本当は
ぼんやりと何かを追いかけたような気がする。
誰かに、ここにいても良いんだと言われて安心したような記憶がある。
どこで、誰に何を言われたのかは思い出せない。
夢だったのか現実での出来事なのか記憶にないけれど、ふとした時にまるっきり具体性のない、そんな感覚を思い出す。
梅雨も明けてうだるような暑さが続く七月の終わり。夏休みはすぐそこまで迫っていたけど、僕の気持ちはどちらかと言うと沈んでいた。
理由は、やっぱり進路のことだろうか。文理選択というものをしてから、一気に受験と言う二文字が近づいたような気がした。まだ一年以上先の話だけど、実際に来年の今頃は勉強以外のことは考えられない身体になっているのだろうなとうっすら思う。
大学受験。何のために頑張るのか。何をしたいのか。何かを頑張りたいという意識だけが先行して、変に焦っている自分がいる。
「何だろう。僕は何を……」
目の前に広げた白紙のノート。進もうとしては踏みとどまるように、僕はシャープペンシルを意味もなく打ち付ける。黒い点は濃く、少し大きくなるばかりで、意味のある文字列を形作ろうとはしない。
「お、真面目に勉強していると思ったら落書き?」
沈んでいた思考は聞き慣れた声にすくい上げられた。
顔を上げると絵裡が立っていた。
「勉強してるふり」
「なにそれ。次の授業、移動教室なんだから早く支度しないと遅刻しちゃうよ」
「ん……」
次は確か古文だったか。昼休み後だから、先生の朗読は食後の子守歌になってしまいそうだ。
机の中を漁って、教科書やノートを一通り取っていく。
「絵裡はさ。大学とか将来の夢とか、決まった?」
「えっ?」
何気なしに、目の前の幼馴染に聞いてみる。
小中高と一緒に同じ学校で顔を合わせてきて、先に進む道を決めていたのはいつも絵裡の方だった。
この高校に上がる時もそう。特に成績も良くなかった僕がある程度の偏差値を持つこの水鳴高校に入学できたのも、絵裡が一緒の高校に入ろうと誘ってくれたからだった。
断る理由も無くなんとなく頷いた僕は、その後に待つ絵裡のスパルタ授業のことなんて知る由もなかったのだけど。
絵裡は少し固まってから、言葉を繋げる。
「うーん、まだかも。とりあえず勉強頑張って学力つけて、どんな大学でもかかってこい! って感じ?」
「そりゃ、ある意味すごいな。でも文系で良かったのかよ。理系の方が大学も、将来の仕事の幅が広がるらしいぞ。よく知らないけど」
絵裡はいつもの言動からはちょっとアホの子に見られがちだが、意外に勉強はできる。そのおかげで僕も助けられたわけで。
意外なのは絵裡も僕と同じく文系を選んだことだ。高校受験期、やっぱり一番苦しんでいたのは数学で、絵裡には特に徹底的に教えてもらっていた記憶があるから尚更だった。
「あー。うーん……」
「もしかして何も考えずに選んだのか」
「いやいや! えーと、ほら、文系の方が楽そうだし?」
「今すぐ全国の文系生徒に謝ってこい」
「ごめーんねっ」
「その語尾に星がついたような謝り方をやめろ」
丁寧にウインクまでするんじゃない。
珍しく言い淀んだ末に失礼なことをぶちかます絵裡に渇を入れながら、僕はまた考え込む。
僕も絵裡のように気楽に構えたいのは山々だ。その方が僕らしいと思うし、何にそこまで急かされているのかここまで口に出しても見えてこない。
「何か悩んでる? 勉強に行き詰ってるとか? なんなら絵裡ちゃん先生がまた勉強教えてあげようか?」
勉強に行き詰っているかと言われればそうでもなし。何から手を付ければ良いか迷っている段階だ。絵裡ちゃん先生のスパルタ授業を受けるかどうかは次のステップで考えることだろう。
「というか最近志郎、英語のテストで高得点取ってたじゃん。逆に教えてほしいくらいなんだよねぇ。教えあいっことかする?」
絵裡に言われて思い出す。そういえば直近の中間テストで、本当にたまたま英語で二位を取った。
一位はもちろん学年トップの成績を持つ緋村紫苑という女子生徒なのだけど、彼女にはどう足掻いたって勝てる未来が見えない。
