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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route Crimson
12/36

よろしく

 それから一週間。ほぼ毎日緋村と一緒に勉強会を行った。

 時には宿題を見てもらったり、時には一問一答をクイズ形式でやってみたり。

 ここまで前向きに勉強に取り組んだのは正直初めてだった。


「はぁ~疲れたな。今日も頑張った!」

「あの問題、助けが必要かと思っていたけど自力で解けたのはすごかった」

「ありがとう、緋村のおかげさ。それじゃ帰ろうか」


 しっかりとお褒めの言葉を受け取りつつ席を立つ。窓の向こうはすっかり紺色に覆われていた。

 最近、帰りはだいたいこの時間だから、なるべく緋村と一緒に帰るようにしている。帰る方向はだいたい一緒で、途中で道が分かれる。家まで付いていこうかと提案したけれど、それだとさすがに遠回りになってしまうからと断られた。

 緋村家の住所を聞くに、送り届けてからさらに僕の家まで帰ろうとすると結構な時間がかかってしまう。


「あ、忘れ物」

「珍しいな。正門で待ってるから、取りに行ってきてくれよ」

「ごめんなさい。ちょっと待ってて」

「転ぶなよー」


 慌てる緋村なんていうレアな光景が見れたと思いながら、僕はゆっくりと階段を下りる。

 靴を履いて校門の方へ顔を向けると、人影が見えたような気がして思わず二度見をする。

 こんな時間に、というのはお互い様なのだが、少し警戒して近づく。


「よっ」

「絵裡。どうしたんだよこんな時間に」


 門の柱に隠れるように立っていたのは絵裡だった。

 すでに空は真っ暗。探検部で何かしら活動しない限りは家へまっすぐ帰っている時間帯だった。


「スタビに誘われてさ。その帰り道。いるかなーって思って。紫苑ちゃんは?」

「忘れ物だって。今取りに行ってる。それにしても、僕がひーひー言いながら勉強している間にカフェとは良いご身分なこって。用が無いなら帰ろう。こんな夜道は一人で歩くもんじゃない」


 絵裡も一応女の子なのだから。という言葉は胸の中にしまっておく。万が一不審者に絡まれてもこいつなら全速力で逃げられるだろうが、怖い思いは絶対にしてほしくはない。


「今、なんか失礼なこと考えたでしょ」

「滅相もございません」

「ほんとか~? それにしても志郎が勉強ね~。昔は私が教えてあげてたのに」

「高校受験のときか。その節はどうも。だいぶきつかったけどな」


 実を言うと、この水鳴高校に入学したのは絵裡がきっかけだった。

 高校受験時の僕は例によって何も考えていなかった。将来のことも、何をして生きていきたいのかも。ただ穏やかに日々が過ぎていって欲しい、怖いことや嫌なことが起きないで欲しい。そんな風に思って過ごしてきた。

