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十五話

ジャリ…………ジャリ…………


不快な金属音が耳に入ってくる。長時間聞いてると狂ってしまう気がするくらい不快な音、黒板をキーッ、より違ったベクトルで不快、ずっと聞き続けられるが聞いていてはいけないって本能が警笛を鳴らしてる。

ぼやけていた視界がようやく鮮明に見えてきた頃、この金属音の正体が解る。


手錠か、いや、違うな。鎖だ。


そう、鎖がグルグル巻きで両腕を固定し、天井に繋がれている。


今更だが足が地についていない。鎖で両腕を縛られ、宙に浮かされている。


もがけばもがく程両腕の鎖が食い込んで痛い。


「はう、藤谷可愛い………痛いんだね? 苦しいんだね? でもね、直ぐに良くなるから」


更に更に今更だが、周囲は霧に包まれていてよく見えない。鮮明に見えてるのは鎖と自分の体だけ、霧の中からよく知っている声が聞こえてくる。


「大丈夫………恐くないよ。私がいるから……」


藤谷は感じた。


自分は気が狂ったらしい、この愛しい声が『大丈夫』と言っただけで何だか安心感を覚えている。


「ちょっと待ちなさいよ。私だって藤谷が欲しいんだから」


あれ?この声は………


また聞き覚えのある声、最近また聞くようになった懐かしい声。


「だーめ、藤谷は私の」


「嫌、私にも分けて!」


「…………うーん、少しだけだよ?」


「うん、やったぁ!」


なんだ?なんの会話が展開してるんだ?


背筋に冷たさと、本能の警笛か、腕や足がガタガタと震えている。


「じゃあ藤谷………少しだけ我慢ね……」


諭すような優しい口調で発せられたその言葉の後直ぐに、あまり聞いた事のない機械の駆動音、それが木を伐るための道具だと気付いたのは全貌が見えてから。


「さぁ、イクヨ?」


チェーンソーを持った美々が綺麗で可愛くて愛しい笑顔で霧の中から歩み寄ってきた。










「はいまたかいっ!!」


藤谷は飛び起きた。


「ぐぅ………がぁ……………」


飛び起きた事により、全身に苦痛が走る、走り続ける。特に右腕なんて痛すぎて気がおかしくなりそう。


「藤谷!」


痛みと藤谷が戦っていると、誰かが抱きついてくる。


「ぬぎゃぁ!」


「あっ、ああ………ごめんなさい」


抱きつかれて、痛みの軍勢が勢力を拡大し、藤谷に一斉攻撃を仕掛けてくる。


気絶しそうになりながらも、むしろ気絶してしまいたいくらいの痛みに襲われながらも、藤谷は出来るだけ自然に笑い、自分の平気さをアピールした。



人って突然痛みに襲われると『ぬぎゃあ』って行っちゃうんだ、と感心しながら藤谷は口を開いた。


「ここはどこ? 私は藤宮、貴方美々」


「……………結構駄目なようね。素直に謝るわ香里さん」


そう言ったのは希さんだ。美々の隣に座っていた。今気付いた、ちょっとびっくり。


痛みで無理矢理覚醒出来たらしい、ちょっと頭の回転も頭自体も重いが、今が病院のベッドだって事は理解できた。しかも個室で凄く大きい、ソファーまである始末だ。


「ううん、仕方ないの。藤谷は人助けしないと死んじゃう生き物だから…………う………ぅ」


何故か二人揃って泣き出した。態と、すんごく、とても、滅茶苦茶態とらしく。


いつの間に仲良くなってんだこいつら、とか藤谷が思いながら辺りが真っ暗なのに気付く。日も完璧に落ちてるし、街の光があんなに遠くに…………ん?ここ何階?街が遠い、下に広がる街が遠いよ。


「多分疑問に思ってるだろうから答えるけど、今は藤谷が倒れてから約四時間後、貴方のお父さん、いえ、私達のお義父さんは警察、ちょっとやりすぎでね。そして、ここは貴方の大事な大事な親友様がここに押し込んだ。以上」