もともとできない教科ではなかったし、中学時代に唯一得点で絵裡に勝てていたのもそういえば英語だった。
教えあいっこ。勉強会。
しばらくはそれを続けて、打ち込んでみれば、この気持ちは晴れるのだろうか。
「ぷりーずてぃーちみーいんぐりっしゅー、志郎先生!」
「ずいぶん舐めた態度の生徒だな」
暑さでだいぶ絵裡の扱いが雑になっているけど、悪い気分ではない。
先生、か。
そういえば小学校の時、将来の夢を聞かれたら’学校の先生’と書いていたんだっけ。
’将来の夢は何ですか?’という問いに対するアンケートの回答欄に拙い字で書かれた自分の文字が、頭にうっすらと浮かんできた。
絵裡と勉強会でもして、学校の先生気分でも味わえばその気になったりするのかもしれない。
……いや、さすがにそんな簡単に決めて良いことではないのだけど。
「にゃあ、暑い! 柄にもなく勉強のことなんて話しちゃったから余計に暑いよ! 知恵熱出しそう」
そんなことで知恵熱を出すほど頭の容量は少なくないだろう。そんなツッコミを入れられないくらいには、この暑さに堪えていた。
いっそ全部忘れて涼しい場所でしばらくぼーっとしていたい。
「もうちょっと楽しい話をしようよ。そうだ志郎。今年の夏は花火にしよう。うちの庭と天野家の庭を繋いでバーベキューしながらさ。かき氷機もガンガン回して食べようよ」
今年の夏。
そういえばもうそんな時期だ。絵裡とは幼稚園くらいからの幼馴染で、家も隣同士。親同士がかなり仲が良いから、年に二回、夏と冬に旅行やハイキング、バーベキューやスキー、いろいろなところに連れ回されたものだった。
幼稚園から小学校低学年くらいまでは他にもう二、三家族参加した賑やかな会だった。親たちの目的は親同士で酒を飲むことだったのだろう、訳も分からず居酒屋で騒いでいた小さい頃の記憶がうっすら残っている。
それがだんだんと、転校やらその他いろいろな事情で今は藍沢家と天野家のささやかな会になっていった。
どれも楽しい思い出だ。ここ数年は僕らも高校生になったから、あまり大きいイベントはやっていなかった。去年の夏は確か一緒にちょっとお高いレストランでご飯を食べたんだっけ。
暑さのせいか、あまり正確に詳細を思い出せないけれど。
「夏っぽいことするの久しぶりな気がするし、良いかもな」
「でしょ。うちのパパも張り切っちゃって、打ち上げ花火でも買おうかなんて言ってたよ」
「通報されるって。マサさん、昔もそんなことして近所からクレーム来なかったっけ」
「そうそう。だから今ママが全力で止めてる」
藍沢家——特にお父さんの正治さんは絵裡に負けず劣らずやんちゃな人だ。この会が続いているのも彼の明るさと、うちの家族のノリの良さというか流されやすさというか、そんなところが要因だろう。
近所付き合いもたぶん今年で十年目くらいの長さになる。
敷地を隔てる柵の扉を開ければ僕らの庭は地続きになる。そこそこ広いスペースが取れるし、花火を振り回しても窮屈はしないはずだ。
小学生くらいの時に同じように花火をしたのを思い出す。あの時は確か両手に二、三本ずつ花火を持ったマサさんが追いかけてきてみんなで逃げ回っていたような記憶がある。
高校生にもなってさすがにそんなはしゃぐことはないだろうけど、久しぶりに賑やかにはなるかもしれない。
「おっと、マジで遅刻しちゃうって。急ぐよ志郎!」
予鈴の音とともに、絵裡がせかすように言う。
ただでさえ暑さでぼやける頭を思い出に浸らせたのは誰だと心の中で文句を言いつつ、僕は授業の用意を一式持って席を立つ。
宿題はちゃんとやってきたっけ。ノートをパラパラめくって、最新のページに今日の分の宿題が書かれていることを確認する。合っているかどうかは知らない。答え合わせをし忘れた気がする。今日は僕の出席番号とは程遠い日にちだから、先生にあてられることはないだろう。
そんなことを気にしながら僕は絵裡の背中を追って歩き出す。
普通の日常だ。
この上なく、僕が望んだ。延々と穏やかに続いて、変わって欲しくない日常。
だけど着実に変わろうとしている。変わらなければいけないような気がしている。
