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ルサルカ~夢幻の城~  作者: 黒崎蓮&柊夕徒
Route Crimson
10/36

トリガーと弾丸

 本番を途中退席までして、だいぶ思い切ったことをしてしまったとスタート地点についてから思い直した。

 自分でも必死すぎて、緋村をはげましているつもりでいたのだが大丈夫だろうか。鬱陶しがられたりしていないだろうか。

 咳き込んでいた緋村の姿をみて、つい身体が勝手に動いてしまった。

 それに。

 ——走って! 志郎!!

 僕を名前で呼んでしまうなんて相当焦っていたに違いない。思い出すと心臓がなぜか暴れだす。

 残り数問の画像クイズの時間を休憩時間にあてて、お互いに落ち着かなければ。


「続いて問題です。この場所はどこ?」


 翔が問題を読み上げる。

 モニターに順番に画像が映し出されるが、相変わらず僕には見当もつかない。

 それでも合図が送られて、一番最初に走り出したのはクイズ研究会チームだった。彼らもまさか盛り上げ係で呼んだ緋村にここまで圧倒的にやられるなんて思ってなかったんだろう。アンサーもランナーも、そして解説席のメンバーの表情がだいぶ険しい。


「正解! さすがクイズ研究会期待の新人だー!」


 翔の実況ももはや煽りに聞こえるのは気のせいにしておこう。

 それから数問続いて、ほとんどのポイントをクイズ研究会が取っていった。


「さーていよいよ最後は難問クイズ! クイズ研究会選りすぐりの問題が集まっています。問題を読み上げますので、分かった時点でアンサーはランナーに合図をお願いします! それでは……相棒を信頼し、好敵手を裏切れ! 振り返るなランナー、振り返らせるなアンサー!クイズ、”アンバランサー”最終戦スタートぉ!!」


 興奮した翔のアナウンスを引き金に、観客のテンションも最高潮に達する。歓声が体育館を揺らし、僕の気持ちも引き締まる。


「第一問。”えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。”という書き出しで……」

「走って!」

「……梶井基次郎の小説は何でしょう?」


 クイズ研究会メンバーの声に遅れて、緋村の合図が耳に入る。

 先にスタートを切られたのか。どうやら難問に強いのは彼女だけじゃないのかもしれない。

 それにこの問題の答えは僕も分かったような気がする。この題材は最近の国語の授業でやらなかっただろうか。

 余計な思考は頭の隅に置いて、先行した生徒の背中を追う。絵裡よりは速くなさそうだから、頑張れば抜かせる。是中のその先、スイッチに視線を合わせて足に力を込める。

 もう少しで、追い越せる。


「天野君!!」


 緋村の悲鳴のような声と、視界が急落下したのは同時だった。

 身体全体への衝撃と膝への熱く擦られたような痛みは遅れてやってきた。


「……っ!!」

「おーっと、ここで天野選手が豪快に転んでしまったぞー大丈夫か?!」


 翔のアナウンスでようやく自分が足をもつれさせて転んだことに気づく。

 すぐに両手をついて身体を跳ね飛ばすように起き上がらせる。大丈夫、膝は痛いが動ける。かっこつけて緋村に任された手前、こんなところで寝てる場合ではない。

 顔を上げるとすでにクイズ研究会メンバーがスイッチを押して答えているところだった。


「はい、檸檬! 正解! ランナーは定位置に戻ってくださーい。志郎……じゃなかった天野選手は必要だったら医務室へ行ってくださいねー!」

「大丈夫です。続けます」


 答えて、スタート地点へ戻る。膝は熱を持ち続けていたが、アドレナリンのせいか痛みはほんのわずかしか感じなかった。

 幸先が悪い。休憩で気を緩めすぎたか。きっと余計なことを考えてしまったからかもしれない。僕が問題に対してあれこれ考える必要はない。クイズは緋村に全部任せて、僕は走ることに集中すれば良い。

