夢から覚めて、夢を見る
特に目的地を設定したわけじゃなかったけど、気が付いたら目の前には’緋村診療所’の看板が立っていた。
足が勝手に動いていた。どんなルートを辿ったか覚えていないけど、周りの景色を見るに今度は小さい頃の記憶通り、お父さんの病院だということが分かった。
「こんにち……あぁ、紫苑ちゃん。さっきお母様が見えましたよ。また院長先生にお弁当でも届けに来たのかな?」
「えぇ、そうだと思います。まだ、いますかね……?」
受付にいたのは顔なじみの看護師。よく覚えていた。小さい頃は、この人に話しかければ病院でお父さんに会えるという認識だったから。
彼女はいつも通りと言った調子で、私に笑みを向ける。私はどう見えているのだろう。小さい頃の緋村紫苑の姿か、あるいは高校生の私か。
いつもはお母さんが話をつけてくれたから、彼女と対面で話をするのは初めてだった。普通に会話をしていることに、少し認識がブレる。
「出て行ったところは見ていないから、もしかしたらいるかもしれないわよ。院長室かしら?」
「ありがとうございます、探してみます」
「じゃあこれ、入館証」
私は入館証の入ったネックストラップを受け取って院内を進んでいく。
別に用があって会いに来たわけじゃなかったのだけど、お母さんがお父さんにお弁当を届けに行く時は私も一緒について行っていた。
お弁当を届けて、二人が話をしている姿を眺めていた。お父さんが患者さんに感謝されるところを見て誇らしげに思った。
帰りに買い物をしてお菓子を買ってもらったり、公園で遊んだり、お母さんと一緒にいられる楽しい時間だった。
だから私もその場にいなければいけない。そんな気がした。
エレベーターで六階まで上がって、廊下を進む。しばらくすると漆の塗られた木の扉が見えた。少し開いているようで、中から話し声が聞こえた。
「今日のはどっちが作ったんだ?」
「さーて、どっちでしょうか?」
「きょうは、わたしでーす!」
「ありゃ、ナゾナゾにしようと思ったのにバラしちゃったね」
「あはは! ごめーん!」
ノックをしようとして、手を止める。
お父さんとお母さんの他に、声がした。目を細めて中を覗くと、淡い水色のスカートを履いた女の子——私がいた。
遮光カーテンが閉まっているからか部屋は少し暗かった。
そんな薄暗さを照らすように、ソファで、お母さんの隣に座って無邪気に笑う少女。
お父さんはお弁当箱を開いて、ちょうど卵焼きを口に運ぼうとしたところだった。あの形は確かに、私が作ったものだろう。お母さんのように綺麗な形に仕上げるのがどうしても難しかった記憶が残っている。
そう、私は今あの女の子がいる場所に戻りたい。なりふり構わず彼女を押しのけてソファに座りに行ったら受け入れてもらえるのだろうか。
きっと受け入れられてしまうのだろう。そういう場所なのだから。
黒い感情が渦を巻いては消えていく。自棄になっているのは自分でも分かっていた。
「うん、美味しい! どっちが作ったのか、最近は見分けがつかなくなってきたなぁ。最初の頃なんか殻とかが入ってたのに」
「ほんとね。紫苑はすごいわねぇ」
「えへへー」
にへらと笑う女の子を見て、頭の中に記憶と感情が浮かんできた。
目の前で繰り広げられている映像は小さい頃、実際に経験した記憶だ。
卵焼きを、それまでの中で一番上手に作れて褒められた。それを食べてもらえて、お父さんにも喜んでもらえた。
嬉しそうに笑う二人の顔に釣られて、私も楽しくてずっと笑っていた。口角が上がった感覚が、錯覚かもしれないが頬に蘇った気がした。
「紫苑の将来が楽しみだなぁ」
「そうね。将来……紫苑、将来は何になりたいんだっけ? お父さんにも言ってごらん?」
しみじみと言うお父さんに答えて、お母さんは女の子の小さな肩を押す。