少しだけ速足になって、気づけば僕は絵裡の前を歩いていた。
*****
「いらっしゃい、志郎くん」
靴を脱いで玄関を上がると絵裡のお母さん――明美さんの弾んだ声が耳に届いた。
とんとん、と小気味良い音を立てて包丁で切っているのはバーベキュー用の野菜だろうか。カウンターの上には山盛りになった肉や玉ねぎ、かぼちゃ、ピーマンなどを載せた皿が並んでいた。
「ごめん、もう庭で火を起こし始めているみたいだから、持って行ってあげてくれる?」
「わかりました」
僕は返事をして、カウンターの上にある皿を隣接しているテーブルに移し替えていく。
このテーブルもだいぶ久しぶりに見た気がするけど、まだ現役のようで安心した。なんだかんだ藍沢家に上がるのは二、三年ぶりくらいになるのだろうか。絵裡が僕の家に上がることはあっても、僕から絵裡の家に行くのはさすがになくなった。
学校でいつでも話せるからというのもそうだし、いくら幼馴染とはいえ女の子の家に単身で上がるというのはさすがに抵抗を感じてしまっていたというのもある。
それなりの距離感というか。
きっと必要だろうと思ったから、少なくとも僕は気にするようにはなってしまったのだと思う。
「悪いね、お父さんが張りきっちゃって。近所迷惑だからほどほどにって釘刺しておいたけど、志朗くんからも言ってくれる?」
「ははっ、了解です。絵裡からも言われましたよ」
「あの子もテンション上がって一緒に騒いじゃうからね。まったく子どもじゃないんだから」
子どもじゃない。
正確にはまだ僕らは子どもの部類だけど、小さい頃のままではいられない。
無邪気に遊んでいられないのはマサさんや絵裡だけじゃない。
ただそれは少し寂しいような気がして。
幼稚園とか小学校くらいまでは絵裡以外にも数人の幼馴染がいて騒がしく遊んだ。公園で鬼ごっこやかくれんぼをしたり、家でゲームをしたり。
時が経つにつれて、別々の友達と遊ぶようになったり、転校したりで離れて行ってしまった。
残っているのは僕と絵裡だけ。
この関係性もいずれ、環境の変化とともに変わってしまうのだろうか。きっとそうなのだろう。変わらないものなどない。変わらないことは、きっと時間が許さない。
意識すると膨れ上がってしまいそうな不安を振り切るように、僕は頭を振って、開け放たれたベランダの窓に振り替える。
明美さんが言ったようにマサさんがすでに火を点け始めているようだ。炭の匂いが鼻までたどり着いて、一気に夏という季節が迫ってきた気がした。
「こんばんは、マサさん」
「おっ、天野ジュニア。ちょうど良い火加減だ。肉、焼いちまおう」
マサさんはいつもの呼び方で僕を呼んで、隣の椅子をすすめる。それから僕が持っていたお盆から肉をトングでつまみ上げて、コンロの網へと並べていく。
肉の焼ける音と香ばしい匂いが胃袋を刺激して鳴かせる。夕飯にはちょうど良い時間だった。
「酒はまだ飲めないんだっけ」
「まだ十六ですって。会うたびに訊くのやめません?」
「幸樹さんと会うたびに俺も話してるんだって。早く四人で飲めるようにならねーかなって」
しみじみとした顔をして口を尖らせるマサさんに苦笑しながら、僕は近くにあった紙コップにコーラを注ぐ。
幸樹——僕の父も、昔酔った勢いでそんなことを言っていたような気がする。コップに注がれるのがコーラからビールになるのはまだしばらく先のはずだ。
「となると、この前絵裡は誕生日だったから十七で、リーチか」
「成人と言う意味ではリーチですけど、お酒は二十歳になってからですってば。酔ってます?」
「お父さん、まだ飲んでないよ」
「うそでしょ」
藍沢家に来るとツッコミも二倍なので忙しい。聞いていたのか、花火を両手に持った絵裡が満面の笑みで会話に入る。
この子にしてこの親あり。マサさんは大笑いしながら枝豆を口に放る。
「そういや天野夫妻は? 乾杯を待ってるんだけどなー」
「父はもう少しで帰れそうって、さっきチャットが来ました。母は卵焼き作っててちょっと遅れてます」
「志郎ママの卵焼き?! やったー!!」
