招待状
微睡から覚めた時、僕は机に映ったオレンジ色の光を眺めていた。
「綺麗な色だなぁ……」
十月に入ってから、じめじめとした暑さもやわらいで、日が落ちるのも早くなってきた。
おかげでこうやって、少し早めに朝と夜の間の空を見ることができるから、僕はこの季節が嫌いじゃない。
この前の席替えで窓際の席になったのも運が良い。ちょっと視線を逸らせばすぐに景色を見ることができる。
うーん、平和だ。
「よっ、黄昏てるねぇ相棒!」
平穏な時間は何の前触れもなく崩れるものだ。
沈みかけた太陽が顔を出すんじゃないかと思うくらいの陽気な声。
顔を上げると、そこには翔が立っていた。
「この後の文化祭の準備、志郎は行くか?」
「えーと、何やるんだっけ?」
「おいおい朝話しただろ。忘れんなよ~、第二自習室のレイアウト決めをみんなで話し合うんだろ?」
数少ない友人のニヤけ顔を見て、僕は思い出した。
今年の文化祭は第二自習室を貸し切ってタコ焼き作りをするんだっけ。
部屋をどんな飾りつけにするだとか、そんなことを話し合うのだったか。
朝に翔とそんな話をしたようなしなかったような、記憶が曖昧だけれど、そういうことらしい。
文化祭。気付けば来週の土曜日まで迫ってきていた。
——美味しくできるかなぁ。
——おい、青のり買い忘れてないよな?
——B組はお化け屋敷やるんだって、いいなー。
意識し始めると、確かにそんな声が教室中からちらほらと聴こえてくる。
一週間前だけど、すっかりお祭りムードだった。
「そうだなぁ、どうせみんな参加するんでしょ? だったら僕も行かないとね」
「ずいぶんと人ごとじゃねーか志郎くんよ……俺たちには他にもやらなきゃならないことはあるだろうよ?」
やらなきゃいけないこと。
翔の真剣な、でもそんなに深刻に考えていなそうに上がっている口元を見て、僕はここにはいないもう一人——絵裡の顔を思い浮かべる。
僕と翔、それに絵裡という女の子は同じ「探検部」に入っている。
去年の今頃に翔が設立した同好会で、メンバーは三人と、後輩が一人だけ。
活動内容は、ここ「水鳴町」で噂になっている場所——特にホラースポットなんかが多い——に行き、調査すること。怪奇現象の正体や、噂の元になったエピソードなんかが聞けたら、それをまとめて文化祭で発表や展示をするというのが大まかな流れだ。
マジメな活動っぽく書いてはみたけど、実際には僕ら三人が学校から羽を伸ばすために作った集まりと言っても過言ではない。
身内だけの部活だから活動日も自由だし、文化祭で何か出し物をしなければならないという決まりも特に無いけれど、今年は何か発表してみようと前から話していたのだ。
ただ、今の今まで準備は何も進められていない。
探検する場所すら決まっていないのは、けっこうまずい。
「絵裡も含めて話し合わないとね……そっか、あと一週間か」
「そゆこと」
「じゃあ、うん。行先の候補だけでも調べておくようにするよ」
「さっすが。俺も面白そうな噂をかき集めるからよ」
「私を! 呼ぶ声が聞こえて! 参上しました絵裡ちゃんです!!」
会話を終えて席を立とうしたところで、誰かが鳥のように両手を羽ばたかせながら、ほぼ突進に近い形で僕の机に近づいてきた。
同時に追いついてきたのは、ふわっとしたいつもの石鹸の香り。
噂をすればなんとやら。
誰か、というか名乗った通り近づいてきたのは絵裡だった。
「……」
「……」
「ん? 今呼んだよね? あれ?」
「……はっ、すまねぇ絵裡。お前の奇天烈な行動にはこの一年で慣れた気でいたんだが、今回のは意識が飛んじまってたぜ」
「僕は気付いてたけど精神衛生保護のために無視してた」
「なんでさ!」
同じ同好会仲間で、クラスメイトで、幼稚園くらいからの幼馴染。
僕と絵裡の関係性を挙げるとかなり量があるけれど。
なんにせよこのハイテンションで愉快な表情や言動は昔から変わらない。
長い付き合いの僕は元より、高校から知り合った翔も、今では軽くあしらう形になっている。
「まぁまぁ。私の地獄耳をもってすれば二人の会話は聞こえていましたとも。探検のネタ探しでしょ? 確か先月は’迷いの森’に行ったんだよね」
「そうだな。結局、あの森は人が歩けるように道が整備されてたし、真っ直ぐ進んだら綺麗な湖があったくらいで、発表するにもなーんかインパクトが足りなかったんだよな」