彼女は恥ずかしそうにしながらも、二人の顔が見えるような位置に少しだけ移動する。
心なしか、その透き通った瞳と視線が合った気がした。
そう。思い出した。
この時、初めて私は二人の前で宣言したのだ。
お母さんには少し前に話していた。ほぼ毎週お弁当を届けるために病院に来て、その背中を見て、純粋に憧れただけかもしれない。
それでも、女の子——私は、確かにこう言った。
「うん! ……見ててね、私、お父さんみたいな立派なお医者さんになるから!」
狭い院長室に、紫苑は声を響かせた。
その先の暗い未来など少しも知らない素振りで。
お母さんは誇らしげに笑んで。
お父さんは呆気に取られたように口を開けたけど、すぐに口元を上げて、少し目に涙を滲ませていたようにも見えた。
「そう、だったんだ」
二人はそんな顔をしてくれていたのか。
当時の私は、学習発表会で発表でもするかのような気持ちで、気恥ずかしくて二人の表情までまともに見ることができていなかった。
そのあとすぐにお父さんが他の先生に呼ばれて出て行ってしまったせいもあるけれど。
ただ、記憶の奥底には焼き付いていた。
それが灯だったんだ。
お母さんが死んでしまったから、取り戻したくて医者を目指したわけじゃない。そこが起点ではないのだ。
今さらな話だ。始まりはそこじゃない。
「お父さん……!」
受話器を手に取って、慌てたように部屋を出ようとするお父さん。
二、三言、部屋に残る二人に何か話しかけて、手を振った。
扉を開けて、私の身体をすり抜けるように歩みを進める彼を、私は振り返って呼び止めようとする。
「紫苑のやってきたことは、本当に意味のないことだったかな?」
去っていく背中と入れ替わるように、穏やかな声が耳に届く。
お父さんではない。でも、その言葉に今、私はむきになって首を横に振ることはできない。
「志郎……」
制服姿の志郎が、笑って立っていた。
*****
「どうしてここに?」
不思議そうな顔をして、紫苑が尋ねる。
僕にも理由が分からない。ぼんやりと授業を受けていたら、いつの間にかここに立っていたのだ。
待つだけとは言ったものの、本当は学校なんて行っていられる心の余裕はなかった。どんな強引な手を使っても紫苑を連れてここから出ることも考えたけど、いくら夢の中とはいえそこまでの思い切りは付かなかった。
ここは僕だけの夢じゃないから。
覚めることのない夢の中。日常を保つことが、僕にとって唯一狂わずにいられる方法だったというだけかもしれない。
「紫苑が呼んでくれたんじゃないのか」
わざと気障ったらしく言う。
日常を保っても、日常に吞まれることはなかった。
僕はずっと火が灯るのを待っていた。
ここから出ると、現実に帰ると紫苑が言ってくれるのを信じて、僕は待っていたから。
「私が……」
紫苑は言い淀む。自覚がないのかもしれない。
でも、あれほど叩いても開かなかった扉を飛び越えて、こうして直接顔を合わせることができたのがその証明ではないだろうか。
この世界では僕たちが望むものが手に入れられる。夢の主であるルサルカがそう言った。
僕はもちろん立ち直ろうとする紫苑を望んだ。
紫苑は——。
「紫苑はさっき、心の中で何を思い浮かべた?」
「え? そ、そうね、小さい頃の私、かしら。お父さんみたいな医者になろうと、心に決めたあの時の自分を」
お父さんみたいな医者になる。
そう口にした紫苑の顔には一切の迷いがなかった。
もう自分のことが分からないと泣いた彼女はどこにもいなかった。
「僕にとって、それが紫苑だったんだ」
「どういうこと?」
「小さい頃の紫苑にとってのお父さんが、僕にとっての紫苑だった。今さら言うまでもないけど、やっぱり最初は憧れだったんだ」
放課後のあの時、夕日に照らされた紫苑の横顔を見た時から。
