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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route Crimson
14/36

ルサルカ

「志郎……?」


 ガラッと引き戸が開いて、息を切らして目を丸くした紫苑が姿を見せる。

 黄色い花柄の寝巻に、水鳴校のジャージを羽織っている。可愛い、なんて声が一瞬漏れかけたけど、泣きそうになっている紫苑の顔を見て口が閉まる。


「ご、ごめん、紫苑。お姉さん? に割と強引に連れ込まれちゃって。あーいやいやこれだと語弊が酷いな。えーと……」


 勢いに流されたとはいえ本人の許可なしに家に上がるべきではなかったか。

 ごちゃごちゃと言い訳をする僕を尻目に、紫苑は俯いてから、何も言わずにリビングの方へ振り返る。それから、すたすたと歩いて食卓に着いた。


「あ、あれ。紫苑?」


 てっきり怒られるかと身構えていた僕は、予想外の薄い反応に間抜けな声を出す。けっこう本気で謝るために言葉を探していたのだが。

 恐る恐る、僕も同じようにテーブルに近づくと、近くの席に座ってくれと言わんばかりにお姉さんが笑顔で頷いていた。


「お邪魔しまーす……」


 紫苑の隣の椅子に座って、横顔を見る。目の前の豪勢な食事に似つかわしくない、まるでこれから毒でも食らうのかというような思いつめた顔をしていた。

 それは出会った時のような張りつめたような感じではなく。気まずいような、居たたまれないような、そんな表情。

 まぁ、いきなり部外者が入ってくればそれはそうだろう。明日、紫苑が学校に来るようならちゃんと謝っておこう。

 というかまずは、なぜ僕が緋村家を訪れたかもちゃんと説明をしておきたいのだが。


「よーし、できた! 紫苑の好きな卵焼きよ~」


 話を紫苑に振る前に、お姉さんの上機嫌な声が耳に届く。

 ハンバーグ、サラダ、味噌汁、ご飯、そして最後に小皿に乗った卵焼きがテーブルの上に置かれる。

 その他のいろいろな料理の匂いが鼻から体内に通り抜けていって、腹の虫が騒ぎ出す。紫苑には申し訳ないが、みっちり放課後まで勉学に励んだ男子高校生にこの食欲の誘惑は強すぎた。


「お腹空いたでしょ。おかわりもあるから好きなだけ食べて行って。紫苑がお友だち、しかも男の子を呼ぶなんてもう何年もなかったんだから嬉しくて」

「あはは、ありがとうございます。いつも仲良くさせてもらって、勉強も見てもらっているんですよ。本当に紫苑さんは教え方が上手で、頼りになって……」


 疲労と空腹と緊張で自分が何を言っているか分からない。助けを求めるように紫苑の方を向くと、もぞもぞと肩を上げて顔を赤くしていた。

 どうやら助け舟を出せる状況ではないらしい。

 そこから先は何を話したのか記憶にない。

 お姉さんが本当に嬉しそうに反応してくれるから恥ずかしさを飛び越えて学校での些細な出来事や文化祭の思い出までいろいろ喋ってしまったし、ハンバーグをはじめ料理の数々が美味しくて箸も止められなかった。

 徐々に紫苑も口を挟んでくれるようになったが、あくまでメインターゲットは僕のようだった。

 

「そんな頼りがいのあるお姉ちゃんみたいになってるのね。お母さん嬉しいわ」


 会話も食事も落ち着き始めた。

 取り留めのない僕の言葉もひとまずは伝わったようで、お姉さんは紫苑に優しい声と笑みを向ける。

 ……。

 お姉さん。

 いや、違う。僕は今聞き逃してはならない言葉を聞いた。


「……お母さん?」

「えぇ、そうよ? 紫苑のお母さんでーす」


 何の問題も不自然もないはずだと、その爛漫な笑みは伝えていた。

 娘がいて、母親がいて、帰りの遅い父親がいる。どこにでもいる家族。

 でもそれは緋村家には当てはまらない。

 だって母親は——。


「紫苑?」

「……」


 紫苑は誰の死を繰り返させないつもりで医者になろうとした?

