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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route:Navy
30/36

好き

 本当に反射的に、私は手を伸ばしてしまっていた。言葉を口に出してしまっていた。

 そうでもしないと志郎が知らない間にどんどんと、どこかへ行ってしまいそうで。私はもう二度と、彼が知らない人になるのは嫌だった。

 暑い夏の夜だったのに、どんどんと体温が奪われて身体が冷たくなっていくのが分かった。あんなにも怖くて、寂しい感情。

 暖かい灯に当たりたくて、私は手を伸ばした。


 ―—私たち、付き合っちゃおうか。


 ここ一年と少しの間、ずっと胸にしまっていた気持ちだった。

 本当は表に出さずに戻ってくるまで大事にしまって、その時が来たら彼女に返して、彼女に言ってもらうべき言葉だった。

 でも、同じように惹かれてしまったのだ。


 ——そうか……そっかぁ……よかった、よかったよ……。


 私が勝手に決意して、私が勝手に守るべきだと決めた、彼女との約束。

 悲しくて、それでいて奇麗だったあんな泣き顔を見ないために。

 空っぽだった心を一瞬で埋めてくれた、あの笑顔で居続けてもらえるように。

 でも。

 言ってしまった。

 言ってしまって、安心した自分がいる。

 受け入れてもらえて、心の底から幸せを感じた自分がいる。

 真似事をしていた私から、ちゃんと自分の気持ちを伝えられてアイザワエリになれたんだ。

 私が勝手に、彼女と交わした約束。

 これは、私との約束になったんだ。


「……り、絵裡!」


 聞き覚えのある単語が耳に入って、それが自分を指していることに少し時間がかかった。

 車の走行音や蝉の鳴き声がこだまする中、もう一度その声を聞こうと私は辺りを見回す。

 交差点、横断歩道の向こうに志郎が立って、手を振っていた。

 蝉の声に埋もれていたのか、いつのまにかピヨピヨと鳴く電子音とともに信号は青になっていた。と、思っている間に点滅を始めていて、私は駆け足で彼の隣へと向かう。


「おはよう、志郎」

「なにぼーっとしてたんだよ。置いてっちゃうところだったぞ」

「昨日のことを思い出してニヤニヤしてたんだよ。それに、彼女を置いて登校とは、いただけないものですな~」


 私はすかさず志郎の腕に手を回して、浮ついた声で言う。

 たぶんこれは間違いなく私の本心からの声色だ。


「か、彼女か。そうだな。うん、そうだよな、ごめん」

「なに照れてんのさー」

「照れてないって! ほら、行くぞ。あー、あとあんまりくっつくなって暑いから!」


 きっと暑さのせいだけじゃない、赤くなった志郎の顔を見て私は笑う。

 志郎はそっぽを向いて、先へ歩みを進める。私も暑かったけれど、それでも暖かいこの場所から離れたくなくて、しばらくは志郎の腕を掴んで歩いていた。

 


*****


 ずっと前から好きだった、なんて告白の定番のような言葉は、本当に素直な気持ちで出てきた言葉だった。もっと照れ隠しをしたり、誤魔化したりしても良かったのだけど、何の装飾もしない裸のまま、口から飛び出してきてしまった。

 小さい頃から付き合いの長い家族のような存在。それが藍沢絵裡だった。

 これまで一緒に居続けていたから、これからもずっと一緒にいるのが当然。

 そんなことを何の根拠もなく思っていた。けれどあの夜、少し儚げに笑う絵裡を見て僕は焦った。このままぼーっとしていたら、一緒に居られなくなる日はそんなに遠くないのだということが嫌と言うほど自覚できてしまったから、僕は絵裡の手を握り返した。

