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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route:Navy
31/36

藍沢さん

「ねぇ、今年の夏は山にしない? キャンプやろうよ、キャンプ!」


 まだまだ暑苦しい季節。部屋で涼んでいた僕に、隣に住む幼馴染から地獄のような提案が飛び出した。

 彼女とは付き合いが長く、昔からよく家族ぐるみでどこかへ遊びに行く習慣があった。大抵、夏には海や川でバーベキュー、冬ならスキーやキャンプといったようにやることは決まっている。


「山? なんでまた」

「近くに金糸山って小さい山あるじゃん? あそこの頂上ってけっこう奇麗に星が見えるんだってさ。見に行こうよ~」

「いや、却下だ却下。なんでこんな暑いのに水辺から遠ざかって山にこもらなきゃならないんだよ。行くならいつも通り冬で良いじゃん」


 そう、いつも通り、去年までやっていたように夏は海や川で泳ぐなりバーベキューなりを楽しんだらいい。

 毎回なんだかんだ満足して帰ってきてはいるのだ。

 暑さのせいか少し投げやりに僕は答える。


「夏にしか見えない星座だって沢山あるじゃん。それに、予定日は流星群が来る日が近くてさ、流れ星が見れる確率が高いんだって!」

「流れ星か…冬のキャンプとかで見れたことあったじゃん。ああいうのじゃ駄目なのか?」

「いや、駄目じゃないんだけど…お願い事をしたくて」


 さっきまで僕に向けられていたはしゃぐような視線に、少し影が入る。それからそっぽを向いて、声のトーンを落として続ける。


「お願い事を、今回こそはちゃんと言いたくって…」


 態度が変わっていじらしくすら見えるその様子に、時が止まったような錯覚を覚えた。

 部屋の温度が上がり、体内の血液の循環が早くなり、ポンプの駆動音が聞こえる。

 お願い事。

 具体的にどんなことなのかは分からない。

 けれど……今年は、今回は何かを変えたいと思っているのは、彼女だけじゃないのかもしれない。ただそれを口にした途端、これまでとこれからのすべてが変わって戻らないような気がした。

 テーブルの上のグラスに残った氷が、音を立てる。


「……食べたい物があるなら、流れ星に言うより絵裡のお母さんに言ったほうが確実に作ってもらえるぞ」


 結局僕は上がっていく部屋の温度と自分の体温に堪えきれず、こもった熱の逃げ場を探してそんな事を口にした。


「違うじゃん! そういうことじゃなくてさぁ!」

「……なんだよ。何怒ってるんだよ」


 彼女は口をぽかんと開けてから、眉をひそめて叫んだ。

 その声が思った以上に大きくて深刻だったから、僕も咄嗟に低い声で返してしまう。確かにちょっとふざけて的外れな返答はしたけど、そこまで本気になって怒ることじゃないだろうに。

 よく見ると目元に少し涙まで滲ませていた。


「おい、なに泣いて」

「ふん! 泣いてないし! 知らないよ志郎なんか! バーカ!」

「バッ……」


 呼び止める前に、彼女は扉を開けて部屋から出て行ってしまう。僕が椅子から立ち上がって追いかけたころには、その背中は廊下の曲がり角に吸い込まれてしまっていた。


*****


 四角いフライパンにたっぷり目に敷かれたサラダ油が、じりじりと上がってくる熱で十分に温度が上がったのが分かる。

 よし、と志郎ママ——美悠さんは意気込んでから、ボウルの中にある黄金比で混ぜ込まれた卵焼きの素を、強火で熱せられた油へ流し込んでいく。

 そこからはいつもスピード勝負だ。菜箸を少し開いて、中央から均等に二つの円を描くようにかき混ぜていく。全体に熱がいき渡るようにフライパンを小刻みに揺らしながら、慣れた手つきで箸を動かす光景に目を奪われているうちに、卵焼きは少しずつ固さを纏っていく。