滝の様に言われた気がする。頭打たれたせいで理解が追い付かないのか、まぁ、自分が生きてて、右腕が完璧に折れてるって事だけは理解した。


「あんだけ叩かれて腕以外は軽い怪我ってどんだけ丈夫なのよアンタ」


と希さん。無い胸張って仰ってるが、少しは君にも責任あるんだぞ。


「たく、誰のせいでここまでボコボコにされたと思ってんだ…………」


助けに入ったのは藤谷で、親父は問題なく希を助けてるわけだから、それが出来ないどころか体がこのザマじゃ、格好悪い極みだ。


それでも少しくらいは悪態もつきたくなってしまう。


「悪かったわよ………その怪我は私のせいだわ、ごめんなさい」


しおらしい態度を取りながら、頭まで下げてきた。

こう返されてしまうと、藤谷も上手く対応出来ない。


「いや、その、別に気にすんなよ。俺がもっと上手く立ち回れば良かったんだし、それに、助けに入ったのは俺だぜ?」



何だか気付けばフォロー入れてる俺、駄目だ、こう素直に返されたら負け、お手上げ、手はあげらんないけど。


「香里さんがいなければ私がアンタの世話、するところなんだけどね………………」


そんな恐ろしい事を呟く希、その発言がキーになってか古い記憶が呼び起こされた。


あれは藤谷が熱を出して学校を休んだその日の事だ。昔から丈夫さと痩せ我慢が取り柄の藤谷が学校を休むというのは余程だ。


混濁した意識の中で記憶してるのは『私に任せておけば大丈夫』、天使様の慈悲の言葉に思える言葉も、今になっては悪魔の暴言だった。


………………………………………………………………………………………………………


「ビタミンは沢山取れば良いってもんじゃないぃぃぃっっ!!!」


過去の記憶にトリップしていた藤谷は、一番ショックな記憶と共に現代に帰還した。


目の前にいる二人の女性は酷く驚いた表情をしている。そりゃいきなり叫べば驚くか、そんな冷静な考えに行き着けるなら大丈夫だ。嫌な汗が止まんないし、呼吸も荒いがきっと大丈夫、流石は穂村希さん、記憶を掘り起こしただけでこれとは。


「大丈夫、いや、本当に大丈夫、ちょっと混乱してるだけだ。んで、俺はいつこっから出られんの?」


「…………………今よ」


「いま?」


「そう、腕以外は転んだのと変わらないそうだからすぐに帰れるわよ。頭も異常なかったみたいだし」


淡々と返してくる美々、自分はきっとはにわみたいに間抜けな顔をしていることだろう。


だってビックリするじゃないか、鉄パイプで殴打されてんだよ?すっごく痛かったんだよ?


それが今直ぐに帰れるって、実は死んでいて、ここは俺の最後の妄想だって言われても信じるよ。


「そろそろ貴方の大親友が迎えに来る頃だわ、血相変えて」


その発言が終わると同時に真っ白な鉄製の引き戸が開いた。破壊する気でやりましたってくらい強烈に。



「とぉぉぉぉうぅぅぅやぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


破壊されそうになった引き戸から、他人の鼓膜と自分の喉を破壊する気で現れた柏原さん家の透くん。

背が高くて、爽やかで素敵な笑顔が特徴的な彼だが、爽やかさの欠片すら残ってない。フルマラソンを終えた選手でもこんな辛そうで、顔の血管が切れて出血しそうな表情はしてないだろう。


「だい、だい…………はぁっ、大丈夫かい?」


寧ろお前が大丈夫か、と思う。


藤谷が自分の無事を伝えようと、ちょっと透に呆れながら言おうとすると、スッと美々が椅子から立ち上がった。そして、引き戸に手をかけて、なんとか立っている透の目の前に行き、恭しく一礼、


