十九話
寒い、風が冷たいむしろ痛いくらい、そんな寒い冬の帰り道。藤宮藤谷は一人歩いていた。
決して誤解しないで頂きたい。美々やアイ、それにヒナに見捨てられたから一人で歩いてるわけじゃない。
あの三人プラス倉科で買い物に行くそうだから、藤谷は寂しく帰路についてるんだ。仕方ないんだ。と、誰かに言い訳してみる。
なんか最近美々と二人きりの時間が取れてないな。うまく隙を見付けてなんとかしないと、愛想を尽かされてしまう。
「あら?」
別に美々の口癖を真似たわけではない。ぼーっと最近の出来事を頭の中で整理しながら歩いてたら、全く知らない町並みに変わっている。
町は不思議だ。いつも通る道を一本逸れただけで、町はその様相を変えてしまう。
格好をつけても迷子である事実は変わらない。
「あにゃ? フジちゃん?」
意外な人物に出会った。
篠山蓮、藤谷のクラスメートで奇抜なネーミングセンスと天真爛漫が印象に強い少女、だけど今の彼女にはいつもと大きな違いがある。
「うーん、あんまりこの格好で会いたくなかったにゃあ、にゃはは」
そう言って快活に笑う様はいつもの彼女なのだが、彼女の今大きな違いは、和服。そう、和服である。
和服一つで変わるものだ。いつも犬歯を出して笑ってる彼女に影が落ちたというか、太陽のようにはしゃいでいる彼女が今は月のように静かに見える。本当に、和服一つで変わるものだ。
「どしたの? フジちゃん黙ってさ」
「いや、和服いいなぁって」
しまった。つい本音がそのまま出てしまった。
「にゃはは、フジちゃん和服フェチだったんだ。みーみんに着て貰ったら? きっと似合うよ私なんかより」
「ああ、美々のは是非とも見たいが、お前も似合ってる。というか、慣れてるって感じか?」
「意外なところは鋭い、みーみんの言った通りだねフジちゃんはさ」
違う、違った。
彼女に影が見えたのは和服のせいで落ち着いた雰囲気を出してるからじゃない。実際になにかあったんだ、表情が硬いじゃないか。
さて、なんて切り出せばいいんだ。あんまり直接聞くと嫌がられてしまうかもしれない。
「フジちゃん、あんまり私に踏み込まないで。そういうのはいらない」
完全な拒絶。壁で遮られて彼女が完全に見えなくなるような拒絶。
さっきまでの、いつもの彼女の笑いはどこにいった?太陽みたいに快活に笑う彼女はどこいった?
「俺は――――」
「藤宮君!」
いつもと違う呼び方だからか、理由はわからないけれど、藤谷は口を開けなくなっていた。
「今日の事は忘れてください。私、この後少し忙しいのです。申し訳ありません…………」
それだけ言って彼女はそそくさと立ち去ってしまった。
藤谷はただ立ち尽くした。
「……………ふぅん」
素っ気ない返事がきた。
あれから家になんとかたどり着いて、母さんが作ってくれた食事を取って自室に戻ってきた。アイとヒナは新しく与えられた二人兼用の部屋に戻り、美々は今目の前で藤谷を半眼で睨んでいる。
睨んでいる理由は言うまでもなく、今日あった出来事を言った事による反応だ。女子であり、篠山の友達の美々ならなにか知ってるかと思って聞いてみたが結果はこれだ。
「意外に気になるんだ。あいつ、なんか抱えてんじゃないかって」
本心から心配して言うと余計に美々の機嫌が悪くなった。
それでもやっぱり彼女のあの目、あの表情、あの言葉が気になる。困り事があるなら助けてやりたい、彼女と倉科は孤立していた美々に真っ先に手を差し延べてくれた。借りを返す、というとおかしいから、単純に友達であり、世話になったからお礼がしたい。
「はぁ…………本当に藤谷は趣味人助けね。損得を勘定出来ないんだもんね、そんなところ好きになった私の負けだけど」
溜息を吐いて美々は自己完結するために頭の中を整理しているようだった。
