シャル・ウィ・ダンス?
翠谷に導かれるまま、校舎の屋上へと出た。
学園祭の熱気から離れたそこには、相変わらず涼しい風が吹いていた。
ここに来るのは、おそらくこの世界に来た日以来。
翠谷が掴んでいた手を離してこちらに振り返り、頭を下げる。
「……すみません。昨日は熱くなりすぎました。何様だよって話ですよね」
「いや別に……翠谷は間違ったこと言ってなかったしな」
昨日の事を思い返しながら言う。
記憶を取り戻した今なら尚更、自分にふさわしい言葉達だった。
「少し、話を聞いてくれますか?」
「ああ」
「……ボクにはおよそ家族と呼べない、血の繋がった人たちがいます。一緒に御飯を食べたり、テレビを見たり、出掛けたりなんてどころか、まともな会話ももうずっとしていません。でも、ボクはその家族の一員です。……ボクもあまり人の事言えませんね。いつか、普通の家族みたいな事ができるようになったらいいなって思うだけ思って、自分ではなにもしていません。夢の世界ですら家の状況が変わってないあたり、実はもう思ってすらいないかもしれませんね」
翠谷が、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「少し、似ていると思ってしまったんです。勝手に。天野先輩も、本当は何か望む事があるのに、一歩進めていないのかなって」
確かに似ているかもしれない。でも、違う所があるとするならば。
「……僕には、その権利が無いんだ」
さっき流れてきた映像を噛みしめるように、言う。
ずっと誰をも、自分さえ誤魔化し続けていた自らを罰するように、今まで頭の中にあった記憶のもやは雲になり、冷たい雨となって僕を濡らす。
「どういうことです?」
「僕には、二年前の夏、絵裡が命の危機に瀕している時に、何もしてあげられなかったことがある。きっと、助けを求められていたのにね」
「……」
「川で溺れている時だったんだ。それをただ、動けないで見てたんだ。実は潜ってるだけとかなんとか自分に言い訳しながらね」
思い出すだけで身体が震える。自分の臆病さを改めてさらけだすと、吐き気がしてくる。
「で、でも、絵裡先輩は元気に過ごしているじゃないですか」
「そう、別に大事には至っていないし、後遺症もないって聞いてる。本当によかった。でも、僕がとっさに動けなかったことに変わりはないんだ」
よかった、なんてすら、思ってはいけない。
その権利もない。
大切な人を、大切に出来なかった人間が。
「それは……」
「だから、これ以上は望んじゃいけないんだ。今だって、十分幸せなんだ」
誰かを大切になんて、できやしない。
「……いえ、それは違うと思います」
翠谷が、はっきりと口にする。
「先輩の言う幸せは、不幸せじゃないってだけのことです。ボクには、先輩はそうやって言い訳をしながら、騙し騙し自分だけを幸せにしている人には見えません」
「手厳しいな。僕にはこれが精一杯なんだ」
これ以上、僕に求めないでくれ。
僕に、抱えさせないでくれ。
「先輩は、人の為を思って行動することができる、人の幸せを願うことができるすごい人なんです」
「……そんな、立派な人間じゃないって」
震える自分を抱きしめているのが精一杯の両腕に、何を求めているんだ。
「あなたに幸せにしてもらった人間が、ここにいるんですよ」
翠谷が、僕に向かって一歩近づく。
「あのボクが雨に濡れてた日、別に何も困っていませんって言いました。でも、ボクに傘をさしてくれた人は、自分には困っているように見えたからって言いました。……あの日、ボクは先輩の世界に入れてもらえた気がしました。暖かくて、優しくて、居心地のいい場所でした。だから好きになってしまったんですよ」
「……別に僕じゃなかったとしても、同じ事をしたんじゃないか」
「かもしれませんね。ボクも、先輩じゃなくても、よかったのかもしれません、でも」
翠谷の腕が、僕を抱きしめる。
「あなただったんですよ、先輩」
……僕だった、か。
僕には、今まで翠谷が何故、自分の事を求めてくれているのか分からなかった。
僕に告白し、その後もいろんな形で接点を持ち、好意を寄せ続けてくれている後輩。
僕には過ぎた事を求めている後輩。
僕に夢を見ている後輩、そう思っていた。
僕の事を見ていたのだ、あの、雨の日の僕のことを。
僕にとってはただの行為だったつもりのあの出来事を、翠谷は大切にしてくれていた。
僕を求めているのだ。その上で。
僕の現実を見て、僕のことを想っている後輩。
僕の事が、好きな後輩。
そのまま、しばらくそのまま動けずにいた。
翠谷の腕の中は、暖かくて、優しかった。
振りほどくことも、抱きしめ返す事もできず、ただなすがままになっていた。
だから、言葉にして返すことにした。
「……ありがとうな、翠谷。少し、元気出た」
「なら、よかったです」
僕にずっと降り注いでいた雨の音が、少し、遠くなった気がした。
