桜の雨の日
「……天気予報です。今日は全国的に晴れ、ところにより、雨が降るでしょう。桜も各所で見頃を迎えています。本日、三月一日は最も全国の学校で卒業式が行われる日でもあり……」
誰もいないリビングで、何も塗っていないトーストをかじり、コーヒーをすする。
テレビの画面では、春らしい明るい色のコーデに身を包んだ女性キャスターが、各所の桜の映像と共に今日の天気を伝えている。
今日の天気は、晴れだそうだ。
「……卒業生の皆さん、おめでとうございます!それでは続いて、星座占いのコーナーです!」
テレビの声に、朝食を口に運ぶ手が止まる。
普段は天気を見終わる頃には玄関に向かっているが、今日は特別だ。カップを握る手にも自然と力が入り、トーストも小さくみしりと音を立てる。
キャスターが消え、少しぼやけた桜の映像を背景に、十一位から順に今日の運勢が次々と発表されていく。
さそり座、しし座、みずがめ座……自分はまだ呼ばれない。ひとつ、またひとつと違う星座が呼ばれる度にほっと息をつきながら、長く感じる発表に焦れったさを感じる。
まだか、いや、まだ来ないで欲しい。でも十二位にだけはなりたくないからそろそろ呼んで欲しい。そんな事を考えていると、その時が訪れた。
「四位は、乙女座のあなた! 人から理解され、夢に近づけるかも。相手の気持ちに合わせて声をかけてみて! おまじないは裸足で少し歩く、ラッキーアイテムは傘です!」
……四位。悪くはない順位だが、喜ぶべきなのかは正直分からない。しかし、内容の方は今の自分にとってはとても都合良くとれる啓示だ。早鐘を打っていた心臓を、深呼吸して落ち着かせる。
食べかけだったトーストを口に押し込み、少しぬるくなったコーヒーで流す。
やっと一息ついてから、履いていた靴下を脱ぎ、ぺたぺたとリビングを歩く。
家の中を歩くだけでいいのだろうか。少しってどのくらいだろうか。疑問は尽きないが、それでもとりあえず言う通りにしていると、歩く度に不思議と自分の中の根拠の無い自信が高まっていくのを感じる。
「……よし」
適当に区切りをつけて靴下を履き直し、気合いを入れる。きっとそのチャンスがやってくるのは数時間後の事だが、今のうちに心の準備をしておくのは悪いことではない。
テレビを消して食器を片付ける。玄関へ向かい、靴を履きながら傘立てにささっている傘を見やる。
今日は晴れらしいし、折り畳み傘をバッグに忍ばせるくらいがちょうどいいのかもしれない。そんな事を考えていると、あの日、一人分の折りたたみ傘に肩を濡らしながら入れてくれた先輩の事を思い出した。すると、自然と候補は絞られた。
普段は使わない、二人位なら入れる黒の大きい傘を手に取る。これならきっと。
事前に選んでおいた造花の赤いスイートピーを、潰れないように気をつけてバッグに差す。
少しばかり浮かれていたのだろう。普段は言わない言葉を、誰もいない家に向かって置いていく。
「いってきます!」
今日、ボクは天野先輩に告白する。
*****
卒業式は、まあ、暇だった。
しんと静かな体育館に、よく通る進行の先生の声と、はきはきとした生徒の返事が定期的に響きわたる。練習やリハーサルで何度かやった通り、全体と在校生に起立の合図があれば立ち、また座る。本番で違うことがあるとすれば、もともと空白だった時間に鼻をすする音、嗚咽の音が混じるくらい。卒業生だけでなく、保護者からも、果ては在校生の側からも、その音は聞こえてきた。
一年後、ボクは泣けるだろうか。
こういう時はきっと、泣いたほうがいいのだろう。でも何を思って泣けばいいのか、今のボクにはピンとこない。
先輩は今、どんな顔をして席に座っているのだろうか。
「続いて三年二組。藍沢、絵裡!」
「はい!」
「天野、志郎!」
「はい!」
聞き覚えのある名前の後に続いて、天野先輩の名前が呼ばれる。先輩が二組だった事を初めて知った。
席に座ったまま首を少し伸ばして前の方を見てみると、生徒が一人立ち上がっている所だった。
壇上に向かう先輩の横顔は、普段図書室で見ていたのとはまるで別人のように凛々しかった。そのせいなのか、きっと先輩が卒業してしまうのは寂しくて悲しいはずなのに、その姿を見てもあまり実感は湧かない。こみ上げるものも、何もなかった。
証書を受け取り、壇上を降りて椅子へと戻ってくる。他の生徒達と同じ、きびきびとした動作で自分の座席まで歩いてくる。ただそれを、ボクはぼうっと眺めていた。
席に座る直前のことだった。先輩は一瞬、先に座った隣の席の生徒と目を合わせた。そしてあの雨の日にボクに向けたような、笑顔を浮かべた。ほんの一瞬の出来事だった。
