ノック
あれから何日が経過したか、はっきりとした感覚がない。
家まで送り届けた紫苑は憔悴していたと言っても過言ではなかった。別れ際、また学校に来てくれとも言えず、宿題も渡せず、ただ今日は休んでくれと言うことしかできなかった。
休んで良いと言ったのは確かに僕なのだから。
紫苑はその後も学校を休んだ。
欠席理由は流行り病にかかったから、とかで処理された。何日間か休むことになるらしい。確かに早ければこの季節から流行り始める病気だから不自然は無い。
紫苑のいない生活が一日、また一日と過ぎていく。あんなに充実していた学校生活が、天戸から洩れる隙間風のごとく空しく流れていった。
その一日の詳細を、僕は思い出せない。
いつも通りに過ごせていたのか。どんな顔で絵裡や翔と話していたのか。思い出そうとすると頭に靄がかかる。
夢だから、適当に処理されるのだろうか。紫苑がいないせいで彩を失った日常、だったのかどうかも実感がない。
「……天野です」
ただ、気づくと僕は緋村家の扉の前に立ってインターホンを鳴らしていた。
この世界が夢だと言われた日から、どれくらいが経った後だろうか。いつからか僕は紫苑を呼ぶためにこの行動を繰り返していた。
空はオレンジ色に染まって、答えるのは間延びしたカラスの鳴き声だけ。
この景色と、目の前にある黒い扉が何度も繰り返されて、目に焼き付いている。
鳴らしても紫苑どころか、秋華さんすら応答がない。
「帰ろう、紫苑」
家の中にいる紫苑に向かって言う台詞では決してないのだが、僕は聞こえていると信じてインターホンに向かって呼びかける。
夢から覚めて、現実へ帰ろう。
これは僕のわがままで、押しつけだ。本当は話がしたいだけだ。
紫苑の気持ちは、あの時に分かったつもりだ。
夢だとしても母親が生きているここにいたい。自分がやってきたことは無駄で、医者になりたかったわけじゃなかったかもしれなくて、自分が分からなくなってしまった。
自暴自棄になってしまったような言葉の数々に、僕は何も言い返せず、慰める言葉一つも見つけられなかった。
あの言葉が本心だったとして。それでも紫苑の努力が無駄だなんて思いたくなかった。
たとえ結果的に医者にならなくとも、ここまで歩いてきた道すべてを否定してほしくは無かった。
僕が紫苑の輝きを見たいからとか、そんな身勝手な理由だけではなく。
「毎日来る。帰ろうと言いに来るから」
答えは無い。だけど毎日来ると宣言はしておく。
夢に残して良いことなんて、きっとないのだ。そもそもこの世界に居続けることで、現実世界ではずっと眠って、植物状態みたいになっているのだろうか。何も食べられず、肉体が朽ちたときに夢から覚めて、死ぬのだろうか。
現実的なことを考えても、決して良いことはない。
幸せなまま死ねる。確かにそうかもしれない。ただ緋村紫苑の死に方が、僕の死に方が、ルサルカという怪物に決められるのは気に入らない。
無事に二人とも夢から覚めたら、紫苑との思い出は覚えていないのかもしれない。
それでもきっとどこかで思い出すんじゃないか。
あの真剣な横顔を。夕日に輝く水晶の瞳を。
*****
「天野先生、さようなら~」
「気をつけて帰りなよ、さようなら」
**高校の教師として赴任してから三年。
僕は苦労しながらも高校の時に志した教師という職に就くことができていた。
授業で教壇に立ったり、何の因果か陸上部の顧問として走る生徒たちを見たり、クラス内のちょっとしたトラブルに頭を悩ませたりと、大変ながらも充実した生活を送っている。
「この問題、けっこう難しかったと思うけど、この図形をこう区切ると……そう、**の公式が使えるね。求めた解を使って、次はこの部分を証明していくと、答えが出るわけだ」
あるときは数学の授業。黒板にグラフや図形、数式が並ぶ。
チョークで解が書き足されていくと同時に、納得したように顔を上げて頷く女子生徒。必死にノートに書きこむ男子生徒。
「さて、この英文のどこかが間違っているんだけど、気づいた人? はい、**君。正解。そう、この文章は**だから、この単語は**にしなくちゃいけないんだ。ちなみに発音は**。言ってみて」
あるときは英語の授業。間違った英文を正しい文法を使って直す問題。指名された生徒はたどたどしい発音ながらも正解。解説をしつつ、僕はそれを流暢な発音に修正し繰り返させる。