「この度は私の夫に手厚い―――」


「いらんっ! お前のその貞淑な奥様みたいなノリはいらない!」


恭しく、という言葉は訂正、何時もの通り態とらしくだわ。


「あら、奥様だなんて…………ポッ」


『ポッ』って自分で言うなよ。頬に手を当てて恥ずかしがってんじゃねぇよ。


「藤谷のツンデレ久しぶり、やっぱりデレばかりじゃなくてツンもいるわね、うん」


なにかを悟り、納得している美々、さっきの必死さはどこへやら、苦笑いしている透、希は…………


「穂村、あんまし気にすんなって。俺は大丈夫だし、さぁて、腹も減ったしそろそろ帰りたい。透、家まで頼むよ」


「ああ、本当に心配したよ。あんまり無茶しないでくれよ」


ようやく中に入ってきた透には悪いが、これ以上ここにいると希が泣き出しそうだ。


痛む体に鞭打って、ベッドから下りて、美々が用意してくれた靴を履く、立った瞬間、止まる寸前のコマの上にいるようなぐらつきを覚えたが、なんとか踏ん張る。


危ない、だが、少し体は揺れてしまったらしい、希が心配そうに見ているし、支えようとしてか両手がこっちに伸ばされている。


「大丈夫だから気にすんな。しっかり助けてやれなくて悪かった」


何だか放っておけなくて、使える左手で少し乱暴に頭を撫でてやった。


希はその左手を取って、何かを確かめるように触っている。


「大きくなったね、大人の手だ。男の人の手」


愛しそうに手を撫でられた。くすぐったくて、手を引っ込める。『あっ』と名残惜しそうに引っ込める手を追って自分の手を伸ばす希が何だか可愛く見えた。


………………その隣から、視線のビームが飛んできている。頬辺りが本当に焼けてんじゃないかってくらい痛い、熱い、泣きそう。








だるい、吐気がする。腕は痛い、体中が古い木造建築のようにミシミシする。


「只のパイプで殴られたぐらいで情けない!」


そう言って警察のお世話になっていた髭面のオッサンは豪快に笑った。


「鉄な! 鉄だよ、鉄だから」


ベッドから起き上がって無理矢理突っ込みを入れてみるが、頭がグラグラして直ぐにベッドに倒れる。


頭を打たれたからだろう、目眩と吐気が治まらない。おまけにあちこち体は痛いし、右腕は折れてるし。


帰宅後、虚勢を張り切って、無事をアピールしながら食事を取り、残りたがる二人(主に香里さん)を無理矢理帰宅させ、髭のオッサンに看病されるっていうちょっとへこむ状況となっている。


因みに透は忙しい中抜け出して来てくれたようで、俺を送ったら早々に帰ってしまった。更に更に因みに、髭のオッサンは警察で名を名乗ったら帰されたそうだ『さっちゃん』という言葉が絡んでるらしい。もうこの男自体よく分からないので突っ込みは無しにする。


そんな適当な扱いをしてはいるが、息子の部屋のベッドの前に上蔵をかいて座っているこの男は、息子を心配して居てくれているのだから、息子としては感謝していたりする。


「そうだ。親父、希が許嫁って何の話?」


寝ながら、少し寝返りをうって、天井を眺めながら聞いてみる。


「ああ、それはな」


「ああ」


「俺も分からない」


体が本調子ならここで手か足か『世界を掴み取る為に努力し続ける挑戦者の像』を投げつけていた所だ。うん、この像だけは何だか趣きが違いすぎるよね。もういいや、この男の土産なんてまともな物は無いし。


「オーケー、穏便に平和的に行こう。俺も父親をまた殴りたいとは思わないからな」


話し込む体制を取る為に、藤谷は半身起こした。父親は難しい顔して唸ってる。


「向こうの親父さんと飲んだ次の日から妙に奥さんと親父さんが藤谷の面倒見てくれるようになったんだよなぁ」


『不思議だよなぁ』とか言ってる馬鹿、許嫁って設定が出来たのはどうやらその時だ。つか、許嫁とか凄い言葉使ってるけど中身下らねー。


呆れかえった藤谷は、もう相手にする気も失せたのでそのままベッドに落ちた。








泣いていた。


誰がって?


