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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route Crimson
13/36

曇り空

 とんとんとん、と。

 包丁がまな板を叩く小気味のいい音がして私は目を覚ました。

 こんな起き方をしたのは何年ぶりだろう。もう二度と、こんな目覚ましで起きることはできないと思っていたから、目を開けたときは自然に涙が流れていた。


「誠一が今日も早く出るって言うから朝ご飯簡単になっちゃったよ」

「ごめんって。とか言いながら一汁三菜出してくれるアキはさすがだよ。うーん、今日も味噌汁が美味しい……」


 目をこすりながら寝室を出ると、そんな会話が耳に入ってきた。

 いつか聞いたことあるような言葉、あの時の風景が、食卓が広がっていた。

 ご飯に味噌汁、焼き鮭にほうれん草のおひたし、それと卵焼き。簡単、と言いつつ並べられた献立が私は好きだった。見た目の色合いと、特にその中で卵焼きが大好物だった。


「あ、おはよう紫苑。朝ご飯食べられる?」

「……うん」


 寝て起きても夢は覚めず、母はあの時と変わらない笑顔で朝ご飯を作ってくれた。

 父も珍しく食卓にいて、母がいることが当然かのように振舞っていた。心なしか若返ったようにも見える。

 時間が戻っているんだ。幸せだったあの時に今、私はいるのだと分かった。

 顔を洗ってうがいをする。いつもであればこれで目が覚めるけれど、今日はもやもやと頭にもやがかかった感覚が抜けない。

 ふらふらと食卓に着いて、食事を始める。目の前の父はいそいそとご飯をかきこんで今にも家を飛び出す勢いだった。

 そうだ。小さい頃の私は真似をして、喉に詰まらせていたこともあったっけ。

 私もいつかお父さんみたいな立派な医者になりたい。そんなことを思いながら追いかけようとしていたのかもしれない。


「いってきまーす」

「いってらっしゃい、頑張ってね」


 ぼんやりと思い出したのもつかの間、お父さんはご飯を食べ終わり、歯を磨いて、着替えて出て行ってしまった。

 私もいそいそとご飯を口に運ぶ。のんびりしてしまった。いつもならすでに家を出る時間なのに。

 

「紫苑、いってらっしゃい」

「……行ってきます」


 言われて、私は嬉しさがこみ上げると同時に、言葉に詰まる。

 誰かに’いってらしゃい’と言うことも言われることも久しくなかったから、返事を忘れかけてしまっていた。

 行ってきます、か。

 この夢が覚めたら、誰にも言う機会は訪れないのだろう。

 非現実であることを自覚すると急に、いろいろな感覚があやふやになる。

 朝ご飯に食べた卵焼きは、懐かしい味がした。甘くて、ほんの少ししょっぱい。口に運んだ時、確かにその味を感じた……気がした。それは卵焼きを食べたときに確かに感じたものなのか、記憶を元に錯覚したのか、私は確かな実感を持てずにいた。

 ドアを開けた手の感触も。土を踏む足の感覚も。通学路を通りすぎる車や他の学生の声もぼんやりと聞こえるような。


「おはよう。し、紫苑……」


 学校に着いて教室へ向かおうとすると照れくさそうな表情をした志郎に声をかけられた。

 志郎。

 あの日の帰り道に、二人きりの時はお互いに名前で呼び合ってみないかと話をした。恋人として新しく関係を始める第一歩というか、一緒に歩くためというか。


「おはよう志郎」


 口に出してみると志郎が照れくさそうにした理由が分かった。顔が一気に熱くなるのと一緒に、今までのあやふやだった感覚が鮮明に戻っていくような気もした。


「今朝はけっこう寒かったよな」

「え? あぁ、そうね」

「鼻の頭、赤くなってたからさ」


 志郎が笑って言う。

 朝、懐かしくて嬉しくて、いろいろな感情に涙が押し出されたことなんて言えなかった。

 亡くなったはずのお母さんが帰ったら家にいた、なんて尚更。

 チャイムが鳴って、授業が始まる。

 お昼ご飯を探検部のみんなで食べて、笑う。私はいまだに部には所属していないのだけど、もはや一員のようになってしまっていた。

 放課後は志郎と勉強会。始めて三週間と少し。彼の授業内容や知識の理解度は決して悪くはなかった。基礎さえ押さえればある程度の問題は解けるし、応用問題も数をこなせばもっとスムーズに解けるようになると思う。たまに分からない問題があって私に助けを求めるように、気恥ずかしそうに笑う顔もいじらしい。