涙が、どっと溢れた。
「……!」
とっさに眼鏡を外して、両手で顔を覆い、下を向く。
なぜ、なんで、どうして、と疑問ばかりが先行し、頭を染め上げていく。この身体に今起きている現象の理由が、ボクには分からなかった。
止めようにも勝手に溢れていく涙を流しながら、不意にしゃくりあげそうになる嗚咽を必死に噛み殺しながら、ただ耐える。
「大丈夫?」
隣の女子生徒が、心配そうに背中をさすってくれる。まさか自分がこうなるとは、つゆほども思わなかった。震える手でなんとかポケットからハンカチを取り出し、顔を拭う。
「寂しいよね。辛いよね。大丈夫、大丈夫だから」
背中をさすりながら、彼女は声を掛けてくる。
ボクですら分かっていないこの状況を、彼女が分かっているとは思えない。ありきたりな、薄っぺらい慰めの言葉を掛けられても、反応に困る。
「……う、ん」
でも今はなんとなく、そういう事にしておこうと思った。
結局最後まで、ハンカチを手放す事は出来なかった。
*****
式が終わるまでずっと背中をさすってくれていた彼女に礼を言って、その場を後にする。
体育館を出ると、外はお祭りのように人でごった返していた。
あちこちで何人かで固まりながら、スマホで写真を撮っている生徒、卒業生に花束を渡す生徒、校門の前で親と写真を撮る生徒と、学校生活最後の時間を思い思いに過ごしていた。
友人や知人を数人やりすごしながら、目当てである先輩の姿を探す。先輩は、部活の集まりとかあるのだろうか。今更ながら、部活に所属しているのかすらも知らなかった。
どこを見ても人、人、人。生徒だけでも凄い人数なのに、父兄も合わせて凄い人だかりになっている。まっすぐ歩くこともままならないこの中で、先輩一人を探し出す事が今更ながら不可能な気がしてくる。
何も手がかりがない。知っているのは名前と委員会、あとさっきわかったばっかりのクラスだけ。こんなんじゃ、人に聞こうにも分が悪い。ボクは先輩の事を何も知らない。こんな少ない手がかりで、この人数から見つけ出せるのか。焦りが呼ぶ後ろ向きな思考を、首を振って必死に追い払う。
こうしている間も、時間は刻一刻と経過していく。この後に予定を組んでいる生徒も多いのだろう、ぽつり、ぽつりと校門から出ていく生徒もあらわれはじめた。
……正直、なかなか視界に映らない先輩に、どこかほっとしている自分もいる。見つかってほしいけど、見つかってほしくないような。見つからないのは、そんな事を考えているからなのかもしれない。見つからなければ、それを言い訳に諦めることができる。たまたま運が悪かったのだと、自分を慰めることができる。
ぽつり、と雨粒が頬を叩く。空を見上げると、さっきまで広がっていた青空は見る影もない。先輩探しに夢中になっている間に、頭上は曇り空へと変わっていた。早めに退散していた生徒は、この空模様を見ていたのだろう。予報外れの天気に、辺りにはさっきまでと違う賑わいが混ざる。
「ほっ」
人の波から少し外れ、広い所で傘を広げる。やはり一人で使うにはやや大きい、立派な傘だ。
先輩は傘を持ってきているだろうか。それとも、この天気を見て先に帰ってしまっているのだろうか。もう帰っているかもしれない。できる限りちゃんと探した。ベストは尽くした。しょうがない。これ以上探しても見つかりはしない。そう自分を納得させようと言い訳を始めている時だった。
ちらり、と視界の端に、青空が映った。
どくん、と胸の鼓動が、耳まで届いた。
あの日の傘だ。天野先輩だ。
先輩は、隣の女子生徒と会話している。
まるで雨を気にも留めず、時折笑いながら楽しそうに歩いている。
見つけた、見つけてしまった。
緊張と少しだけ後悔が入り混じった息を吐く。見つけたからには行かなければならない。今日を逃せば、きっともうチャンスは来ない。
先輩のこの後の予定も分からない以上、あまり時間的猶予もない。朝には出来ていたはずの心の準備を、急いでもう一度始める。
今日まで頭の中で想像していたやりとりを思い出す。卒業おめでとうございます、と花を渡し、あの雨の日の感謝をもう一度伝える。そして、告白する。何度も、何度も頭の中でシミュレーションしながら深呼吸する。
「……大丈夫、大丈夫」
何もおかしな所はないはずだ。自分を勇気づけるよう、口の中で繰り返す。そして先輩への一歩を踏み出す。シミュレーション通りやれば、問題ないはずだ。
しかし、二歩目を踏み出そうとした足が、あることに気づいて止まる。
「……あ」
先輩と、どうやったら二人きりになれるんだろう?