 もう少し火を通すのかな、と思った矢先に美悠さんはフライパンをコンロから引いて、隣に敷いてあるタオルに移して四隅を軽く剥がす。そこから十秒くらい待って余熱でさらに固めるのだと言うけど、いつも私はこのタイミングが分からない。

 再び火にフライパンを傾けながら慎重に、けど軽快にフライ返しで生地を丸めていく。


「ほい、できた」


 ぷるぷるふわふわという擬音がぴったりな様子で、フライパンから皿に素早く着地する。

 ほのかに湯気が立つそれに、すうっと包丁が入ったかと思うとあっという間に、いつも志郎のお弁当に入っているあの卵焼きが目の前に現れていた。


「いつ見ても神業ですよね、美悠さん……」

「そんなことないよ。料理は慣れだよ、慣れ」


 美悠さんは軽く笑って、切り分けられた卵焼きを私の前に出す。

 記憶にないくらい小さい頃、たぶん私たちが幼稚園くらいからずっとお弁当を作り続けている美悠さん。

 どのタイミングで私がそれを口にしたのかは知らないけれど、それでもかなり小さい頃から食べていたのを観たことがある。

 そう考えると十年以上の繰り返しの賜物だ。到底、目指したくても私なんかが到達できるレベルじゃない。


「じゃ、さっそく食べちゃおうか」

「はい! いただきます!」


 差し始めた影を振り払って、私は笑顔を作って箸で卵焼きを掴む。

 口に入れるとまだ熱いくらいの卵がふわりと口の中ではねて、甘みとしょっぱさの絶妙な香りがいっぱいに広がる。

 この味だ。

 この味が、最初に私の中に明確に彼女がいることを教えてくれた。私が代わってから初めて食べたのは中学校最後の運動会。あの時、口に入れた途端に勝手に涙が溢れ出た。


「美味しすぎる……いつ食べても美味しいのって、本当にすごすぎですよ」

「もう、何回褒めるのよって」

「だってそれしか言えないんですもん」

「嬉しいけどね」


 美悠さんはウインクして、自分も満足そうに卵焼きを口に運ぶ。

 それから少しだけ沈黙。変わらないこの味をゆっくり楽しむ時間が続いた。

 

「それにしても志郎に食べさせたい、ねぇ。そうなると私もお役御免かな」

「そ、そんなことないですよ! 私なんてまだまだ! きっと作り方をマスターしたって、美悠さんのと私のじゃきっと違う卵焼きですって」


 いつも強気でクールな美悠さんの弱音のような言葉に、私は大慌てで否定する。

 日曜日の昼下がり。夏休み一週間前最後の休日は、私が美悠さんに頼み込んで卵焼きの練習をする日にしたのだった。

 志郎は翔と一緒に次の探検部で行く探検場所の取材と称して、学校近くの山に遊びに行っている。山の中に廃病院が建っているとかいないとか。

 こんな太陽カンカン照りの中で熱中症にならないと良いけど。そんな心配を、エアコンがキンキンに効いている部屋で笑っていた私たちも、数時間後には料理の火の前に立って汗を垂らしていた。


「材料は同じ。作り方も同じ。料理ってのはそうやると誰が作ってもだいたい同じ味になるもんなのよ。そういう意味では、きっと私はお役御免。あー、でも……」


 美悠さんは箸を置いて、しばらく言葉を探しているようだった。

 それから私の目を見て言う。


「変わるとしたらそれは、誰が、どんな気持ちで作ったか。込められた気持ちが、最後の調味料なの。あなたが作ってくれたという事実で、きっと志郎は喜んでくれるよ。私が作った卵焼きなんて、きっと今じゃなんの感慨なく食べてるだろうからさ」