「あははー。全然、’迷いの森’って感じはしなかったよね!」
「……」
学校からそう遠くない山の中に広がる’迷いの森’と呼ばれる場所。
入ったら二度と出られないとか、怪物が出るとか噂されていた森だったけど、探検してみればほぼ翔や絵裡が言った通りの結末だった。
ただ、僕はあの時、二人とは少し違うモノを見たような気がするのだ。
あれは確か、白い髪が綺麗な——。
思い出そうとすると、頭の奥がズキリと痛む。
「絵裡、お前もなんかネタ探しといてくれよ」
「ほいほーい。それを頼まれるために羽を広げてきたんだからね~! ……って志郎、顔色悪いけど大丈夫?」
パタパタと上機嫌に両手を羽ばたかせる絵裡は、僕の顔を心配そうにのぞき込む。
表に出したつもりはなかったのに、こういう変化に敏感に気付いてくれるのは絵裡の昔からの凄いところだ。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと顔洗いに行ってくるから、二人は先に手伝いに行っててくれよ」
「お、おう。体調悪かったら言えよ? みんなにも伝えとくぜ」
「絵裡ちゃんが付いて行ってあげましょう!」
「ありがとう二人とも。すぐ行くから、先に第二自習室で待っててくれ」
不安げに見つめる二つ分の視線を背中に、僕は席を立つ。
幸せ者だと自分でも思う。
二人が僕を心配してくれているという事実だけで満たされて、頭痛なんて吹っ飛んでしまうくらいには。
「大げさかな……でも本当にそう思ってるんだよな、これが」
誰に対する言い訳でもなく、トイレに向かうまでの道のりに誰もいないことを頭の片隅で祈りながら、僕は呟く。
——お前は、なんていうか、あれだよな。幸せの器? みたいなやつが小さいよな。いやいや、本来の意味の器が小さいっていうことじゃなくてさ。些細なことで幸せを感じられる。言われりゃ確かに良いことだなってくらいの小さい幸せに気付くことができるって、なかなかすごいなって思ったのさ。
出会ってあまり日数も経っていない頃だったか、翔に言われたっけ。
幸せの器。
確かに僕は他人よりそれが小さいのかもしれない。
この感覚が理解されづらいというのは唯一の悩みの種とも言える。
「……ふう」
それでも僕は今、充分に幸せを感じられている。
蛇口から出た水をすくって、顔を洗う。
濡れた僕の顔が清々しく見えるのも、それが嘘じゃないからだろう。
「よーし、行くか!」
だいぶすっきりしたので準備に向かおう。
僕は来た道を折り返す。
「……ん?」
歩いていると、さっきまで変わり映えの無かった廊下のフローリング素材に、白い異物が入り込んでいるのに気付いた。
「これは、封筒か。落とし物だよな」
廊下のど真ん中に真っ白な封筒。なかなか豪快な落とし物に驚きながら、僕はそれを拾い上げる。
—— Dear Shion Himura.
表に細く、でも芯の通った印象で書かれていたのは、見覚えのある名前だった。
「シオン……緋村、紫苑」
口に出してみて、それがクラスメイトの名前だということに数秒経ってから気が付いた。
「まだいるかな」
少し足早に、僕は自分の教室へと向かう。
窓の外——暗くなりつつある黄昏の空が、視界の隅を過ぎ去っていく。
いつもは歩くのが遅いから、外の景色がこんなにも早く流れていくのは新鮮だった。
ガラリと、小気味の良い音を立てて教室の扉を開ける。
その先の景色に、僕は思わず息を止めてしまった。
あまりにも美しかった。
あまりにも現実離れしていた。
窓の外は黄昏から、少し夜に傾いていた。
夜を映したような黒い雲。その中に入り込んでいるのは、くすんだオレンジと、朝と夜の狭間——紫色の光。
差し込んだ光に包まれるように、少女は佇んでいた。
緋村紫苑。
みんな話し合いのために移動してしまったのか、教室には彼女以外に誰も残っていない。
机にノートを広げて、細まった目からは水晶のような瞳が機械的に走るペンを追っている。
永遠とも感じられるような時間を、僕は動けずにいたような気がする。
「電気、点けようか?」
「……」
神秘的とも言える時間を、僕は自分から断ち切った。
声が震えていた。心臓が自分のモノではないくらいに早鳴りしていた。
じわりじわりと夜の帳が降りていく視界も、美しすぎる目の前の光景も、少しだけ怖いと感じてしまった僕がいた。
「……」
