魔女が大地に降り立つ日 ②
格、と私は思った。
それは品格であり格式というもの。
相対した私にも求められる、……つまり砕けた言い方するならば、契約者としての“ふさわしさ”だ。
見ればもう、纏う光は跡形もなく消えている。
破滅の魔女ニア。
じっとこちらを見つめる姿は、代わりに渦巻く、膨大な魔力の奔流を肌に感じられる。
圧倒的強者、底知れぬ実力者の覇気……は、しかし拍子抜けに、魔力量にしては驚くほど無い。
例えるのなら、ちょこんと置かれたお人形。
行儀よく、礼儀正しく美しく。瞳は純に染められた無垢である。あどけない少女、そう、そこにいるのは単なる少女であった。
「──いえ、……なるほど、これは罠ね」
ルル・スカルハート瞬時の理解。
たった今この瞬間から私は試されているのだと、直感が働いた。
侮り油断してはいけない、それは命取りだと。
第一声こそ今後の関係性を決める、ネクロマンサーの最初の一歩。
ここは尊大に、威厳たっぷりに。召喚者もまたあるべき格を有した特別だということを、ただの一言で言ってやらねばならない。
放置すればニアは、“その程度で満足する三流の魔法使い”として私の事を扱い、十全に力を発揮することはこの先決して無いだろう。
何故なら。
そも破滅の魔女ニアとあろうものが、状況を理解できないハズが無いのだ。
わざとらしい、今もぽかんと口を開けたその顔。──っは。いいさ、ふざけた真似をしてくるのならば、こっちだって上下関係をはっきりさせてやるまでだ。
「……跪くがいい、ニア。その不遜なる態度、我が蘇生の恩を踏みにじるか?
自らの立場を弁えぬのなら、その体に教えるまで。
でなければ行為でもって忠誠を示すがいい、破滅の魔女よ」
静寂は破れる。
ルルは努めて冷徹に、厳かに目の前の魔女へと言葉を紡いだ。
尊大な言い回しは実の所彼女の柄ではなく、しかし毅然とした立ち振る舞いはその素質があったらしいと、ルルは心の中で笑った。マキナのような傍若無人が傍にいると、どうやら上からの物言いが自然と浮かんでくるらしい。
──す、と。魔女が動いた。
その身を包んでいた魔力の流れは途切れ、一歩ずつ足を踏み出す。
無遠慮に無造作に、ルルの方へと歩みを進めてきた。
そして、──言う。
「……その。挨拶が先、かな。
えーと、初めまし、て。僕は──」
と。そこまで聞いて、ルルはもう駄目だった。
頭が沸騰した。
怒りで周りが見えなくなるというが、本当に怒りの感情に包まれると、耳も聞こえなくなるのだとルルは知った。
……私の事を侮っている。ただの少女だ、と。ニアは、破滅の魔女は私を見くびっている。
この場所に訪れ、蘇生を試し、幾度となく失敗してきた過去のネクロマンサーと同列に、あるいはそれ以下の存在であると私を見下しているのだ。
契約者の命令に従わない──即ち宣戦布告、挑戦であるのだから。
「……ふ、ふふ。いいわよ。そっちがその気なら、私だって有言実行するまでよ。
自業自得。思い知りなさい。アンタを蘇らせたネクロマンサーは、今までとは格が違うってね。スカルハート家の最高を、そこらの芥と一緒にされちゃ困るのよ!!」
怒号は王都中に響き渡った。
鳥は驚きから彼方に飛び去り、木々は恐怖に震え慄く。
しかし。
それは吹き抜ける風を掴もうとするのと同じこと。
金色の髪は一陣の風に揺られるばかりで、身震いもなくただ飄々とするばかり。魔女は未だ怪訝な顔つきで、黒髪の少女を見つめるだけである。
ここまで言って……なお、だ。恐れも敬いも何もない。
破滅の魔女は世の理、与えられた者としての自覚、そのどれもを放棄して、私の前でただぼうと、──っああ。今もそうやって、魔女の姿を隠している。
「っこの……。舐めるんじゃないわよ!! いい加減に許容の限界だっての!!
──もう一度言うわ。『跪きなさい』」
そう言ってルルは、この女の歪む顔を期待した。
命令は絶対。
誰であれ破ることのできないそのルールは、契約を承諾した本人の責任であり、破滅の魔女を縛る不可逆の枷。
逆らうことのできない、必ず遂行すべきこと。そうすること以外を許さない命令は、確かに目の前の魔女へと、冷たい言葉で突き刺さった。
「……?」
──だけ。
命令は確かに届けられた。耳に入った。
けれどそれは実行されない。特別何かあったわけでもなく、変わらず時間は流れている。
「な、『跪きなさい!!』 『跪けって!!』」
幾度も声を放つ。
確かに届いているはずのその声は、魔女がほんの数歩先まで近づいてきてようやく……。
ルルは、魔女を縛るものは何もないのだと気が付いた。
そして再び、かさり、と足音が近づく。
「……ひ。な、何? 殺すの? やってみなさいよ!!」
さっきまでの威勢は消え失せた。怯えたルルはすっかり迫力を失った。
下剋上は一瞬にして。権力はきっと、私が見惚れたあの瞬間にもう失っていたのだ。
なんて……無様か。笑ってしまう。恐怖に、その正反対の反応で口が歪んだ。
不遜なのは自分の方。弁えていなかったのは私の方。
スカルハートの最高は、両親の夢の結実を前に驕り高ぶり、油断した。あっけない徒労の結末に合わせる顔もない。
……そんな絶望を思ってしまった、考えてしまったルルは、もう、体に力を入れようとも思わない。
抵抗は無駄だ、と。
「──あは、はは。これが、そう……そうなのね。格の違いって、こと……」
ふ、と。力なく顔を上げる。
空を見上げた少女は、その透き通った世界を羨んだ。
死を目前にした少女は、わが身の粗末な人生を振り返り、ああ、と。
……こんな終わり方なら、一度くらい、自分のために生きたかったなぁ。
そんな儚いユメを胸に抱いた。
「……あの、状況が呑み込めないんだけどさ……。えと、よかったら教えてくれるかな?」
ぽつりと、耳に声が届く。
予見した死の瞬間は、そんなもの始めから無かったことのように、魔女は言った。
ルルのヒクついた頬は、思わず耳を疑った、という顔。
1000年眠りから目覚めた王都は、しかしこの時ばかりはルルと共に、一瞬合間の時間停止状態に陥ることを免れなかった。
「いやその。なんだって僕、女の子の姿になってるんだい? しかも、破滅の魔女ニアの……顔で、さ」
何も知らない少女と例えたその人は、実の所その通り。
そばを流れる人工の川に、その水面に映る自分の姿に驚嘆する魔女は、まるでその状態を信じられないと言っているよう。
……いや。正しく、言っている。
だから困惑は両者平等で与えられたサプライズ。そうなるように仕向けられた、筋書き通りのアクシデント。
「え。な、じゃあ、誰……なのよアンタは……?」
「……あ。僕は、シャーロット。シャーロットという名前、だよ。
あれから何年たったのかな。僕はこの王都で生まれた、ニアに殺された人間の一人なんだ」
とにかくここで起きたことというのは、ボタンの掛け違いのようなもので、ありきたりな勘違いだ。
“蘇らせた破滅の魔女の中身が、シャーロットと名乗る人物であった”
実に単純。
“人違い”ならぬ“魂違い“、ということである。