 ちょうど、今みたいに。


「今さらだけどさ、手とか繋いじゃう?」


 絵裡は手を差し出して、そんなことを言ってきた。

 夏休みまであと一週間ばかりの、暑さが逃げ始めて少しだけ過ごしやすくなった夕方。正門から一歩踏み出して第一声がそれだったから、少し狼狽えてしまった僕がいた。


「昔は普通に繋いでたじゃん」

「繋いでたというか引っ張りまわしてたに近いけどな」


 動揺が目に見えたのか、ぐいぐいと押してくる絵裡を僕は努めていつも通りにツッコむ。浮かれているという表現が近いのかもしれない。いざ告白を受けた手前、僕も堂々と恋人らしくしなくてはと思うのだけど、いざなってみるとどう振舞えば良いか分からないというか。

 けれど差し出された手はちゃんと握り返す。今は僕が引っ張ってやるくらいの気持ちでないと、またいつ立場が逆転するものか分かったものじゃない。


「早く日陰に行こう。暑くて溶けちゃうよ」

「ストリートかぁ。混んでなきゃ良いんだけど」

「夏休み中学生キッズたちが群がってるかも」

「僕らもそう変わらんだろうが」


 今日は水鳴ストリート——我らが水鳴町の唯一の駅前商店街——で絵裡の買い物に付き合う約束をしていた。

 ストリートの中は半円状のドームのような屋根が被さっているから、少なくともこの照り付ける太陽からは逃れられそうだ。

 二人で買い物なんて言うとまたデート感が増してしまうが、実際に絵裡と二人だけで何かを買いに行くというのは久しぶりだった。

 同じ探検部として、他のメンバーと一緒にカフェやらショッピングやらに同行することはある。けれどそれ以外は、それぞれ他の交友関係ができているというか。僕は本当に狭いコミュニティで生きているけれど、絵裡は翔と同じように交友関係は広い方なのだ。

 いわゆる幼馴染という関係性は、きっとこうやって少しずつ離ればなれになっていく。だから今こうしてもう一度手を繋いで歩いていられるのは、実は奇跡に近い幸運だったりするのかもしれない。


「ふんふふーん」

「ご機嫌なこって」

「分かる?」

「それで不機嫌だったら逆に怖いよ」


 いつもの何気ないやり取り。飽きるほどやっているけど、やるたびに安堵に近い笑みが零れて結局飽きない。意味もなく明るくいてくれる絵裡の安心感は、本当に意識できないレベルで入り込んでいるのだろう。

 一定の音で響く蝉の声が、僕の潜在意識を浮かび上がらせたのか。あるいは少し顔を上げれば無限に広がる清々しい青空が僕の気持ちを浮つかせたのか。

 そんなことを考えてしまう。

 僕は青空が好きだ。特に夏の空は本当に透き通っていて綺麗で、いつまでも見ていられる。

 そして隣で呑気に笑う絵裡も好きだ。

 好きなものに囲まれて、絵裡だけじゃなくきっと僕も浮かれているのだろう。


「うおー、到着! まったく、焼けて黒ギャルになるところだったよ」


 本当に気持ち程度に吹くそよ風をオアシス代わりに、僕らは水鳴ストリートのアーケードをくぐった。

 中には相変わらずいくつもの店が並んでいた。かれこれ十年ほど前に近くにできたルルポート—大手のショッピングモールに客を取られているので、年月を経るごとにシャッターを下ろす店も増えているけれど、それでも利用し続けている地元の人たちは多い印象だ。

 少なくとも僕はそうだ。本屋なんかはどこにどんな種類の本が置かれているか覚えているし、そこまでこだわりは無いけれど文房具も珍しいペンや使い馴染みのあるものが置いてあるから、ストリートの決まった店でしか買っていない。


「いや~まさかミスティの店舗がストリートにできるなんて思わなかったよね。友達がもう行ったみたいだけど、品ぞろえもルルポートに負けてないんだってさ」


 絵裡はこんな商店街じゃなくて、それこそルルポートにでも行こうと誘われると思っていたのだけど、つまるところそういう事情らしい。

 ミスティというのは絵裡のお気に入りのブランドだ。デザインに好みのものが多く、なにより着心地が良いのだとか。僕自身、まったくブランドとかを気にしないし話題に出すことがなかったから、絵裡に好きなブランドなんてものがあること自体、少し驚きだった。