藤谷は静かに美々の言葉を待った。
「最近二人の時間少ないから週末はデート、それが条件」
「了解した」
「明日倉科さんと時間をつくるわ。彼女が篠山さんと一番仲が良いから」
「仲が良いみたい」とかじゃなくて言い切るのが美々の格好良い所だ。
「ああ、分かった」
「本当に私は貴方が好きなんだな」
それだけ言って美々が擦り寄ってきた。
「うーん、賛成しかねるかな」
藤谷にとっては辛辣な言葉、その言葉より言った人間が重要だ。倉科遥子、藤谷達のクラスメイトにして、藤谷が考えるに篠山と一番仲が良い人間。その彼女に反対意見を出されてしまうと少々手詰まり感がある。
「だって、あの子は家にちょっと事情があるし、私も少し理由があってこの間彼女を怒ったんだけど、返ってきたのは『あまり家の事には口を出さないでくれるかな。大事な友達に報告したかっただけだから』って」
更に悩む。
その倉科を怒らせた理由というのが一番引っ掛かるが、彼女が伏せたということは聞いてはいけないことだろう。
「藤宮君はどうして蓮の事を気にするの?」
「ちょっと気になったんだあいつの目が」
倉科に加えて美々も怪訝な表情をする。
「本当に美々は苦労しそうね。今もこれからも」
「あら、それは承知の上よ」
美々と倉科は顔を見合わせて嫌らしく笑いあった。藤谷は全く二人の笑いが何を意味するか解らない。
「……………ふぅ、ちょっと急ぎでね私帰るから。それと、蓮の事本気で心配なら、踏み込んであげて。それも覚悟して、ね」
そう言って倉科は放課後の教室から去って行った。
藤谷は何の気無しに窓の外を見た。
『ハハハッ、どうした? 友達がいないらしいじゃねぇか?』
回想の中で品のない笑い方をする父親が俺の隣にドカッと腰掛けた。
あの頃はまだ父親に遠慮していたし、心を開けてもいなかった。ようやく父親との距離を埋めて、『親父』と呼べるようになったのも最近だし、美々のお陰だ。
あの時も夕方だった。藤宮藤谷を今の姿に変えた言葉を受けたのは夕方、まだ小学校に上がって間もない頃だ。
『友達なんていらない…………』
あの頃の事はよく覚えていないが、友達はいらないと本心から思っていたわけない、それだけは覚えている。
『そうか、俺も今はいらねぇや。俺にはお前がいる。お前はきっと生きていくのに俺が必要だから、お前には俺がいる』
『…………………………』
『だがな、藤谷、お前は俺の、俺達の子供の藤谷だ。忘れんな、誰にも必要とされないのは本当に辛い、だから俺はお前と一緒にいる。忘れんな、俺とお前は繋がりを持って支え合っている。それが人間だ』
『難しいよ、僕は分かんないよ』
幼少の藤谷は更に俯いた。膝を抱えて座っていた藤谷は外界からの接触を断った。これ以上自分に外界は必要ないと思ったからだ。
『分かんないか、分かんないな。あーっ…………くそ、お前に何を教えてやればいいのか分かんない…………畜生、藤谷、辛かったら辛いで良い、俺は絶対にお前の味方だ。それだけでいい、それだけは覚えていてくれ』
喋り下手な親父が一生懸命自分の為に言葉を投げかけてくれた。藤谷は悔しかった。
あの頃の藤谷はまだ父親に遠慮していたし、裏側で人間として男として尊敬していた。この大事な言葉達をよく理解しないまま次の日に学校へ行った藤谷に転機が訪れた。
簡単な事だった、掃除の時間に机を動かせなかった女の子のかわりに机を動かしただけ。
それでもその子から貰った『ありがとう』が嬉しかった。今、自分が必要とされた。
その時に父親の事も思い出した。父親と自分は関係ない、父親は自分のせいでやりたいこともやれない、大変、沢山の言葉を聞いて少しずつ飲み込んで理解していった藤谷は、父親に『ありがとう』をあげたくなった。そして昨日の言葉をまた少しずつ理解していく。