恥ずかしながら藤宮藤谷君だ。ちょっと違うのは今よりずっと幼い事だ。まだ自分の事を『僕』と言っていた時代、膝を抱えて泣いていた。


場所がいまいちはっきりしない。周りが白くぼやけてて、この場所が何処なのか思い出せない。


小さくなって泣いている藤谷に一人の女の子が駆け寄って来た。見た目は男の子に近い女の子、髪も短ければあちこちに絆創膏を貼って、女の子の遊びをしているようには見えない女の子、ただ服装、もっと言えばスカートだけが性別の判別材料になっていた。


駆け寄り、直ぐにその女の子が藤谷の頭を一発叩いた、結構優しく。


「なんで泣いてんの? 藤谷くん強いのになんでやり返さないの?」


藤谷少年は何も答えない。


返答が返ってこないことに痺を切らしたのか、声を震わせてもう一回、


「私、藤谷くんの事好き、でも、弱い藤谷くんとは一緒にいたくない」


今思えばどこまでも幼稚な発言だ。子供だから、と言えばそれで終りだが、女の子の心を汲み取ると、ただ何もせず傷付く藤谷が嫌だったのだろう。この時の藤谷の捉え方はこうだ。


「僕、強くないよ。でも、希ちゃんを守る強さだけはあるんだ…………父さんとそれだけは約束したんだ………」


幼い藤谷はゆっくりと顔をあげてそう言った。


「じゃあ、ずっと守ってくれる?」


「うん!」


「じゃあ約束、私を守れるだけ強かったらお嫁さんになってあげる」


「うん!」


再度藤谷がハッキリと頷いた時、世界が一気に真っ白に染まった。


「………………嘘だろ………約束、してんじゃん………」


気付けば朝になっている。時計を見る気にもなれないが、きっと美々が起こしにくるまでには少し余裕があるだろう。


藤谷は言い様のない虚脱感と、沸々と湧き出る自責の言葉に溺れそうになっていた。


藤宮藤谷は約束は破らない主義だ。これは父からの幼少からの教え、後は人助け、この二つは藤宮藤谷の支柱と言ってもいい。


藤谷は空いた左手で頭を抱えた。


考えをまとめようにも、後から後から湧き出る自責が邪魔をして、なんとも言い難い精神状況になっている。


「…………俺、馬鹿だ………」









その日の事は全く覚えてない。朝はあの後に美々が起こしにきて『あれ?起こしにくる前に起きてる』と言われた事しか覚えてない。


家を見ても希の姿はなく、学校でようやく希に会って朝の挨拶を交しただけにして、藤谷はずっと席に座って呆然としていたと思う。


怪我についても、適当に返した気がする。皆は『頭をやられておかしくなった』と勝手な判断をしていたが、今の藤谷はそれどころじゃない。


そして、あっという間に昼休み。あっ、という間なんて言ったが嘘だ、長くて、思い返せば内容の薄い時間を過ごした。


「…………俺は本当になにやってんだ………」


屋上に上がって、更に貯水タンクの間に隠れるようにして座っている自分が哀れで、憎くて仕方ない。


昼御飯も食べる気にはなれず、チャイムが鳴った瞬間に素早く出ていったので、美々やアイも、もちろん希もついてきてはいない。


浮かぶのは自責、それと美々の顔、その二つがグルグル回ってる。


客観判断すれば、小さい頃の約束だし、向こうも『許嫁』と言った以上は親同士の決め事で忘れてる可能性だってある。


この客観判断は、小さい頃の約束とはいえ、あの時の藤谷の気持ちと希の気持ちは近い筈だったし、希がその約束を忘れてる可能性はゼロだ。幼馴染みとしての確証と言える。


後から付け足すようだが、もちろん、今藤谷が愛してるのは香里美々だ、断言出来る。


それでも、きっと美々と恋人になっている自分の姿を見た希は傷付いた筈だ。それが藤谷にとっては許せない。


「藤谷」


「…………美々」


貯水タンクに背を預けている藤谷が首を回して声の方を見ると笑顔の美々が立っていた。美々の笑顔が少し痛い、後ろめたい気持ちで藤谷は目を反らしてしまう。


「私の愛する藤谷の悩みを聞こうかな? それとも本当に頭を叩かれた後遺症?」


美々は藤谷の隣に体を押し込むように座ってきた。そして、体重を預けるように寄り添ってくる。そこに態とらしさはなく、素直な美々の気持ちが伝わってくる気がした。


藤谷は弱かった。弱っていた。だから、一番信頼していて、一番大切で、一番格好をつけたい相手に少しずつ口を開いてしまった。


「俺、約束破っちゃったんだ。大切だった約束」



「そっか、でも、だった約束なんだよね?」


美々の顔は見れない。正面を向いて美々の顔は視界にいれないようにしている。


「それでもさ、今が大切だけど………上手く言えないけど、約束を破ったからきっとその人を傷付けたと思うんだ………」


「藤谷、私が言えるのは二つだよ」


「ああ」


「一つは謝る。傷を癒せないかもしれないけど、貴方の気は済まないかもしれないけど、謝るんだよ。二つ目は、謝ってもきかないような問題なら、背負う、どんなに辛くてもそれを背負うんだ。私も一緒にいるから、支えるから」