「さてさて、あるかな~」

「なんか目星でもつけてきたのか?」

「まあね~」


 店舗に入った途端に流れてきたエアコンの風で生き返りながら、絵裡はずんずんと進んでいく。途中にあるスカートや柄シャツなんかには目もくれず、お目当てのものを探しているようだった。


「みっけちゃった。ひとつなぎの大秘宝」

「良かったな海賊王になれるぞ。……じゃなくて、ワンピースか」

「んふふ」


 ご希望のツッコミを入れられたようで、ご満悦の絵裡がハンガーにかけられた衣服を手に取る。

 それは真っ白なワンピースだった。

 一見、学校の制服みたいに襟と胸ポケットがついていてフォーマルな印象を受けるのだけど、シックな木製のボタンや、目立ちすぎない程度にあしらわれた腰のリボンが素朴な可愛らしさを醸し出している。

 なんとも偉そうな第一印象に自分で笑いそうになりながら生地を触ってみると、絹よりもほんの少し厚い素材は、確かに着心地が良さそうな柔らかさだった。


「どう? 似合う?」

「良いな。ちょっと大人っぽいかも」

「可愛い?」


 絵裡はワンピースを身体の前にあてて、満足そうに笑う。

 このタイプの笑顔も見慣れているはずなのに、ワンピースの白さも相まってやけに眩しく見えた。僕はその眩しさを無理やり押し通していつも通りに反応しようとする。


「……あー、可愛い可愛い。なんだよ、今日のラッキーアイテムだったのか?」

「え? いや別にそういうんじゃないけどさー、涼しい服買いたいなーって」


 ラッキーアイテム。つい懐かしくなってそんなことを訊いてみた。

 最後に絵裡と二人で買い物をしたのは中学生になって初めての夏休み。テンションが上がっていた僕らは隣町の、少し規模の大きめな夏祭りに参加したのだった。

 夏祭りに行って綿あめが食べたい、と唐突に騒ぎ出した絵裡に無理やり引っ張られて始まった強行作戦だった。

 初めての二人だけの電車移動。なんとなく、周りの人たちに合わせて切符を買って、おっかなびっくり改札を通過したのを覚えている。電車から降りる頃には、つり革を握っていた手のひらが真っ白になっていた。


 ―—今日のラッキーアイテムは……水晶です!


 ご希望の綿あめに、たこやき、水風船。人ごみの中をかき分けながらお祭りの定番は一通り楽しみ終えて、射的ゲームの屋台を通りがかった時だった。絵裡が景品の一つを指さして、そんなことを言った。

 指の先を追っていくと、そこには青い水晶のキーホルダーがプラケースに入った状態で置かれていた。

 五百円玉大の、まるで海を切り取ったかのような楕円形の薄青く透き通った水晶。その中を泳ぐように、海月の模様がふわふわと浮いている。同じような寒色のビーズやアルミ製の貝殻でシンプルに飾り付けされていて、こんな祭りの片隅で景品として売られているにしてはやけにオシャレだと当時も思ったものだった。

 目を輝かせながら欲しい欲しいとねだる絵裡に押されて、結局二つ射的で当てて買った。今でも僕は自分のペンケースに着けているけれど、結構気に入っている。

 あれから四年ちょっと経って、今二人でこうやって洋服を選んでいるわけだけど。

 思えばその時から恋人っぽいことをしていたことに、思い出しながら恥ずかしくなってきた。あの時は僕はまだ、純粋に絵裡のことを幼馴染とか友だちとか、そんな風に見ていたのだろう。