 誠一さんは廃病院で、誰の死に絶望して紫苑との心の距離を離してしまった?

 たとえ廃病院での出来事が僕の見た幻だとしても、紫苑の口から母親が亡くなったことは確かに聞かされていた。

 泣いていた幼い紫苑と、項垂れる父親。その隣に微動だにせず横たわっていたのは——。

 僕は視線を再び目の前に移す。


「……やめて」


 隣から言葉が漏れた。

 うめき声にも似た吐息とともに、紫苑は何か音を絞り出そうとする。


「天野君、卵焼きも食べてみて。紫苑が大好きなのよ」


 遮られるように、紫苑の声は聞き取れない。今度は別の意味で早鳴る僕の鼓動など露知らず、紫苑のお母さん——秋華さんは笑って小皿に乗った卵焼きを勧める。

 艶のある黄色が眩しく、ふっくらとしたフォルムが可愛らしかった。

 そういえば前に紫苑が自分で作った弁当にも卵焼きが入っていたっけ。絵裡が餌付けされていた時、もとい味見をさせてもらっていた時は甘い卵焼きだと言っていた。

 ダメだ。思考が理解を放棄して、このあり得ない現実から逃げようとしている。


「……」


 地面に穴が開いて、宙に浮いたような感覚。

 急に心もとなくなって、僕は確かな感覚を得ようと卵焼きを口に頬張る。

 味がしなかった。

 噛んで、咀嚼している感覚も飲み込む感覚も多少はあるが朧げで。


「——」


 秋華さんが笑って何かを問いかけてくる。

 紫苑が横で何かつぶやいている。

 トンネルか、あるいは風呂場にいるときのように響いて。同時に水の中の声のように、聴きとりづらい音として僕の耳に届いて理解ができない。

 気づけば僕は椅子を蹴飛ばして、リビングのドアを開けていた。

 走って、そのままの勢いで体当たりのごとく玄関の扉を開ける。どこが前で、自分がちゃんとまっすぐ立って走れているのかも怪しい。


「はぁ、はぁ……!」


 外はもうすっかり暗くなって、いつもならかなり冷えるはずだ。

 それなのに肺に入る空気も、肌に触れる風も感覚が鈍い。走ったくせに、足にかかる自分の重さはさほど感じず、息苦しさだけが胸に残っている。


「あぁ、そうか」


 苦しさの中で急激に自覚する。僕がずっと目を背けていた感覚に。

 幸せだったから結論は出さずにいた。僕の人生がこんなに急に上手くいくなんておかしいと思わなければ駄目だったんだ。


「志郎!!」


 紫苑が僕を呼ぶ声だけは鮮明に聞こえた。

 心配そうにのぞき込む紫苑の顔も、気を抜くともやがかかって見えずらくなりそうで必死に目を凝らす。


「ごめん紫苑。急に走って出て行ったりして」


 やっとそれだけ言って、僕は深呼吸をする。幾分か落ち着いて、紫苑の顔を真っすぐに見る。輪郭ははっきりとしていた。

 再びぼやけないうちに、僕は言う。

 目の前の紫苑はどういう存在なんだろうか。

 ’僕が作り出した幻想’なのだろうか。

 それでも。


「紫苑、これは夢だ」

 

 それでも言葉にして言わなければならなかった。

 言えば全部が崩れてなくなってしまうかもしれない。夢は夢だと自覚した瞬間に急速に消えて、現実へと連れ戻されてしまう。

 そして夢の内容はほとんど覚えていられない。

 どこからが夢で、どこから現実が始まるのだろう。

 せめて放課後、あの夕日に照らされた紫苑が目に焼き付いたのは、現実だったと思いたい。


「……違う。やめて」


 目を閉じて、現実に戻る覚悟をした。

 返ってきたのは悲痛な声。涙を流す紫苑の顔だった。


「たとえ夢だとしても、ここが私のゴールなのよ、志郎。私はここに来たかった。勉強を頑張っていたのも、医者を志したのも、全部お母さんがいるこの世界に来るため。私はあなたが望んだ灯じゃない。私は、お母さんに褒めてもらえればそれで良かった。頼もしいお父さんの背中を見て憧れていられれば、それで、良かったの」