 信じる。そう彼女に、自分で言ったばかりじゃないか。

 僕は手を合わせて、緋村に頭を下げる。彼女はただ一度頷いてから正面を見据える。


「問題……」


 しばらくクイズは続いた。さすがに難しい内容なのか、緋村も問題を終盤まで聞いてから考えて合図を送るようになった。

 答えるのもほとんど緋村か、クイズ研究会メンバー。どちらも一進一退と言ったところ。

 さすがの翠谷もブラフは使わず、動きが止まりがちだった。順位ももしかしたら入れ替わっているのかもしれない。

 アンサーにもランナーにも、それぞれ疲労の色が見え始めていた。


「さぁたっぷりと届けてまいりましたが、ラスト二問となります。クイズキングもしくはクイーンの称号を手にするのは誰か?! 問題……」


 いつでも出発できるよう、僕は走る姿勢に入る。

 絵裡の深呼吸をする音が隣で聞こえた。さすがのこいつも疲れ始めているのだろう。万が一先を行かれても、もしかしたら追い越せるかもしれない。


「野菜の名前を多く言う、百から七を順番に引く、見た五つの品物を覚える、などの項目がある認知症を検査するためのスケールを、開発者の名からなんという?」


 問題を読み終えるまで、誰の合図も送られなかった。

 読み終えてからもしばらく沈黙が続く。誰も動かない中、観客席からも”まったく分からない”とか、”聞いたことがない”とか、そんな声がちらほらと聞こえ始めていた。


「おーっと、ここにきて誰も答えが出ない。これは……放送事故ですかねぇ?」


 翔が観客の笑いを取っている間も、僕は静かに緋村の合図を待つ。ざわつきが大きくなりつつある体育館の中で、彼女の声を聞き逃さないために目を瞑る。

 正直、問題の内容はあまり聞いていなかった。けどなんとなく、医療系に関係するクイズなのではなかろうか。だとしたら緋村のテリトリーだ。

 深く息を吸って、吐く。

 周りの音が消えて、だんだんと無音になっていく錯覚を覚える。


「——走って」


 まるで耳元で囁かれたかのような合図に、僕は飛び出す。

 自分は弾丸だ。そう言い聞かせて、僕はスイッチまでの距離を詰める。後ろからは他のアンサーの合図も、他のランサーの走る音も聞こえない。けれどスピードを落とすことなく、僕は足を動かし続ける。

 気づけばあっという間に、スイッチを押していた。


「天野選手、押した! 緋村選手答えをお願いします」

「長谷川式認知症スケール」


 緋村が発した単語は案の定、初耳だった。観客席も誰も正解かどうか分からないのだろう、固唾をのんで見守っていることが空気で伝わった。

 沈黙が続く。翔のやつ、あえて溜めているんだろうか。まったく良い性格をしている。

 それでも僕の心はなぜか落ち着いていた。

 だって。


「……正解!!」


 彼女を信じているから。

 溜めた沈黙を破るように、大きな歓声がびりびりと身体を震わせる。


「盛り上がったところでノンストップで最後の問題まいりまーす! ラスト問題!」


 身体が、心が、自分でも怖いくらいに集中している。

 たぶん今までの人生の中で一番冴えわたっていると言っていいかもしれない。

 僕もこの状態のまま続けたかったから、緋村の方へはあえて振り返らずにスタート地点に戻る。


「水の事故で死んだ女性、洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊などがなり、美貌や優しい声、夢を見せて人を魅了すると言われる、スラヴ神話に登場する水の精霊を何という?」


 問題文は意味をなさない音として処理した。耳に入れるのは緋村の声だけで良い。

 ざわめきが引いて、またしても沈黙。さすがに最後の問題、問いかけの途中で分かるような優しい問題ではないらしい。


「……おりゃ!!」


 隣で、地面を蹴る音がした。

 焦るな。落ち着け。聞くのは——。


「走って!!」


 この声だけ。

 僕は身を前に乗り出して強く地面を蹴る。三歩くらい前に絵裡の姿。今までだったら追いつけないと心の中で諦めたかもしれない。けれど今はその背中に届く。あふれそうなほどの自信が僕の身体を動かしていた。