幸いにも聞こえていなかったのか、緋村はさっきまでと変わらずペンを走らせ続けている。
開いているのは数学の教科書だろうか。授業では見覚えの無い公式がずらりと書かれていて、軽く眩暈すら覚える。
「緋村……さん。あのさ、この手紙を落とさなかった? 廊下に落ちてたんだけど」
「……あっ。……うん、ありがとう」
緋村はまるで今僕の存在に気づいたかのように、目を丸くして礼を言う。
小さいが、でもはっきりとした彼女の声を、僕は初めて聞いたような気がする。
教室で誰かと喋っている声を聞いたことがないし、そもそもそんな姿を見たことがない。彼女の姿を思い浮かべようとすれば、それは今目の前に映っているものと同じ。
椅子に座って教科書とにらめっこをする、寡黙で美人な優等生の姿。
彼女のことは全くと言って良いほど知らない。けれど、なんだか近寄りがたいというのはきっと僕だけじゃない、クラスメイト全員が共有しているイメージだと思う。
「……あー、すごいね。こんな時間まで勉強なんて。みんなはもう文化祭の手伝いに行っちゃったよ? 緋村、さんは行かないの?」
「同級生なんだから、さん付けなんて良いよ。私は……ごめん、もう少しだけここにいる。手紙を届けてくれてありがとう」
「あ、うん」
向けられた笑顔に、別の意味で呆気に取られていた。
この人、こんな顔もするのか。
さっきまでのイメージをすぐさま取り消さなければいけないようだ。
勇気を出して話しかけてみたら思わぬ収穫だった。
「じゃあ、僕は行くよ。電気は点ける?」
「大丈夫。ありがとう、天野君」
天野君。
緋村の声で聞く僕の名前は、なんだか新鮮な響きだ。
いつも名前で呼ばれるからというのもあるけれど、妙に心地が良い。
「……」
教室を出る間際、もう一度振り返って緋村の方を見る。
傾き始めれば、黄昏の終わりは早い。
彼女を照らす光が弱くなって、翳っていく。
やっぱり明かりをつけてあげた方が良かっただろうか。
*****
——……ロウ、シロ……起き……こら……起き、起きろー!!
「……!!」
「私がちょっとお花を摘んでいる間におねむとは良い度胸じゃないのさ。図書室で資料を探す約束、サボってもらっちゃ困りますぜダンナ」
「忘れてないさ、忘れてない……ふわぁ」
ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。
実際には昼ご飯を食べ終えて、その後に絵裡がトイレから戻ってくるまでのほんの五分ほどの時間だったのかもしれないけれど。
「よぉし。お昼休みも少ししかないんだし、どんどん行くよ! どんどん!」
「元気だなぁ絵裡は」
「それが絵裡ちゃんですから!」
僕は絵裡の元気に半ば引きずられるように、目的地である図書室へと向かうことにした。
*****
「なぁ、絵裡。’迷いの森’の情報を見つけたのって、この辺の本棚からなんだっけ?」
探検先のネタ探しのために、僕は絵裡と一緒に図書室に来ていた。
昼休みの図書室にはまばらに人がいて、本を読んでいたり、席に座って勉強したりと思い思いに過ごしていた。
「そうだよー。番号の頭が0の、’郷土資料’って分類だったかな? そこの本棚から面白そうなのないかなーって探してたら見つけちゃった。’迷いの森’なんて、いかにもゲームとかに出てきそうでワクワクしちゃったよねー」
「そうだったな。先月はその名前だけで行先を決定したようなもんだったしな」
’迷いの森’というワードを聞いただけで目の色が変わった翔を今でも鮮明に思い出せる。
ろくに候補も挙げないまま、あの時は満場一致で行先がすんなりと決まったのだった。
「今回もすぐ行ける場所で~、絵裡ちゃん心をビビッと痺れさせるようなダンジョンはないかな~」
「僕も前回はあまり調べてなかったし、この際だから面白そうな本を片っ端から借りてみることにするよ」
「ほいほーい。じゃあ手分けして探してみる?」
「そうだね。絵裡は向こうの本棚を探してくれるか? 俺はこっちを見るよ」
「まっかせんしゃーい」
軽く鼻歌を歌いながら、ぴょこぴょことスキップ気味に隣の本棚へと吸い込まれていく。
図書室なんだからもうちょっと落ち着けなんていう野暮なツッコミをしかけて、やめた。