 理由は覚えていない。なぜそんなに消極的な感情だったのかを、今の僕は思い出せない。

 そんな僕に、一緒の高校を受けようと言ってくれたのが絵裡だった。

 この天真爛漫な幼馴染は僕にとって平穏な日常の一部。それが維持されるのならと二つ返事をしたら、当時の僕にとってはそこそこ頑張らなくてはいけない高校だった。

 本当に適当にやっていた勉強を絵裡に厳しくサポートしてもらいながら、息も絶え絶えに合格できたのがもうだいぶ昔のことのように思える。


「ごめんね。あの時はけっこう無理させたよね」

「鬼教官だったな。正直失敗したと思った。軽はずみで誘いに乗るんじゃなかったーってな。でも結果的には良かったと思ってるよ」

「ほんと?」

「うん。不思議と馬の合う翔にも出会えた。翠谷が後輩として入ってきたときはびっくりしたけど、なんだかんだ楽しい。それに……」


 緋村紫苑に会えた。

 出会って間もない。その中で言葉を交わし、同じ試練を乗り越え、そして今同じ課題を解決しようと頑張っている。

 何よりも僕自身の意思で。

 こんな積極的に動く自分を二年前の僕が見たらなんて言うだろうか。


「ふふっ。あー、良かった!」


 いろいろと思いを巡らせていると、絵裡が満足そうに息を吐いた。


「何が」

「今の志郎の顔。絵裡ちゃんはそれを見られて満足ですよ」

「なんだよそれ」


 また訳の分からないことを、と言いかけて絵裡の顔を見上げる。

 確かに笑っていた。けれど同時に、少し寂しそうな、でも満足そうな。

 一言で表すには難しい表情だった。


「絵裡……」

「家まで走る! パフェ食べちゃったから消費しないと! じゃ、また明日ね志郎! サラダバー!」

「おい、帰るなら一緒に」


 僕の声は絵裡の背中には届く前に、その姿は闇に消えていってしまった。

 クイズ大会以降、走っていない僕の足で追いつこうとすれば翌日の筋肉痛は必至だろう。

 少しもやもやしながらも帰りの無事を祈って、後ろから近づいてくる足音が耳に入って振り返ったのだった。


*****


 それからさらに二週間が経過した。

 日中の授業を終えた放課後の時間だから、集中力の限度は二時間程度だったけれど、毎日休まず続けることができていた。

 数式や証明問題。暗記するために書き連ねた漢字、英単語、歴史や生物、化学の単語や仕組み等の図解。それぞれ別々のノートいっぱいにまとまって、それを眺めるだけでもかなりの満足感があった。

 理数系はまだまだ定着できているか怪しいところがたくさんあるけれど、少なくとも始める前よりは理解が進んでいるのは確かだ。


「なんだか暗記系の問題はクイズ大会を思い出すよな」

「ふふ、高校生レベルの知識で解ける問題も多いから余計ね」


 集中力が切れて、そんな雑談を投げてしまう。

 これもささやかな楽しみだった。終わった後に他愛のない会話をする。最近の緋村はすごく自然に笑ってくれるようになっていた。

 自分とはまったく違うタイプの人間だと思っていたの束の間。最初に抱いていた彼女との’違い’は何だったのかと思うほど普通に接することができているし、むしろ心地が良い。

 共通の話題があるかと言えば、正直なところかなり少ない。今も昔も緋村は漫画やアニメを観ないし、かと言ってバラエティ番組やお笑いにも疎い。

 小説は読むこともあるようだけどお堅いものばかりで、話を広げようとするとけっこう小難しい話になってしまう。これはこれでけっこう興味深いことを話せる時があるので、こういうタイミング以外の時にまたじっくり話せれば楽しいのかもしれない。

 

「そういえばクイズの問題をインターネットで調べているとき、雑学がたくさん書いてあるページを見つけてね」

「あぁ、まとめサイトみたいな」

「そういうものなのかしら。あれは知識の宝箱だったわね。知らなくても良いんだけど、知っていると楽しい知識があんなにあるなんてね」

「へぇー。でもまさか雑学に食いつくなんてな。例えば?」

「ポテトチップスは着火剤の代わりになる、とか」

「え、マジで? もうその言葉だけで面白いんだけど」

「ふふ。これが調べたら本当に着火剤として使えそうなのよ。ポテトチップスって要は油で揚げている芋でしょ? キャンプとか非常時に使えるんだって」


 まさかの雑学を楽しそうに話す緋村。

 クイズの力を鍛えるつもりがこんな寄り道をしているとは思いもよらなかった。


「でもほどほどにな。ネットの情報は息を吐くように嘘を書いてあることも多いからさ」

「あら、そうなのね。気を付けるわ」


 クイズや雑学の道ならまだしも、悪いインターネットの道には絶対に迷い込ませないようにはしたい。

 真面目なやつほど、正しく見えるような知識にハマって痛い目を見たり、膨大な情報の波に踊らされるイメージがある。僕自身もネットのメインストリームに乗れているわけではないが、SNSや掲示板、おもしろ動画サイトだったりはたまに目にする。緋村は真面目な分、ああいったものを素直に信じてしまったり、捻くれた影響を受けてしまうかもしれないと思うと震えてくる。