「憧れなんて感情は恥ずかしい話、その時まで完全に忘れていた感情だった。僕はあの時まで変わらないことを望んでいた。同じように穏やかな日常がずっと続けば良い。憧れなんて感情は変わってしまう大きな引き金だから、無意識に避けていたのかもしれない」
でも否応なしに、僕は心を動かされたのだ。
言い方を変えれば一目惚れだったのかもしれない。
「医者にならなきゃいけなかったわけじゃない。医者になりたかったんだよ、少なくとも小さい頃の紫苑は。本当になれるかとか、難しいことなんて考えられる歳じゃなかったけど、そういうもんじゃないか小さい頃の夢なんて。そんな小さい火に支えられて、始まる物語なんだよきっと」
僕だってそうだ。
現実に戻って、教師になるという夢を覚えていて、実際に目指したとして。
知らない現実を知って、その道の厳しさに諦めてしまうかもしれない。
「でも僕はその物語に支えられて、前に進めた。止まっていた僕が足を前に出せたんだ」
それがどれだけすごいことか、きっと紫苑は知らない。
「私の物語で、志郎を支えた……」
「そうだよ、来て」
呆然とする紫苑の手を引いて、僕は院長室の扉を開ける。
カーテンが閉められた薄暗い部屋には誰もいない。
奥にあるデスクには山のように置かれた書類、それに埋もれるように写真立てが一枚倒れていた。
「それ、起こしてみて」
「……」
指をさした先を、紫苑は不安そうに見つめる。
この光景には既視感があった。最初にこの世界で廃病院に入ったときにも、名残惜しそうに写真立てを見つめていた。
あの時は結局見つめ続けただけで触れようとはしていなかった。
何かを諦めるように、何かを諦めきれないように。
「私、怖かったの。この写真には何が写っているんだろうって。お父さんはお母さんがいなくなってから、ずっと’大丈夫’しか言わなくて。どんどん会話もなくなっていって。頑張って支えようとしたのに、私じゃお母さんの代わりになれなくて、寂しくて……」
声を震わせ、詰まらせる紫苑の肩に僕はそっと手を置く。
あんなに大きく見えた背中は想像よりずっと小さくて細くて、すぐに壊れてしまいそうだった。
「ため息をつくたびに、お父さんは机の上の何かを見ていた。それで少し楽になったような顔をして、席を立ったの。この写真立てだったんだ。……もし、この写真に私が写っていなかったらと思うと、怖くて見ることができなかった。私だけ置き去りにされて、今度こそひとりぼっちで……」
かすれて消え入りそうになる声を逃さないように、肩を強く掴んでそのまま引き寄せる。
細い身体全体が僕の腕の中に包まれる。
温かくて柔らかい、ような気がした。あまりにも朧げな感触を確かめたくて、もっと力を入れてしまいそうになる。
さらりとした黒髪が、僕の頬を撫でる。
「大丈夫、一人じゃない。言っただろ。紫苑に支えられた、僕がいる」
声を押し殺して、か細い息を漏らしながら紫苑は泣いていた。震えて涙を流すたびにどんどんと小さくなってしまいそうな気がした。
照れくささも申し訳なさも頭から抜け落ちていて、今は目の前の小さな灯が消えないように、そっと抱きしめる。
「……」
そのままどれくらいが過ぎたか、体感では数秒、数分、数時間だったかもしれない。
少しずつ、体の震えが収まり始めて嗚咽も静かになる。
「大丈夫だよ、紫苑」
「……うん」
最後にもう一度言って、身体を離す。
弱々しい表情も涙の跡も消えていないまま、紫苑はデスクの方へ顔を向ける。
深呼吸をしてから、そっと手を伸ばして写真立てを起こした。
そこには緋村家の三人——紫苑と秋華さん、そして誠一さんが写っていた。
場所はどこかの山だろうか、曇りのない一面の青空の下で、生い茂った緑と色とりどりの花に囲まれて、三人ともが笑っていた。
誠一さんは白衣ではなくラフな黒いTシャツを着て、タオルで汗をぬぐいながら悪戯っぽく笑っていた。片方の手は二本指で秋華さんの頭の上に角が立つような形にして、秋華さんの頭の後ろに回されていた。
