同級生の後輩
結局、昨日はあれから驚く程何も変わった様子はなかった。
普段通りに夕飯を食べて、宿題して、テレビを見て、風呂に入り、ベッドで寝る。
特に夢の世界で寝るだなんて何か起きるかもしれないと思い、目を瞑って緊張していたら、そのまま夢も見ず熟睡といった有様だ。
今日も今のところ特別な事は無い。
普段通りに起きて、歯を磨いて、朝ごはんを食べて、学校の準備をして、家を出る。
するとそこにはいつも通り幼馴染がいて、学校にそのまま何事もなく着く。平和そのものだ。現実世界の一日となんら変わりはない。
「あ、きたきた。おはようございます!……ふたりとも」
この、翠谷美郷を除いては、だが。
「おはよう翠谷」
「翠谷ちゃんおはよーう!」
いつも通りの時間にいつも通り絵裡と教室に入ると、いつもは聞こえない翠谷の元気な声に迎えられる。絵裡は翠谷に挨拶を返すと、他のクラスメイトの輪に入っていった。
それを見計らってか、ジト目の後輩がぺたぺたと近づいてくる。
「いつも通りですか。朝っぱらから公然でベタベタと。羨ましい限りですねぇ。先輩、毎朝藍沢先輩に起こしてもらってるんですか?」
「そんな訳ないだろ……毎朝家を出るタイミングが一緒だからそのまま合流して来てるだけだっての」
「妙に言い訳がましい言い方をしますね。罪悪感があるなら、これからはこの後輩と一緒に登校することにしたらどうです?」
「どうです? じゃねぇよ。お前の家、僕の通学路からは結構外れてるし。そもそも別に悪い事もしてねぇよ」
「いやぁ、この年になって、付き合ってもいない女の子と毎日登校してるだなんて、いいご身分だと思いますけどね。先輩、男女の友情が成立すると思ってそうですね」
「ん? するだろ」
「……はぁ、やめやめ。なーんで朝からこんな憂鬱な気分にならなきゃいけないんでしょう」
「もとはと言えばお前が言い出したんだろ……」
やれやれとわざとらしくため息をつく翠谷にげんなりしていると、あまり嗅ぎなれない、優しくて甘いバラのような香りがふわっと鼻をくすぐる。
少し周りを見ても、ここにいるのは翠谷だけだ。
「お前、シャンプー変えたか?」
「……先輩、そういうの気づくタイプだったんですね。前までの香りには無反応だったのに」
「前まで……お前は確か、石鹸っぽい匂いだったよな。あれも好きなんだけど、なんかああいうのは絵裡ので嗅ぎなれてるから慣れちゃったっていうか」
「気づいてはいたんですね……色々試しても何も言ってこないから、気にしてないのかと……あと、その言い方はちょっと変態っぽいですよ」
心なし翠谷が遠ざかった気がする。たぶん心の距離も。
「ま、まあいいんじゃないか? 今のバラの香りなんて、女の子っぽい香りでいいと思うし」
「そ、そうですか」
翠谷は帰ってこない。何か他に話題は。
やや早口になりながら、関連する話題を振ってみる。
「そうだ。ということは、翠谷は家で何か変化があったのか? 僕のほうは特になかったんだけどさ」
初日から学年が一つ変わるほどの変化があった翠谷だ。僕とは違って、何かしら変化があってもおかしくはない。
「え? ええ、そうですね確かにシャンプーは変わりましたけど……」
やや俯いて、指先で髪をつまみ、いじりながら翠谷が答える。
「まぁ、いつも通りでしたよ……ちょっとくらい、何か変わっててくれてもいいのに……」
ぼそぼそと、やけに小さい声で喋る。
まあ確かに、夢の世界にまで来て現実と何も変わらなかったら、普通は落胆するだろう。
「何か家でやりたいことでもあったのか?」
「……いえ、別に。急に家がお城みたいになって、メイドさんや執事に囲まれる生活でも始まりはしないかって思っただけですよ。ガラスの靴も手に入ったわけですし」
「ガラスの靴? 随分なもの拾ったな」
「この上履きですよ」
言って、片足立ちになって上履きを見せてくる。
本来の翠谷の学年色である緑より一学年上、僕らの学年色の、青い上履き。
「……夢の影響が出てるみたいだな。おのれルサルカ、よくもうちの後輩の頭を」
「だー比喩ですよ比喩。そんな事もわからないんですかこのポンコツ先輩は」
「だってどう見たって布の靴じゃん。RPGゲームの初期装備じゃん」
「それだったらはした金にしかならないでしょうけど、ボクにとっては値千金の靴なんですよ!」