「引き続き水鳴祭一日目午後の部となります! 校内だけでなく地域の皆様にも楽しんでいただけるよう様々な出店、イベント等が盛りだくさんです! 楽しんでいってください!」
「もう昼時か、思った以上に時間が経ってたんだな。絵裡のやつはどこ行ったんだ……?」
屋上から降りてきて、さっきより熱気のこもった文化祭の空気へと戻ってきた。
時間を自覚して減っているお腹をさすりながら、さっき自分を置き去りにしてくれた絵裡を探す。何を奢らせようかな。
「せ、先輩、あっちの屋台見て回りましょうよ」
翠谷が、行こうとした方向の真逆を指差す。
その先には学園祭らしく、からあげ、焼きそば、アメリカンドッグ、チョコバナナなど、魅力的な屋台が沢山だ。
さっきみたいに手を掴まれ、引っ張られて歩き出す。
「お、おい、あんまり引っ張るなって。そんなに腹が減ってたのか?」
「ええ、なのではやくいきましょう」
少し早口で早歩きになって翠谷に連れられていく。余程お腹が空いているらしい。
「翠谷ってたまに腹ペコキャラみたいになるよな。普段も我慢しなくていいんだぞ?」
「そんな藍沢先輩みたいな、あ、ボクあれが食べたいです」
言いかけた言葉を切り、急に一つの屋台を指差す。その先は…ポテト。
「……あれでいいのか? ただのポテトだぞ? ワックのよりたぶん美味くはないぞ?」
念のため確認をとる。他にも数ある魅力的な屋台の中でポテト。ポテト…そんなに好きだったのか。
「あ、あれが食べたい気分なんです」
言いながらやはり引っ張られ、屋台の前に行く。余程、食べたいらしい。
エプロンをつけた生徒が冷凍のものをそのまま鍋にいれ、跳ねる油を蓋でガードしながら必死に揚げている。さながら戦っているようだ。
「ふーん……すみませーん、ポテトひとつくださーい」
「あ! ありがとうございまーす!」
「何か、すみません、先輩」
翠谷が少し、申し訳無さそうな表情を浮かべる。
「ん? 別に奢るつもりだったし、気にしなくていいぞ」
「それもそうですけど、そうじゃないんですけど……」
「まあまあ、あっちち、ほら翠谷」
歯切れの悪い返事を続ける翠谷に、揚げたての熱さを我慢しながらひとつつまみ、差し出す。
「あーん」
「あむ」
素直に翠谷がポテトを咥える。
「どうだご注文のポテトは? 美味いか?」
「……」
翠谷が言葉を失っている。お眼鏡にかなわなかったのだろうか。
「やっぱり微妙だったか? だから言ったろ、ワックのが美味いって……翠谷?」
「……すみませんちょっとまってください」
翠谷が言って顔を伏せる。
どうやら違うらしい。何でこんなに固まっているのだろうか。
何かそんなにびっくりすることでもあったのだろうか。
熱さと塩粒の残る、行き場をなくした指をすり合わせる。
伏せた翠谷の耳が、赤くなっている。
……まてよ。
今ここにいるのは、翠谷だ。
直視できなくなって自分まで顔をそらす。
「あっごめん、癖でつい」
気軽にやる事でもないだろう、絵裡みたいなのならまだしも。
あわてて詫びを入れる。
「そう、ですか」
「……で、どうだ? 気に入ったか?」
話題を少しでも逸らそうと、改めて味の感想を聞く。
すると翠谷がやっと顔をあげ、口元を手で隠し、朱いままの顔で答えた。
「……ええ、とっても」
とても、とても幸せそうな顔で。
その顔から僕は、目を離せずにいた。
辺りの喧騒が遠く、ゆっくりに。心臓だけが大きく、早鐘を打つ。
動けない身体とは無関係に、脈拍が早くなっていく。
「ほ……ほかにも何か食べるか? あれとか?」
体温の逃げ場を探して、明後日の方向の屋台を指す。
その先にあったのは、イカ焼きの屋台だった。
「……渋いですね」
「た、たまたまそういう気分なんだよ」
突っ込まれるでもなく、イカ焼きの気分になる日なんて僕には無い。
……さっき翠谷がポテトで微妙な顔をしていたのは、もしかしたら同じこと考えていたのかも知れない。
そう考えるだけで、少し笑ってしまう。
「案外、似た者同士なのかもな」
「ボクには、そんなおっさんじみた趣味はないですよ」
「お兄さんって言え。ほら、イカ焼き食いに行くぞ」
「そんなに食べられませんから。先輩、多めに食べてくださいね」
「あれ、腹ペコキャラじゃなかったのか」
「そんなものになった覚えはありません」
そんな事を言いながら、僕らは時間を忘れて屋台やクラスの展示を一緒にまわった。
きっと、去年の僕の文化祭の記憶から作られたものだったんだろう。
でも、去年とは違って翠谷がいる。それだけで、去年よりもずっと、日が沈むのが早かった。そう、感じた。
*****
「後夜祭実行委員会よりお知らせです。後夜祭のプログラム、舞踏会に参加する生徒は体育館へ集合してください」
文化祭の終了を告げる代わりに、意味不明な放送が校内に響きわたる。後夜祭実行委員会? 舞踏会??
