけど。帰ったらちゃんと水洗いすること」

「あ、ありがとう。というかそんなもの常備してるなんてすごいな」

「これでも医者志望だから」

「そうなのか」


 初耳だった、というか聴く機会が無いから当然だけど。医者を目指しているなら普段の勉強量にも納得だ。


「同じ道を歩く相手がいるというのは、とても良いことよね。そんな素敵な恋人と、無事に再会できることを祈っているわ」


 やることはやったと言わんばかりに、緋村はなぜか満足そうに言ってから、手を振って扉にそそくさと歩いていく。

 その背中は堂々としていて、ほんの少しだけ絵裡に通ずるものがあるような気がした。


「そうだ絵裡……本当にここで呼び出してもらおうかな」


 ずいぶんと長いことここに居座ったような気がする。

 受付の方を見ると新しい迷子の登場か、スタッフの人が小さな子どもの相手をしているところだった。

 あれが終わったら呼び出してもらおう。どのみち僕らはまごうことなく迷子なのだから、僕が呼ばれるか絵裡が呼ばれるかのどちらかだ。


「……ん」


 そんな情けない決意をした直後、ポケットに入っていたスマホがバイブレーションを鳴らす。

 画面も見ずに通話ボタンを押すと、脳みそごとかっ飛ばしそうな騒がしい声が飛び出してきた。


「しろー?!! どこにいるの? イチゴ飴屋さんの近くにいるからね? すぐ来てよ、さーん、にー……」

「分かった、分かったすぐ行くからごめんな!」


 文句の一つでも言ってやろうと思ったが、絵裡の声を聞くと用意していた言葉は吹き飛んだ。身体は慌ただしく動きだして、いつの間にか扉をくぐって人ごみをかき分けるために戦闘態勢に入っていたのだった。


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