「あれ、良いツマミになるんだよな!」
両側から藍沢親子の歓喜の声が聞こえて耳がキンキンと響く。
なんだかんだ天野家も好かれているということだから悪い気はしないけど。
「テンション上がってきた。よし志郎、スターバトルごっこしよう。私ダースビーダー役やるから、志郎はオビツー役やって。はいこれ、花火両手に持って二刀流だよ」
「遊びが完全に小学生男子のくせになんで目が据わってんだよ怖いよ」
「じゃあ俺マスターソーダ役やるわ」
「マサさん、止めてよ乗らないで。手持ち花火でチャンバラなんて絶対火傷するって」
言いながら、僕は笑って花火を受け取る。
絵裡が持ってきたロウソクに先端を近づけてしばらくしないうちに、オレンジ色の火花が真っすぐに迸り始めた。
「さぁさぁ、私こそは宇宙帝国の将軍ダースビーダー! 何とお前の父親だったのだ~」
「そんな初っ端からネタバレしないでしょ……ってうわっあぶな!」
絵裡は笑い声を上げながら、両手に持った花火を振り回す。僕はそれから逃げるように椅子から離れて、庭の方へと駆け出す。
振り向くと、光は色をオレンジ、紫、緑、白色に変化して絵裡の顔を照らす。
最初こそ火花が当たりそうになったが、よく見たら僕に火花がいかないようにだいぶ外向きに振り回しているようだった。
「ほらほらー、この斬撃を避けられるかなー」
「よおし、受けて立ってやろう」
ぐるぐると振り回して挑発する絵裡に、僕はいつの間にか乗っかる。
自然に身体が動いてしまうあたり、僕もまだまだ子どもなのだろう。釣られて僕も花火を振り回す。
二人分の光が夜の闇を昼間のように照らす。
「さーて、銀河の運命をかけた戦いが始まったぞ。どっちが勝つかな~?」
やる気のなさそうな実況が聞こえて横を見ると、ビデオカメラを構えたマサさんが立っていた。
この光景も久しぶりだ。こういう会や運動会などの学校の行事があるたびに、マサさんはカメラを手に持ってみんなを映していた。
軽く編集したものを家族間での食事会のたびにみんなで観て、それが恒例の楽しみになっていた。幼稚園くらいの、本当に小さい頃からの思い出が、きっとマサさんのカメラの中に詰まっているのだろう。
小さい頃は恥ずかしかったような記憶もあるが、積み重なっていく思い出を見返すたびに、撮られるのも悪くないと思うようになっていった。
「そりゃもちろん絵裡ちゃんですよ。ほらお父さんも、撮ってないで参加して!」
「うおっ、危ねぇって! 燃えちまうだろうが!」
絵裡は僕みたいに達観していないからか、恥ずかしがっているのかもしれない。容赦なく花火を向けて、カメラを遠ざける。
漫画みたいに飛び上がるマサさんの姿がツボに入って僕はひたすら笑う。たぶん後でビデオを見返すとすごく躍動感のある映像になっているのだと思うと、今から楽しみだった。
それからいろいろな花火を順番に遊んでいった。さすがに打ち上げ花火なんてものはなかったけど、ねずみ花火やらいろいろな種類が入ったセットを買っていたようで予想以上に楽しんでしまった。
ついさっきまで何か悩んでいたような気がするが、はしゃいでいるうちにすっかり忘れてしまっていた。
*****
それからほどなくして僕の両親も合流し、バーベキューが本格的に始まった。
ろくなものを口にしないまま始めたチャンバラもとい花火だったから、肉が焼けるなり僕はしばらく絵裡と二人で無心で食べ続ける羽目になった。
最初こそ親たちの会話に巻き込まれて、最近の学校の話とか世間話をしたりしたのだが、次第に親同士だけの会話に移り変わる。
これもいつものことなのだ。親は親同士、酒を飲んでバカ笑いしてから、しっぽりと話し込み始める。毎回毎回何をそんなに話すことがあるのかと小さい頃は不思議に思ったものだった。
正直今でもわからない。でもこうやって近すぎず遠すぎない距離感の会話相手は、大人になってから貴重なのだと父は言っていた。
「お肉も野菜も美味しい……幸せだよぉ……」
「あー、染みるな」
そんな大人たちの会話をよそに、僕らはまったりと椅子に座ってバーベキューに舌鼓を打つ。