 私が作った卵焼き。

 私が。

 藍沢絵裡が作った卵焼きに、志郎は喜んでくれるだろうか。

 それとも、’私’が作った卵焼きを、美味しいと言って喜んでくれるだろうか。


「結局、志郎には言わないままなんだね」


 考えに耽っている中、唐突に美悠さんが呟くように言う。

 背筋が凍りを当てられたように伸びるが、すぐに深呼吸をして心を落ち着かせる。

 質問の中身を表す言葉はない。けど私は強く頷いた。


「……はい」

「良いんだ。私はね、優しい嘘なら許すタイプなんだ。志郎にはあなたを幸せにするようによーく言っておく。けど絵裡ちゃん、あなたにもお願いするね」


 ―—志郎を笑顔でいさせてあげてね。


 分かっていた。お母さんもお父さんも、美悠さんも幸樹さんもみんな分かっていた。

 知らないのは志郎だけ。

 志郎には、知られたくない。志郎の前ではずっと、藍沢絵裡でいたかった。それは志郎のためでもあるし、藍沢絵裡さんのためでもある。

 けど少しだけ。この卵焼きになら、’私’という調味料を混ぜてみても良いのかもしれない。

 私が記憶を取り戻す保証も、今は無いのだから。


「……よし、練習するか。まずはスクランブルエッグからの卒業だね」

「卵焼きにしてみせます! 頑張ります!」


 私が作ろうとすると、まず卵焼きの形にならなくてスクランブルエッグになってしまう。

 それは藍沢さんの頃から変わらない。

 だったら私が先に完成させて、先に志郎に’美味しい’って言ってもらうのも、別に悪いことじゃないはずだ。

 席を立って、冷蔵庫から卵を拝借する。白だしめんつゆ、砂糖、醤油、私の気持ち。

 全部の調味料が揃っているのを確認して、私は卵を割り始めた。


*****


 お弁当箱を風呂敷に包んで、ぎゅっと蝶結びで締める。中には昨日の練習の成果が、はっきりと卵焼きの形になって収まっている。

 美悠さんのお墨付きだ。きっと志郎にも美味しいと言ってもらえる。

 二人分のお弁当箱を保冷バッグに入れて、私は玄関のドアを開けた。


「暑いなぁ……」


 じりじりと照り付ける太陽がアスファルトを焼いて、周囲の温度をさらに上げていく。早くエアコンの効いた教室に持って行かないと悪くなってしまう。軽く速足になって、私は天野家のドアの前に着いてチャイムを鳴らす。


「おはようございまーす!」


 いつも通り、七時二十分。学校までは歩いてだいたい二十分くらい。朝の登校時間が小・中・高校と上がるに従ってだんだんと遅くなったのは、受験を頑張って良かったと思える理由の一つだ。と言っても、中学から高校は十分くらいしか変わらないけど。

 早起きは苦手だ。ずいぶん昔に、寝坊して近所のみんなに置いて行かれて泣いてしまったことがあったらしい。志郎にからかわれて、そんな過去があることを知った。

 その時に比べれば朝はゆったりできる。今日は朝早くから張り切って台所に立ったから少し眠いけれど、いつもなら余裕を持ってこの時間に志郎を呼びに行ける。


「ありゃ、絵裡ちゃん。どうしたの?」


 ドアが開いて、美悠さんが目を丸くして出てきた。

 私も訊かれて思考が止まる。どうした、と言われてもいつものように志郎を呼びに来ただけなのだけど。


「えーと、志郎はいますか?」

「え、なになにどういう遊び? ついさっき二人で出て行ったばっかでしょ?」


 返された言葉の意味が分からなくて、作った笑顔が引いていくのが分かった。咄嗟にできたのは、靴箱の上に置いてある置時計を見ることだけ。時刻は七時二十一分。別に遅れているわけじゃない。


「あの、訪ねてきたのは本当に絵裡ちゃんでした?」

「やめてよ怖いこと言わないで。この朝っぱらに志郎を訪ねるのは絵裡ちゃんしかいないでしょ」


 美悠さんは笑いながらも至って真面目に答える。

 どっちかが寝坊して遅れることはあっても、黙って先に行くことなんて今まで一度も無かった。

 下校の時はお互いのタイミングが合わないことが多いからそれぞれ別々の人と帰るときもあるけど、登校はいつも志郎と二人だ。それが崩れたことは、少なくとも高校に上がってからは一度も無い。