 夜、他愛もない話をしながら彼と帰る。誰かが隣にいてくれるだけで、冬が始まりかけている暗い夜道もほんのりと温かく感じられるのだと分かった。


「おかえり、紫苑」


 扉を開けると、明るい部屋がそこにあった。

 テレビの中から聞こえる芸能人の笑い声、フライパンの上で野菜炒めが焼ける音と香ばしい匂い、炊飯器が作動する低い音、すべてが私を迎え入れてくれているようだった。

 幸せだ。

 全身の力が抜けていくのを感じながら、私はリビングまでふらふらとした足取りで入っていく。


「……ただいま」

「お腹空いたね。ご飯がもう少しで炊けるから、お風呂先に入っちゃって」

「うん、分かった」


 私は言われた通り、荷物を置いて風呂場へ向かう。

 心臓がどくどくと早鳴っている。まだ、この状況に慣れていない。いくら夢だと分かっていて感覚が曖昧でも、一向に覚める気配がない。

 このままここにいて良いのだろうか。仮に夢が覚めたら、クイズ大会に誘われることも、廃病院へ行くことも、そして志郎に告白されることもない日常へと戻っていくことになるのだろう。

 もちろん、お母さんがここにいてくれることも。

 手に入れることはないだろうと思っていた友だち、恋人、亡くした家族。

 すべて手にした後にこれは夢でしたといって、手放せと言うのか。

 全部私が望んでいたことだった。

 全部、手に入れられた。


「……」


 手洗い場の鏡をのぞき込む。

 映った顔は泣きそうな、でも幸せそうな顔をしていた。


「良いんだよ、ここにいて」

「っ?!」


 鏡の中の私が突然嗤って言った。頭に直接響くような声に、私は驚いて後ろに飛びのく。

 何だったんだ。私の顔が動いたような気がするけれど、私の声でも、ましてやお母さんの声でもない、少女のような声だった。

 おそるおそる戻って鏡をのぞき込むと、不安そうな自分と目が合った。

 ここにいて良い。

 夢はいつか覚めてしまう。それなら覚めるまで、夢を満喫しても良いのかもしれない。

 少し、疲れた。

 志郎の顔が頭に浮かぶ。私をかっこ良いと言って、隣にいてくれると言ってくれた人。彼ならあるいは、ここで横になることを許してくれるだろうか。

 少し、休むだけだ。

 ぷつりと、糸が切れる音がした。



*****



 文理共通の数少ない授業。その一つが英語で、今日は授業範囲の小テストだった。

 もともとできないわけではなかった教科ということもあって、手ごたえはそこそこあった。長文問題は紫苑との勉強会で何となくパターンを掴んだおかげで正解だと思う答案は書けたし、意味を思い出せない単語も結構あったが、そこも授業を思い出しながらなんとか繋げられた気がする。


「天野、点数上がったじゃないか。今回、同率一位だぞ」

「本当ですか?」

「次の期末は、お前の名前を優秀者一覧で見ることになるかもしれんなぁ」


 授業終了間近のテスト返却。名前を呼ばれて問題用紙を受け取りながら、英語の担当教師はそんなことを小声で言った。

 声のデカいことで有名な中年の男性で、一部の女子からは煙たがられている。けれどテスト返却の時は小声で一言、出来栄えを言っては褒めたり指摘したりをしてくれるパッション溢れる人で、そこそこ人気のある教師でもあった。