その値千金の靴で地団駄を踏みながら、翠谷は続ける。
「この靴は、先輩と同級生であるっていう証なんです。ボクがずっと、喉から手が出るほど欲しかった物なんです。これさえあれば、先輩との距離が縮まって、ボクの事を沢山知ってもらえて、ハッピーエンドになるって寸法ですからね!ラストを華々しく飾るには……ここはやっぱり、舞踏会なんてどうでしょう?」
「どうもこうもあるか。それこそ家が城にでもなってないと無理だろそんな事」
「家が無理なら学校をお城に変えちゃいましょう!」
「そうはならんだろ」
ヒートアップする後輩に、冷静にツッコミを入れる。
夢の世界に来たことで、妄想のタガが外れているのかもしれない。
「靴一つで大げさだな。そんなに嬉しいものなのか?」
「どうせ先輩にはわからないですよ……自分でも言ってた癖に」
翠谷がそこまで言ったタイミングで、授業の予鈴が鳴る。
朝の喧騒が少しずつ大人しくなり、各々席について授業の準備を始める。
「ほらほら、授業が始まりますよ。席に座ってください。ボクの一つ前の席に。さあさあ」
嬉しそうな顔の同級生の後輩に席を進められ、座って教師の到着を待った。
「……で、あるからして……」
いつも通りの授業風景。欠伸が勝手に出てくるほど、何も変わらない。
「ねぇ、先輩」
授業中に、翠谷の声が後ろから聞こえる事以外は。
「……」
「ねぇ先輩、ねぇってば」
「……授業中だぞ、翠谷」
身体を少し後ろに捻りながら小声で返事すると、翠谷は少し困ったような表情を浮かべていた。
「あの、さっきから先生が何言ってるかさっぱりなんですけど」
「あー……」
本来、翠谷は学年が一つ下だ。そして今、僕のクラスで行われている授業は二年生の進行度にあったものになっている。わからなくて当然だ。
そんな難しいものを聞かされて、眠っていないだけマシなほうだ。
「国語系や英語ならまだなんとかなるんですけどね。今の数学とかもう眠くて眠くて」
「そう言う割にはちゃんと起きてるじゃんか。お前、案外真面目だったんだな」
「ふふん、もっと褒めてくれてもいいんですよ」
翠谷が誇らしげに胸を張る。すると、足元に本が落ちる音がした。
「おっと、教科書落ちたぞ」
手にとって拾い上げる。
ハードカバーのそれは、ずしりと重みを手に伝える。
表紙のタイトルは見覚えがある。翠谷からたまに借りている、吸血鬼の少年の成長を描いた物語だ。
「お前の教科書、随分と分厚くないか?」
「痴漢対策です。いざという時には鈍器になります。先輩みたいな変態から身を守る為の、女の子の常識です」
「せんせー」
「わわっすみません! 何でも無いです何でも無いです」
慌てて顔を真っ赤にしながら、手を顔の前でぶんぶん振る翠谷。
ひとしきり見て満足してから、本を持ち主に返す。
「ほら落としたぞ、優等生」
「……覚えてて下さいね」
「悪いな、僕の記憶力はそんなに良くないぞ」
「胸張って言う事ですかね……」
こういうやりとりをしていると、懐かしくなる。
中学校の頃、翠谷とは図書委員会で当番が同じだった事が何度かある。
カウンター席で一心不乱に読書をする翠谷の姿は、一種の美しさがあった。自分の世界を超えて、どこか遠い物語の世界を自由に渡り歩いているような。
その状態の翠谷は声を掛けづらく、また本人も帰ってくる事があまり無い為、業務に差し支えそうな時はたまにフォローしたり、からかったりしていた。その度に、さっきみたいに翠谷は顔を真っ赤にしていたものだった。
もっとも、ある夏の雨の日に翠谷に声を掛けてからは、からかわれるだけでなく、やり返してくるようにもなった。時にはそのやりとりに興じていると、図書室を利用している他の生徒から注意されてしまうこともあった。
もとの顔色に戻った翠谷が、まだ少しうらめしそうにしながら言う。
「まあ、授業が分からない事だらけなので、また後で教えてくださいよ」
「僕じゃなくて絵裡のほうが適任だと思うけどな。教えるの上手いし」
「先輩がいいんですよ。先輩、なんかたまに先生っぽいし」
「ええ……面倒くさい」
「後輩の頼みを無下にするもんじゃないですよ」
「今は同級生だろうが。それに、僕が教師になってもせいぜい反面教師でしたってオチにしかならないだろ」
「……アリですね」