 ……何が起こっている? 私以外に誰が志郎を呼んで登校するというのだろう。


「ば、ばかもーんそいつがルパンだ! なんて……あはは。ちなみに何分くらい前に出て行きました?」

「十分くらい前だけど……絵裡ちゃん、大丈夫? 昨日頑張りすぎちゃった?」


 返事を聞いた途端、お礼も言わずに振り返って、私は駆け出していた。無理にふざけたせいで声が震えていたのを悟られないようにするためかもしれない。

 十分前。それはちょうど中学時代の登校時間。

 別に心当たりがあったわけじゃない。聞き忘れたけど、美悠さんも声だけ聴いて私だと判断したのかもしれない。

 私に似た声の、女の子?

 委員会か何かの仕事で早く出なくちゃいけないのを志郎が忘れていて、それを呼びに来た子かもしれない。

 嫌な想像を振り払う。

 湧き上がってくる嫌な感情を振り払う。

 走りながら、ポケットからスマホを取り出して画面を見る。志郎からの通知は無い。せめて一声、かけてくれても良いのに。


「はぁ、はぁ……」


 学校の正門も見えようかという所で、ちらほらと同じ制服を身にまとった人たちが増え始めた。

 息が上がって肌が焼けるのを感じながら、私は必死に志郎の後ろ姿を探す。

 一瞬、それらしき男の子の背中を見つけたけど、無意識に逸らして次を探そうとする。だってその隣には手を繋いだ女の子がいたから。


「……志郎!」


 でも私がその背中を間違うはずがない。

 ほとんど叫ぶように、私は志郎の名前を呼んだ。

 男の子——志郎が振り返ると同時に、隣にいた女の子が振り返る。

 彼女のバッグについたキーホルダー——水晶の海が太陽の光を反射して、私の瞳を刺す。


「あなた、誰?」


 問うた声は疲労で枯れていた。

 反射した光で私の目がおかしくなったのだと思いたかった。

 志郎の隣にいたのは——。


「誰って、絵裡。藍沢絵裡だけど……」


 さも当然のように、彼女は答える。

 私に瓜二つの姿をした女の子。

 隣にいた志郎も口をぽかんと開けて、驚いたように私を見て言い放った。


「君は、誰?」


*****


 暑さのせいで頭が一時的におかしくなったのならまだ良かった。

 隣で手を繋いでいる絵裡と、もう一人。

 目の前には全く同じ姿をした女の子が息を切らして、僕ら二人を目を丸くして見つめていた。

 

「い、痛い痛い! 痛いって志郎!」

「あぁ、ごめん絵裡……」


 一瞬で、これを夢だと認識しようとして握っていた絵裡の手を無意識に強く締めてしまう。僕は慌てて手を放して、痛みに顔をしかめる絵裡に謝る。

 慌てた拍子に飛び上がった心臓の音。絵裡の手の感触。こんな状況でも容赦なく照り付ける太陽の熱が、じりじりと肌を焼く感覚。

 すべてが鮮明に思えた。

 それを確認して、もう一度向かいに立つ女の子の顔を見る。

 見間違えではない。呆然と立ち尽くす彼女は、隣にいる藍沢絵裡と瓜二つだった。


「双子、とか。聞いたことなかったけど……えーと、その。どういう関係で……」


 頭を整理しながら言葉を探すと、どうもおかしい会話の切り返しになる。

 ただ現実的な線を考えるならこんなことを言うしかなかった。そっくりな顔の双子。藍沢家の子どもは絵裡一人だという十年以上の常識がここで崩れ去る以外、この状況を説明できない。