炭の焼ける音、虫の鳴き声、親の笑い声、全部が遠くから聞こえてくるようで、はしゃいで疲れた体にじんわりと染みわたっていく。
「そうだ志郎、線香花火やろうよ」
「線香花火? まぁ、良いけど」
散々遊びつくした花火セットの袋の中にぽつりと、線香花火の束だけが残されていた。
前にこうやって絵裡と花火をしたのはいつだったか覚えていない。少なくとも小さい頃は、賑やかな花火で満足して別の遊びをしたり、部屋に戻ったりしたような気がする。
そんな絵裡から線香花火をしようなんて提案をされるとは思ってもみなくて、僕は生返事をしてしまう。
「早く落ちた方の負けね」
「まぁ、そんな勝負をするんだろうとは思ったよ」
ただ遊び方は絵裡らしいと言えばそうなのかもしれない。
僕たちは椅子から立ち上がって、線香花火を摘み取る。二人で同時に先端をそっとロウソクに近づけて、火種が灯るのを待つ。
しばらくするとオレンジ色の丸い火種がぷっくりと、先端に現れ始めた。
「この最初の丸い奴、可愛いよね」
「あぁ、確かにな」
目の付け所はそこなのかと、僕は口元を上げて相槌を打つ。
顔を上げると、屈託のない笑みを浮かべて火種を見つめる絵裡の顔があった。
何のことはない、いつもの絵裡の顔。だけど僕は吸い込まれそうになりながら、視線を外すことができなかった。
「お、点いたよ」
声とともにパチパチと、少しずつ小さな火花が弾ける音がし始めた。
僕は反射的に視線を落として、オレンジ色の細い火花が現れては消える様を見つめる。
綺麗だ。
周囲の音を遠ざけるように、その音はだんだんと大きくなって、それに釣られるようにどんどんと光も激しさを増していく。
まるで光の枝のように。あるいは激しい雷のように。
今まで遊んだ花火ほど興奮もない。それでも盛り上がりを見せる光は、いつまでも見ていたくなるほどに僕の心を掴んでいた。
それでも。
「綺麗だねぇ」
また、僕は無意識に顔を上げる。
光るたびに照らされる絵裡の顔を、僕は一秒でも見逃さないように目を開けて見つめていた。
子どものようにはしゃいでいたさっきまでの表情とは裏腹の、静かで、どこか憂いているような、でも幸せそうな顔。
そんな絵裡の顔は今まで見たことはなかった。いつも明るくて、くだらないことでも笑って雰囲気を和ませる。そんな絵裡が、儚げに目の前を流れる光のシャワーを見つめていた。
ふいに、言葉では表せないような寂しさに全身が襲われる。
「絵裡ちゃんの勝ちぃ~」
無意識に体が動いてしまったようで、僕の持っていた火種が先に落ちてしまったようだった。
どこか遠くから届くように聞こえた絵裡の勝利宣言で、僕は落ちた光に視線を移してじっと見つめる。ただ脳内には、さっきまでの絵裡の顔が焼き付いて離れなかった。
顔を上げて絵裡の顔を見ると、いつもと変わらない笑顔がそこにあった。
僕の瞳がビデオだったら、なんて気持ちの悪い想像。そうしたらきっと巻き戻して、どうしてこんな表情をしていたのかを絵裡に問いかけていたかもしれない。
「どうしたの、志郎?」
「……いや。もう一回やろうか」
「お、スイッチ入っちゃった? いいよ、まだたくさんあるし。私たちで二人占めできちゃうんだから」
僕の内心なんて知らないふうに、絵裡は視線だけを花火セットが入った袋に向ける。火種が落ちないように、動かないようにしていたのだろうが、そのわずかな身体の動きで絵裡の花火も消えてしまった。
「これで仕切り直しだな」
「おーけー」
僕らはまた同じようにロウソクを囲んでしゃがみ込む。
言葉もなく、ただ火花がパチパチと、僕らの間に咲いては消えていった。
咲いては消えて、落ちて。また咲いて。
まるで過ぎていく季節の花のような光景は寂しくもあったけれど、それでもずっと眺めていたいと思えるくらいに綺麗だった。
光の向こうの絵裡は、やっぱり、複雑な色が織り交ざったあの笑みだ。
最初は珍しさとか驚きが勝ったけれど。見れば見るほど、この表情も悪くないように思えて、自然に笑みがこぼれる。
「また、来年もやろう」
「えっ。……あぁ、うん。そうだね。もちろんだよ」