シミュレーションの中では、一秒目から先輩と二人きりだったから、考えていなかった。
さっきまでとは違う焦りが全身を襲う。何もかも考えが足りていない現状に、顔を覆いたくなる。一体これのどこが大丈夫なんだ。
先輩の周りにも傘を差す人が増えてくる。その傘の群れが、先輩とボクを隔てていく。
完全に見失ってしまえば、もう二度と会えなくなる。そんな確信が、ボクにはあった。
その焦りに、不安に、寂しさに耐えられなくなった時、ボクは傘をとじた。
「おっとと……あれ、翠谷?」
「せ、先輩、ちょっとこっち」
その群れをかき分けて先輩の制服の袖を掴み、その場から引っ張っていく。
先輩の驚いた声が聞こえたが、一番驚いているのは間違いなくボクのほうだ。
緊張しすぎて体中震えているし、心臓の音で周囲の音は何も聞こえない。立っているのがやっとだ。一歩歩く度に座り込みたくなる。
それでも右手はしっかりと先輩の袖を掴み、確かな足取りで人気の少ない体育館の裏手のほうへと進んでいく。後ろは振り返れないが、たぶんついてきてくれている。
たまに周囲から好奇の目を向けられながら、徐々に人の影はなくなっていく。アスファルトの道が、次第に敷き詰められた小石を踏みしめる音に変わっていく。そして先輩と完全に二人きりになったあたりで、やっと足が止まる。
やってしまったんだ。言うしかない。
袖を掴んでいた手を離して先輩のほうを振り返り、息を吸う。
まずは、卒業おめでとうございますと言って、花を渡して、あの日の事を話して、告白するんだ。
「先輩、好きです!」
次の瞬間、ボクは足元の砂利道に向かって告白していた。
「……」
まるで予報外れの夕立のように、何もかもがプランと違う告白は、たったその一言で終わってしまった。でも、今更やり直す事なんて出来るわけがない。
何をやってるんだろう、ボクは。
ぱらぱらと降っている雨が、ボクの頭を冷やしていく。鼓膜を支配していた心臓の音は徐々に小さく、ゆっくりになっていく。
先輩は、何も答えない。
体育館のほうからは、時折パイプ椅子を重ねる音や、シューズが床を踏む音が響いてくる。
その音だけが、この世界の時間が止まっているわけではないことを証明していた。
どれくらい経っただろう。先輩はまだ何も言わない。
もしかしたら、ボクがなんて言ったのか聞こえていなかったのかもしれない。そんな気すらしてくる。
ゆっくり、少しだけ顔を上げ、先輩の顔を盗み見る。
先輩は、少し困っているような、でも少なくとも、嫌がってはいない、そんな表情を浮かべているように見えた。
もう少し何か気の利いた事を言えば、オッケーしてくれるかもしれない。必死に考え、口を開こうとした時、先輩が先に言葉を発した。
「ごめん翠谷。僕は、君とは付き合えない」
「あ……」
他人事のように、聞こえた。一瞬、周りの音が遠くなる。
先輩は返事をくれた。先輩はボクとは付き合えない。そうか。そうなんだ。
やっぱり、という感情がボクを覆い、この痛みを鈍くする。
上げようとした顔を再び伏せ、考える。何か、言わなきゃ。
頭が空回りを続けるボクに、先輩が続ける。
「翠谷の事は委員会でたまに喋るくらいしか知らないし、好きになれるかも分からない。そんな気持ちで向き合うのはお互いにとってよくないと思うし……ごめん、上手く言えないや」
「いえ……」
「翠谷も、僕の事そんなに知らないだろ? 僕達、学年だって違うし」
知らない。