「……違う」

「え?」

「ねぇ、あなた誰なの? そこは、私の……!」


 かつかつと、ローファーで地面を蹴るように音を立てて近づく絵裡そっくりの少女。

 怒りか、悲しみか、きっとそれ以上の僕が読み取れない感情と一緒に、少女の手が乱雑に絵裡の肩を掴もうとする。


「ま、待てって。少し落ち着こう」


 すんでのところで僕は二人の間に入って、今にも掴みかかりそうだった手を掴んで絵裡から離れさせる。

 息を呑むような表情で僕を見つめる少女。

 こんなに暑いのに、彼女の手は冷たかった。


「なんでよ志郎。私が分からないの? わ、私だよ。絵裡だよ? そこにいるのは、きっと偽物だよ……!」


 彼女は表情を崩して、声を震わせる。

 言っている言葉の意味が分からない。絵裡に偽物も本物もないだろう。藍沢絵裡はただ一人、僕の幼馴染で今は恋人の、たった一人の女の子しかいない。

 それともやっぱり僕がおかしくなったのか。

 振り返って絵裡を見る。

 怪訝そうな、少し怯えた表情で僕たち二人を見つめている。

 あぁ、ダメだ。そんな悲しい表情はしてほしくない。


「逃げよう、志郎」


 どちらの声か分からなかった。

 ただ手を引かれる方向に、僕の身体は吸い寄せられる。

 他の学生をかき分けて前をずんずんと走っていく絵裡の背中を追って僕もまた走る。足は勝手に動いて、周りの景色が熱風のような空気と一緒に流れていく。

 走った距離以上に息が上がって、汗が噴き出る。

 正門までもう少しという所で、僕はもう一度振り返る。

 絵裡と全く同じ顔。いや、よく見ると少し大人びているような印象も受ける。


「……待って」


 確かに聞こえた。これも絵裡の声だった。

 後からやってきて、今もなお呆然と立ち尽くしている少女は、何かを言っているようだった。だけどそれをお構いなしに手を引く絵裡によって、その姿はどんどんと小さくなっていく。

 正門をくぐって、靴を脱いで、階段を上がって長い廊下を走って。どうやって行きついたのか明確な記憶の無いまま、教室の扉の前に立っていた。


「あ~、怖かった! 大丈夫だった、志郎?」


 教室のドアを開けて、額の汗をハンカチで拭った絵裡は言う。まるで絶叫系のアトラクションに乗った後みたいな表情と声にちぐはぐ感を覚えつつも、僕は息を切らして頷く。


「本当に怖いことにあったときって逆に笑えてきちゃうんだよね」

「……逆に怖いよ。てか、何だったんだろうな、さっきの」


 僕の心を読んだかのような言葉に、深呼吸をしながら答える。少しずつ動揺は収まってきたけど、状況の整理はできていない。こんな朝っぱらから怪談に巻き込まれるのは生まれて初めてだった。


「ドッペルゲンガーってやつかな?」

「それって……あれか。さっきみたいな姿かたちそのままのそっくりさんが、この世界には二人いる、みたいな都市伝説だろ」


 混乱の中でしばらく聞き覚えの無かった単語を聞いて、ずいぶん古い記憶が掘り起こされた。確かバラエティ番組でやっていたっけ。夜道で自分と全く同じ顔をした人間に出会うシーンが、ホラーチックな演出で映されていたのを朧げに思い出す。


「そうそう。実際は三人いるとかなんとか。まあそれはともかく、じゃあ、その人達が実際出会ったらどうなるかってのは知ってる?」

「いや、知らないけど」


 同じ二人が出会ったシーンで、その番組は暗転したような気がする。実際にはそのあと何か別のシーンが挟まったのかもしれないが、当時小さかった僕は普通に怖くて観るのをやめたのだったか。

 二人が出会ったら、どうなるのか。ちょうどさっきみたいな展開のことだろう。今、何も起こっていないわけだけど。

 考える僕の顔を覗き込んで、絵裡は悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。


「自分が、偽物だって思い込んじゃったほうが、消えるんだって」


 開いた扉からエアコンの風が流れてきて、熱された皮膚を冷やす。きっとそのせいで、鳥肌が立った。決して絵裡が言ったことや、いつもより低いその声色に影響されたわけじゃない。