秋華さんはしゃがんで、小さい紫苑の肩を抱いていた。頭の後ろに回された誠一さんの指など気づかない様子で、無邪気そうな笑みを浮かべている。
二人に挟まれるような形で立っている紫苑は麦わら帽子を被っていて、両手を広げながらとびきりの笑顔の花を咲かせていた。
「支えにはなっていたと思うんだ、お父さんも。この写真を見てさ」
もっとよく見えるように、僕は言いながらデスクの後ろに回って遮光カーテンを開ける。
シャッと小気味の良い音が鳴って、一気に部屋に光が差し込む。
家族三人が写った写真。
秋華さんの死を悔やんで、周りが見えなくなるくらいにがむしゃらに仕事に打ち込んだのも事実かもしれない。
それでも紫苑の成長を夢見てくれていたのなら、その道に少しの邪魔も入らないように必死に切り開いてくれていたという見方もできる。
それは例えば、分かりやすい現実的な部分で言えば経済面で。
高校ならまだしも、これからレベルの高い大学へ進む紫苑に、お金が無いから医者になる夢は諦めてくれ、だなんて言えなかっただろう。
こんな眩しい笑顔を毎日見ていたら。
その隣でほほ笑む最愛の人の顔を見ていたら。
「全部僕の妄想かもしれない。でもさ、見方を変えるんだ。紫苑が言ったんだよ」
勉強会を始めたての頃だったあの日、紫苑が教えてくれた。
全く視界に入っていなかったことを認識して、今まで解いたことのない問題を解くことができた。
確かに紫苑にとって、絶望した父親の顔が毎日見えていたのだろう。それが積み重なって、自分が頼りにされていないのだと錯覚して、心の距離も離れてしまって。
誠一さんにとっても、確かに当時の紫苑の顔はあまり見ていなかったのかもしれない。会話も数えるほどしかしなかったのかもしれない。
なぜならその視線はずっと、未来の紫苑を見ていたから。
医者になる紫苑の姿を夢見て、不器用にも懸命に働き続けていただけかもしれない。
「帰ろう紫苑。帰って、お父さんと話してみよう。僕のわがままのために帰る必要はないからさ、せめて誤解したまま夢の中に閉じこもるなんてダメだ」
僕はもう一度手を伸ばす。
その手は掴み返されなくても良い。ただ、紫苑が帰るとさえ言ってくれればそれで良い。
紫苑の顔を覗き込む。その表情は存外穏やかなものだった。
「すごく、晴れた気分だわ」
少しトーンの上がった声が紫苑の口から漏れる。
「医者になる。お父さんを超えるような立派な医者。でもそれが具体的にどんなものなのか、私には分かっていない。自分が何に向かって走っているのか分からなかった。背中だけ追って、お父さんの顔もろくに見れていないのは確かにそうなのよね」
毒の抜けたような穏やかなものから、徐々に芯の通った音に、いつもの聞きなれた紫苑の声が戻ってくる。
「それでも夢を負わされていたのか、追わされていたのかと言われれば、きっと違うわね。私はずっと追っていたのよ。この夢を」
それは出口のないトンネルの中で空虚に反響する音などではなく。
しっかりと確かな形と意味を持って、僕の耳に届いた。
*****
視界が暗転する。
いろいろな景色が流れては消え、消えては流れた。
お母さんがいた。お父さんがいた。藍沢さんや藤田君、翠谷さんや、クラスメイト、その他小中学校で同じクラスだったもう顔もおぼろげな同級生たち。
隣には離れずに、志郎がいてくれた。
学校、病院、通学路、図書室。
目まぐるしく変わって、最後に見慣れた風景に視界が定まった。
私の寝室だ。
カーテンも閉め切って真っ暗なはずなのに、そこに誰が居るのかは把握できた。
ベッドで横になっているのはもちろん私。背丈からして小学校高学年から中学一年生くらいだろうか。
静かな寝息を立てて目を瞑っている。