「み、翠谷、ウチはいつからこんな洒落た学校になったんだ?」
「!……やだなぁ先輩、後夜祭の舞踏会といったらウチの学校の名物じゃないですか」
そうだったか? そうだったか。そうだった。
だんだんと、それが当たり前だった気がしてくる。
「……ああ、そうだったなそういえば」
翠谷がにぃっと笑う。
「まあ、ボクが仕組んだんですけどね」
「翠谷ァ!」
翠谷が心底楽しそうに笑う。
また、翠谷が同学年になった時みたいに干渉でもしたのか。
そして夢とはいえ、わざわざ舞踏会なんて催して一体何がしたいのだろうか。
その問いかけより早く、翠谷が口を開く。
「……先輩、ちょっとこっち」
「お、おい」
急に袖を掴まれたかと思えば、そのまま何処かに連れて行かれる。
中学の卒業式の時と同じように顔を伏せ、早足で、少し強引に。
長い距離を移動しているわけでもなく、走っているわけでもないのに鼓動が少し早くなる。
体育館に向かう生徒たちとは反対側に向かい、突き当りの教室のドアをあける。
「ここでいいかな。すみません先輩、引っ張ってしまって」
美郷がこちらを振り返り、ようやく袖を離す。顔は夕日に照らされていてオレンジ色になっている。
「い、いや別に」
少し落ち着かなくなっている自分がいる。もしまたあの時の繰り返しだとすれば、僕は……。
「シャル・ウィ・ダンス?」
「は?」
「言ってる意味はわかりますよね? 一緒に踊りましょうって言ってるんですけど」
「それくらいは聞いたことあるさ」
「キャッスルすらわからなかったじゃないですか……驚きました」
「最初から馬鹿にする気でいたな?」
「ちなみに答え方はアイドラブトゥー、ですよ」
「一択しか教えてくれないんだ。というかそもそもなんで舞踏会なんだ?」
「それはまあ、ボクにとってのガラスの靴を手に入れてから安直にあこがれていただけですよ。ほら、舞踏会のシーン、ありますよね?」
「あるけども……翠谷って案外純粋な所あるよな」
「お褒めいただきありがとうございます。それはともかく。思い出、作りましょうよ。ボクと先輩の」
「いやいや踊れないし」
「ノリが悪いですよー先輩。それに、普段から散々踊ってるじゃないですか。ボクの手のひらの上で」
「身に覚えがないね。そう思っている翠谷こそ僕に踊らされてるんじゃないか?」
「それじゃいよいよ踊らされてる人のセリフですよ……まあ、たぶん先輩も少しくらいは踊れるようになってますよ。きっと楽しいですよ? それとも、手とり足とりエスコートしましょうか?」
「……そこまで言われちゃしょうがない。期待はするなよ?」
「ええ、お手をどうぞ」
差し出された手を見ると、少し震えていた。
「翠谷?」
「緊張してるんですよ。ちょっと落ち着く時間をください」
一度、手を引っ込め、胸に当てながら深呼吸をする翠谷。
「……この日の為に練習してきたんだ。大丈夫」
小さく呟いて続ける。
「ボク、憧れだったんですよ。物語の世界みたいに、王子様と素敵な時間を過ごすことが」
片足を引き、スカートの裾を摘み上げ、お辞儀をする。
「ボクの憧れの時間を、憧れの人と過ごしたかったんです。そうしたら、何か奇跡が起きるんじゃないかって」
夕日のスポットライトに照らされたシンデレラは、そう言って微笑んだ。
「いきますよー、ワン、ツー、スリー、ふぉあだっ」
「ご、ごめん翠谷、足出すのって今だった気がするけど」
「大丈夫です……ちょっとだけ遅いですね、もう少しゆっくりやりましょうか?」
「そうだね、何なら今度は僕がカウントするよ。やり方はなんとなくわかる気がするし」
といっても、本当になんとなくだ。きっと、翠谷のイメージを元に今僕らは踊っているのだろうが、今ひとつイメージがぼやける箇所がいくつもある。
頭ではわかっていても、身体がうまくついていかない、といったところだろうか。
「いくぞー、ワン、ツー、スリー、フォー…」
少しだけゆっくりになったカウントが教室に響く。
「ファイブ、シックス、せぶっ」
「いだっ」