人は、人が必要、僕の片手は自分に使う。空いた片手は誰かのために使う。
それが幼い藤谷の出した憧れの男の真似の結論だった。
「美々、俺にはお前が必要だ。美々には俺が必要かな?」
「愚問ね、愚問どころか今更なんの質問されてるのかしら私って感じ」
放課後教室、藤谷は夕日で真っ赤に照らされた美々を眺める。美しい。一言、美しいという言葉に終わる。この方が自分の恋人だというのだから、もう鼻高々じゃ済まない。
と、話が脱線した。
「俺さ、篠山に必要とされたいんだ」
がぶり。
「痛い痛い、痛い…………一番は勿論美々だが、篠山は多分見失ってるんだ。誰かが自分を必要としてるって事、誰かを必要としないで無理矢理立ってるんだ。だから手を差し出したい」
がぶがぶ。
「勿論美々が一番、週末はデート、今晩は添い寝まで有り、分かった。分かった、ご飯はあーんで食べる」
ここまで言ってようやく美々の顎から解放された。学校というのも気にせずに襲い掛かってくる美々の歯がここまで痛いとは。
「藤谷、私はかなり、か~な~り嫉妬してるわ。最近それが積もってきてる事を忘れないで、その内爆発するわ」
爆発?まさかと思うがそれが爆発したら…………?
「張り付くわ。四六時中、授業中以外の時間全て貴方に触れているわ」
ヤバい、美々さん目がマジだ。もうマジどころか本気だ。
なんで想像しやすいんだ。寝るときも、食事のときも、お風呂さえ美々が傍にいるのが容易に想像出来るじゃないか。授業中だけは離れているの彼女の愛だろう。しかし、授業中視線はきっと俺に向いている事だろう。
「藤谷、私は貴方が好き、今日だけ、今日だけだから。今日だけは我慢するから……………最近、なんか我慢してばっかり…………」
美々の表情に愁いが浮かぶ。藤谷は感じた事のない痛みを受けた。困ってる篠山を助ける。そんなヒーローみたいな事を考えてる藤谷、それを悲しむ美々、藤谷には無理だった。
「やめる」
「え?」
藤谷は美々の手を握る。細くて、綺麗で、あんなに家事をこなしている手には思えない。
「やめる。俺は美々が一番だ。美々が泣いてるのにそれを無視できるかよ」
藤谷の行動理念の中心はとっくに美々になっている。行動理念どころか、藤宮藤谷という男の人生の根幹が美々だ。
美々が悲しむ選択なんて取らない。取るわけない。
「ダメよ。私が好きになった藤谷は私のヒーローだもの。最後は私に帰ってくると信じてるから大丈夫。人助けしない藤谷は、藤谷じゃないもの」
流暢な日本語を常とする美々の言葉がたどたどしい。胸が痛い。
やめたかった。篠山の暗い顔が頭を過ぎるが、そんな事より、目の前の美々が、放っておけないおきたくない。
「美々が折角辛い選択してるんですからさっさと行ったらどうです?」
振り返ると雛子に見下ろされていた。
見下ろされてるの、藤谷が座って雛子が立っているからだが、なんかちっこいイメージを受ける雛子に見下ろされるのもあれだな。
「美々は私が見てますから、さっさとしろ、です」
恐ろしく刺のある言葉。
元々雛子は辛辣な口調だが、最近はそこに愛があるのを感じ取れるようになってきていた。だが、今の雛子に愛はなく、刺百パーセントだ。
それもそうだ。自分でもなにやってんだろ、と思うことして美々を傷付けなきゃいけない状況を態態自分で作り出し、自分も態態傷付いてんだから。雛子が怒るのも当然だ。
「分かった。行ってくる。後は頼むな」
雛子の頭をポンと叩いて藤谷は教室を出た。
「後悔してますか?」
雛子がそう問い掛けてくる。藤谷が退いた椅子に座り対面するようになっている。
「してるわ。前から随分我慢してたんだけどね。やっぱり私、藤谷の事どんどん好きになってるみたい、嫉妬なんて言葉じゃ表せないくらい汚いドロドロが頭の中にいる」