「はぁ、はぁ……!」


 絵裡と肩を並べる。息を切らして笑っていた。

 スイッチは目の前。絵裡のそれはさらに五メートル先。

 その差はこれ以上縮めさせない。

 熱気と歓声が波のように押し寄せて、小さい頃の徒競走を思い出す。


「頑張って!!」


 その中ではっきりと聞こえた緋村の声が、僕の背中を押した。

 ぐっと目の前の視界が近づいて、絵裡の身体が後ろへと吸い込まれていくような錯覚。


「はい緋村選手解答お願いします!」


 気づけば叩きつけるようにスイッチを押していた。びりびりと痺れる感覚が手から身体へと伝わっていく。


「……ルサルカ」


 聞き馴染みのない単語が緋村の口から出る。迷いのない、笑みすら見えるその表情で、僕は誰よりも早く正解を確信した。


「……正解!!」

「やった!!」


 歓声。拍手。その中で僕は緋村のはち切れんばかりの笑顔と、歓喜の声を確かに受け取った。



*****


 クイズ大会はその後トラブルなく閉会した。

 緋村はクイズクイーンの称号と、景品のお買物券を満足げに受け取った。赤本でも何でも、彼女の役に立てるものが手に入れられたら良い。

 観客やスタッフが早々に出て行って、みんなそれぞれの出し物を楽しみに出かけた。どうやら体育館でやる次の出し物の準備を急ぐらしい。

 翔と絵裡はたこ焼きの売り子や調理当番、翠谷は自分のクラスの出し物に参加するのだとか。

 僕と緋村だけが何の予定もない参加者になっていた。

 外に出て空を見上げると、気持ちの良い秋晴れなことに今更ながら気が付いた。


「天野君、ありがとう」


 秋の風が興奮を冷ましていく中、緋村が言う。いつもより少しだけ声色が高いような気がした。


「僕の方こそ。ただ緋村の言う通り走っただけさ。クイズに正解しなきゃ僕だって走れなかった」


 最後の方は問題なんか聞いちゃいなかった。緋村の声を聞いてただ走る。緋村が一番に合図を送ったなら、僕も一番にスイッチを押さなくちゃいけない。そんな思いでいっぱいだった。


「それでも、私を信じてくれてありがとう。私、こうやって誰かと協力して何かをするっていう経験がほとんどなくて。それでもこんな風に楽しいと思えたのは、最後まであなたが諦めずに走ってくれたから」