「なにがだよ……ほら、プリント来たぞ、後ろにまわしてくれ」
いつの間にか授業は進んでおり、さっきまで黒板に書いてあった公式の例題が書かれたプリントが回ってくる。
それを僕から受け取った翠谷は、しばらく固まっていた。
「ほら、後ろに回せって」
「あ、ああ、はい、すみません、どうぞ」
後ろに回してこちらに向き直った翠谷は、口元を抑え、ふるふると震えていた。
「これが今のボクの特権……好きな人の後ろにいると、プリントが回ってくるだけでドキドキしますね」
「……そりゃ、よかったな」
聞いててこっちまで恥ずかしくなる事を言いながら、隠しきれていない笑みが溢れる。
少し落ち着かなくなって、ぶっきらぼうに返事をしてしまう。
「あ、そうだ。今更ですけど教科書忘れた気がするので見せてもらっていいですか?」
「それは隣の人に見せてもらえ」
「やっぱり気の所為でした……せんぱい、せんぱい」
「うん?」
「いや、もう用は無いんですけど……こうやって気軽に返事してもらえる距離感。いいですねぇ……」
机に突っ伏してふにゃふにゃに口元を綻ばせながら、翠谷がそんな事を言う。
「探検部の部室にいるのと、大して変わらないだろ」
「あれは放課後限定で、しかも先輩毎日は来ないじゃないですか。こう、日常的にこの距離感にいることが幸せなんですよ。隣の席だったら爆発してたかもしれません」
「せめて僕を巻き込まない所で爆ぜてくれ」
「先輩がそばにいないとそもそも爆ぜないんですよ。諦めてください」
「なんで僕が諦めなきゃいけないんだよ。迷惑すぎるだろ」
「志郎、志郎、当てられてるよ」
「へ?」
絵裡の声で授業にやっと意識が戻ってくる。
壇上に立つ数学の教師と、目が合う。
「えーっと、分かりません、すみません……」
「後で職員室な。女の子とのお喋りはいいが、授業中は大概にな」
「はい……」
「翠谷もだ。後で職員室な」
「はい!」
職員室へのご指名だというのに、翠谷は思い切り気持ちの良い返事をする。
「先輩、ご一緒しますからね!職員室デートですよこれは」
「嬉しそうに言うな。お前は僕の二倍怒られてくれ」
結局その後、振り返って話をしていたということで、僕が翠谷の二倍怒られることになった。
*****
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、国語で遠のきかけていた意識が帰ってくる。
今ので四限、ということはもう昼か。
何事も無く過ぎていく時間ほど尊くて、早く流れていくのを、窓の外から穏やかに差し込む陽の光を浴びながら実感する。
「うげ、お昼忘れた!?」
何事かが起きたらしい。
「珍しいな。午後の天気は雪か?」
「あめゆじゅ〜とてちて〜志郎や〜」
さっきの先生が音読していたのを真似た口調で、へなへなと力なく机に突っ伏した絵裡が呻く。
ちなみに、あめゆじゅとは雪の事らしい。
「食ったら腹壊すからやめときな」
「シロップもとてちて〜」
「味はマシになるだろうけどな。ほら、早く行かないとお前の大好きな大倉あんぱん売り切れちゃうんじゃないのか?」
「おおっとぉ! じゃ、そういうことでー!」
一瞬で絵裡の背中が小さくなる。と、すぐに別の人影が視界を埋める。
「せーんぱーい。お昼ですよお昼、一緒にたべましょーよー」
「そんなにお腹が空いてたのか?」
「もうそれでもなんでもいいですから。ほらほら」
嬉しそうに言って、小走りで後ろの席から自分の椅子を持ってきて僕の隣に座る。
「はいはい。翠谷はそのサンドイッチだけか? そういう食生活だから腹持ちが悪いんじゃないか? 家ではちゃんと食べてるのか?」
育ち盛りというにはあまりに手軽すぎる昼食に、ツッコミと心配が止まらない。
いくら男と女で違うとはいえ、流石にサンドイッチだけで人間一人は動かないだろう。
まあ、本好きの翠谷らしいといえばらしいのだが。
「ええ、まあいつもこんな感じですね。ぱぱっと食べられますし。手も汚れませんし。先輩はお弁当ですか?」
「うん。いつも母親に作ってもらってるからな」
「へぇーいいなぁ……」
翠谷の目が少し細くなる。ただの相槌、というふうにも見えない。そんなに羨ましいのだろうか。