身体がぶつかってしまいカウントが止まる。お互いの場所を入れ替えるステップを翠谷が踏み込めなかったからだ。
何度かそんなやりとりが続き、中々上手くいくことはなかった。
「ご、ごめんなさい、もう一回いきましょう、カウントは今度はボクがとりますから。あっ」
少し焦っているのか、動き出しが早かった翠谷が転んでしまう。
「おっとと、大丈夫か翠谷。どこか捻ったりしてないか?」
手を繋いだまま倒れたから、そんなに派手には転んでいないはず。でも、翠谷はそこから動かなかった。
「あー……あはは、やっぱり上手くいかないか。……ダメだな。喜んでもらうはずだったのに。準備、してたのに……」
転んでしまった翠谷は立ち上がらず、顔を伏せたまま力なく笑う。
翠谷の足元に、ぽつり、ぽつりとしずくが落ちる。
「ボク、人にどうやって好きになってもらえばいいか、やっぱりわからないんですよ。他人の真似事をしてみてるつもりなんですけど、何をやっても嘘っぽくなってしまいますし、作り物っぽくなってしまいます。あの日振られて、でもまだ好きで、きっと好きな気がして、先輩を追いかけてたんですけど、もしかしたらこれも偽物なのかもしれません。そもそも、こんなに悩んでる時点で、不自然ですよ」
涙混じりの声の翠谷が、ため息をつく。
「はあぁ……あーあ、愛情って、何なんでしょうかね。ボクにはわからない、かな」
翠谷は顔を伏せ、そのまま動かない。あの、桜の雨の日のように。
まだ繋いでいた左手から力が消え、するりと離れてしまいそうになる。
翠谷の苦悩は、ずっと、他人事ではなかったんだ。
僕の事が好きな翠谷はずっと悩んでいた。自分のやっている行為が、好意として成立しているのか。僕がそれを、曖昧にしていたから。余計不安にさせてしまっていた。
僕も、責任を果たすべきなんだ。
「それは、そうやって悩む事もそうなんじゃないのか?」
何処か別の所にいってしまいそうな翠谷の手を離さないよう、力を込める。
「え?」
「何が愛情かなんて具体的には分からないけど、分からないままでも、相手の為を想って、話したり、そばにいたり、そういう事を、全部ひっくるめて愛情って言うんじゃないかな」
「そう、ですかね」
「あの時叱ってくれて、僕は嬉しかった。あれは他でもない翠谷の、本物の愛情があったからだと思ってる。そのおかげで、やっと向き合えるようになったんだ」
自分から離れて行ってしまうかも知れない。そんな言葉でも、翠谷は逃げずに、僕にぶつけた。
「元気だって、もらった」
まだ、屋上で翠谷にもらった暖かさが、優しさが残っている。
この暖かさを、優しさを、また翠谷に返したい。
だから僕も、もう逃げない。
「僕と、一緒に居てくれないか、翠谷」
「……こんな偽物のボクじゃ、先輩には釣り合いませんよ」
手は繋いだまま、翠谷が顔を背ける。
「じゃあ、今まで言ってきた思わせぶりな台詞は全部嘘だったのか? 翠谷も罪な女だな」
「そんな事、ないですよ」
「だよな。僕にとっては、全部本物だ。今まで全部の翠谷を見て来て、好きになったんだ」
「……いざそんな急に言われても、ピンとはこないですよ。これだけアピールしてたのに、袖にされ続けてたわけですし」
「耳が痛いな……それもやっと、翠谷のおかげで向き合えるようになったんだよ」
「ボクのおかげ、ですか」
顔を伏せたままの翠谷と視線が合う。目をそらしたい所だが、それでは今までと変わらない。
「待たせて、悪かった」
変わらなければ、いけないんだ。
変わらず、ずっと待ってくれていた彼女のために。
「……謝っても許しませんよ。本当、どれだけ待ったと思ってるんですか」
ふっと、翠谷の表情が緩む。
許さない、という彼女の顔には、笑顔が咲いていた。
「ボクは、ちゃんと先輩に、好きになってもらえたんですね」
腕の中に、翠谷がなだれこんでくる。
「そうだな」
翠谷が、ここに居てくれるように、優しく抱きとめる。
「先輩、先輩」
「ん?」
「これからも、ずっと好きですよ」
翠谷の腕が、僕の背中にまわった。