うーん、なんだか子どもっぽさが増したというか。昔から周りを明るくする愉快なやつだったし、今も昔も変わらないと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど。
後で注意しておくか。昼休みも少ししかないし、今は探すのに専念しよう。
「いろいろあるなぁ」
『交差点の幽霊』、『二十三番地に潜む口裂け女』、『水鳴町怪談大全』……。
こうして探してみると、この町の怪談や噂話の多さに改めて驚かされる。
他の高校や大学にも’探検部’みたいな部活やサークルがあるというのは翔から聞いていたけれど、この多さなら納得ができる。
「無難に『水鳴町怪談大全』でも……って、あれ」
僕が取ったのは一番分厚い本だったから、本棚にはぽっかりと穴が空く。
向こう側に見えたのは自習用の机。
座っていたのは、緋村だった。
彼女は相変わらず机の上に参考書——今回は英語だろうか——を広げて、その隣に置いた辞書やノートとにらめっこしていた。
昼休みなんだから休めば良いのに。
そんな言葉は到底かけられないくらい、彼女の姿にはオーラのようなものがあった。
近寄りがたい。でも——。
——天野くん。
案外話してみれば、少なくともつっけんどんな突き返され方はされなさそうなのだ。
僕は本を持ちながら緋村のいる席まで近づいていく。
……よし。
「緋村、お疲れ」
「天野君? うん、お疲れさま」
「えーと、あの、さ。緋村はこの町の都市伝説とか、怪談とかで知っている話はないか?」
「都市伝説、怪談……どうして?」
緋村はペンを置いて考えてから、首を傾げて僕に問いかける。
そりゃそうだ。いきなり理由も言わずにこんなことを聞くのも、いくらクラスメイトとはいえ突然すぎたか。
ましてや緋村とは昨日まで言葉を交わした記憶すら無いのだし。
「僕、探検部ってやつに入っててさ。探検場所の候補を探しているところなんだ。緋村ならなんでも知ってそうな気がしたから、つい訊いちゃったんだけど」
「……私、そういう話はあまり聞いたことがなくて。力になれなくてごめんなさい」
「あぁ、いやいや良いんだ。急に悪かったよ、ありがとう」
……あれ。なんだろう。
心なしかさっきより、緋村の声と表情が曇った気がした。
まだ新鮮味のある笑顔ではあったけれど、昨日のとは違う、どこか無理しているような表情。
「それにしても、昼休みにまで勉強なんてすごいな。昨日もやってたし。緋村ならこんなにやらなくても、テストとか余裕なんじゃないか?」
「そんなことは、ないかな」
今度ははっきり、愛想笑いだと分かる笑みだ。
緋村はいつもテストになると、成績上位者として廊下に名前が張り出されるレベルの優等生。
その栄誉は、こういう時間を惜しまない努力にあるんだろうなという意味での褒め言葉のつもりだったのだけど、ダメだったのだろうか。
「……」
ダメだ。友だちは翔と、ましてや女子なんて絵裡や翠谷くらいしかいない対人経験値底辺の僕では、緋村のこの表情を読み取ることができない。
「はぁい、シロォ。本探しをサボってナンパかな? おてんとうさまが許してもこの絵裡ちゃんが許さんぞぉ?」
「絵裡、助かっ……いや、そういうわけじゃなくて。緋村にも面白そうな場所に心当たりがないか訊いてたんだよ」
「なーんで勉強してる緋村さんに訊くのさー。ごめんね緋村さん。うちの志郎がお邪魔しまして」
「別に大丈夫。私、そろそろ行くよ。天野君、藍沢さん、また教室で」
緋村は手早く参考書類を鞄に片付けて、そそくさと席を離れてしまった。
ぐおぉ、なんだろうこの精神的ダメージの大きさは。
「何、志郎。緋村さんと喧嘩でもしたの? というか仲良かったっけ?」
「ぶっちゃけ、昨日初めて話した」
「え、昨日の今日でナンパ? プレイボーイな志郎におねーちゃんびっくり」
「誰がプレイボーイだ誰がおねーちゃんだ!」
「はいはーい図書室ではお静かに」
「……で。絵裡は何か良さそうな資料は見つけたのかよ」
「おほほよくぞ聞いてくれました。これ、面白そうじゃない?」
僕はいろいろなイライラを抑えて絵裡が開いた本のページを覗きこむ。
——湖の城に住まうは夢の妖精。その美しさで人を誘い、踊り狂わせ魂を喰らう。
最初に目に飛び込んできたのはそんな文言。
ページ上半分には、ヨーロッパとかにありそうな三角屋根の城の挿絵がでかでかと描かれていた。
「海外のお話っぽく見えるけど、ちゃんと水鳴町の都市伝説だよ。この城、’迷いの森’をひたすら進んでいくとたどり着くかもしれない場所なんだって」