教師が足りないとかで、僕はいくつもの授業を受け持っていた。
そのすべてを教えられるようになるまで、とことん勉強した。もちろん元が文系学生だから、理数系の範囲には限界があったけれど、できる限りのことをして生徒と学校の助けになろうとした。
「天野先生。私、獣医になりたいんです」
「獣医というと、やっぱり専門学校かな。君の直近の模試の結果で考えると、まずは近場の**専門学校とか?」
高校二年生あたりから、進路の相談も増え始める。
クラス一人一人の学力や内申点、性格、家庭の事情。様々なことを考慮して、生徒たちに言葉をかけなくてはならない。
「私も、そこを目指そうと思いました。でも両親が反対して……給料も低いだろうし、動物が好きなら仕事にすると逆に辛くなるからやめとけって。でも私、どうしても獣医になりたいんです」
「何かはっきりとした理由があるんだ」
「***」
「へぇ、そうなんだね。それはとても素晴らしいことだし、自信を持ってほしい。お父さんやお母さんの言うことも一理ある。でも、***……」
僕の言葉に、はっとする目の前の女子生徒。
何かに気づかされたのか、そのあとはみるみるうちに表情が明るくなる。
「ありがとうございます、天野先生! 私、頑張ってみます」
「うん、応援してるよ!」
あぁ、そうだ。
この表情を、この輝きを見たくて僕は教師になったんだ。
誰かが夢や、自分の長所を見つけて、ひたむきに頑張る姿。覚悟を決める表情。そんなときに目にすることができる輝き。
「……ってことがあってさ」
「獣医ね。私は人を救う専門だから言えることは少ないけど、命を救いたいという気持ちはどれも素敵なものよね」
久しぶりに時間を合わせることができて、妻と外食に出かけた。
この間結婚式を挙げたばかりだから節約しなければならないが、一応これでも二人とも’先生’と呼ばれる立場で、それなりに稼いでいる。
たまの外食くらい許されるだろう。
「***」
「あぁ、確かに***」
「ふふ、でも***」
「うん。***だけど、***っていう考えもあってさ」
お互いに仕事で忙しいから、こうやって近況を話し合えるのは心が休まる。
彼女は医者という職業上、話せる内容に限りがあるし、決して明るい話題ばかりではない。でもこういう病気の患者さんがいて、結果が良好だから外泊許可が出て家族と過ごそうとしているだとか、そもそも彼女が判断して投与した薬のおかげで病状が良くなり始めたとか。
夢を叶えてからも少しずつ前に進んでいる。そんな彼女を見ているのが好きだった。
「思えば高校生のころから将来の夢を考えろなんて、難しい話だよな。僕もきみに出会わなかったら今頃、まともな職に就いているかどうかも怪しいし。学校の先生になりたいだなんて、あの日きみに言われてなきゃ思い出さなかったかもしれない。二度と火のつかない夢になっていたかもしれなかった」
「そんなことないでしょ。どこか別のタイミングで、きっと思い出せていたわよ」
笑って、彼女は言う。
本屋であの日、あの言葉で僕は赤本を手に取った。
運命の分かれ目。
彼女にとっては些細な一言だったのかもしれないけれど、あそこが僕の大きなターニングポイントの一つだったのだろう。
火を分け与えられた蠟燭のように。
バトンを受け取ったリレー選手のように。
僕はあそこでようやくスタートラインに立つことができた。
「ところで、彼女はなんて言ってたの?」
「え?」
「獣医になりたいって言っていた女子生徒。夢のきっかけかしら。私、気になるわ」
それはもちろん覚えている。
たどたどしく語られたその内容は、自分の過去を重ね合わせることができて懐かしくもあったから。
「あぁ、それは***だよ」
ゆっくり、噛み締めるように僕は言う。
そう、***なのだ。
「……?」
声に出して、確かに口にしたはずなのに。
それは意味を成した音として自分の耳に入ってこなかった。
頭ではその内容を完全に理解しているつもりだ。
もう一度、何度も口にする。彼女の大切な言葉だ。夢の始まりと言ってもおかしくない、重要な物語を聞かせてくれたのに。
「へぇ、そんなことが。それは確かに素晴らしいことね」
それでも、目の前の彼女は納得したように頷いた。僕の言葉が聞こえて、理解できたのだろう。