 決壊したダムのように言葉を紡ぐ。

 聞きたくない言葉ほどはっきり聞こえて、見たくないものほどはっきり見えるものだ。

 そこにあるのは悲しさだけだろうか。しゃくりあげるその声は、言葉の真意を曖昧に聞こえさせる。

 僕が望んだ灯じゃない。

 今、僕がいるこの場所がどういったものなのかはわからない。けれど紫苑は素直にそう思ってしまっているのだろう。

 僕の中で彼女の輝きはずっと変わっていないはずなのに。

 紫苑は夢から覚めようとしていない。

 でも彼女をこんなに泣かせ続けるくらいなら、これはきっと悪夢と同じだ。覚めてしまった方が良い。


「うおおおおおおおっ!!!!」


 叫んで、背後にある電信柱に拳を突き出す。

 鈍い感覚と痛み、のようなものが手の甲から全身を駆け巡る。


「な、なにしてるの?!」


 紫苑の驚嘆の声を聞き流して、何度も何度も殴りつける。

 肉が裂けて、骨が砕ける勢いで殴っても、血どころか擦りむきすらしない拳。

 体育館で転んだときはちゃんと擦りむいて、治療してもらった時の痛みすらもあったというのに。

 それが尚更、この世界が夢なのだと自覚させる。

 どうやったらこの世界は壊れる。

 どうやったら、紫苑の涙を見ないで済むんだ。


「僕、悔しいよ。ちゃんと僕には紫苑の光が見えていたんだ。これが夢だったなんて思いたくない。夢なら、現実に戻って見るんだ」


 振り上げた拳を降ろして僕は言う。

 残酷なことを言っている自覚はあった。ただのわがままだ。

 母親をどれほど慕っていたかは分からないが、それでも大切に思っていたかどうかくらいは、あの廃病院で泣いていた小さな紫苑を見ればわかった。

 そりゃそうだ。できたら幸せな時間に浸っていたい。嫌なことなど考えなくて良かった時間に。

 僕だってそうだ。

 ―—。

 一瞬、頭の中をかき回すような不快な記憶が浮かび上がって、消える。

 覚えていない、思い出したくないけれど、僕にもきっとそんなことの一つや二つあったのだ。

 嫌なことが消えて、都合の良いことや楽しいことだけがずっと続けばそれは本当に幸せなことなのだろう。


「もう、疲れたの。私は……たとえ夢だとしてもここにいたい。結局私はこの’家族’を取り戻したいだけだった。そんなこと現実でできるわけないのに。お父さんができなかったことをすれば、私はお母さんが戻ってくるとでも思ってたんでしょうね。ずっと、ずっと……私のやってきたことに意味なんて無かったのよ。私は医者になりたかったわけじゃない! もう、私は自分が分からないの。それに……」


 紫苑は顔を歪めて、息を呑む。

 逡巡してから一息に、消え入りそうな声で言った。


「休んで良いって言ったのはあなたじゃない」


 追い打ちのように言葉の波が襲い掛かる。波に押されて、僕は膝をついて崩れる紫苑を支えてあげることすらできなかった。

 紫苑の慟哭が耳を劈き、胸を抉る。

 こんな時にだけ、音が鮮明に聞こえるのは嫌がらせか。

 誰の。この夢は、誰の悪夢だ。


「君が見ている夢であり、緋村紫苑が見ている夢でもある」


 紫苑の悲痛な叫びに混じって、鈴のような声が頭に響く。

 反射的に後ろを振り返ると、さっきまで殴っていた電信柱の背後から、水色の少しぶかぶかのパーカーに身を包んだ女の子が姿を現した。

 直後、強烈な既視感。

 どこかで会ったことがあったか。

 それよりも耳に入った言葉の方が重要だった。


「きみは……」


「水の事故で死んだ女性、洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊などがなり、美貌や優しい声、夢を見せて人を魅了すると言われる、スラヴ神話に登場する水の精霊を何という?」