僕のつぶやきのような言葉に、さも当然といったように頷く絵裡。
寂しさと一緒に、教室で感じた焦りや不安が戻ってきていたのだ。だけど頷いてくれる絵裡を見て、少し安心した。
「結構楽しかったんだ。なんか久しぶりにこうやって集まって、騒いだよな。去年は食事会だったし、一昨年は川で——」
そこまで言いかけて、僕は言葉を止める。
一昨年の記憶を思い出そうとして、目の前に光があるのに視界を奪われたように真っ暗になるような錯覚に襲われる。
恐怖か不甲斐なさか、とにかく暗いものであることに間違いない感情に身体の制御を奪われて動けない。
「……そうだね。志郎はもう、平気?」
平気かどうか。どういう意味合いで絵裡が言ったのか、僕には分からなかった。
でも、少なくとも今のこの状況は平気じゃない気がして、素直に首を縦に振れなかった。
「やっぱり、まだ怖い?」
怖い。
絵裡が不安げにこちらを見つめる。
僕は怖い。眼の前の当たり前の光景が、当たり前じゃなくなる事が。ずっとそうだった。平穏な生活が終わらずに続いてほしいと、ずっと目を瞑って祈っていた。
かすかに震える僕の身体を、何かが、あるいは誰かが包みこむ。
この、何処からともなく僕を濡らす雨から、僕を遠ざけてくれる。
この温かさは、僕の目を開いて、一歩進ませようとしている。
「僕は、大丈夫だよ」
恐怖は少しずつ収まって、僕は何とか声を絞り出す。少し震えていたけど何とか言葉にはなっていたはずだ。
「なら、良かったよ。……ありゃ、そろそろなくなっちゃいそうだね」
安心したように言って、絵裡がガサゴソと花火の袋を漁り始める。確かに残りは少なくなっていて、いつの間にか夢中になって何本もやっていたようだった。
「それにしても、絵裡が線香花火だなんて意外だったな。昔みたいに楽しいやつだけやって、スイカでも食べに行くんじゃないかと思ってたからさ」
僕はさっきまでの恐怖感を振り払うように、無理やり笑って話題を変える。
線香花火を取るついでにベランダの方へ眼を向けると、キッチンの方で明美さんが包丁でスイカを切ろうとしている最中だった。
「……そうかな。儚くて、でも綺麗で。ずっと続けば良いのにって思うけど、すぐに消えちゃう。感傷的になっちゃうけど、でも私は好き……になったんだよね」
僕はその声に振り返る。
それは絵裡の声ではないような気がして、僕は慌てて視界にその姿を入れようとする。
ロウソクに花火の先端を近づけて、火種を灯そうとする絵裡。さっきまでの複雑な笑みの上に、さらに少しだけ寂しさのようなものが上塗りされたような、そんな顔。
感化されて僕も、また暗いものが戻ってきそうになる。それを押しのけるように、僕は口を開く。
「感傷的、ね。確かにな。線香花火みたいに花が咲いて、散って、また咲いて。そんな風に季節が過ぎて変わってさ。来年の今頃はこんなことしていられるかも分からないし、忙しい中で受験をして、どこかの大学に合格して。もしかしたらすごく遠くに引っ越すかもしれなくてさ。いろいろ変わっちゃうんだろうな、とかさ」
口に出すと予想外にいろいろと言葉が出てくる。
単純にこういう話題を話す相手がいなかったから言語化できなかっただけで、ここ最近続く焦りや不安は結局のところ、これなのだ。
将来の不安というか。変わっていってしまうことというか。
僕と絵裡の花火が激しく燃えて光り始める。近くで弾け合って、二つで一つの大きな花火のように小さな爆発を続ける。
しみじみと、その光はいつか自分が必死になって追っていた光に似ているような気がして、僕は自然と言葉が続く。
「でもそうやって変わっていくのが、前に進んで成長することっていうかさ。変わらないものなんて無いって言うか。はは、何言ってんだろう僕は。マサさんに撮られてなくて良かったよ。らしくなさすぎて笑っちゃっ……」
ちょっと良いセリフを言おうとして途中で恥ずかしくなって、言葉を切ろうとした。
でも僕の声を遮ったのは僕自身じゃなくて、絵裡の冷たい手だった。
いくら夜でも蒸し暑い七月の終わり。ひんやりとした温度は僕の熱まで下げようとしているようで。