でも肝心の僕は、あの女子生徒が勇気を出して言ってくれた言葉を何一つ思い出せない。申し訳なさと情けなさでいっぱいになる。
それなら自分の言葉はどうだ。僕は、女子生徒になんて言葉をかけてあげたんだっけ。
……思い出せない。
確かあの時かけた言葉は、英語の授業か何かでインスピレーションを受けて、頭に浮かんだものだったような。どんな授業だったっけ。
順番に思い出そう。朝、昼間の時間割、午後の授業……。
いろいろな記憶の、いろいろな場面が映像として浮かぶ。
記憶のかけらが時間軸を飛び越えてバラバラと降り注いでいるけれど、それが今日の記憶なのか昨日のものなのか、はたまた数か月前なのか未来の話なのか、判別ができなかった。
疲れが溜まっているのだろうか。
「そんな言葉を返してあげられるあなたがかっこいいわ、志郎」
彼女は唐突に言う。
僕はまた知らないうちに何かを言ったようだ。自分の声がトンネルの中にいるかのように響き、頭の中にも靄がかかる。
「あはは、まぁこれもきみのおかげだよ……」
咄嗟に反応ができなくて、僕はあいまいな返事をする。
どういう言葉をかけたとしても、この炎は彼女にもらったものなのだから。
そう、目の前の***に。
「ありがとう、***」
僕の教師としての生活は続く。
ただ、***と一緒に話をしたあの日から、少し浮ついた感覚と言うか、違和感が付き纏っているようだ。
教壇に立って授業をする僕。
陸上部の顧問として声を張り上げ、生徒を鼓舞する僕。
生徒たちの悩みを聞いて、言葉をかける僕。
そしてそれらすべてを空から見下ろしているような感覚。どこか自分事じゃないようで、口から出るどんな言葉も音として成立しているかあやふやで。
「この公式は——」
納得したように頷いて、ノートを懸命にとる生徒たち。
僕だけが、自分の言っていることを理解していない。教える立場のくせに、自分が黒板に何を書いているのか自覚していない。
目の前に座る三十数人の未来の基礎を、輝くための原初の灯を点すかもしれない仕事を、今僕はやっているのだ。
それなのに。
僕の言葉は空虚だ。
空気を伝って音になっているのかもわからない。
重さのない言葉たちは、誰の背中を押せるのだろう。
*****
「僕も、紫苑も、何も知らないんだよ」
口から出たその言葉だけが、はっきりと耳に届いた。
気づけば生徒たちは消えていて、目の前には黒い扉——緋村家の扉が静かに立っていた。
僕は天野志郎。水鳴高校の二年生で、どこにでもいる学生だ。社会人になってもいなければ高校の教師ではないし、陸上部の顧問でもないし、結婚なんてしていない。
そんな未来は知らない。
知らない未来の言葉を口にできるわけがない。
たとえそれで生徒たちが笑顔になっても、前に進めましたと言ってくれても、実感の無い達成感ばかりが空しく溜まっていくだけ。
何も手に入れられない。
何も与えられない。
それは誰にも灯を点せないし、誰の灯も見ることはできないという意味だ。
「きっと紫苑だって、この世界じゃ医者になることをできても、人を救うことなんてできない」
厳しい言葉だ。でもそうだろう。
今、紫苑にある知識がどれほどのものか分からない。
難病から人を救う。どれが適した治療法で、何の薬が一番効果的なのか。その名前は、治療期間は、副作用は。苦しんでいる人に、どんな言葉をかけるのが一番落ち着かせることができるのか。
いったい今の紫苑がどれだけのことを答えて、実行できる。
いくら勉強ができても紫苑だって学生だ。医者になるために大学へ行く。そのための受験勉強はできる。ある程度の知識は得ていても、机に向かっているだけでは超えられない壁はある。
「僕はさ、学校の先生になる夢は忘れたのかって聞かれたとき、思い出したんだ。本当にぼんやりとだけど、小学生の時に先生に褒められて背中を押されて、すごく嬉しかった時の記憶。他の人から見たら大したことない話かもしれない。だけど僕にはそれが新鮮なことで、自分を肯定した初めての記憶みたいなもので。そうやって背中を押す人になりたいと思った。そうなりたいと思い出させてくれたのは紫苑だったんだよ」
今まで直接伝えることの無かった気持ちを、声に出す。
知らないものにはなれない。
紫苑と出会って、話して、僕が夢を思い出せたように。