「それは…………今から私少し酷い事言います」
俯いていた美々は、その言葉に反応して雛子の顔を見る。いつも通りの無表情だが、今はそれに敵意を感じられた。
酷い事、簡単だ。藤谷の事に決まっている。藤宮雛子、と藤宮の名を名乗ってはいるが、藤谷への思いは本物だ。藤谷は鈍感だから彼女の思いが家族に向けられてるものだと勘違いしてるが、彼女は本当に藤谷を好きでいる。
「私は藤谷が好きです。ご存知でしょうけど」
「ええ」
「でも、美々が一番藤谷を愛しています。そして、美々が一番藤谷に愛されている。
だから、その嫉妬は当然なんです、それくらい藤谷を好きじゃなきゃ私は貴女を許しません」
「それが酷い事?」
美々の顔が少し緩んだ。
なんだかんだ言って、雛子も藤谷と一緒だ。
「本当はもう少し酷い事を言おうとしました……………でも、私は美々の事も好きです。この間は、センスがない私の洋服を選んでくれました。アイスも一緒に食べました。一緒に寝ました…………私は、美々も藤谷も皆好きなんです…………悔しいんです。好きなのに、好きだから、悔しい…………」
違うかな。藤谷に皆影響されてるんだ。きっと私も。
「ありがとう、私も貴方が大好きよ雛子」
「うぅ……………うぁ……………」
雛子は声を出さないように泣いている。私は頭を撫でていたが、それだけでは気持ちが収まらず席を立って彼女を抱きしめた。
本当、私も変わった。まさか、私が藤谷以外を好きになるなんて。でも、悪くない、うん、全然悪くない。
だが、美々にはまだ懸念してる事があった。自分と雛子と同じくらいに藤谷に好意を持った女の子がいる。藤谷に告白する前に藤谷の身辺を調べた時に知った事だ。だけど、彼女は動かなかった。動いた美々は結果を得た。それからどんな事が待ってるか、彼女がどう動くか、舞の存在よりずっと恐かった。でも、彼女は動かなかった。
それが余計に恐かった。藤谷がその彼女の元へ向かってしまった、本当に恐い。
ノリとか流れとか勢いとか、本当そういうのは恐ろしい。
あの後直ぐに倉科に電話し、色々と忠告を受けながら無理矢理篠山の家を聞いた。
そして、この門の前だ。木造で、門が開けば大人四人くらい横に並んで通れそうなくらい馬鹿でかい門。
「おや、家になにか御用でしょうか?」
ハッとなり振り返る藤谷、そこには小さな包みを手に下げた女性がいた。女性といっても髪は真っ白、腰は少しだけ曲がり、温厚そうな印象を受ける顔にはいくつもの皺が刻まれている。
「あっ、いえ、篠山………篠山蓮さんに用があって!」
「蓮に? 男性が?」
「え、ええ、テスト勉強をみてもらう約束がありまして…………」
実際冬休み前の期末テストが近い、美々も呆れ顔より、飽きた顔を通り越し、諦めた顔で肩に手を乗せ『来年、後輩ね』と本気の目で言ってくる。もう冗談ではないらしい。
「それで、蓮さんが家に来いと?」
「い、いえ! 皆俺……僕の勉強みるのに匙投げちゃって、篠山だけが諦めないでくれるからつい甘えちゃって」
…………すげぇ、こんなにスラスラ嘘が湧き出るなんて、藤宮藤谷史上初だよ。
小さな感動を藤谷が覚えていると、門の横、小さな戸が開いた。
「お、御祖母様! 藤宮君は私が呼びました! どうか、今日だけお許しを」
現れたのは和服の篠山蓮、酷く慌てた様子でお婆さんと藤谷の間に立った。
「全く、蓮さんは私をなんだと思ってるんですか? そうやって友人を大切にするのは良いことです。貴女はもう御役目を果たさなくて良いんですから、普通に生きなさいと何度も」
「はい、分かりました!」
藤谷は慌てた篠山に手を引かれ門の内側の敷地へと入った。
………………嘘だろ?なんだよこれ…………