先輩がどんな学校生活を送っていたのか何も知らなかったのは、今日嫌というほど思い知らされた。先輩の言う通り、学年も違うのだ。
好きになったあの日から、物語の主人公のように自然と距離が縮まっていく事もなかった。たまに委員会の担当が被って、少し話すだけ。
人を好きになったのも初めてで、人に好きになってもらう方法も分からないボクは、毎日、ただ待っていた。
何も出来ず、ただ今日の卒業式というタイムリミットを迎えてしまっただけだった。
何も言えず、唇を噛み締める。
「……僕はね、誰かの居場所になれるような、立派な人間じゃないんだ」
黙って聞いていると、ふと、先輩の声が小さくなり、こちらに向けていた視線を外す気配がした。
顔をあげて見ると、先輩が今度は俯いていた。傘を差して青空の下に立っているはずの先輩は、何かに耐えるように、空いている左腕で自分の身体をぎゅっと抱いていた。
微かに、でも確かに、先輩は震えていた。
その一言に込められた意味も、先輩が今考えている事も、ボクは何も知らない。それでも、これだけは言える。今の一言は、あの雨の日、ボクに傘を差してくれた人が口にするべき言葉じゃない。
声を振り絞り、それだけは否定する。
「……それは、違うと思います」
「ありがとう。翠谷には、きっと僕以外にふさわしい人が見つかると思うよ。ごめん」
でも、先輩の事を何も知らないボクの言葉は、先輩の心までは届かない。
顔を上げて微笑む先輩に、ボクにはこれ以上何も言う事は出来なかった。
「あーいたいたいた、志郎ー傘入れてー!急に降ってきてびっくりだよまったく」
「うわっ、なんだ絵裡か」
「うわって何さー。わざわざ探しに来てあげた幼馴染に対して、随分ご挨拶じゃない?」
先輩が言い終わるや否や、どこからともなくやってきた女子生徒が、先輩の傘にすっと入る。先輩は驚きながらもその女子に傘を差す。
藍沢先輩。彼女はこちらも見ず、そのまま天野先輩を何処かに連れて行く。
「ほらほら、雨が酷くなる前に校門の写真撮っちゃおうってママが言ってたよ。いこいこ」
「押すなって。翠谷、ごめんな。風邪引くなよ」
しばらく、小さくなっていく二人の背中を目で追っていた。
天野先輩は、やはり藍沢先輩が濡れないように肩を濡らしながら去っていった。
噂になっていた二人は幼馴染だったのか。それも、今知った。
同い年で幼馴染で、噂されるほど仲が良い。たまたま、そういう間柄だから、今、藍沢先輩は天野先輩の隣を歩いている。……もしも、ボクが天野先輩の幼馴染だったら、今頃先輩の隣を歩いていたのはボクだったのかな。意味のない思考が、頭の中をぐるぐる回る。
消えてしまいたい。人を好きになるって、こんなに苦しいのか。
「……渡しそこねちゃったな」
手元に握り込んでいたスイートピーを見る。造花のそれは水を弾き、点々と水滴をあちこちにつけている。
行き場の無くなったそれは、それでも綺麗に咲いていた。
「……先輩、あんな顔もするんだな」
俯き、何かに耐えるようにしながら言っていた言葉を思い出す。
僕は、誰かの居場所になれるような立派な人間じゃない。
あんな表情をさせていい人じゃない。それは絶対違うって、先輩にもう一度伝えなきゃならない。誰かが、先輩に言って聞かせなきゃならない。
それは多分、あの藍沢先輩が言えば聞いてくれるのかもしれない。
「いや、ないな」
それじゃあ、ボクが面白くない。
だから、これで終わりだなんて言わせない。
だってこの恋は、まだ始まってすらいなかったのだから。