「秋華。やっぱり……」
その横には膝を折って、お父さんが寄り添っていた。
少し寝汗をかいている小さな私の頭をタオルで拭きながら静かに呟いていた。
「やっぱり、紫苑は医者になりたいってさ。こんな俺を見て、だよ。お前を救えなかった俺なんかを見て、それでも言ってくれたんだ」
一言一言、絞り出すように言葉を紡ぐ。嬉しそうに、悲しそうに、言葉で表すには難しい声色で、お父さんは言う。
実際にお父さんがこんなことを言ったのか、私には記憶がない。映像通りなら私は寝ているのだから当たり前だ。
それでもお父さんに再度宣言した記憶はある。
二人を前にして言った時とは大違いの心境だったけど、医者を目指していることをお父さんに告げた。
それはある意味決別みたいなもので。
あなたの代わりに私が成し遂げると、大見栄を張ったのだった。
それでも。
「嬉しいなぁ……!」
お父さんは天を仰いで、大きく口を開けて、声もなく泣いていた。
伝えようとした想いはまったく別のものだったけど、伝わった想いは再びお父さんの背中を押して、灯を点したのかもしれない。
私の都合の良い幻想だろうか。
それでも、信じてみたかった。
「行こう、紫苑」
隣で志郎の声が聞こえる。
私を光と言ってくれた、大切な人の声。
力を抜くように、私は彼の肩に身体を預ける。
じんわりと温かい感情が、胸の中に沁み渡っていったのが分かった。
*****
「あーあ、目が覚めちゃったね。おはよう志郎、紫苑ちゃん」
真っ白な空間が広がっていた。
様々な景色が通り過ぎては消えていった余韻が残像として頭を混乱させるが、今は風景に溶けるように、目の前にはルサルカが立っていた。
隣にはぴったりと寄り添うように紫苑がいる。
化け物を目の前にして何をされるのか分からない状況ではあるけど、心強いことは確かだった。
「君たちは残念と言うべきか見事と言うべきか、私の世界から脱出できた。誇っていいよ。少なくとも数十年、脱出できた人間なんていなかった」
紫苑の体温が、息遣いが、ついでにルサルカの声がはっきりとした感覚で感じられた。
夢の中にいるような頼りの無い感覚はもうない。
ただ周りに何もないこの空間だけが現実感のない唯一のものになっていた。夢の世界から脱出できたのなら、ここはいったい何なんだ。
「ここは夢と現実の狭間みたいなもの。入るときと、出るときにしか基本いることはない。私の能力は、こういうルールが多いんだ。夢から覚めてしまった人間は食べることができない。夢の中でしか、君ら人間の生命力を、精神を、記憶をいただくことはできないんだ」
口元だけを上げて笑うように、負け惜しみのようにも聞こえる調子でルサルカは言う。
そしてさらっと、恐ろしい単語も聞こえた。
「僕たちを食べる気だったのか。そんな直接的な怪物だとは思わなかったよ」
「それを知られちゃ、そもそも食べられるのが嫌で出て行かれちゃうからねぇ。夢で気持ちよくなってもらってなおかつ、ここが夢の世界であると招待客に認識させる。それから、夢の世界に居続けることを君たち自身が選択しなければならない。強い力にはいろいろな制約がいるのさ。やれやれだよ」
心底面倒くさそうに説明をするルサルカとは裏腹に、僕は背筋が凍る感覚に襲われる。
ずいぶんと手間のかかる怪異だが、純粋に命を奪われる可能性が高かったという話だ。
無意識に僕の腕は紫苑の前に動いて、下がらせようとする。
「おーおー、美しい愛情だこって。でもその愛も、ここから出ればすぐに霧散して忘れてしまうんだよ。最後に聞くけど、本当に夢から覚めるの? 次に目を開けるとき、君たちはただのクラスメイトに逆戻り。交わした言葉も忘れて、志郎、きみだって平穏を望むつまらない男になる。紫苑ちゃん、君もここで決意したいろいろなことを忘れる。がむしゃらに、何のために頑張るのかを忘れてまた壊れちゃうかもしれないよ。だったら——」