 それでも一瞬だけ、時間が止まった気がした。

 偽物だと思い込んだ方が消える。そんな結末だったのか。別にだからどうしたというわけでもないけど、背筋が少し伸びるような感覚がした。


「……なーんて。まぁでも私が生きてるってことは、あっちが消えたってことだよね。私が偽物だーなんて自分で思うわけないし。そうでしょ、志郎?」


 自信たっぷりに笑う絵裡に、僕は少し時間を置いてから頷く。

 それはその通りだ。さっきも考えたことだけど、絵裡に偽物も本物もない。藍沢絵裡は、今目の前にいるただ一人なのだから。

 でも、だとしたらあの少女は誰だったのだろうか。まさか本当にドッペルゲンガーだったわけじゃないだろうに。


「絵裡は、あの子に心当たりはないのか? 何か怒ってるみたいだったけど」

「んー? 無いってば。なにさ、彼女の私を差し置いてあの子が気になるわけ?」

「そういう意味じゃなくて、普通にさ」

「誰だったとしても、私は私。そうでしょ?」


 僕の言葉を遮って、少し口調を強めて絵裡は言う。傍から見ると喧嘩しているようにも見られてしまうかもしれないけれど、当の僕はなぜか懐かしい感覚も仄かに胸に上ってきていた。

 別に喧嘩というわけでもないけど。しばらくこんな風に絵裡と言い合いをしたことなんてなかった。それこそいつかの夏休みの——。


「あ、チャイム鳴っちゃった。ほら行くよ志郎」


 考えかけた思考を、朝礼開始の予鈴が遮った。

 口を開きかけた僕の手を取って、駆け足で席を目指す絵裡。その背中はいつもより頼もしく、そしてやっぱり少し懐かしく感じたのだった。


*****


 違う内容の授業を四時間も受ければ、さすがに頭の中は情報の渦でかき混ぜられて、さっきまでの衝撃体験も多少は薄まろうというものだ。

 実際、僕は教室の浮足立つような雰囲気に呑まれて、今は全く違うことを考えている。

 夏休み前最後の一週間はみんなそわそわしながら授業を受けていた。

 あと五日、この学校という束縛から逃れれば一か月近い自由を手に入れられる、というのが一般的な考え方なのだろう。他のみんなが学校を束縛と感じているかは知らないけれど、僕は果たしてその長い自由をどう過ごして良いものやら悩みどころではある。

 夏休みというのは、いわばイレギュラーな日常だ。自分で考えて、自分で選び取らなければいけない。

 去年は翔と一緒に探検部を立ち上げたこともあって、それなりに充実した楽しい時間も多かった。今年もきっと同じように、水鳴町の無駄に多いオカルトスポットを巡る旅をすることもあるだろう。


「ぐぁ~、やっとお昼だ。ご飯食べよ志郎」

「お前、さっきからお腹の音がうるさいんだよ。みんな笑い堪えるの必死だったぞたぶん」

「失礼だねきみ。私はどさくさに紛れて志郎のお腹も鳴っていたこと、聞き逃さなかったよ?」

「……」


 チャイムと絵裡のお腹の音が同時に鳴って、授業終わりとお昼の始まりを告げる。渾身の一撃を食らわせたつもりだったのに、強力なカウンターが返ってきた。

 そう、さらに今年はこの絵裡が、恋人として僕の隣にいる。去年までの僕らであれば、家族での旅行やら探検部での活動で一緒になる以外、お互いの時間を過ごしていたのだろうけど。