きっと現実でも知らないことを知って、知らない人に出会って、できないことができるように成っていく。
「壁を越えた先で、紫苑と一緒に歩きたい。こんなところで枯れていく姿なんて見たくないんだよ」
結局、最後はわがままだ。
「志郎は、一緒にいてくれないの?」
あの日から初めて、扉の向こうから声が返ってきた。
か細い、今まで聞いたことのない弱った声。小さい子どもが泣きはらした後のような、胸が締め付けられるような声色。
この夢の世界に、一緒にいて欲しいと言われている。
僕は目を閉じる。
望めば、きっと記憶を消してこの世界に残れる。死ぬまで。
恋人や友達に囲まれて、誰かの背中を押した気になって、誰かの命を救った気になって。
「また、来るよ。何度でも」
紫苑の質問には答えない。
前に進んでいく姿。それが見たいから、僕は教師を目指そうと思った。
ここで紫苑を現実に戻さずに見捨てるのは、憧れを抱いたあの時の自分を裏切ることにもなるのだから。
「……ん?」
僕は帰ろうとして、扉に背を向ける。
見慣れた歩道だったものはぐにゃりと形を変えて、様々な景色が流れては消えていく。
確実に、何か不思議な力が働いている。僕は身構えて、心を強く持とうとする。理由はどうあれ、ルサルカは僕たちを自身が作った夢の世界から出す気はない。どんな甘い手を使って閉じ込めようとするか分かったものじゃない。
風景が、薄暗い室内に定まった。見渡すと、大きな本棚に囲まれてソファが二つ、四角いガラステーブルを挟む形であった。
目の前には’緋村誠一’と書かれたネームプレート。
あまり思い出したくはないが、僕は廃病院の院長室に再びいるようだった。
「今度は、なんだよ。説得なら聞かないからな」
どこかにまたあの悪戯な笑みを浮かべて、白髪の少女が立っているのではないかと低い声で言い放つ。
返事はない。
しんと静かな室内、この暗さから時間帯は夜中か早朝なのだろうか。
再び部屋を見渡してから、僕はあるものに視線が吸い込まれる。
’それ’は別に特別なものでもなかった。
そこにあっても不自然ではないし、緋村誠一にとって必要なものだったと言われればそうかもしれないと、想像に難くない。
だからそんな難しくない想像をして、僕は少し胸の中が温かくなるような気がした。
そういうことかもしれない、と。
自覚した途端、景色が再び流れ始める。
再び止まった時には時間も場所も変わって、朝方、学校まであと数分の通学路に僕は立っていた。
「寒い……気がする」
相変わらず感覚は曖昧だ。
ただ一つだけ確かな予感はあった。
待てば良い。待てば海路の日和あり。
クイズ大会に向けた勉強中に、紫苑と一緒に覚えたことわざが頭に浮かんだ。
*****
「また、来るよ。何度でも」
扉の向こうで声がした。
ずっとカーテンを閉め切っているから、今が朝か夜なのかもわからない。何時間経っていて、いつ寝ていつ起きているのかも曖昧だ。
それでも起きるたびに志郎の声が聞こえる。
私はもう、頑張れない。
志郎にはそう伝えたつもりだった。
あの時の顔が脳裏に浮かぶ。口を開けて、目を見開いていた。
失望しただろうか。悲しんで、いるだろうか。表情を読む前に目を逸らしたのは私だった。
目を逸らして、耳をふさぎ続ける。いっそ、うるさいと言って追い返せば、志郎は声をかけてこなくなるのだろうか。夢だからありえそうだ。でも私はそんなことはしない。追い返してしまったらもう二度と、夢の中には現れてくれないような気がする。
できれば志郎だって夢の中にいてほしい。
家族以外で、私を私として認めてくれた人。
医者になるための勉強。高得点のテストとその他成績。認めてくれた部分は確かに他の人と同じだった。
けれど私の過去を知ったうえで、私ががむしゃらに歩いてきた道筋それ自体を肯定して、尊敬して、褒めてくれた人はいなかった。
彼はわがままだと言った。そうなのかもしれない。だけど私にはそれが必要だった。
きっとお母さんが生きていたら同じように期待をかけてくれるのだろう。お母さんと同じくらいに、志郎という存在が私の中で大きく、大切なものとして刻まれていた。
だから二人がいるこの世界を、私は手放したくない。
ここにいても良い。ここに、いたい。
——何も頑張っていない私を、お母さんと志郎は認めてくれるの?