左膝の上に乗せていた左手にそっと美々の小さな手が重ねられた。


「うん…………藤谷は本当に無器用で真っ直ぐだ。真っ直ぐ馬鹿………でも、そんな所が好きな私はもっと馬鹿、えへへ」


やっと美々の顔を見た。そう言って、照れながら笑った美々の顔は藤谷の美々メモリーに深く刻み込まれる程綺麗だった。


少し心が軽くなった気がするな。そんな事を藤谷が思っていると、美々は話を変えようと『……………さて』と言った。


「藤谷は、右手が使えないよね………じゃあ、このお弁当はアレだよね」


美々が態とらしくニヤニヤしている。三日間何も食べてないライオンが目の前に捌いて、食べる準備万端の肉があってもこんな嬉しそうな顔はしないだろう。


「珍しく比喩表現をしようとしたみたいだけど、滅茶苦茶だし、ライオンには表情ないよ」


…………すいません、言うまでもないけど、口には出していません。











美々曰く『アレ』とは、恋人同士ならやるのは当たり前で、やらないという選択をするのは、注意書きに書かれるくらいやってはいけないことらしい。


まぁ、そんな甘いイベントをこなしてか、少し心が軽くなった気がする藤谷は、放課後にある場所を目指していた。ある場所というのが全く思い出せないのだが。


美々には『どうしても行かなければいけないから、今日は夜にまた会おう』と言って教室を出た。教室には希と何故かアイの姿もなく、とりあえず昇降口へ向かう。


藤谷が行きたくて、行かなきゃならない場所、それは藤谷が希と約束したあの場所だ。

しかし、全く思い出せない。あの頃は落ち込むとよく行っていた場所だった気がするのだが、思い出せない。


考え込みながら階段を降りていく。ちょうど、二階から一階を繋ぐ踊り場に見知った人間がいた。


白い少女、着ている制服以外は白しか連想させない少女、髪も肌も白、純白、その少女は待ち構えていたように踊り場の手摺に背中を預け、優しく微笑みながらこちらを見ていた。