「藤宮君、なんで来たのかな?」
「……………いや、それは………俺は………」
この異様な光景に全て呑まれてしまった。言葉も、考えも、体の自由さえ。
「馬鹿だなぁ…………フジちゃんもみーみんも、馬鹿だよ」
「これは、何なんだよ」
その時藤谷は脳の処理出来るキャパを大きく超えて、もう何が何だか分からなくて、理解出来なさすぎた。
「ああ、コ・レ? えへへ、大変だったんだ集めるの」
それを愛しそうに指先で撫でる篠山、藤谷の歯が意志とは関係なくガチガチと音を鳴らす。
「あれ? 恐いの? 恐くないよ。あたしはフジちゃん大好きだもん…………あっ、言っちゃった」
「ねぇ、これ見てよ。この写真はフジちゃんがお弁当食べてるところだよ。隠し撮りだから角度悪いのが難点。このお弁当はみーみんが作ったのじゃないね、みーみんが来るより早起きしてフジちゃん…………ううん、藤谷君が作ったのかな?」
「コレはオススメだよ。体育のランニングの藤谷君、この時は夏だったからね、薄着で藤谷君の体のラインがよく見えるよ。終わった後の汗の匂いはよかったなぁ…………」
「それでこれは、海の時の写真! これは楽しかったね。いっぱいあたしと喋ったもんね。ヒヒャ」
「クフフ、これは、そうこれも、藤谷が寝てる時だ。藤谷は寝てると可愛いよね。美々はこんなに可愛い顔を毎日のように見てるんだよね。本当、羨ましいなクヒュ」
「好き、寝てる藤谷君も走ってるフジちゃんも、良い匂いの藤谷も、皆私は………あたしは大好きなの!」
「覚えてる? 覚えてるよね。あたしと初めて会った日、初めて喋って触れ合った日を」
「あれは入学式の日、藤谷のお父さんが送れて入って来て『藤谷! すまん、飛行機が遅くなった』って言ってそのまま来た感じの格好で、その時あたしは藤谷って誰だろうってね。それで俯いてる藤谷君を見付けたの、その時の顔がすんごく可愛かったから覚えてるよ」
「それであの日、藤谷君の性格じゃ覚えてないかな? 美々さんの事も覚えてなかったみたいだから、くふふ、えひゃ、私が階段で転んだところを君が、助けてくれたんだ。あたしを抱きしめて、庇ってくれてさ。偶然だよね、運命かな、美々と全く一緒、同じ曜日、場所も一緒、特売があるからって君は行っちゃった」
「あの日だよ。あの日から私の二回目の人生が始まったの。この家でね『いらない』って言われた蓮は藤谷のお陰で生き返れたの。あたしの名前、蓮っていうんだよ。変でしょ? 蓮って男の名前だよ? まぁ、名前は自由だからアレだけど、あたしのお父さんとお母さんは生まれてすぐに死んじゃったの。二人が私につける筈だった名前を捨てて私は蓮になったの」
「あのばあさんが、篠山の血を絶やさないためにって! 私を男として、優秀な人間に育て上げたの! それで高校入学前、血筋の男の子が生まれて、蓮はいらなくなったの! だから階段から落ちた時、本当は死なないかなって思った。でも君が、藤谷が、私と同じ様に両親を亡くした寂しい男の子があたしを助けた。運命でしょ? 運命だ、運命にちがいないって」
「本当は私の方が早かった。美々より先にあたしは藤谷を好きなったのに、美々は今藤谷君の彼女…………あたしは、我慢しようとしたのに、美々といるときの藤谷が幸せそうだから、諦めようとしたのに、なのに! どうして君が来るのかな? 関わるなって言ったのに、踏み込まないでほしかったのに、夏で止まった私の時間動かしていいの!? もう無理だよ、こんな近くで君の匂いが、感じた事ない温もりに手が届くのに我慢しろだなんて拷問だよ! 私は―――」
「ごめん」
何を言えば、何が言いたかったか、藤谷は分からなかった。ただ、自分の鈍感さや、考えの甘さ、人を助ければ良いと思う自分の未熟さ傲慢さがいけなかったんだ。それが今の彼女をつくってしまったんだ。