「それか、そういう大量にある雑学の中でどれが本当に正しい知識なのかってのを、本とかで徹底的に調べてみるのも楽しそうだけどな」

「それこそ大学生っぽい。医学部の大学生活でそんなことをしている余裕は無いのかもしれないけど、できたら楽しそうね」

「大学生活か……」


 大学は遊びの場と揶揄されると同時に、本来はとことん知識を追求する場とされている。

 さすがに雑学王になるつもりはないけれど。

 もし同じ大学に入ることができたのなら、ただこうやってのんびりと、ああでもないこうでもないと話をするのは楽しいだろう。

 医学部と教育学部でかみ合う話題が果たしてあるのかとか、そんなことは今想像つかない。

 ただそんな未来に行けるのならここが頑張り所なのだと思う。


「もっと頑張らないとな」

「どうしたの急に」

「確かに今までとは桁違いに勉強へのモチベーションが上がってるんだけどさ。受験までに実力が伴うか不安で」


 湧いてくると意欲とは裏腹に、影もちらつく。

 期末試験までは緋村に付き合ってもらうつもりだが、それからもずっと面倒を見てもらうわけにはいかない。

 僕なんかとは比べ物にならないくらい努力しなくちゃいけないのだから、絶対に邪魔しちゃいけないのだ。一人でも戦えるようにしなくてはいけない。


「それなら特進コースに行ってみるのが良いんじゃない? 私は入るつもりでいるけれど」

「特進コースか……あったなそういえば」


 この高校は難関私立や国公立大学受験生のために、三年生から勉強を集中的に行う特進コースというクラスが用意されている。

 期末までの成績で平均以上、ある程度の成績であれば入ることができる。今回の期末テストでよほどの下手をしない限り入るだけならできそうだ。

 入れば一日みっちり授業で時間割が埋まる。部活の時間すら授業に置き換わって、すべて終了するのが夜の六時だったり、夏や冬の集中時にはそれ以上になることもあるらしい。

 生活スタイルもだいぶ変わる。探検部もほとんど行けなくなってしまうだろう。進むなら相当の覚悟が必要になる。


「文系と理系で授業はほとんど被ることは少なくなってしまうでしょうけど、勝負に出るならこの一年でしょうね。教育学部の偏差値的に、天野君の実力ならもう少し頑張れば現実的なラインだと思ってる。やれるわよ、きっと」


 緋村先生からのありがたいお言葉。

 少し前に調べたら確かに、目標の大学の教育学部は平均よりやや上。僕は平均の上下をうろうろしているから、希望は確かに見えないことはない。


「やるか! 特進コース。期末で頑張って、そのままの勢いで入ってみせるさ」

「うん。私も頑張る」

「僕にとっては試練の道だなぁ」

「走り切れるよ、天野君なら」


 掴めそうな希望なら掴んでみたい。走って追いつける希望なら、その足を動かし続けたい。

 やれる。

 スイッチを押して、答える緋村につなげた。得意げな笑みを見れた。そのためにがむしゃらに走ったあの時の記憶と感情がせり上がってくる。

 向かい合うために近づけていた二つの机にオレンジの光が差す。

 緋村と話すときはだいたいこんな風景だ。夜になりかけていく空が奇麗で、それでいて少し寂しくなる。

 それにしても、授業が被ることが少なくなるか。

 一人で戦う力を身に着けると決意した半面、こうやって顔を突き合わせて勉強することも少なくなるのか。

 授業の傍ら緋村の横顔を追うことも、放課後にあれこれ言いながら勉強したり雑談したりすることもしばらくできなくなる。


「そろそろ帰りましょ。休むのも頑張るためには必要、でしょ?」


 緋村が資料集やノートを片付け始める。

 集中力も完全に切れたから確かに引き時だ。

 さっきまで燃えていた炎が一瞬で消えて、妙に冷えた風が胸をすくような、そんな感覚。

 鞄に荷物を入れ終えて立ち上がろうとする緋村の姿がやけにゆっくりと見えた。


「緋村、その……」


 僕の手は緋村の手を掴んでいた。

 今度は無意識と言えば嘘になる。離れたくない、離れて欲しくない。そんな明確な意思が僕の身体を動かしていた。

 不思議そうに僕を見る緋村の目。水晶のようなそれに誘われて上手く思考がまとまらない。

 言葉が詰まる。でもその言葉の内容はすでに決まっていた。

 まだ言うべきじゃない。これはこの試練の道が終わってから伝えよう。

 余計な感情で緋村を邪魔するわけにはいかない。頭では十分すぎるほど分かっていた。これを言うことで僕自身だって今のままではいられないことも、変わってしまうことを理解してしまっていた。


「付き合わないか、僕たち」


 でも言ってしまった。

 買い物に付き合うとか勉強に付き合うとかそんなことじゃなく、そういう意味だ。

 声は空気を伝って緋村の耳に確かに届いた。

 まさか僕がこんなセリフを口にするなんて。浮遊感で頭と身体がどうにかなりそうだった。

 時間が止まった。告白の返事を待つにしてはやけに落ち着いた自分の心臓の音が耳に脈打つ。

 掴んでいた緋村の手にギュッと、力が入る。掴まれたその感覚に、現実感がわずかに戻ってくる。


「私は恋愛漫画もドラマもあまり見てこなかった。気づいた時に向き合っていたのは、いつも教科書とノート。人を好きになるとか、付き合うとかは、よくわからない」


 トンネルの中にいるかのように緋村の声が響いて聞こえる。

 あぁ、ダメか。そりゃそうか。緋村にとって僕は冴えないクラスメイトで、ちょっとしたきっかけで少しだけ仲良くなったやつなわけで。

 マンツーマンで勉強を教えてもらえているだけ奇跡なんだ。考えればこんなイベント、人生で巡り合える人の方が少ない。


「でもね。天野君と一緒にいたいという感情が私の中にあるのは分かる。背中合わせで一緒に頑張っていきたいという気持ちが、確かにここにある。頑張っている天野君を見て、私ももっと頑張ろうと思ったから」