 ちなみに、今まで良くも悪くも普通の点数だった僕は、この先生に褒められるのは初めてだ。

 それにしても同率一位か。まぁ、誰かは予想がついているけれど。


「次、緋村」

「はい」


 何人かが名前を呼ばれた後、紫苑が席を立つ。きっとまた満点近い点数を取って褒められるのだろうと予想は付いていた。


「ずいぶん予想外なところで落としたな。こういうミスが命取りだぞ。緋村が目指すのは難しい大学だからな」


 けれど聞こえたのは予想外の言葉だった。

 教壇に近い距離にいたからより鮮明に聞こえてしまったけど、聞き間違いではないのだろう。

 そして後ろからちらりと点数も見えてしまった。一問程度の違いだろうけど、赤字で記された数字は——。

 僕の点数よりも低かった。

 そんなことがあるのか。あの緋村紫苑が、僕なんかより低い点数を取ることが。他の成績優秀者に越されるならまだしも、僕なんかに。

 紫苑に勝てて嬉しい、だなんて品のない喜びは微塵も沸いてこなかった。


「はい、頑張ります」


 紫苑は抑揚のない声で返事をして席へ戻る。

 そこには悔しさどころか、何の感情も読み取ることもできなかった。

 いつも通りのクールな表情、と言えばそれまでなのだが。

 瞳の中。そこにあるはずのものは無かった。

 自分の失敗は何が何でも取り戻そうとするのが紫苑だから、そこに宿るはずだったもの。

 強い光と言うべきか。

 それが見えなくて僕は急に不安になる。太陽を見失った向日葵みたいに、どこを見たらいいか一瞬だけ分からなくなっていた。


「次のテストは期末だな。もう残り一週間弱。小テストで出した問題も出るかもだから、しっかり復習しとけよー」


 すべて配り終えて、だみ声が教室と耳を揺らす。

 そんなに大声で言われなくても分かっている。紫苑との勉強会の成果が試される第一関門まで、残り数日。気を緩めてなんかいられない。

 けれど。

 窓際に座る紫苑に視線を移す。

 外を見ているようで、後ろ姿しか確認できない。解答用紙は折りたたまれもせずに、机の上に広げられていた。

 窓は一面灰色だった。最近は天気がすぐれないようで、雨が降る日もある。

 降らないと良いけど。折り畳み傘は、ちゃんと持ってきていたっけ。



*****



 紫苑が学校を休んだ。

 今日と言う日まで、少なくとも僕が知る限りは皆勤賞だった紫苑の初欠席だった。

 担任の先生が言うには体調不良とのことだが、詳しいことは分からない。チャットで訊いてみても返事は無いし、既読もつかなかった。

 少なくとも昨日の放課後の段階で体調が悪そうには見えなかった。しいて言うなら、少しぼーっとしていたような気がするくらいか。

 けどそれは、英語の小テストのことを気にしていたのだと思った。

 僕もあえて自分の点数は言わず、良い点数が取れたとだけ言った。紫苑の点数を図らずも知ってしまっていたから、あまり落ち込ませたくはなかった。紫苑が具体的にどこを間違えたか知らないけど、いつもだったらミスなく、それこそ満点を取れていてもおかしくない問題だった。

 二人で練習問題を出し合ったところがそのまま出てきて良かったわね、なんて笑っていたくらいだ。きっと本調子じゃなかったのだろう。

 あるいはテストを受けたときから体調があまり良くなかったとか。

 それなら結構な期間を無理をして僕に付き合ってくれたことになる。その場合は彼女の不調に気づけない彼氏失格な僕になるわけだけど。


「とりあえず授業に集中しないとな。紫苑だったらそう言うだろうし」


 答えの分からない問題にいつまでも囚われていても仕方がない。

 仮にスマホも見れないほど弱っているならどれだけ待とうが返信は来ない。

 紫苑の体調への心配以上に、次々と現れては消えていく嫌な予想を振り払って、授業に集中することにした。

 さすがにテスト一週間前ともなると、授業中の生徒の顔つきはほとんど険しくなる。念仏のように唱えられる数式も、鼓膜を破る勢いの英文も、どこがテストに出るか分からないから神経を尖らせているのだろう。

 それは僕も例にもれず。自分のノートにも板書しつつ、ルーズリーフにも同じ内容を書き写す。

 こんなものでも役に立てば良いが。


「翔、頼みがある」


 一時間目が終わって朝の挨拶もほどほどに、僕は移動教室で席を離れようとする翔に声をかける。次の理系クラスの授業は物理だったか。文系の僕にはほとんど馴染みのない教科だった。