「なんで謝るのよ…………あたしは…………皆好きなの! 嫌いになんてなりたくない! なんで人を嫌わなきゃいけないの!?」
屋敷の中でも、庭の中にぽつんと立つ離れに住んでいるこの少女がどれだけ愛に餓えているか、どれだけ愛を誰かに与えたいか、窺い知る事は出来ないけど、藤谷は、
「俺、美々が好きなんだ。でも、家族だって友達だって、もちろん君だって好きなんだ。愛してる、の意味は違うけど、美々は特別だけど、こんな不器用に生きなくたって、君は十分魅力的な女性だ」
「…………あは、美々さんにもそんな言葉言ってあげればいいのに。喋り下手な藤谷君にしては及第点なセリフだよ。本当、なんで私は我慢したんだろ」
眼前にまで迫っていた顔をようやく篠山は離した。
「好き、皆好き、篠山蓮はみーみんも好きなんだ。あの子は綺麗だし、頭も良いし、運動も出来るし、フジちゃんにはちょっと勿体ないよね」
「それを言うなよ。ちょっと思ってるんだから」
「だから、私くらいがいいかなって、思ったのになぁ…………でも、もうやめだね」
ちょっと胸に寂しさは残る。これからの彼女との関係は大きく変わるだろう。この部屋、藤谷の写真だらけの部屋は気味が悪いからこれだけはなんとかしてもらいたい。
「私、結婚するから」
「え?」
「結婚。あたしの存在の使い方、次は女ってとこかな? 本当、報われない」
「なんだよそれ!」
「ほら、怒った。いらない世話だよ。もう、関係しないで」
これだ。彼女の陰はこれなんだ。いらない、とされた篠山は、女として必要とされた。ちょっと前の美々の事を思い出した。重なってしまった。
でも、いくら鈍感な藤谷でも、ここで手を差し出したらどうなるか、篠山がどう思うか、考えなくても分かることだった。
「藤谷君の写真は全部しっかり処分するわ。気持ち悪いもんね。藤谷君への気持ちも捨てる。だから、学校では友達、ね、フジちゃん」
…………駄目だ。
このままじゃ。
駄目なんだ。
「駄目だ。俺は、お前が結婚したそうには見えないよ」
「したくないに決まってるじゃん。したい相手じゃないし、お医者様かなんかは知らないけど八も年上、あたしの事を見る視線は気持ち悪いし、あっ、別にフジちゃんの同情を誘ってるわけじゃないよ?」
「でも、嫌なんだ。俺は―――」
「やめなよ。大人になろうよ。あたしだってなったよ。君を諦めて、蓮を受け入れた。だから、もうやめよ?」
正しい。彼女は正しい。藤谷の下らない感情論だ。彼女の事を責任持てない子供で、彼女の事を愛せない藤谷じゃ、彼女の責任は負えない。その下らない感情論で救われ、それを支柱に生きてきた藤谷、彼女は絶対に救えない人だ。
いや、違う。藤谷の両手はもう一杯なんだ。幸せなんだ。藤谷は初めて気付いた。人を助けるのは幸せじゃ出来ない部分がある。不幸せ同士が身を寄せ合って、幸せになろうと手を取り合う人助けの形がある。藤谷にはそれが出来ない。藤谷は余裕がある分でしか、もう人を助けられない。
それが寂しいような、正しいような、悔しいような、でも後ろ向きじゃない、言い表せない感情にぶつかった。
「藤谷君、君が大好きな私の最後のプレゼントだ。絶対に救えない人、君が現実を知り、大人になるための人間になってあげるよ、ごめんね、嫌味っぽくなっちゃったね。あげるよ、じゃなくてなっちゃうね」
「……………いや、だから」
「やめなよ。もう言わないよ」
責任、現実、事実、力量、器量、色んな言葉が藤谷を抑制する。彼女は大人だ。彼女は正しい。彼女は、寂しい。
「俺は、嫌だ。下らないよ、しょうもないよ、ちっぽけだ。でも、蓮が傷付いてるのに、そんなの嫌だ」