「絵裡、買ってやるよ」

「え?」


 当時の感情はあまり思い出せない。

 かっこよく的当てを決めて絵裡にお目当ての品をプレゼントした僕に待ち受けていたオチが、帰り道に起こったから。

 文字通りお祭り気分で財布の中身のことなんて考えていなかった僕は、帰りの電車賃のことをすっかり忘れてしまっていた。

 恥ずかしさと情けなさで顔を赤くしながら、絵裡に自分の分まで出してもらって無事に家に帰れたわけだけど、その時のお返しはいまだにできた気がしていない。

 そんなちっぽけな恩返しのためというわけでもないけれど。


「夏祭りの時の帰りの電車賃、何倍かにして返す時が来たってことさ」

「……なぁにそれ~。本当に良いの?」

「ほらほら気にすんな、会計済ませちゃおう」


 珍しく少し遠慮気味の絵裡の背中を押して、僕はポケットの財布の重みを確認する。今月のお小遣いは特に無駄遣いもしていないから、ワンピースを買うくらいの余裕はあるはずだ。

 レジの場所を確認して、また多種多様な服を通り過ぎていく。メンズもあるようだから、せめて絵裡の隣に並んで恥ずかしくないような自分の服を、来月辺りにこっそり買いに行こうか。


「……ん」


 そんなことを思いながら進んでいると、ふと目に留まるものがあった。

 澄んだ青空のような色のワンピース。

 既視感はきっと、絵裡が選んだものの色違いだからだ。それを着せられたマネキンは、脳内で一瞬にして絵裡に置き換わる。

 腰のリボンにあのキーホルダーを添えて。


「ちょっと待った絵裡」

「ほぇ、何? お金足りない?」

「いやいや、二度も僕に恥をかかせるなって。……こっちも似合うかなって思ってさ」


 僕は足を止めてマネキンを指さす。

 絵裡はしばらく青空色のワンピースを眺めて、ぼーっと口を開けて立ち尽くす。気に入らなかっただろうか、表情から感情を読み取ることができなかった。


「あぁ、白が欲しかったなら良いんだ。レジに……」

「どうしてこの色が似合うと思ったの?」

「え? あー……」


 今まであまり聞き覚えの無いような凛とした声で問われる。別に怒って問いただしているような声色ではなかったのに、妙に背筋が伸びてしまった。

 ちょっと迷う素振りをしてそのまま白い方を買うのかと思っていた僕は一瞬言葉に詰まる。

 ただ、答えはシンプルだった。


「キーホルダーに合うと思って。それにこの青空みたいな色、僕が好きなんだ。好きなやつには好きなものを着て欲しい。僕の、すごく自分勝手な願望だよ」


 空色の服に、海色のキーホルダー。

 コーディネートに全く知見の無い僕だけど、涼しげなその姿は好みに合っていた。

 似合うのは、もしかしたら白色の方かもしれない。制服の、特に今は夏服のイメージが強いから尚更だろう。

 でも今僕が言ったことがすべてだ。少し明るい絵裡の髪色に青が映えてより綺麗に、より可愛く見えるんじゃなかろうか。


「キーホルダー、ね。まったくいつの話をしてるのやら」


 少し頬を膨らませて、絵裡は呟く。

 やっぱり自分勝手な押し付けだったのだろうか。基本は絵裡の希望優先。変えたくなければそのままレジへ直行するだけだ。

 仕方ないと思って諦めかけていると、絵裡は頬を膨らませたまま僕の方を振り返る。

 張り付いている悪戯っぽい笑みは、小ボケをかます時のいつもの前触れ。


「ん」

「どうした」

「んー、リスの真似」

「暑さでやられたか? エアコンは十分効いてると思うけど」

「ぷふぅ。いや、なんかカッコいいセリフ言っちゃってんじゃんと思ってさ。志郎ちゃんがそんなに言うなら着てやらないこともないかなぁと思ってね」


 空気を抜いて白い歯を見せる絵裡に、僕も気が抜ける。

 どんなボケも返してやろうと構えていたけど、さすがに突然のリスの真似は読めない。


「試着室行って着替えてくる! 覗くなよ!」