「ふーん。でもこの前行った時はそんな城見なかったよな? 湖はあったけど」
「そこが不思議なんだよー。普通ではたどり着けない裏道があって、そこから行けたりしてね!」
「案外、昔はあったけどもう取り壊されてたりな」
「一番ありそうなオチを言わないでよー」
実際、先月に行って見かけていないのだからもう存在はしないのだろう。
湖に浮かぶ城。イメージはとても幻想的だから、もし本当にあったら探検部の発表にはもってこいだったのだけど。
「お城は無くても本当に妖精とかいたら良いなぁ。可愛い妖精だったらさ、お友だちになるんだ」
「そんなお花畑な妄想は置いておいて」
「お花畑?」
「……メルヘンチックな想像は置いておいて。もし本当にいたら、魂食われちゃうんだろ。会ったらマズいだろ」
湖の城。夢の妖精。
日本の、この水鳴町にどうやって根付いた都市伝説なのか全く想像できないけれど。
言ってる途中で、自分で恥ずかしくなってきた。
探検部のメンバーとして決して言ってはいけないことだと思うけど、基本的にこういう類の話を信じているわけではない。
ただ絵裡や翔、もう一人の後輩も連れてどこかへ出かけるワクワク感が楽しいだけで。
それがずっと続いてほしくて。
「ま、その時は志郎が守ってよ。悪い妖精から、私をさ」
「んー。善処する」
僕はいつもの絵裡の軽口に適当に相槌を打つ。
森の奥にあるという城に向かう探検部メンバーの背中。
その一つに、なぜか緋村の姿を思い浮かべながら。
*****
「綺麗だなぁ」
薄い雲が張り付いたオレンジと紫の空の下を、僕はのんびりと歩いていた。
一人の帰り道だと、やっぱり大きめの独り言を言ってしまう。
面白そうな探検先のネタは、あの妖精の話も含めて何個か見つかった。あとは明日、メンバー皆で話し合って最終的に行先を決定するだけ。
なんだかんだ、僕は探検部の活動を楽しんでいる。翔が立ち上げを切り出した時には、変わったことしようとしているなと他人事だったけど。
翔がいて、絵裡がいて、今年から参加した後輩もいて。
……来年の今頃は受験勉強に追われているんだろうな。
緋村なんかは楽勝なんだろうけど、僕なんかが果たして大学に行けるのだろうか。
大学に行きたいなんて意志も、僕の中にあるのかどうかも分からない。
ただみんなが行くから僕も——そんな心持ちで、ただ勉強は進めなくちゃいけないんだなという危機感はじわじわと出てきている。
今のままで良いのに。
今が夢で、このなんとなく平和で楽しい時間がずっと続いてくれれば良いのに。
そんなことを考えてしまうと、なんだか今を生きる気力を失うというか、意味を見出せないというか。
分からないけれど、現実は嫌でも動いて、止まってはくれない。
一人でいると、ついぼーっと考えてしまう。
川沿いの道を進んで住宅街に入った。
焼き魚の良い匂いがする。カラスの間延びした声が聞こえる。
目の前からは水色の、少しぶかぶかのパーカーに身を包んだ女の子が歩いてきていた。
視界の端に映った珍しい白髪に、意識が少しだけ傾く。
「ふふ。こんにちは」
「……こんにちは」
それが自分に向けられたものだということに数秒経ってから気が付いて、僕は遅れて挨拶を返す。
小学生だろうか。下校には少し遅いし、妙にしっかりとした挨拶だったようにも聞こえて、もう一度その姿を見ようと振り返る。
「え、あれ?」
背後には相変わらず綺麗な夕焼けが広がっていただけ。目を凝らしても、さっきの女の子らしき姿はどこにも見当たらない。
幻覚を見るほど疲れは溜めていないはずなのだけど。
「気のせい、か?」
幻覚やら気のせい以外で説明ができないから、とりあえずそういうことにしておく。
探検もしていないのに普通の帰り道でホラー体験なんてしてもネタにはならない。
僕は言い聞かせて、数歩の距離にあった自分の家の玄関まで小走りで向かう。
扉に触れる瞬間、何かが僕の手を遮った。
「封筒……?」
白い封筒。
デジャブだ。廊下に落ちていた、緋村の落とし物。
僕は何かに操られるように封筒を手に取る。
——Dear, Shiro Amano.
表に書かれていたのは細く、でも芯の通った印象を感じさせる文字。
紛れもなく、僕の名前で。
——夢を見せよう。決して覚めぬ夢を。
僕を誘う魔の言葉だった。