 今年は絵裡と一緒に楽しみたい。そしてもちろん、絵裡に楽しんでもらいたい。

 ありきたりなデートスポットでもきっと絵裡は笑ってくれる。そんな想像は容易にできた。でも何か特別な、思い出に残るようなイベントや場所へ連れていきたい気持ちもある。

 そもそも自分に自信の無かった僕だ。このタイミングまでなんの経験も積んでこなかったのだから、空っぽの缶を振って何も出てこないと言っているようなもの。

 今度、経験豊富な翔にでも聞いてみるか。今は別の学校に彼女がいるらしいから、どのみち参考になりそうな話は聞けそうだ。

 解決の糸口を見つけて一人で頷きながら、僕はお弁当を取ろうと鞄の口に手を入れる。


「あ、今日お弁当無かったんだった」


 呟いて、財布を取り出してから席を立つ。

 そういえば今日は母親が、忙しいから売店で買ってこいと言っていたのをすっかり忘れていた。


「ちょっと買ってくる」

「あれれ~? こんなところにお弁当箱が二つもある~?」


 席を離れようとした僕の耳に、いかにもわざとらしい声が届く。

 あえてゆっくり振り返ると、言葉通り風呂敷に包まれた弁当箱を二つを抱えたニコニコ顔の絵裡がいた。


「今日はずいぶん食べるんだな。太るぞ」

「ついでに志郎を食べても良いんだよ?」

「ちょっと待てアウトだよそれは……で、えーと、それは?」


 珍しくラインを越えたネタに狼狽えつつも、少し期待して僕は訊く。そういうことならきっと、母親もグルなのかもしれない。

 すぐには答えず、絵裡は鼻を鳴らして得意げに弁当箱を僕に突き出した。


「絵裡ちゃんが愛を込めて作っちゃったのよ。愛妻弁当ってやつ?」

「まだ妻ではないけども……ありがとう。開けても良いか?」

「どーぞどーぞ」


 蝶結びにされた風呂敷を解くと、見慣れた自分のお弁当箱が顔を出した。用意周到なことで、いつの間にやら母親から絵裡に渡されていたのだろう。

 ふたを開けると、ウインナー、骨付きの小さいフライドチキン、ミニグラタン、ミートボール、ブロッコリーにミニトマト、そしてケチャップのかかったスクランブルエッグが隙間なく埋められていた。

 母親は最近、栄養バランスを考えていろいろな種類のおかずを入れてくれるのだけど、この’愛妻弁当’はこう、すごく肉々しい。小学校の運動会の時に出たお弁当とか、こんな感じじゃなかっただろうか。


「すごい、見事に詰め込んだな。このスクランブルエッグとか特に」

「卵焼き、のつもりだったんだけど。志郎ママみたいに上手くいかないもんですなぁ」


 口を尖らせながらため息をつく絵裡に、僕は噴き出す。

 僕の母が作る卵焼きは絵裡に、ひいては藍沢家に大変ウケが良い。

 絵裡は何度かこの味を再現しようとしているらしいのだが、いつも卵焼きにすらならずに、どうしてもスクランブルエッグになるのだった。


「いい加減、母さんに教えてもらったらどうだ? 別にうちのじゃなくても、明美さんだって卵焼きくらい作れそうなもんだけど」

「いーや、自分で作れるようになるまで練習するの! そしたら志郎にも食べてもらうんだから」


 今日は機嫌が良いのか、なかなか意地っ張りな返答が返ってきて、また笑ってしまう。

 ここまでバラバラになった卵が綺麗な形にまとまるのはまだ先だろうけど、食べられるならいつか食べてみたい。僕も作れるわけじゃないから偉そうなことが言えないだけだけど、たぶん料理は絵裡の数少ない苦手なことの一つだ。


「楽しみにしとくよ。それじゃ、いただきます」

「いただきまーす!」


 まずはスクランブルエッグから口に運ぶ。ケチャップでほとんど消されてしまっているけど、ほんのりと卵焼きであろうとした形跡が口の中を駆け巡った。母親が作るのを何度か間近で見たことがあったし材料も知っているから、濃いケチャップの中になんとなくそれぞれの調味料の風味が存在感を出そうとしているのが分かった。