「ワックのチーズバーガーで引き受けよう」

「まだ内容も聞いてないのに?」

「お前からの頼み事なんて珍しすぎるからな。これは奢ってもらえるチャンスだと思ったのさ」


 向かい合わせの翔は浮かしかけた腰を据えなおして、ニコニコしながらもそんな頼もしいことを言う。


「じゃあ遠慮なく。理系科目の板書と、宿題があれば余分にもらってきてほしい。し……緋村に届けてあげたいんだ」

「そういや今日は休みだったな、クイーンは。勉強会ってまだ続けてるんだよな? ずいぶん世話になってるなぁ」

「まぁ、恩返しみたいなもんさ。こんなので返せるわけじゃないけど」


 今更だが、紫苑と付き合っていることを翔や絵裡には伝えていない。いずれ伝えなくちゃややこしいことになることは分かっているのだけど、なかなか言い出せていないのが現状だ。期末が終わったら改めて探検部のみんなには言うつもりだけど、目の前のこの男にはすでにバレているような気はしている。


「オーケー、分かったよ。六時間目が終わったら届けるで良いよな?」

「助かるよ、ありがとう」


 ひらひらと手を振って、翔は荷物をもって席を立つ。ふっと一息吐いて、僕はその背中を見送った。

 とりあえず僕がカバーできない理系科目についてはこれで何とかなる。

 あとは僕が取りこぼしの無いように授業を聞くだけだ。


*****


 いつもある景色が無い、というだけで覚える違和感は結構大きいものなのだということが分かった一日だった。

 授業を文字通りいつもの倍張り切って、昼飯時にはへとへと。絵裡や翔が楽しそうに昨日やっていたドラマのことを話していたような気がしたが、ほとんど頭に入っていなかった。

 午後の授業は睡魔との戦いが常だ。集中力が切れたときは自然と窓際に視線が移るのだけど、今日はそこに映すものがなかった。

 陽の光には机だけが照らされていて、真剣なあの横顔も、水晶のような瞳もなかった。

 翔からノートやら宿題を受け取ったり、自分が受けた授業分の内容をまとめ直していたら結局、いつも勉強会を終える時間と同じくらいになってしまった。

 僕は別にノートの取り方だって上手ではない。もしかしたら紫苑なら、一日授業を休んだくらいじゃ遅れなんか取らないのかもしれない。

 それでもなるべく見やすいように、分かりやすいようにまとめたつもりだ。

 凝り固まった身体を伸ばして、校門を出る。

 夜風が痛いくらいに肌を刺して、すっかり冬の空気になっていた。


「よし、行くか」 


 目的地は緋村家。

 紫苑の家の住所はだいぶ前に聞いたことがあったし、一番近いスーパーに行く際に通る道に建っているから、実際に見たことも何度かあった。

 確か、コンパクトな賃貸の一軒家だ。同じような家がいくつか並んでいるうちの一つで、表札でしか見分けることができなかったような。

 夜の視界の暗さで少し迷って、家の表札を確認しながら回る怪しい人になりつつも、’緋村’と書かれた表札が目に留まって僕は足を止める。

インターホンを押そうとする指が震えていることに気づいた。寒さではなく緊張で。何も家に上がるわけでなく、少し会って宿題とかを渡すだけだ。長居して紫苑をこの冷たい夜風に当たらせて悪化させるわけにもいかないのだから。


「あ、そういえば事前に連絡してなかったな……」


 ボタンを押して、少し待ってから気づく。届けることに必死で、家に行くことを事前にチャットで伝えていなかった。

 今からでも送るべきだろうか。どこぞの羊さんよろしく、今あなたの家の前にいるの、とか。さすがにちょっと怖すぎるか。

 最悪、明日にでも渡せれば良いのだ。元気になれば一日くらいの遅れは紫苑なら取り戻せる。

 帰ろう。そう思って踵を返そうとしたときに扉から錠の開く音が聞こえた。


「こんばんは。どちらさま?」


 それはこっちのセリフだった。

 扉が開いて見えたのは、黒髪を肩まで伸ばした奇麗な、三十代くらいのエプロン姿の女性。少女のような活発な音の中に深みのあるような声、どこか既視感を覚えるガラス玉のような瞳。