言い切るか切らないか、首を掴まれた。両手で、力強く、呼吸が苦しくなる。
「もうやめましょ。蓮なんて、名前で呼ぶなんて、どれだけ残酷か分かってるのかしら? 藤宮君は幸せ、私だって幸せになれるんです。お金もあるし……………それぐらいしか今は思いつかないけど、いつか心だって満たします。結局、今を先送りにしたって、アナタじゃなければ同じ事なんですよ」
「でも―――」
快音。
最初はそう感じた。彼女の右手がぶれた瞬間に鳴った音、自分の頬を叩かれるとこんな良い音するんだ、と客観視してる自分もいる。
無意識に頬を手で押さえた。
「もういい加減にしてよ! 美々も藤谷も! 私は、私なんだから! 好きに生きたっていいじゃない!」
「好きに生きれてるのか? 俺、覚悟するから、差し延べた手は、戻さないから」
「そうやって私の覚悟を潰さないで、藤谷君が好きで、大好きで、好きで好きで好きで、好きで…………しょうがないんだから私は……………」
篠山が藤谷の胸に縋り付こうとする。しかし、篠山は泣き顔で後退り顔を押さえて崩れた。
「出てってよ! もう何もしないから! もう何もしてほしくないから! 友達だから、美々だって好きだから!」
藤谷は、唇を強く噛んでその離れを後にした。
敗北、なんだろうか。
悔しい、無力さばかり痛感する。痛みを伴わなければ、こんな簡単な事に気付かなかった。自分が幸せであるが故の力不足、嬉しいのに、悔しい。
「藤谷!」
まただ、美々は待っててくれた。帰り道、家の付近で待っててくれた。胸にいる美々の温もりだけか確かで、藤谷はそれに縋るしかなくて思い切り抱きしめる。
「ごめん、俺駄目だったよ…………ヒーローは難しいや」
「うん、うん」
「俺、半端だな。美々の事は半端でいたくないのに、こんな両手だけじゃ足りないよ」
「うん、良いんだよ。足りなかったら、私の手も使っていいから」
「俺―――」
弱音しか言わない口を美々の口で塞がれた。
「馬鹿ね。藤谷は格好良いわ。私との相性も抜群。だけど貴方は神様じゃない、ましてやなんでも出来る大人でもない。貴方の手、我が儘言えば私とだけ繋いでいてほしい。でも、救えるだけ、どう救うか、どれだけ力を渡せるか、しっかりと覚えておいて。きっと篠山さんにも貴方の思いは伝わったわ」
「俺は…………」
もう駄目だった。我慢出来なかった。情けないと分かってる。格好悪いと分かってる。しかし、堰を切った涙はもう止められなかった。
本当、いつになったら美々に釣り合えるのか。
「好きだ…………俺、美々が」
「知ってるわ。私も貴方が好きよ」
あやすように慰める美々の声がとても心地好かった。
「お節介さんその一どうも」
「あら、貴方も本性で話すと嫌味とか言えるのね」
「本性で話すと甘えてニャンニャン言っちゃう女の子よりは格好良いですよ」
「あら、大好きで信頼できる旦那様の前だものそれぐらい」
私は放課後に屋上呼び出された。相手はもちろん篠山蓮。いつもの無邪気さはなく、そこには邪気たっぷりの年相応の少女がいる。触発されてか私も少し口が悪い気がする。
「私、結婚やめたわ。家にまで来たお節介さんその三にも言っといて」
「その二は…………ああ、倉科さんね」
「そうよ、アナタを安心させたくて一番に言ったの。そしたらやめろ、だなんて、私の気持ち知ってるくせにそんなことして。おちょくってるのかと思ったわ」
「私だって旦那様に影響されて、よ」
全て篠山さんが言った通り、でも、篠山さんを動かしたのは紛れもなく。
「後、これ、私のコレクションの半分」
渡されたのは紙袋、中を覗けば、
「まだ半分持ってるのね」
「あげませんよ。私、藤宮君がまだ好きですもの。もしもの時は知りませんからね」
そう言って笑った彼女は、正直恐くなるくらい可愛かった。