 最後にもう一度”ありがとう”と言って、僕の顔をまっすぐに見つめる。

 眩しい。嬉しい。照れくさい。いろいろな感情が胸を溢れさせたけれど、なぜかその顔を、瞳を、今なら僕も同じように見つめ返すことができていた。


「そうだ足、見せて」

「え、足?」

「怪我してるでしょ」


 満たされた感情が、緋村の言葉で現実に戻る。

 意識を向けると傷も今気が付いたと言わんばかりに、じわじわと痛み始める。かさぶたになりかけてはいたが、すりむいて血が滲んでいた。


「あぁ、大丈夫だよこんなの。後で絆創膏貼っておけば治るさ」

「大丈夫じゃない。見せて」

「あ、あぁ」


 緋村にしては強引に言って、背負っていた学校指定のバッグを漁り始める。

 手にしていたのはガーゼと、湿布のような白いもの、あとは薬用のハンドソープのようだった。


「こっち。本当はすぐにでも処置をしたかったのよ」


 手招きをされて、僕は緋村に体育館横の手洗い場まで連れていかれる。

 ハンドソープで手を念入りに洗い、ガーゼの表面をさっと軽く濡らす。


「少し染みるわよ」


 冷たい布地が当たる感覚と痛みに僕は反射的に顔をしかめる。

 緋村はガーゼを折り返して、今度は乾いた面で何度か水気を取るように傷口や周りに優しく押し当てていく。

 それから湿布のようなものを手慣れた付きで丁寧に、傷口がはみ出ないように貼った。


「ありがとうな、わざわざ。それにしてもこれ、絆創膏じゃないんだな」


 痛みが引いたら今度は気恥ずかしさが勝って、僕はすぐに話題を移す。

 膝に貼られたものは湿布のように冷たい感触がないから、テープとかパッドとか言った方が正しいのかもしれない。

 そもそも転ぶほど運動をしないから、絆創膏以外のこういったものに見覚えはなかった。


「このパッドの方がある程度の浸出液を維持できるから」

「シンシュツエキ?」

「……あぁ。ええと、傷が早く治るようにしてくれる体液のことよ。このパッドはそれを乾燥させ過ぎずに、傷口付近に残してくれるの」

「へぇ、そんな効果が。さすがだな緋村は」

「昔、お母さんが教えてくれたの」

「なるほどね」


 答えて、少し沈黙が流れる。

 母親。

 廃病院で横になったまま目を開けなかった女性の幻影を思い出す。父親の絶望と、少女の悲しみも。

 あれが本当に目の前にいる緋村紫苑に起きた出来事なら、言及しないでおく。口に出すのも胸が締め付けられる悲しい出来事だから。

 緋村との距離は少し縮まった気がした。けれどこの話題を扱うにはあまりにも早すぎる。


「何か、食べにでも行こうか。けっこう体力使っちゃったし」


 曇らないうちに出掛けよう。そう思って僕は声をかける。少なくとも走り回って空腹なことは本当だった。


「そういえば、少しお腹が空いたかも」

「まずはたこ焼き屋に行ってみないか。僕も結局教室のレイアウト変更を手伝ったのと試食をしたくらいで、まだ行ってないんだ」


 誘った僕の手は全く無意識に、緋村へ差し出されていた。目の前に現れた自分の手を見て笑いがこぼれそうになる。何をやっているんだ僕は。さすがに調子に乗りすぎだろう。

 気づいて咄嗟に引っ込めようとしたとき、少し冷たい肌の感覚が確かに僕を掴んだ。


「……うん、そうね」


 掴まれたというより、捕まってしまったという感覚に近い。時間なのか、僕の心臓なのか、とにかくすべてが止まったような錯覚すら覚えた。

 緋村の自然で穏やかな笑みに大きく一回、心臓が鼓動する。何秒経ったか分からない。ただ、水で冷えてしまったらしい彼女の手のひらを温めるために握り返そうと思ったときに、再びすべてが動き出したような気がした。


*****


 身体が燃えるような熱いクイズ大会を終えて、私は天野君と文化祭の出し物——主に食べ物の出店を回った。

 クラスの出し物だったタコ焼きも、口の中を火傷しそうになりながら頬張った。小さい頃夏祭りで食べて以来久しぶりだったからかもしれないけれど、今まで食べた中で一番美味しいタコ焼きだった。

 その外にもクレープ、唐揚げ、綿菓子……かなりたくさんのものを食べた気がする。

 お祭りの空気にあてられて興奮していたと言っても良いのかもしれない。まるで子どもに戻ったかのように、それこそ母親に手を引かれた子どものように。

 二日目には藍沢さんや藤田君、翠谷さんも合流していろいろな出し物を見て回った。吹奏楽部や軽音楽部の演奏、古本・古着販売、写真展、お化け屋敷……。どれも刺激的で、私にとってはこれまでの一生分を体験したと言っても過言ではなかった。


「そろそろ時間だな」


 二日目の夕方。天野君のその言葉を聞いて私は心の底から名残惜しく思った。

 叫んで、笑って、食べて。私は何年振りか、本当に満足していた。楽しいこの時間がずっと続いてくれれば良い。そう思っていた。だから——。


 ——何をしているの?


 帰り道に背後から聞こえたその声に、金縛りにあったように動けなくなった。

 冷や水を浴びせられたように身体が冷たくなって、底の無い落とし穴に落ちたかのような無限に続く落下感。

 声はそれ以上何も言わなかった。

 けれどその先に続く言葉を私は知っている。


「こんな無駄な時間を過ごしている場合ではない……でしょ」


 分かっている。

 私には向かうべき場所がある。

 こんなところで遊んでいる暇はない。こんな楽しい時間はほんの一瞬の幻だ。

 むしろ夢なら早く醒めて欲しい。

 声は答えない。代わりに小さな手となって、私の背中を押すだけだった。


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