 いつだったか、絵裡がスクランブルエッグを作っていたのを見たことがあった。その時に味見をさせてもらった時だって、味に関してはちゃんと美味しかったのだ。

 後は形だけ。卵焼きになるには時間がかかりそうだけど、こんな風に僕のためと言って作ってくれること自体が嬉しい。苦手なことならなおさらだ。

 そんな僕の心境を知ってか知らずか、絵裡は美味しそうにミートボールを頬張ってご満悦の表情だった。


「美味しい。味付けはちゃんとうちの卵焼きっぽくなってるのが逆にすごいな」

「でしょ?! やっぱり分かるんだな~。他もさ、志郎と私の好きなやつしか入れてないから、遠慮なく食べてね」

「うん、すごく嬉しいよ。ありがとう、な」


 嬉々とした表情と声色に気圧されて、僕は至ってシンプルな返事しかできなかった。

 いや、気圧されただけじゃない。感謝の言葉を伝えると同時に笑おうとして、何かが引っかかった。

 さっきまで考えていたことが急に頭をもたげて、頬が引きつったのが分かった。

 絵裡はこんなにも僕を喜ばせようとしてくれている。やっぱりこれは同じくらい、いやそれ以上の笑顔をあげなければ恋人の名折れというもの。

 恋人。

 そう、今はまさに恋人らしく振舞ってもらえている。

 逆に僕はその資格があるだろうか。


 ——あの時はごめん。場違いな事言って、困らせて……。

 ——へ? い、いや。いいよいいよ。気にしてないから。


 朝、教室の前で絵裡と話をしていた時に思い出したことがある。

 いつかの夏休みにした喧嘩。

 今朝みたいな言い合いじゃなくて、少し声を荒げるような、でも幼い子ども同士の喧嘩。

 当時の僕が、今思い返すと無神経なことを言って絵裡を怒らせて、たぶん泣かせてしまった。

 あの時はとにかく暑かった。あの部屋の熱気に、僕は耐えきれずに逃げてしまった。今思えばあんなの、今年の花火の日に比べればぬるいくらいのものだったのに。

 しばらく経ってそれを謝りに行くと、絵裡はまるで何にも覚えていないかのように’気にしていない’と言った。

 あの返事が冗談だったのか、本気だったのか。それが分からなかったから、その後は何も言うことができなかった。

 もしかしたらあの熱の続きを感じられるかもしれない。そんなバカな期待をしていなかったと言えば嘘になる。

 いや、それよりももっと切実な——。

 思い出しかけた、どす黒くて冷たい記憶を頭の隅に追いやる。

 どちらにせよ僕の謝罪は絵裡に飲み込んでもらえないまま、ここまで来ている。

 それどころかあの花火の日すら、絵裡に先に言葉を取られてしまったのだ。


「絵裡、あのさ」


 だから僕はもう一度訊くことにした。

 箸を置いて、絵裡を見つめる。

 実際には本当に気にしていないし、許してくれているのかもしれない。

 それでも。


「あの時の喧嘩、まだ怒ってるか?」


 もう一度質問を投げかけた。絵裡は何のことか分からない、という風に首をかしげる。

 忘れてしまっているならそれで良い。嫌なことをすぐ忘れるのは僕と絵裡に共通する長所だと思っている。

 どうあれ僕は、あの寂しく笑う絵裡の横顔を、あの冷たい手を離すまいと手を伸ばした。その覚悟を改めて胸に刻めば良いだけだ。

 返答を諦めかけた僕の目は、はっと口を開けて何かに気づいた様子の絵裡を捉える。

 それから口元をニヤリと上げて言った。


「突然何かと思えば……。うん、もちろん。怒ってるに決まってるじゃん。まーったく! 空気の読めないガキンチョだったんだから、志郎は」 


 冗談交じりに怒る絵裡の声が届いて、なぜか僕は泣きそうになった。

 視界が少しだけ涙で揺れる。

 怒られたからじゃなく。

 ちゃんと怒ってもらえて、安心したから。


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