「……うるさい」
扉の向こうにいる志郎に聞こえないようにつぶやく。
もちろん、彼に放った言葉ではない。頭の中で、自分の声がしたのだ。
甘えるなと、叱責の声が聞こえた。そんなことは分かっている。何もしないものに、何も得ることはできないし、何者にもなることはできない。
でも。
身体に力が入らない。何かをやろうという気力が湧いてこない。
思考が霧散してまとまらない。
私は何をしたかったんだっけ。私は何に、なりたかったんだっけ。
医者になりたかった。
医者になって……。
なっても、お母さんは戻ってこない。お父さんができなかったことができるようになったって、治せなかった病気を治せるようになったって、死んでしまったお母さんは戻ってこない。
現実にいながら、私は私自身にずっと夢を追わされてきたのだろう。
それは志郎が憧れるような綺麗な輝きじゃなくて。
掴もうとすれば掻き消えてしまうような、幻影だ。
*****
何日間か眠り続けていたのだろうか、起きたら頭が重かった。
扉の向こうから志郎の声は聞こえなかった。
もぞもぞとベッドから起き上がって、そっと扉を開ける。
廊下を静かに歩いて、リビングまで移動する。人の気配がしなかったから一瞬夢から覚めてしまったのかと焦ったが、テーブルに載ったラップのかかったご飯と、置手紙を見て安心した。
―—市役所に用事を済ませついでに、お父さんにお弁当を届けに行ってきます。夜ごはんは何が良い? 考えておいてね。お母さんより。
時計を見ると時間は十一時を少し回っていた。
こういう日もあった。お父さんが朝早く出かけなければならなくなった日、お母さんが病院までお弁当を届けに行っていた。
お弁当は私が作る日もあって、その時に卵焼きの作り方を教えてもらったのだっけ。
ふと流し台を見る。卵焼きを作るために買ってもらった小さい、赤くて四角いフライパンは奇麗に洗われて置かれていた。
こういう日はおとなしく、テレビを観たり本を読んで待っていた。お母さんが出すクイズに答えるためにナゾナゾの本を読んだり、医療ドキュメンタリーやドラマをぼーっと眺めたり。
後者は話の内容をよく理解しないまま観ていた気がする。ただ懸命に患者を救おうとする医者の役者を、父親に重ねて観ていた。そんなことを今になってぼんやりと思い出す。
「……」
同じことをすればいい。あの時の生活が私の望みなのだから。
リモコンを手に取って、電源ボタンを押す。テレビショッピングや昼のバラエティが流れる中、よく観ていた医療ドラマがやっていた。
少し観て、すぐに電源ボタンを押す。内容はほとんど頭に入ってこなかった。
表情のない顔が暗くなったモニターに映し出された。今は気分ではないらしい。
それならナゾナゾの本を読もう。
自室に戻って、子ども向けのキャラクターが描かれた置き型カレンダーや、家族三人が映った写真立てが並ぶ本棚が目に留まる。雑多な本の中から薄い絵本を取り出してページを開くと、幼稚な絵とともに簡単なクイズが書かれていた。小さい頃はここに書かれたクイズを暗記して、お母さんにクイズを出されるたびに答えては褒めてもらっていた。
今、このクイズを解いても変わらないあの笑顔で褒めてくれるだろうか。私が望めばきっとそうしてくれるのだろう。
同時に頭に蘇ったのは、水鳴祭で懸命に走る志郎の顔。
私が答えて、志郎が走る。
ただ楽しかった思い出。あの感情を何と呼ぶのか、分からない。私も一緒に走っているような、同じ方向を向いてゴールを目指しているような感覚。
絵本を閉じて、頭を振る。
もう現実に戻らないことにしたのだ。今さら思い出して何になるというのだろう。私が望めば水鳴祭の時の夢なんてきっといつでも見返せる。あの興奮をいつだって再現できる。
「散歩でも、しようかな」
誰に言うでもなく呟いて、私は立ち上がる。
家の中にいたら余計なことを考えてしまいそうだったから、久しぶりに外に出ることにした。この時間ならみんな学校にいるし、誰かに出会うことはないだろう。
靴を履いて、扉を開ける。
数日ぶりの外の光が眩しくて、私は目を瞑る。
澄んだ広い青空に、ゆったりと、雲一つ纏わず浮かぶ太陽。
すっかりと冷たくなった空気を、私は深く吸い込んで、吐き出す。
心の中は自分でも認識できない、いろいろな感情が混ざってせめぎあっていたけれど。
頭の中は深呼吸のおかげか、やけにすっきりとしたような気がした。