 誰で、どうしてそんなことを知っている。無意識に身構えていたが、聞き覚えのあるクイズを挟まれて質問が止まる。

 もうだいぶ昔の記憶を掘り返された気分だ。確かこれはクイズ大会の最後の問題。僕には想像もつかない答えだった気がする。


「答えはルサルカ、だったよね志郎。そんなんじゃ、紫苑ちゃんをクイズクイーンになんかできないよ? あぁ、あの時は志郎ちゃんが走ってたんだっけ。こりゃ失礼」


 おどけたように笑う女の子の髪は、月明かりに照らされて絹のような白色だと分かった。

 異常な存在であることは想像がついていた。

 僕と紫苑の名前を知っている。

 この世界が夢であると、僕と紫苑の認識を、さも知っているかのように口にする少女。


「私はまさに、そのルサルカさ。君たちの記憶や感情から、この素晴らしい夢の世界を作った天才ちゃんだよ。君たちが没頭さえしていれば、かなりリアルに五感やら招待客以外のモブたちの感情まで作り上げたつもりだけど、どうだったかな? 楽しんでくれた?」


 小さい女の子の冗談、と言うには、すでに抗えない納得感があった。

 すべて夢であるならば、今まで見なかったことにしていたこの約一か月間の不可思議なことにも説明がつく。


「招待客って、なんのことだ。招待された覚えなんてない」

「したけどな。あの手紙を受け取って、君たちはここへ来た。この夢幻の城にね」


 夢幻の城。

 その単語を聞いた途端、頭が割れるように痛む。

 手紙。そう、確か郵便受けに入っていた。紫苑にも手渡したような映像が、うっすらと頭に浮かぶ。

 探検部で、はしゃいで自転車を走らせた記憶。

 湖に浮かぶように建っていた、城。

 不完全だが徐々に、記憶のかけらが修復されていく。あの時点が、夢の始まりか。

 そして本当に目の前の少女は、人外の類なのか。

 少女——ルサルカの言葉をそのまま受け取るとして。

 招待客は僕と紫苑、そして探検部のメンバーか。先生や家族、もちろん紫苑のお母さんも作り出されたもの。


「夢を夢だと認識してしまうと一気に現実に引き戻されてしまう。確かにそうだ。だから君たちは今になってこんなにも違和感に苦しんでいる。どう? 君たちが望むならこの数日の記憶を消して、幸せだけを感じていた夢に戻らせてあげる。君たちが望むものを手に入れられる。紫苑ちゃんなんて特に、ここ一週間は苦しそうだったからね。早く戻してあげたくて仕方がなかったよー。本人が望まないと私も記憶を消せないルールでさぁ」


 ぺらぺらと、さも労わるようにルサルカは言うが、嘘がガラスのように見え透いている。

 彼女は楽しんでいる。

 クイズ大会で膝を擦りむいた痛みも、毎日のように食べていたお弁当の味も、すべて夢の産物で。

 夢だったがゆえに紫苑は離れることができず、苦しんでいる紫苑の姿を見て愉悦を感じている。僕にはそう見えた。


「今、なんか失礼なこと考えたでしょ」

「きみが正真正銘の悪魔だということに納得がいっただけだよ。僕たちを現実へ帰してくれ」


 恐怖よりも先に、ふつふつと怒りが湧いてくる。それを抑えずに僕は言い放つ。

 自覚したとたんに覚めるというのであれば、とっくに僕らは夢から覚めることができるはずだ。


「本当にそれでいいの?紫苑ちゃんの気持ちも、少しは考えてあげたら? どうせ死ぬなら幸せなまま死のうよ。紫苑ちゃんはこのまま夢の世界にいたがっている。志郎もその方が良いよ。夢を見つけて、恋人もできて。順風満帆じゃないか。現実の世界じゃ君みたいな子を好きになるもの好きはそういないよ? 夢から覚めたらすべてなかったことになる。クイズ大会で紡いだ絆も、君に見せた紫苑の笑顔も。あの頃のように、ただ遠くから見ているだけの君になる」