言いながら広げている自分の弁当箱には卵焼き、ウインナー、唐揚げ、アスパラのベーコン巻き、ブロッコリーの塩ゆでにマヨネーズ、ミニトマトと、僕の好物も含め、色鮮やかなおかず達が所狭しと詰め込まれている。何かこの中に翠谷の好物でもあるのだろうか。
「なんなら、なにか食べるか? 卵焼きなんかは絵裡のお墨付きだぞ」
「あ、そういう意味じゃなかったんですけど……じゃあ、せっかくですしいただきましょうか。あーん」
このメンバーの中で一番のお気に入りを勧めると少し遠慮がちに、しかし図太くあーんを要求してくる。
「するか。自分で食べなって」
「ちっ……たしかに美味しいですね。このあまじょっぱい感じがたまりません。こっちのサンドイッチ食べますか?」
「いや、いいよ別に」
「ほらほら遠慮せずに、あーん」
「いいって、食べたくなったら自分で買ってくるし」
ただでさえ少ない後輩の昼食を奪うわけにもいかず、ぐいぐいおしつけてくるサンドイッチをかわす。と、背後から急にせまってくる足音があった。
「ただいまあーむ。んー美味しいねぇこれは……デイリー木下のハムサラダサンドイッチ!」
僕の目の前にあったサンドイッチは、野生の鳥に掻っ攫われるように絵裡の口へと収まっていた。
その絵裡の方も見ず、なんとも言えない顔の翠谷が言う。
「……早かったですねぇ、そしてよくわかりましたね」
「えへへー、淑女の嗜みですから。あ!! 志郎今日卵焼きの日じゃん!」
固まっている翠谷とは対照的に、絵裡の関心は既に僕の弁当箱へと移っていた。
「今日はあげらんないぞ。もうあと一個しかないからな」
「えー、一個食べたならもう一個はくれてもいいじゃん!」
「だめだ、今日は翠谷にあげたからな。あと一個は僕が食べる」
「ごちそうさまでした。ふふっ」
「ぬあああああ」
卵焼き一つで勝ち誇ったような表情を浮かべる翠谷と、この世の終わりのようなリアクションをする絵裡。
「小学生かって。で、あんぱんは買えたのか?」
「そりゃもうばっちり!おばちゃんと仲良しだからね私は」
「あのカロリー爆弾を隙あらば買っていく女子高生なんてそうそういないだろうからな。そりゃ覚えられもするさ」
「お、もしかして褒められてる?」
「……受け取る人次第ですかね」
ちなみに大倉あんぱんは顔の大きさ程もあるパンで、かじると中にたっぷり詰め込まれているあんことバターの風味が文字通り口いっぱいに溢れ出す代物だ。少食な人なら一口で満腹感を覚えるかも知れない。
「っていうか翠谷ちゃんお昼それだけ? だめだよーそんなんじゃ。ちょっとこれ食べる?」
絵裡が、大事そうにかかえている爆弾を翠谷に差し出す。
「結構です。一食で二日分のカロリーくらいになりそうですし。じゃ、ボクは少しやることあるので失礼しますね。先輩、ごちそうさまでした」
「おう、また食べたくなったら言えよ」
さっきとはうってかわってきっぱり断った後、どこかへと翠谷が姿を消す。
「ねえ志郎、今度卵焼きの時はもっといっぱい詰めてもらうようにママに頼んでもらえない?」
「……それオッケーだすと、しまいには僕の弁当箱が黄色一色にされそうだから流石に嫌」
箸を握り直しながら絵裡の要求に首を振っていると、出ていった翠谷が教室のドアから顔だけ出して言う。
「あ、そうだ。言い忘れてましたけど。今日の放課後は先輩の家に行きますからね」
「決定事項なんだ。ちゃんと天野先輩に行っていいか聞いた?」
少なくとも、僕は初耳だ。
「情報収集のためです。ほら、一人じゃ気づけないこともきっとありますし」
「じゃあ私も! 最近あまり行ってなかったし!」
何も言わないでいると招かれざる客が増えていく。
だれかこのあたりで僕の自由意思を見かけなかっただろうか。
「……まあいいでしょう」
「僕の家に行くんだよね?」
「わぁい! お構いなく!」
「僕の家に行くんだよね? ね?」
「じゃあ放課後、よろしくおねがいしますねー」
言うだけ言った翠谷が今度こそ出ていく。まあ、今日は特に予定もなかったし、良しとしよう。
やることがある、か。今の時期に、となると文化祭関連だろうか。まあ僕はクラスの展示でも大した準備も任されていない上、探検部の発表も結局無いので暇を持て余している訳だが。
忙しそうな翠谷の背中を他人事のように見送り、平和になってやっと弁当をつつきはじめる。
今日も今日とて、卵焼きは美味しかった。