「アイ、どこにいたんだ? 心配したぞ」



いつもの自分の目線より少し低い位置にいる少女にそう問掛けた。


「ちょっとね。藤谷はどこに行きたいのかな?」


一段、一段、と近付くにつれて、いつものアイの雰囲気が異質な事に気付いた。どこが?、と問われると上手く答えられる自信がないのだが、アイがアイでない何かに感じた。


幽幻、幻想、何だか吹いたら消えてしまう靄のようにアイの存在が稀薄で、そして儚く感じた。


一段、一段、確実に歩を進めてる筈なのにいつまでもアイに辿り着けない。


「最後の最後、私、藤宮アイが占ってあげるよ」


それでもアイの声は聞こえてくる。もう藤谷は足を進めているのか、止めているのか分からない。


甘い虚脱感、自分を全く違う視点から眺めているような、アイの声は耳に深く届くのだが、それ以外が何もかもあやふやな世界に藤谷はいる。


「いつものように商店街に行けばいいよ。今の藤谷なら大丈夫。あーあ、時間切れ、それじゃあね藤谷」


自分の頬にアイの唇が触れるのを横から見ていた藤谷は、何もすること、出来ることもなく走り去るアイを止める事も出来なかった。







暫くして藤谷は校門を出た。さっきのアイは一体なんだったのか、一体誰だったのか。


唇を寄せられた頬を撫でながら考える。


横から見ていたように頭は動いてなかったのに、唇の感触だけはやけにはっきり残っている。


ただ今は、アイの占い通りに商店街に向かうしかなかった。


とぼとぼ確実に歩いて行くと何か引っ掛かりを覚える。小さな刺のような引っ掛かりが、歩けば歩くほど大きくなる。


そう、こんなごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃな気持ちの時に行ったんだ、あの場所に。


そして辿り着いたのは昨日の鉄パイプ乱闘現場、違和感を頼りにその奥へ奥へと歩む。


道幅は直ぐに狭くなり、もう両手は横に伸ばせそうもない。そんな道を歩いていくと、遂に抜けた。


目の前を横に一本道が走り、その向かいには古ぼけた赤い鳥居。


「……………あ、あ…………」


小さく声が溢れた。


ここだ。


この神社だ。


軽くなった足取りで鳥居を抜けて、階段を駆けるように昇った。


昇った先は小さな境内、記憶を頼りに神社の横を通り抜けて社の裏へ。


「……………待ったか?」


先に着いてここで待っていた人に尋ねる。


「…………ええ、待って待って、それでも待ち続けたよ。もう疲れちゃうくらい」



「そっか、悪いな本当に」


「うん、悪いよ。本当は許さないところだけど、今は凄く嬉しくて怒れないよ」


なら泣かないでくれよ。


「本当にごめん、約束も守れそうにない」


謝るという行為がこんなに痛いのは初めてだ。


「馬鹿ね、結局昨日だって私を助けてくれたのはお父さんじゃない。アンタはなんにもやってないわ。私を守る約束をそこから破ってるわけ、だから、結婚なんて絶対してあげない」


ああ、そういえばそうか。守れてないじゃんか。


藤谷は会話の区切りで空を見上げた。


「私がここで言いたかったのはそれだけ、約束破りの藤谷君に文句を言えたから私が待つのは終わり。私は買い物があるから、じゃあね」


去っていく気配、なんだか放っておけない。でも、追う事も、触れる事もきっと出来ない。


「希!」


見上げるのを止めて去っていく希の背中に投げ掛けた。


「なに?」


振り返った希の顔は笑っている。


「……………あ、あの、荷物持ちくらいなら手伝うぞ?」


我ながら情けない。罪悪感とか色々が邪魔をして上手く舌が回らない藤谷は、挙動不審になりながら必死で聞いてみた。


「いらない。片腕使えない男の子より、両手使える女の子の方が役立つもん」


そう言って希は悪戯っぽく笑って、再度藤谷に背を向け歩き出すのだった。


藤谷は離れていく背中を眺め、いつまでも動けないでいた。









私はここに居た。ずっとずっとここに居て、ずっとずっと待っていた。


辛かった。辛くないわけなかった。でも、いつか、いつか再会して、素敵な恋が出来るって確証なく信じていた私が馬鹿だったんだ。夢見てたのがいけなかったんだ。


胸は痛いし涙は止まらない。きっとこの心に降る雨は当分やまないだろうし、胸の傷は消えてはくれないかもしれない。


我慢できないで先に日本に帰って、大人に近付いた彼の寝顔がそうぞうしてたより格好良くて、ドキドキして、何度も整えた髪や服を何度も直して、勿体ないって思いながら彼を起こして、それで、それで………………


責めて私との約束を思い出させて文句を言ってやろうと思ったのに、ケンカなんかしちゃって、あんなに傷付いて。


それでも、私はああ言ったが、彼は私を守るって約束はしっかりと守った。


だって、打たれながらも気にしていたのは私の事だけだった。何をされながらも私だけを彼は見ていた。


どんなことになろうとも、私は危害を受ける事はなかったと断言出来る。


私は駄目な人間だ。


彼を待ち続けて、そして今日、ついに彼が来てくれた。文句を言おうにも口は動かず、嬉しさ、どこかが満たされる感覚に支配されてしまった。


私は漸く本当に彼を愛してるんだ。そう気付いてしまった。


…………でも、諦めなきゃいけない。こんなに悲しい事があるだろうか、こんなに悔しい事があるだろうか、こんなにこんなにこんなに!


狂ってしまえれば何れ程楽だろう。頭の中でそんな事を考えながら私は必死に自分を誤魔化した。


多分直ぐには進めないだろう。でも、いつかきっと変われる日はやってくると思う。


最後に最後の愚痴を、


「…………本当、最後にアレはないわよ。最後の………最後に名前で………呼ぶなんて………」


まだ秋になりきれてない空を見ながら、希は涙混じりにそう呟いた。

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