 ひどい侮辱を受けている気がするが、確かにその通りだ。

 僕みたいなうだつの上がらないやつが現実世界で紫苑みたいな可愛い女の子に近づけるわけがない。ましてやペアを組んで大会で優勝して、放課後に勉強会までするなんて。

 夢のようだった。実際に夢だったのだ。

 だけど。


「招待客に紫苑が含まれているのなら、これまで彼女が口にしたことは、紫苑自身から出た言葉だろう。たとえ今、紫苑が夢に縋っていたとしても、あの時の輝きは本物だ。父親を超える医者になるって。どんなことでも超えていきそうな覚悟をもって言ったあの言葉に嘘なんて混ざっていなかった」


 僕自身の希望も入っているのは確かだ。

 綺麗なものは綺麗なままで。

 そんな潔癖を、紫苑に押し付けている。嫌と言うほど分かっていたけど、せめて彼女だけでも現実へ帰って、輝き続けるべきだ。

 少し休むくらいかまわない。僕の許可なんていらない。

 医者にでもなんでもなりたいものになって、その先の道も歩き続けてほしい。

 欲を言えば僕だってその隣を歩きたいけれど、もしどちらか一方しか助からないというのなら紫苑を選ぶ。


「もう彼女は医者を目指さない。君も夢を追いかけるなんてらしくないことはやめなよ。のんびり平穏に生きられれば良い。それが君の望みだったじゃないか。望むならここで私に会った記憶を消して、もう一度夢に浸らせてあげる。もしも現実に戻ったら、ここであった出来事は数時間で忘れてしまうような朧げなものになってしまうんだよ」


 確かに平穏を望んだ。

 絵裡や翔、翠谷と一緒に続く、劇的ではないけど穏やかで楽しい日常。

 

「それでも良い。夢だろうが現実だろうが、僕が緋村を追いかけたいと思ったこの気持ちは本物だ。緋村の隣に並びたいと思ったのは本当だ」


 仮に現実に戻れても、僕たちはただのクラスメイトに戻るだろう。ここで見つけた未来の夢を目指すかもしれないし、また変わらない日常を選ぶかもしれない。

 それは分からない。

 でも少なくとも今は未来を選ぼうとしている。

 後ろを振り返る。

 泣き叫んで疲れたのか、紫苑は肩を震わせて唇をかみしめていた。僕らの会話が聞こえていない様子だった。


「この時間だけ、君たちの視界を切り替えた。志郎から見たら紫苑ちゃんは泣き続けているし、紫苑ちゃんの視点では、志郎はただ茫然と立ち尽くしているだけ。可哀そうに。彼女があんなに泣いているのに、彼氏は慰めの言葉一つかけずに突っ立っているだけに見えている。彼氏失格だねぇ、志郎ちゃん」


 煽るようなルサルカの言葉を無視して、僕は紫苑の手を取る。

 かける言葉は見当たらなかった。

 力なく立ち上がった紫苑の手を引いて、緋村家へゆっくりと歩を進める。いくら夢でもこんな寒いはずの夜道に一人残しておけない。


「可哀そうに。前に進むことがそんなに良いことなのかな」 


 背後から憐れむようなルサルカの声。

 視線を落とすと、俯く紫苑の顔。

 心が痛まないと言えば嘘だ。こんな紫苑の顔は一秒たりとも見たくない。

 母親のいるこの世界に残れば、少なくとも笑うようになってくれるのだろうか。

 よぎった余念を振り払って、僕は振り返らずに真っすぐ歩き続けた。


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