両手で右の手首を掴まれて、僕の身体が揺れる。その拍子に二人の火種は落ちて、花火はあっけなく消えてしまった。
驚いて僕は顔を上げる。
笑っていた。けど曇っていた。光が消えた夜の闇のせいだけじゃない。今度こそ、そこに悲しみが隠れずに乗っていた。泣くのを堪えるような、辛そうな表情。
「……志郎も言ったじゃん。来年もやろうよ。来年も、再来年も」
一瞬何のことだか分からなかったが、確かに言った。来年もこんなふうに花火をやろうと。逆にこれからいろいろ忙しくなって、できなくなってしまう可能性があるとも言ったけど、こんな悲しい顔をさせるためにした話じゃない。
単純に僕がそう考えたというだけの話で。
そんなつもりじゃなかったと慰めようとして、開きかけた口が止まる。
変わってしまうのは僕だけじゃない。賑やかな方が好みだった絵裡が、こんなおとなしい花火を好きになるなんて予想もつけられなかった。
来年はできるかもしれない。
でも再来年、その先は。僕の予想できない何かが僕を、絵裡を、他のいろいろな要素を変えていってしまえば、それは一口に成長とか前に進むとか、綺麗な言葉で丸められない。
好みも、関係性も。変わらない保証があるものなんて一つもない。
だったら、変わらないように掴んで離さないのも、一つの選択なのではないだろうか。
いつかどこかで離ればなれになってから悲しまないように、いつだって隣にいられるように手を伸ばすことは決して傲慢ではないはずだ。
「なぁ、絵裡……」
僕はもう一度口を開く。
それを言うために。まさか絵裡を相手にこの言葉を口にする時が来るなんて、過去のどんな自分も予想なんてできなかっただろう。
僕の手首を掴む絵裡の手に、力がこもる。
でも、ここで僕は言わなくちゃならない。どんな返答になろうが、僕は自分の背中を押して、自分で選んで伝えなくてはならないのだ。
「付き合っちゃおうか。私たち」
かけようとした言葉が、絵裡の声でそのまま返ってきて、僕の思考も感情もまとめて吹き飛ばしていった。
しばらく時間が止まる。
周りの雑音はそのままに、僕と絵裡の周りだけ空間も時間も切り離されてしまったような、そんな感覚。
「……僕で、良いんだな?」
やっとの思いで出たのは、たぶん僕が最も返されたかった言葉。なんともカッコ悪く情けないのは僕が一番分かっている。
まだ少し覚束ない僕の足元でも、絵裡はここが良いと言う。ここに居て良いんだと、彼女は言う。
そんな絵裡への勇気を振り絞った、情けない返答。
「志郎が良いんだってば。で、どうなの? 返事は」
口を尖らせて顔を赤らめながら返事を急かす絵裡に、僕は身体中が燃えるような熱さというのを誇張無しで味わった。いっそ線香花火になって弾けられればどれだけ楽か。
心臓が早鳴りを始めて、脳に血液を回して言葉をひねり出そうとする。同時に嬉しさとか、情けなさとか、いろいろな感情がごちゃごちゃとせり上がってきて整理ができない。
ただ一つ、脳に浮かんだ言葉を捕まえて、そのまま出力する。
「僕も、絵裡が好きだよ。ずっと前から」
言葉にしてみればそれは至極当たり前のことで。
意識なんてせずとも、僕は絵裡が好きで、ずっと大切に思っていた。当たり前すぎて、今さら言葉にするのもおかしいけれど、でもそれを形にするには僕にとって相当の勇気が必要だった。
「い、良いかどうかって聞いただけなのに! そんな恥ずかしいこと真顔で言っちゃう?」
「ちょっと頑張ってみたんだ。やっぱり、らしくなかったか?」
「……ううん。嬉しかった。好きだよ、志郎」
絵裡の笑顔と返答に、僕は深く息を吐く。どうやら長らく息を止めていたみたいだった。
手首を掴んでいた絵裡の手の上に、そっと自分の左手を乗せる。さっきより少し熱を帯びているような気がした。
「最後の一本、やるか」
「……うん」
それから噛み締めるように、僕は視線を花火の袋に移して言う。
線香花火が一本だけ、暗くなってよく見えなくなってしまった僕らの顔を照らすために、静かに待っていたのだった。