 一瞬、家を間違えたのだと思って表札を見返すが、確かに緋村と書いてある。

 ということは、紫苑のお姉さんか? 姉がいることは聞いたことは無かったが、一人っ子だったというのもそういえば言っていなかった。

 それかお見舞いに来た親戚とか。お父さんは忙しくてなかなか帰ってこないというのは聞いたことがあるから、それが一番可能性がある。


「あの、紫苑さんの友だちで、天野と言います。宿題とか、今日の授業のノートとかを届けに来たんですけど……」


 いろいろと自分に納得させて、僕は身分を明かす。

 この様子ならきっと紫苑には会えないだろうから、気を遣わせる前にさっさと帰った方が良い。


「あら、紫苑のお友だち? わざわざありがとうね! 今日は急に学校に行きたくないだなんて言い出すものだから、きっと助かるわ」


 ノート類を渡して別れの挨拶でもしようとした僕の耳に、お姉さん——と便宜上呼んでおこう——の言葉が引っかかる。

 学校に行きたくない。

 おどけたようなこの言い方から、体調不良が欠席の第一の理由ではないのかもしれない。だとすると思い当たるのは昨日の小テスト。やっぱり紫苑としてはけっこう大きなショックだったのだろうか。

 たかが小テスト。少し前の僕なら鼻で笑っていたかもしれないが、今なら気持ちも少しわかる。

 端的に言えば努力が報われなかったということなのだから。勉強会を経て同じ立場なら、僕もそれなりに落ち込むと思う。


「あ、そうだ。せっかくだから、夕飯を一緒に食べていかない? ハンバーグ、ちょっと作り過ぎちゃったの」

「え、夕飯?」

 

 そんな僕の憂慮を吹き飛ばすように、お姉さんはそんなことを言う。

 あまりに突然のイベントに、頭が真っ白になって言葉を失う。普通に紫苑の家にも遊びに行ったこともないのに、いきなり夕飯をご馳走になるのはさすがに段階を飛ばしすぎではなかろうか。


「そんな、お構いなく。紫苑さんも体調が悪いって聞きましたし、悪いですよ」

「大丈夫よ、熱があるわけでもなし。気分的なものだから、きっとお友だちが来れば元気になるわ。どうせお父さんも帰ってくるのは遅いし」


 そう言って、断る間もなく僕は手を引かれる。洗い物でもしていたのか、やけに冷たい手だった。

 正直に言えば紫苑に会いたい。テスト返しが終わったあの日に、もっと気の利いた言葉の一つでもかけてやれれば良かった。それができずにこんなところで中途半端に帰ろうとするくらいなら、ちょっとでも話して笑顔の一つでも咲かせてやりたい。

 気づけば扉をくぐって、玄関で靴を脱いでいた。

 ハンバーグの焼ける良い匂いと、歌番組でもやっているのだろうか、テレビからは少し懐かしい曲が聞こえてきた。


「紫苑、お友だちが来てくれたわよ! 天野君ですって~!」


 リビングに入りがてら、お姉さんは階段の方に向かって紫苑の名前を叫ぶ。二階が自室なのだろう。

 テーブルには待っていましたと言わんばかりに、いろいろな料理が所狭しと並べられていた。誕生日会か何かが開催されるのかと思うほど豪勢だった。


「あ、手を洗うならこっちの部屋ね」

「なんだかすみません」

「良いのよ~」


 呆気に取られている間に、僕は洗面台のある部屋に案内される。とりあえず一度落ち着くためにも手洗いうがいだ。今の時期は気を抜くとすぐに風邪をひく。食事前だから特に入念にやっておこう。

 ついでに顔も洗って、一息つく。

 勢いで入ったは良いが、あまりにも勢いだけだ。

 女子の家に入るなんて、幼馴染の藍沢家以外ではやったこともない。初めての彼女の家で、いきなり食卓を囲むなんてそうそうないことだろう。

 失言や失態をせず無事に帰れるだろうか。

 緊張で心臓が騒がしくなり始めたころに、ドタドタと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。


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