幸せなまま死のうよ。
この期に及んでまだ、ルサルカは誘惑を続けていた。
「確かに人間はいつか死ぬ。死ぬなら幸せを感じ続けたまま死ぬ方が幸せかもしれない。現実は悲しいことや目をそむけたくなるようなことが、きっとこれからも起こる」
僕の腕の向こうから、紫苑がぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
透き通った水晶がまっすぐに見据えるその先には、僕の想像できない天国と地獄が写っているのかもしれない。
「そうでしょ? 本当にその通りだよ。現実なんて私を置いてぜんぶ悪い方へ変わっていってしまう。だから——」
「でも。それを乗り越えようと前を向いて進んだときに初めて、知らない未来が見えるの。見えなかった側面が見えて、聞こえなかった声が聞こえて、理解できなかった知識や感情を理解できるようになる」
「はっ、あんな映像はただの君の願望で……」
「そうかもしれない。願望でも。それに気づけた時点で、私がここを出る理由は手に入れられた」
突き刺すような紫苑の声に気圧されたのか、ルサルカは言葉を切る。
頬を膨らませて、拳を震わせている。それだけ見れば僕らより少し幼いくらいの、普通の少女なのだが。
見た目に騙されてはいけない。
この怪物から助かる方法が夢から覚めることなら、やっぱり僕はもう目を覚ましているのだ。
あんなに変わらないことを望んでいた僕が、夢から覚めるときが来ている。
「僕も紫苑と同じさ。たとえ現実に戻って記憶があやふやになっても、きっと僕はまた紫苑を見つけるよ。クラスメイトなんだしさ」
気取って、僕も追い打ちをかける。
正直に言えば自信は半々だ。起きてから夢のことを思い出そうとしても、印象的なこと以外は思い出せなくて、その印象的なことでさえ徐々に忘れてしまう。
だけど、起きてすぐにこの夢の断片でも覚えていれば、僕はそれを絶対に忘れないように刻み付けたい。
それが僕の道になって、光を探す標になるから。
「はぁ。つまんないの。さっさと帰りなよ。君たちを食べても腹を壊すだけだ」
深いため息をついて、ルサルカは小さな手を上げる。
真っ白な空間は変わらず、けれど流れて行っているような錯覚を覚える。景色は変わらないのに足元だけが動いているような奇妙な感覚。
「最後に言わせて、志郎」
「ん? どうしたのさかしこまって」
景色は白から青とか緑、茶色や灰色、様々な明暗の色を示しながら変わっていく。
視界は忙しかったけど、耳は確かに紫苑の声を拾う。
「本当にありがとう。言っても言い切れないわね。次に会う時には恩知らずにも、冷たい態度を取るかもしれないから」
「紫苑は人見知りだからね。打ち解ければ優しくて、熱くて、あきらめが悪くて、頑固で、かっこいいやつだって分かるんだけどさ」
「褒められてるのよね?」
「褒められてるし、惚れられてる。やっぱり好きだ、紫苑」
「……その言葉、現実でも待ってるから」
視界が渦を巻き、目の前のルサルカも霧散する。
学校が、裏山が、商店街が、自分の家が、どこか木々や湖が目の前をものすごい勢いで通り過ぎて行って、聞き取れない言葉や音たちが耳をかすめていく。
それが子守歌のように、僕の頭の中を埋め尽くしていった。
―—眠い。
夢から覚めると言うのに、こんなに眠くなるものなのか。まさかルサルカに騙されたんじゃなかろうか。
―—たすけて。
最後の最後に不安が押し寄せたけど、それをかき消す言葉が耳に届いた。
紫苑の声かと思って慌てて振り返っても、穏やかな表情で目を瞑っているだけだった。
じゃあ、誰の声だ?
誰かが助けを求めている。目を動かし、耳を澄ませてもそれ以上は聞こえない。
そうこうしているうちに僕の意識は完全に闇に深く、深く落ちていった。