 後悔し始めた僕に、言葉は続いて降り注ぐ。

 地面に穴が開いて無限に落ちていくように思えた僕の身体を、そっと受け止める。

 笑っているような泣いているような表情で、緋村は続ける。


「私の隣にいてくれる? 私の隣で、輝き続けて。疲れたら少し休んで、それでまた進んで。そんな風に一緒に歩いて行けるのなら私も——」


 付き合うわ。

 その言葉が、僕を完全に包んで受け止めた。

 どこまでも付き合うさ。眩しくて目を開けることすらできなかった光に、僕は今近づいてあまつさえ照らそうとしている。

 そう、疲れたら休んで雑学でも適当に話して笑えば良い。夕焼けを見ながら帰って、眠って、また進めば良い。


「ありがとう。よろしくな」


 嬉しいやら照れくさいやら。それ以外の感情もあるけれど、いろいろな感情が混ざりすぎていて自分でも整理がつかなかった。

 告白にOKを貰えた後の返事なんて、何を言って良いのか分からない。

 たいていこういうシーンでは漫画もアニメも場面が飛んでしまうから。

 だから一言、緋村に言葉を返した。

 これから隣を歩く相棒に、よろしくと。


*****


 言ってしまった。

 この先は試練の道。天野君が言ったとおりだ。勉強以外のことに気を取られている場合ではないことは十分わかっていた。一瞬の油断が命取り。分かっている。

 でも。

 ―—付き合わないか、僕たち。

 その言葉に対して、嫌だと答える理由がなかった。

 廃病院を、水鳴祭を経て。

 約三週間、同じ時間を同じ場所で、同じことをして一層感じた。

 この人は真っすぐに自分と向き合って、話をしてくれる。

 目標があれば真剣に取り組んで。それでいて素朴で温かい優しさがある。怒るときは誰かが苦しんでいるときだ。

 問題の正解にたどり着いたときに見せる笑顔は、宝物を見つけた子どものように眩しくて愛しさすら感じてしまう。

 帰り道まで離さなかった彼の手の温度が、まだ残っていた。

 すでに冬に足を突っ込んでいる季節の中、その温かさはとても貴重なものだった。


「ただいま」


 すでに夜の八時。誰もいない家に、自分の声が響く。

 父が帰ってきていないのはいつものことだ。仕事が終わらないのか、はたまた急患か。

 どちらにせよ私が起きている間に父の顔を見ることは滅多になくなっていた。帰ってきても、父は’ただいま’も言わなくなったし、私も’おかえり’を言わなくなった。

 昔は、母親が亡くなってしばらくした後までは普通に続いていた言葉のやり取り。日に日に憔悴していく父親を元気づけようと、せめて元気に迎えようと目をこすりながら起きていた記憶がある。

 でもそれを伝える前にそそくさとシャワーを浴びて自分の部屋へ戻る父親にだんだんと辟易してしまい、いつの間にか言わなくなってしまった。

 それからいろいろなところで、父親との会話も減ってしまった。

 昔はあんなに眩しく見えていた父の背中を、私は追わなくなってしまった。

 追うのではなく、私が彼のできなかったことを代わりに果たすのだという信念を持って進んできたつもりだった。

 今も。そしてこれからも。

 靴を脱いで玄関を上がる。正面に見えるドアがぼうっと光っているのが見えた。テレビを点けっぱなしにしていたのだろうか?

 ドアノブに手をかけて、人の気配がして止まる。

 誰かが部屋の中にいる。

 心臓が高鳴る。空き巣? 確かに父の靴は無かったから、この部屋の住人は私一人のはずだ。恐怖を抑えてポケットのスマホを確認する。いつでも警察を呼べるようにはしておかないと。

 でも少しだけ。

 それは好奇心かもしれなかった。私の心の中で何かが、誰かが扉を開けろと囁いた。

 手に力を入れると、扉は自然に開いた。

 

「おかえり、紫苑」


 私をそんな言葉で迎えたのは。


「お母さん……」


 もういないはずの人。

 もう、出会えることはかなわない人。

 テレビを観ながらご飯を食べていたんだろう。食卓にはご飯、味噌汁、ハンバーグ、サラダ、その他温かそうな食事が並んでいた。

 お茶碗をもって屈託のない笑みを私に向ける。口元にはご飯粒が付いていた。少しお茶目で、いつも家族を笑わせてくれるお母さんが好きだった。

 好きだったのだ。

 あぁ、やっと分かった。

 やっと夢だと確信できた。

 もっと早くに結論を出して醒めなくちゃいけなかったんだ。

 私がこんなに幸せになっちゃいけないということなんて。


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