「分かった分かった。荷物持っとくから、行ってきてくれ」


 絵裡はバッグを僕の両手にぐいと押し付けて、棚の上に畳まれている青いワンピースを手に取って小走りに近くの試着室まで向かう。

 心なしか軽やかなその背中に期待してしまうが、どちらを選んでも絵裡が満足するならそれで十分だ。

 そんなことを思いつつ、僕は視線をバッグに移す。

 クリーム色のシンプルなそれには、ストラップやらテーマパークで買ったらしい小さいクマのぬいぐるみ、推しアイドルのロゴが入った缶バッジなどがバラバラと飾られていた。


「バッグも騒がしいやつだな」


 誰にともなく苦笑しながら僕は呟く。

 今まで意識していなかったけど、そういえば絵裡があのキーホルダーをどこかに付けているのを見たことがなかった。買った後は私物に付けているのだろうと当時は特に気に留めていなかったけれど、今さらながら少し気になってきた。後で訊いてみようか。

 考えながら、僕の足は勝手に絵裡の背中を追っていた。覗かないなんて別に言うまでも無いけれど、閉まったカーテンの前で足を止める。

 かなりゆっくりと歩いていたからか、ちょうどタイミング良くシャッ、と音を立ててカーテンが開いた。


「どうよエレガントな絵裡ちゃん。素敵じゃん?」


 腰に手を当てて、くるりと一周しながら、どや顔を決める絵裡。

 カーテン開けて僕じゃない誰かがいたらどうするつもりだったんだ。

 そんなツッコミは喉まで出かけて、引っ込んだ。というか、息を呑んだ。

 だいたい予想通り、確かに似合っていた。

 若干フォーマルよりなワンピースは、爛漫な笑顔に絆されたように中和されて見た目以上に、想像していた以上に軽やかな印象があった。

 それでいて同時に、どこか大人っぽい雰囲気も醸し出されていた。絵裡をして大人っぽいだなんて表現を使うことがあるだなんて思いもしなかったけれど。


「……良い。すごい似合ってるよ」


 早鳴る心臓が邪魔をして、月並みの感想しか出てこない。とにかくいろいろな印象が頭に襲い掛かってきて処理が追い付いていないようだ。

 それでもやっと出てきた言葉を聞いて、絵裡はみるみる満足そうな笑みで顔を満たしていく。


「ま、絵裡ちゃんだからね。何を着ても似合うってもんよ。よーし志郎、これ買って!」


 遠慮なしに、わがままに、絵裡は高らかにねだる。

 今日くらいは僕の望みでもあるし許してやろう。できることならそのまま僕の隣を歩いてくれないかと、逆にねだってみたいところでもあった。


*****


 結局制服のまま、ミスティの紙袋を肩にかけた絵裡と次に向かったのは本屋だった。どうやら見たい雑誌があるらしい。たぶん推しアイドルの’サンドマン’が載っているやつだろう。

 ちょうど僕も今読み進めている漫画や小説の新刊が出ている頃なので、しばらく分かれて見て回ることにした。

 小・中と図書委員を長くやっていたこともあって、本に囲まれる本屋という場所はいるだけで心地良い。少し立ち寄らないだけで見たことのない新刊の背表紙が並んでいるかと思えば、昔から色褪せない名作がいまだに’書店員のイチオシ’の棚に置かれているのを見ると妙に安心する。

 僕は昔から冒険ものとか、異世界を舞台にしたファンタジーものが好きだった。現実に居ながら、遠い、見たことのない世界に行ける。知らない景色を見られる、味わったことのない食べ物を食べられる、絶対に体験できないことができる。

 起きていながら、夢を見ているような。そんな感覚。

 たぶん一歩間違えれば僕は引きこもりになっていたかもしれないと、たびたび思うことがある。

 本の中の世界にだけ目を向けて、窓の外の景色なんて見ようともしない。

 ただそうならなかったのは、小さい頃からいろんなところに連れ出してくれた家族や、家族ぐるみで付き合いの長かった藍沢家含む近所の友だち、そして中高で出会った翠谷や翔といったちょっと変わった友人たちのおかげだろう。

 その中にはもちろん絵裡も含まれている。あいつが眩しい笑顔で、多少わがままにでも僕の手を引いてくれたから、今こうして僕は立っていられるのだと、そう思っている。


「今日はなんだか思い出に浸ることが多いな」


 ぽつりと呟いて、お目当ての新刊を素通りする。

 ワンピースを買ったおかげで普通にポケットが軽くなってしまっていたから、買うのはまた来月以降に決めた。本の世界に入るのは、別にいつだってできるのだ。

 じんわりと、妙に幸せな頭でぼーっと歩いていると、目の前が赤く染まった。

 過去の次は未来か。

 その背表紙には有名どころから聞いたことのないものまで、様々な大学の名前が網羅されていた。頭が少しずつ、何かに呼び戻された気分になる。

 やけに眩しい赤レンガに目を凝らしながら、僕は何気なしに目についた一冊を手に取る。

 近くの公立大学の赤本だった。文学部、社会学部、経済学部、教育学部……、文系用だからいつかは使えるものなのだろう。


「おぉ、赤本だ。天野せんせ、それ買うの?」

「なんだよ先生って」

「英語教えてくれる約束したじゃん」


 音もなく背後に現れて肩に手をかける絵裡に、振り返らず答える。

 別に約束をしたわけじゃないけど、お互いが本気なら自分の復習のためにもやってみる価値はありそうではある。


「そこなら教育学部もあるし、良いんじゃない? ずっと前に言ってたもんね、先生になりたいって」

「ずっと前も前の話……それこそ小学校低学年くらいじゃないか? というか絵裡の前で先生になりたいって話したことあったっけ?」


 小学生のころ、クラス全員に配られた紙に将来の夢を書いた記憶はある。僕が書いたのは学校の先生。理由は詳細に思い出せないのだけど、確か担任の先生か誰かに褒められて嬉しくて、漠然とそんな大人になりたいという考えで行きついた答えだった気がする。


「いつかの授業参観でさ。みんな一人ずつ発表したじゃん。覚えてない?」

「んー、あったような無かったような。僕が忘れてたのによく覚えてるもんだな」


 正直全く記憶にない。

 つい最近まで、自分の将来の夢なんて忘れていた。いつまで覚えていて、いつ忘れてしまったかも記憶がない。

 でも思い出せないよりは良いのだろう。今でも自分がそうなりたいのか、絵裡との教えあいっこもとい勉強会で分かれば尚良いのだけど。


「忘れないよ。志郎の大事な将来の夢の話だもん」


 もし仮にそうでなくても何かしら考えなくてはいけないのだ。

 穏やかな声色の絵裡の返事を聞いて、焦点がはっきりと定まったような感覚を得た。

 将来の道。僕は何をして、どう生きていきたいのか。考えながらきっと、隣に絵裡がいてくれれば何か見つかるかもしれない。僕の思い出せない記憶を持って、僕が忘れた分だけ、何かを得られるかもしれない。

 手を引かれて、あるいは僕が手を引いて、隣で一緒に歩みを進められたら良い。そのために僕は彼女の手を掴んだのだから。


「お、買うの?」

「いや、今日は買わない。けど目星だけつけておこうと思ってね」


 大学の名前と、教育学部の入った表紙を見て、スマホを使って写真を撮る。

 難易度とか自分の成績とかも照らし合わせて、次に来るまでに買うかどうかを決めれば良い。

 この先、どう行動するのが正解かなんて分からない。何をして、どう生きていきたいかも、自分と話し合う時間だって必要だ。

 とにかく何かをして、前に進んでみないことには何も見えてこないはずだ。

 きっと時間はまだある。焦るばかりだった気持ちが嘘のように引いていく。

 その代わりに胸の奥底に、温かい火種というか、原動力みたいなものが灯ったような気がした。

 ふとすぐ近くの壁にかかったカレンダーが目に留まる。日付を見て、もうすぐ長い夏休みが始まることを思い出したのだった。


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